第49話 田中日佐夫『竹内栖鳳』 変幻する鵺は獅子になった


竹内栖鳳(1864-1942)1889
『海を渡り世紀を超えた竹内栖鳳とその弟子たち』より転載


 ターナーではないが、火事を見るのが大好きだった。自分の屋敷から200mほどのところから煙や焔が迫っていても「平治合戦絵巻の火焔のようどすな」とその美しさに見とれていた。祖父譲りの芝居好き、ターナーやコローを愛した。日本画の復興気分に対してラスキンの『近代画家論』に熱をいれた。ヨーロッパへのあこがれは渡欧に結びつく。しかし、西洋絵画に阿諛も媚態も見せなかったが見事に創出の糧とした。クライスラーは栖鳳と話し込んでいて、危うくヴァイオリンを忘れて帰るところだったし、ポール・クローデルらの駐日大使も彼の元を訪れた。西村翠嶂、上村松園、 西村五雲、土田麦僊、小野竹喬、富岡神泉、村上華岳らの錚々たる門下がある。

 今回の夜稿百話は、田中日佐夫さんの著作『竹内栖鳳』を中心にぼくの大好きな画家の一人である栖鳳の世界をご紹介する。なにせ筆意の極致を示す雀の図から何かが立ち上っていく斑猫まで傑作をご紹介できるのだから嬉しい。


生い立ち



 元知元年 (1864) に栖鳳は、京都に生まれる。長州勢と幕府側との武力衝突があった蛤御門の変のあった年である。生家は二条城の北にあった亀政という繁華な料亭を営んでいた。そこの長男で本名は恒吉という。10歳上の姉がいた。やがて大政奉還がなされ明治となる激動の時代だった。最初、近所の画家に絵の手ほどきを受けた後、18歳で幸野楳嶺 (こうの ばいれい/1844-1895) に師事した。父親は跡取り息子を絵描きになどと反対すると恒吉は二日間泣き続けたという。母は早くに亡くなり、母がわりの姉が父の反対を押し切って絵の道に進ませてくれたのである。その姉の琴は料亭を継いで一生独身を通した、栖鳳の大成の裏には、この姉の存在があった。

 師の楳嶺は38歳、京都画壇の若き秀才といった感があったが貧しい中でも友禅や陶器の図案といった仕事には手を出さなかったという。京都府画学校 (後の京都市立芸術大学) の設立に関わり、私塾を経営し、自分の「画譜」類を出版するような人でもあった。70幾人目の弟子となった恒吉は棲鳳という雅号を与えられた。明代の故事成語集『円機活法』から引かれた言葉で「鳳凰を住ませる」という意味であり、鳳は「梧桐 (アオギリ) に棲み、竹の実を食い、醴泉(れいせん)を飲む。」という。正式には栖の字の方が用いられるため、後に自ら栖鳳に改めることになる。運筆を学び師匠の作品を模倣する他、当時としては珍しい写生が奨励され、古典の研究もあったという。


幸野楳嶺 『雪松晩鴉図(右隻)』1895 (明治28年)


 楳嶺塾での懸命の鍛錬をしている棲鳳 (後に栖鳳) は、鉄瓶の白湯を飲んで、そのよさが分かるようになり、茶の味に慣れていたにもかかわらず逆に白湯が美味いと思うようになったと述懐している。後に元末の画家である倪瓚 (げいさん/雲林) の一幅に「不愛想で寂寞 (じゃくばく) たる作品の中に白湯の美味さがあるように思う」と述べている。なるほど上手いことを言う。




新進画家へ



 明治17年に上野で開催された農商務省管轄の第二回内国絵画共進会で褒状を受けた。1500人を超える出品者がいて橋本雅邦や師の幸野楳嶺らが賞を受け、棲鳳と同じく褒状を受けた133名の中にフェノロサがこの会場で注目することとなる狩野芳崖がいた。この頃、フェノロサは日本美術、この場合とりわけ日本画ということになるのだが、講演や出版を通して大擁護論を展開し始めていた。京都での講演の際にも師の楳嶺を訪れている。同年、第二回パリ日本美術縦覧会にも棲鳳は出品を許されている。次第に兄弟子たちと肩を並べ、一人前の画家となっていった。


