主人公キーンは、孔子をおまえ呼ばわりしながら心の対話を繰り返す。孔子は眉一つ動かすことなく、こう答えた。「十五にして学び、三十にして立ち、四十にして惑わず――六十にしてようやく耳を得たり」と。キーンは思い出す、十五の時、母に逆らって昼は学校で、夜は懐中電灯を頼りに布団の中で本を盗み読みした。三十において教職を拒み、学問において自立した。父の遺産を書物に代え、貧乏生活は夢にも見なかった。今、彼は四十で迷わない。しかし、今は六十ではない。いったい誰の耳を得ればよいのか。孔子はこう答えた。「人間のありようを観察せよ。行為の動因を見て、何事にも満足するを知れ。自らを隠す術があろうか ! そも有り得ようや ! 」ここで、キーンは、はたと気づいた。八年もの間、あの家政婦の在り様を見たが、動因を知ろうとはしなかった。ウカツであったのだ。
しかし、彼女は、手袋をして本を労わり、哀れな誰も見向きもしない屑本の油シミをやさしく消そうとしてくれている。その本に対する心根を知った。孔子は、こう叱咤した。「自らを直さざる過ちこそ、過ち也。過ちたれば直すこと恥じずあれ。」キーンは、叫ぶ。直すとも、あれを娶るのだ。「善を見てこれを為さざるは勇なきなり。」彼は台所に突進するや、こう彼女に言った。あなたを娶ります。すると、彼女はこう答えた。遠慮いたしませんわ。しかし、この時、彼は彼女が八年間、何を動因として仕事をしていたか分かっていなかった。
今回の夜稿百話はウィーンから亡命しイギリスで活躍し、チューリッヒで最後を遂げた思想家・小説家であるエリアス・カネッティをご紹介する。戯曲は後に書いているが、彼が書いた唯一の小説が、この『眩暈』だった。訳者の池内紀 (いけうち おさむ) さんが狂妄の焦土に咲き、その香が端正な知性をも酔わせる奇怪な大輪の華と呼んだ作品である。何故、一冊だけなのか。彼に憑りついた、あの有名な「群集」とは何だったのか。
著者 エリアス・カネッティ
エリアス・カネッティは、1905年、ブルガリアのルスチュク (現ルセ) に生まれた。かつてのスピノザと同じくスペインとその周辺からの亡命ユダヤ人であるいわゆるセファルディと呼ばれる先祖を持つ。そこにはブルガリア人の他、多くのトルコ人、それにギリシア人、アルバニア人、アルメニア人、ロマ、ロシア人もいる人種のるつぼだった。両親はウィーンで教育を受けた上流階級で、家族は先祖伝来のスパニオール語で話したが、15世紀の古スペイン語というべき言葉だった。カネッティが6歳の時にイギリスのマンチェスターに移住、2年後に父が亡くなると母と子らはウィーンに移る。この間に英語、フランス語に触れ、今度はドイツ語を習得することになった。
カネッティの生家 ルセ
1921年から1924年のおよそ三年の間、フランクフルトの実業学校で学んだ時期は第一次大戦後のドイツに大インフレーションの嵐が吹き荒れていて、街頭で老婆が飢えのために崩れ落ちる姿を見たという。そして、ヴァイマール共和国の外務大臣であったラーテナウが、第一次大戦後の領土と金銭問題を互いに放棄することをソ連と締結したために反共産主義右翼の反感を買って暗殺された。この暗殺事件に関わる最初の大々的デモが1922年に起き、その時の群集というイメージが自分の脳裏に焼き付いて離れなくなる。「群集の在る所。常に私はその背後に従った。(池内紀 訳)」とカネッティは言う。
(1867-1922)
1924年にウィーンに移り、ウィーン大学で化学を専攻し、作家・ジャーナリストであったカール・クラウスの講義にも出席した。クラウスの熱情が伝播したのか、この頃、作家になることを夢み、群集の究明に生涯を捧げようと決意したという。いくつかの戯曲を発表し、1935年 (30歳) には本書『眩暈 (めまい) 』がウィーンで刊行されている。しかし、ナチス・ドイツが台頭し、三年後の水晶の夜事件の直後にイギリスに亡命した。ナチスに切迫されながらもマルチリンガルの彼が著作に使う言語は全てドイツ語だった。それは両親が二人だけの時に使った言葉であり、父の死後には母と自分との絆の言語となった。夫の代役となったエリアスと母との間には心理的な葛藤が生じていたと言われる。ともあれ、カネッテイは、パウル・ツェランと同じくユダヤ人を迫害した者たちの言語で創作するユダヤ人思想家・作家となったのである。1981年にノーベル文学賞を受賞している。