竹内棲鳳 『保津川』 1888


 師の楳嶺に授けられたのは四条派の運筆であり、付け立ての筆妓であったと言われ、弟子の豊かなイメージを矮小化することなく表現する手段のとしての「骨法用筆」だったと田中日佐夫さんは述べている。この頃、応挙『保津川図模写』、雪舟『山水長巻図模写』、相阿弥『水墨山水図』を模写している。「上げ写し」という手法で、手本の上に滲み止めし棒に巻いた薄い美濃紙を置き、その都度手本の筆勢を確認しながら、紙を引き下ろして上から写し描き、紙を引き上げては確認していく本格的な模写の方法だった。雪舟の強い線は堅い筆で描かれたと思われがちだが、柔らかい筆じゃないと岩角などを描く時に逆に力が入らない、雪舟が使っていたのは画筆ではなく書筆だったという (「栖鳳画伯遺話」) 。古画の模写は新たな世界への窓口となっていたが、師からは妙な絵になったといわれるようにもなる。

 その成果 ? として、明治25年に発表した『猫児負暄/びょうじふけん』が「鵺 (ぬえ) 派」と呼ばれることになる。丸山、四条、狩野派といった違った筆遣いが混在する作品だが、残念ながら現存していない。鳳凰自体、頭は鶏、首は蛇、胴は前が麒麟、後ろが鹿、背は亀、尾は魚の合体獣で正体のはっきりしない怪しげなものだったから、ちょっと面白いのだが、印象派や野獣派のネーミングと同じで、エポックな名になったのかもしれない。



金銀鳳凰文花頭簪 南宋




雀百まで



 それまでに結婚し、京都の高島屋意匠部で一時働いたり長男が誕生したり、棲鳳塾を開いたりと色々な出来事があったが、明治28年、師の楳嶺が亡くなり、その後ろ盾を失っても受賞の勢いは失速しなかった。だが画壇内のゴタゴタは感じていただろう。

 明治28年 (1995) 京都市美術工芸学校の教諭となっている。この時、同僚として水戸出身の棲鳳より4歳若い画家横山秀麿がやって来る。後の大観である。一つ教室で教えていた二人であったが、学生の世話は棲鳳に任せて古典の模写に励んでいたようで、棲鳳先生の人の好さが窺われる。大観は岡倉天心の招きで翌年東京美術学校の助教授となった。栖鳳自身、天心から東京美術学校に誘われているが、自己の研究の時間を惜しんで断った。だが、未練はないわけではなかったようだ。後々、東京の大観、京都の栖鳳としてのそれぞれの立場は困難な局面を迎えざるを得なかった。


『飛び上がる雀』 部分


 同、明治28年、野原で居眠りする犬とジャレあっている子犬たち、そして百羽の雀を描いた『百騒一睡』を発表している。僕は、ひろしま美術館での『竹内栖鳳展』で栖鳳の描いた雀を見て惚れこんでしまった。この筆力は普通ではない。師の楳嶺が雀を愛していたように棲鳳も雀に対する愛情は一しおだったようで、その飛び方、歩き方などの習性や生態を研究した。雀らしく描く自信はあるが、「チュンという鳴き声の、響きが容易に描けない」と漏らしている。ここまでくると神技に近い。この頃、黒田清輝が裸体を描いて一騒動あり、橋本雅邦が『竜虎図』を描いて話題の多い年だった。明治33年 (1900) にはパリ万博に『雪中噪雀』を出品、この年、農商務省と京都市からパリ万博視察のために派遣され、渡欧している。36歳だった。

 栖鳳は後年、輪郭の線などあっても無くても、明瞭でも不明瞭でもそんなことは、どうでもいいことで、形さえしっかり掴んでいれば、見事な輪郭は備わるものだし、刻々変化するような形を描く時は時々眼をつぶって描くことさえあると述べている (『栖鳳芸談』) 。 



ダ・ヴインチは水晶、ラファエルはガラス



 スエズ運河を通ってパリ、アムステルダム、アントワープ、ロンドン、ケルン、ベルリン、ドレスデン、ミュンヘン、ウィーン、ブタペスト、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ、ナポリを経て帰国しているが、スエズで油絵を本格的に描いていてちょっと驚く。ダ・ヴィンチの作品は水晶のように美しいと思ったがロマン派の作家たちが賞賛してやまなかったドレスデンにあるシスティナのマドンナは色が固着していて感心しないと述べている。ティッアーノのビーナスの豊麗に心動かされ、フラ・アンジェリコの作品に恵心僧都の作品を偲んだ。ブリューゲルの風俗画に感心し、ドガやマネの巧みさを思った。ターナーの色彩の麗美にラスキンの言葉を思い出す。しかし、最も感銘を受けたのはコローの作品だった。渡欧中に俗字が使われていた雅号の棲鳳を栖鳳の正字に改めている。ここは、『海を渡り世紀を超えた竹内栖鳳とその弟子たち』から田中日佐夫さんの文章を要約させていただいている。


ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 
『ジュデッカ運河から見たヴェネツィア』 1840

『羅馬之図』 1903

 ドレスデンなどでは美術学校で日本画の実技を見せていて、その交換条件に裸体の描写を上級の学生が実演しているところを実見している。なかなか積極的だが、この渡欧で感じたことは、日本画は実物から離れすぎていて「形」を実物によって研究しなければならないこと。光線をもっと取り入れなければならないこと。彩色をもっと工夫しなければならない。そのためにも絵具を改良すべきである。ウィーンのセゼッションなどは着想などが日本人のやりそうなところにきていて、これが欧州一般のものにもなってきつつあること。面白いのは西欧は空気が濃厚で遠近の度が著しいが、日本のものは透明で薄いから日本の度合いに合わせるべきだと指摘していることだった。


『獅子図 1901 セントルイス美術館


 帰国後の栖鳳は『羅馬古城図』や『獅子』などの渡欧の成果というべき作品を描いた。特に獅子図は実物をヨーロッパの動物園で写生していて、迫真のたまものだったから、もの珍しさもあって評判となり、セピア調の色合いもちょっとした流行になったという。36歳での渡欧は、既に鋭い観察眼と手練の筆妓、伝統の幾つもの「型」を身に着けていた栖鳳にとっては、西欧に圧倒されることもなく自己を卑下することもなく、自分の培った基本にセンス良く西洋絵画の風味を上乗せすることができたと言えるのではないか。後にアナロギアやミメーシスが躍動するようになるが、完全に消化していてほとんど模倣とは感じさせない。これは、栖鳳という人が拙速とは遠い深慮の人だったことを明かしている。



豊穣の時



 田中日佐夫さんの『竹内栖鳳』に戻る。栖鳳は40歳代に入った。師の楳嶺の10周忌の追悼記念展覧会のために描かれた『瀟条』は柳の細枝がゆっくりとした一筆で描かれた見事な作品で、入門二ヶ月目の小野竹喬に「私は、はじめて真の絵」を見たと言わしめる。


『瀟条』右隻   田中日佐夫『竹内栖鳳』から転載


 明治42年 (1909) の第三回文展に『アレ夕立に』を出品する。夜目、遠目、扇の内と言った感じの作品だが、扇の絵に関しては、明治33年の『観花』という作品があり、上島鬼貫 (うえじま おにつら/1661-1738) の俳句、煩悩あれば衆生ありの「骸骨のうへを粧 (よそ) うて花見哉」に感化され、京都府立病院から老婆の骸骨を借り受けて写生し片手に官女扇を持たせて出品拒否にあっている作品がある。体は右斜め前に捻じり頭を左に向けて半ば閉じた扇を後頭部の辺りにかざしているのである。この頃の画家たちが俳句から詩心を得ていたという指摘もあり、栖鳳は、この諧謔を若い舞妓さんをモデルに見事に反転させたのではないかと僕は思うのだが、いかがだろうか。