ウィーン ヨーゼフガル小路
1913-16 のカセッティの住まい
べルヴェデーレ宮から望むシュテファンス教会ドーム
ウィーン
世界無き頭脳・キーンと図書館
この主人公のキーンという人物はなんとも不思議な男だ、論語を駆使するかと思えば、新井白石の一節をそらんじたりする。当代最高の中国文献学者という触れ込みになっている。まるでアーサー・ウェイリーだが、キーンと言えばドナルド・キーンである。しかし、ドナルド・キーンはこの小説が刊行された頃は13歳だった。夜12時までは2万5千冊を蔵する図書館たる建物の最上階で仕事をし、ベッド用の寝椅子で眠り、朝6時には目覚める。7時から8時の朝の散歩には本屋を覗き自分の浩瀚な蔵書と比べては侮蔑の眼差しを投げかけるのが日課だった。本の書架が詰まった三つの部屋と、今は妻となった家政婦の部屋が一つ。
しかし、彼の日常の秩序は妻によって次第に浸食されていく。中年の夫婦の夜の営みにたいする夫の恐怖と妻の羨望は、ドタバタ喜劇のようでもあり、カフカばりの不条理にも似る。
新妻テレーゼは堂々自分が人からは40歳に、あわよくば30歳に見られると誤解しているが実は56歳。「『「ねえ、どうしたの ? 男の方ったら ! 』小指を曲げて、威し、寝椅子を指した。寄らなければと40歳のキーンは思う。だが、どう寄るのか知らぬ。突っ立っていた。何をすればよいのか――書物の山に横たわる ? 不安のあまりふるえた(池内紀 訳)。」
ミシェル・フーコー (1926-1984)
キーンは、研究時間を惜しみ一時でさえ無駄にしないために来訪者は全てオミットする。この図書館の中で研究し続ける限り学者としての彼は自己実現できていたし、図書館は時間を超越したある種のユートピアであった。そして、文字通り世界無き頭脳であった。そこはヘテロトピアであるという指摘も正しい。ミシェル・フーコーのいう社会における「他なる空間」である。
この他なる空間に向かってテレーゼは、こま切れに侵入し始める、家政婦のではない自分の部屋を要求し、主婦と夫のベッドを買い入れ、あろうことか図書館の一部まで占拠しようとする。
一年後、キーンは、テレーゼによって乱された生活を取り戻し、本たちと再一体化するために総動員体制と銘打って本の背表紙を壁に向けて並べ替え始めるが途中で梯子から転落して床に仰向けにのびていた。見事な絨毯には血が飛び散る惨事だった。テレーゼは、てっきり夫が死んだと思い、遺言書がないことにがっかりし、警察官上がりの玄関番は、テレーゼが殺したと勘ぐる。まる6週間、キーンは床に臥せっていた。
‥‥‥
「全六週間、病気のために徒費した」
「妻は昼も夜もよ」
「そうはさせん」
「夫は妻に何をしてくれるのかしら ?」
「私の時間は貴重だ」
「登記所で双方が‥‥」
「遺言書は作らん !」
「毒殺を思っているのは誰かしら ?」
「男は四十にもなれば‥‥」
「妻は三十同然だわ」
「いや五十七歳だ」
‥‥‥
(池内紀 訳)
かといって夫は妻を愛していないわけでもなく、妻は夫を求めていたのである。夫は、ついに遺言書を書いたが、遺産は二年分の家計維持に足るだけのものだったのである。0 が一つたりなかった。この 0 を巡って夫婦は有らぬ誤解の山を築いていく。カネッティの文章は短いものが大半だが、会話は、より短小で、こんな調子で面白い。
群集と権力