 大正2年 (1913) には『絵になる最初』を完成させている。栖鳳は40代半ばから東本願寺大門の天井絵の制作に取り組んで、裸体のモデルを使って新たな天女図を構想していたが、締め切り日の設定に最初から無理があったこと、モデルの女性の急死、天井の板材からの脂の噴出などの問題からとうとう完成することがなかった。この『絵になる最初』は、二人目の裸体モデルからの下図に長女の顔をあてたもので、最初にモデルになる時の一瞬の恥じらいを見事に捉えている。面白いのは着物の描き方で絣の模様の大小、方向の変化だけで着物の立体感を表現していることだった。クリムトの作品を思わせないでもない。この頃、30歳前後の福田大観を紹介されて、栖鳳印を堀らせ、別荘の扁額をも手掛けさせた。後の北大路魯山人である。

 56歳、57歳の二度に渡り中国へ旅行、実際の志那の風景を体感している。そして、60歳で『斑猫』を描く。沼津の街を歩いていて八百屋の荷車の上にいた猫に一瞬にして心を奪われた。どうも「徽宗の猫だ」と口走ったらしい。実際に徽宗が描いた猫に見えたのだそうだ。しかし、栖鳳の猫は妖艶さを漂わせると言ってもいいが、風流天子の徽宗が描いたとされる猫にしてはちょっとオドロオドロしい。一枚の絵と猫を交換してもらって、その猫を自宅にまで連れ帰っている。このモデルの動物持ち帰り飼いは前にもあったらしく、その時は敦賀からのカモメだったらしい。


『斑猫』

伝徽宗 『猫図』
田中日佐夫『竹内栖鳳』から転載


 この翌年には沼津の海岸で見た『鯖』が描かれ、その翌年は軍鶏がぶつかり合う様を描いた『蹴合』が描かれる。身近な動物や魚がきわめて秀逸に描かれている。


『魚肥山果熟』 1925



晩年



 河合玉堂からに教えられた水郷は中国の楊州のような風情があり、栖鳳はたちまち気に入って『潮来小暑』を描いた。田中さんはセザンヌとの近さを指摘している。昭和6年 (67歳) には肺炎を起こして一時は重体となったが、回復して湯河原に療養に行くようになる。それにも拘らず昭和9年(1934)には天井画を未完としたことで大きな借りのある東本願寺から大寝殿障壁画を依頼され描き切った。


『潮来小暑』 1930

『宿鴨宿鴉』1937


 晩年は破墨や溌墨の技法で玉澗や牧谿風の水墨を描いている。上の『潮来小暑』の色を抜いたものが水墨と解しても良いかもしれない。藤木昌子さんは『竹内栖鳳 水墨風景画にみる画境』の中で、これらの作品を三期にわけて分類しているけれど、これらの作品の多くは潮来を題材としたもののようだ。恐らく、中国旅行で見た風景と潮来との実景を重ねて、本格的な水墨画を意識したのではないだろうか。

 昭和10年に親友の中村鴈次郎が死去、11年に愛弟子の土田麦僊が、13年には西村五雲が亡くなる。栖鳳の周辺には寂寥たるものがあったという。この頃、挙国一致を謳った帝国美術院の改組が行われ、これに対して栖鳳は弟子たちが驚くほど怒りを顕にした。「新帝展のやり方は勝つ絵を奨励する競馬だ」とまで言い切っている。「芸術は勝負ではない」と。栖鳳は温和な性格ではあったが京都画壇を背負う者としての政治的な面もありはしただろう。だが、芸術の自由を追求する人だったのは確かなようだ。これに対して政府は佐々木信綱や横山大観らと共に栖鳳に文化勲章を与えている。盧溝橋事件の起きた年である。