19世紀に「群集の時代」を言挙げしたフランスの社会学者・心理学者のギュスターヴ・ル・ボンやウィーンの小説家ヘルマン・ブロッホに通底していたのは近代的自我や社会的秩序を解体する〈不気味な群集〉への嫌悪や恐怖だったと言われる。ここからは須藤温子 (すとう はるこ) さんの『エリアス・カネッティ 生涯と著作』からプロットします。1960年に『群集と権力』が出版される5~6年前、カネッティは「群集」について以前ほど偏見に囚われなくなり、群集は良いものでも悪いものでもなく、ただ、そこにあると述べる。だか、それについて今まで無知であったことが耐えがたいという。そして、権力は今なお自分にとって絶対悪であり、そのようなものとしてしか権力に関わることができないという。本書『眩暈 (めまい) 』では、群集の描写がこのように描かれている。
「通りにどよめきが沸いた。男たちは逆上して仕事を打ち捨て、女たちは発作的にむせびなき、子供たちは学校を飛び出し、何千もの人々が流れをなして通りをうめ、死体をさらに殺戮せよと叫びたてた。‥‥拳が振り上げられ、罵倒がとびかい、息せき切って通り全体に、死体を殺せ ! 死体を殺せ ! のシュピレヒ・コールが沸き起こった。さもありなんか、群集とは軽薄きわまりないのである。元来、わたしは群集を好まない。しかし、あの当時、かれらの中にどんなにか混じっていたかったことであろう (池内 紀 訳)。」
ウィーン司法裁判所前のデモ 1927年
須藤温子『エリアス・カネッティ 生涯と著作』から転載
カネッティが、デモの群集体験の結果として得たものは、ある「閃き」である。それは、「群集が指導者を必要としないこと」であり、個人の様々な限界を突破して「より高次の統一体になる可能性」だった。ここには、盲目的な群集というコインのもう片方の面である集団の自己組織化と集団意識の形成力があった。
ヘルマン・ブロッホは、カネッティのいう「群集」が形成する高次の統一体をより大きな「超個人としての現実体」と呼んだ。群集は体制に従属させられたり暴徒となる危険もあるが、権力を転覆させ、そこから解放し、自己のアイデンティティから個人を解き放ち他者との接触恐怖のない心理的融合を可能にすると考えたのである。スポーツ・イヴェントが開催される大きなスタジアムや音楽会場で、声援が自然と唱和し、泰全とした一体感に包まれるのを思い出していただければよい。
頭脳無き世界とフェイクな妻の死
ここで物語は第二部である頭脳無き世界に入る。キーンは妻テレーゼに追い出された後、街を放浪し、やがて「理想の天国」という売春宿に紛れ込んでしまう。そこで、くる病を患っているフィッシェルレというチェスに血道をあげる小男に話しかけられる。その女房は物を夫にねだる第二のテレーゼに他ならなかった。キーンにとっての図書館が彼にとってのチェスであり、キーンとの違いは女房を毛筋ほども恐れていないことであり、それは称賛に値した。フィッシェルレは、キーンの財布にある大金をねらおうと彼が持ち運んでいる本の半分を管理する者として行動を共にするようになる。
キーンはテレジアムという国営の質物取扱い施設の書籍部に本を質入れに来た貧乏学生に金を施すなど、散財しはじめ、フィッシェルレをヤキモキさせはじめる。だが、彼は、キーンの知らない世界の半分を知っている。「永年、雑踏の中で生きていれば、これしきのこと ! 生活とは楽しいもんじゃありませんや。ちゃんと生きようとすればろくな目に会わないってもんだが、おいおい知恵もついてきまさあ。(池内紀 訳)」二人は互いに補い合い、〈君〉と〈あんた〉で呼び合う仲になる。フィッシェルレの姦計は知り合った盲人にテレーゼが死んだとキーンに告げさせる。有頂天になったキーンは、その盲人に大枚を支払うのである。
オーストリア国立図書館
ウィーン大学 メイン図書館
ウィーン経営・経済大学図書館 ザッハ・ハディッド設計
ウィーンの老舗書店 マンツ
正面と二階内部をアドルフ・ロースが設計