 80歳になれば世間だの画風だの芸術などというものから、一切蝉脱して自由な画人になれることに憧れていた。生涯の最後に年齢にこだわったが一作ごとに病床に就くことを繰り返した。洋画とか日本画とか関係ない、自分ほどマネやセザンヌを自分の国の自然の中で、自分の国の人の心情の中で学び、試みた画家はいない筈だ。もう少し若かったらカンディンスキーやモンドリアンのような世界を試みたかもしれないと思う。しかし、肺炎が襲った。79歳だった。






夜稿百話

竹内栖鳳 関連図書

田中日佐夫『竹内栖鳳』

田中日佐夫 (1932-2009) さんは日本美術史家、成城大学名誉教授。1984年『日本画 繚乱の季節』でサントリー学芸賞を受賞、1988年『竹内栖鳳』で芸術選奨文部大臣賞受賞しておられる。1994年秋田県立近代美術館館長に就任。1999年紫綬褒章受章された。

本書は1986年から1987年にかけて京都新聞に連載された『竹内栖鳳』をまとめ直したものである。田中さんは、画家の描く行為は勿論、交友関係、旅行、趣味、恋愛など全ての行為・行動はその画家の創造に関わるという観点で書くために、できるだけ原資料にあたったと述べておられる。自分は伝統を否定しようとする者ではないが、栖鳳なら栖鳳という画家が、今までの古い規制を脱して新たな扉を開こうとしているのに、それを古い枠に押し込めて理解しようとは思わないと書いておられる。本書を読んでいるとナルホドと思われることも多い。



田中日佐夫、田中修二『海を渡り世紀を超えた竹内栖鳳とその弟子たち』

第一章を田中日佐夫氏がご自分の渡欧体験に重ねて栖鳳の渡欧の様子を書いている。
第二章は美術史家の田中修二氏が栖鳳の弟子たち、西村翠嶂、上村松園、 西村五雲、石崎光遙、土田麦僊、小野竹喬、金島桂華、富岡神泉、池田遙邨、村上華岳、榊原紫峰、入江波光の人と画業を簡潔にまとめたものになっている。



藤木昌子『竹内栖鳳 水墨風景画にみる画境』

博士論文をもとに書かれたものなので学術書といっていい。晩年の栖鳳の水墨画の推移を追っている著作。





参考画像

幸野楳嶺 (こうの ばいれい/1844-1895)

幸野楳嶺『雪樹に五羽の鴉』

幸野楳嶺『波に西瓜』





ジョン・ラスキン『ルツェルン湖畔のウリ湾』 1858

ラスキンの風景画は明らかにターナーの影響があり、厳密な写実もできる点でもっと評価されるべき人ではないかと思う。

ジョン・ラスキン『装飾されたゴシック尖頭様式の窓』 1853




源信 (恵心) 僧都 (942-1017)
谷文晁 (1763-1841) 画





モネ『ラ・ジャポネーズ』1876

1876年の第二回印象派展に出品した作品。田中日佐夫さんは『竹内栖鳳』の中で栖鳳の『アレ夕立に』がこの『ラ・ジャポネーズ』を真逆にしたものではないかと述べている。扇から顔を出したばかりといったモネ夫人に対して顔を扇で隠し、鍾馗のような武者絵の着物に対して水墨模様のだらりの帯、団扇の飾られた背景に対して無地の背景、体の向きも反対という分けである。これらの事柄を栖鳳が意識的にしたかどうかは分からない。ただ、水墨模様の帯を極彩色にすると背景に対して着物と帯が強すぎてバランスが崩れるので、地味な帯にしていると思われる。栖鳳は帯の柄にかなり悩んでいたという。



菱田春草『落葉』左隻 1909

菱田春草『落葉』右隻 1909

春草の『落葉』は朦朧体を代表する作品と言われる。朦朧体は輪郭がはっきりしない茫漠たる世界を描くものだ。栖鳳はこの落ち葉の描写は褒められたものではないが絵としての想意という観点から言えばあの描写で良いのだと穿った見方をしていた。






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