キーンは妻テレーゼが孤独のうちに己の肉体を一切れ一切れもぎとり食い切る様を夢想する。発見されたのはテレーゼではなく彼女が常々身に着けていた青くて強 (こわ) い外套に覆われた一握りの骨であったと。この〈外套〉にはゴーゴリの余韻がある。しかし、殺人容疑の裁判にでもなれば、こちらの証言台に立ってくれる人間が必要だとフィッシェルレは言う。そこでキーンは、パリの著名な精神科医で、その前は産婦人科医として一財産を築いた弟のゲオルク (フランスでの呼び名はジョルジュ) の名を挙げる。
実際のカネッティ家の三人の兄弟の内、末弟のジョルジュはパスツール研究所の教授で、長兄のエリアスが母親と衝突しがちであったのに対して理想的な息子であったと言われる (須藤温子『エリアス・カネッティ 生涯と著作』)。」
その頃、テレーゼは夫のベッドを買った高級家具店の店員グロープ氏が囁く客目当ての甘言にあらぬ妄想を抱き、家具店で彼に抱き着く醜態を演じてしまう。自宅に戻るとフトしたはずみでキーンに肩入れしていた玄関番と懇 (ねんご) ろになってしまい、二人でキーンの蔵書を質入れしようと企てる。しかし、質に入れようと立ち寄った建物で二人は、アッと驚くキーンとの遭遇の結果、彼の財布に入った大金を巡ってのドタバタ劇となり、そこにフィッシェルレも加わった。それを取り巻く「群集」の喧騒が描写される。
キーンとテレーゼ、玄関番は警察署で取り調べを受け、かれらの奇妙奇天烈な陳述の後に無事、釈放された。一方逃げ出したフィッシェルレは、その体の異形を巡って群集から、ほとんどいわれのない虐待を受けた。この辺りはナチス・ドイツによるオーストリア併合前の不穏さを感じさせる。キーンの札束を得ることができず、チェス名人としてアメリカ行きの夢も宙に浮いた。世界を知っていると豪語していたフィッシェルレも形無しだった。彼は、度々、世界の名人に出していた侮蔑を込めた挑戦状、決して返電のこなかった電報を今度はキーンの弟に打電するワルサを思いつく。《ワレ カンゼンニイカレトル アニヨリ》。
個の神話の遠心力と変身という求心力
カネッティにとって世界は崩壊しており、この崩壊の中の世界を表現する勇気を持った時、世界の真のイメージが与えられると信じた(『最初の小説「眩暈」』)。それは極端にまで走ってしまった登場人物をバラバラなまま並置することだった。様々な困難を克服しながら自己形成していく統一的な個人や様々な才能を生かして理想的な人間に近づこうとする個人、あるいはそれを目指しながら挫折する悲劇の主人公は、もはやいない。彼は、ビックバン以降の宇宙のようにすべてが遠心的に分離しようとする社会を描いた。そこに相反する求心力は存在しないかのようだった。
どの人間も夢や欲望を持っていて、その夢に追い立てられ、その夢が他の人間と自分とを区別する。これを個人の神話と名付けるなら、大抵は歪んだ神話だとカネッティは確信している。まさに、そのような神話が互いに衝突する様を『眩暈』は表現しているのである。個の神話というパラノイアから逃れるために彼は、「変身」と「群集」という二つの杖を握る。
オウィディウス『変身物語』
「群集」については既に見た。「変身」はオウィディウスが流麗な名文で綴ったようにどのようなものにでもなることが可能な能力である。人と人との垣根を超える唯一の回路、つまり自分ではない誰かとして他者に向かうことのできる求心力の可能性である。そして、こういう変身もある。人々は突如として同等を感ずるが、真に同等になった訳ではなく、それが永続することもない。それぞれの家に帰れば、自分の名前を取り戻す。群集が個人を超えて同化しうるとしても、そこには基本的な幻想があるのである。(『群集と権力』)
ヴィスワヴァ・シンボルスカ(1923-2012)
言い換えるなら「変身」とは自己と他者が「互いの間を開いておくための交通路であり、ヴィスワヴァ・シンボルスカがその詩に書いたように、自分は、今の自分ではなく、人間でさえなかったかも知れず、はるかに個性のない誰かであったかもしれない。その蓋然性の中で、自分 = 他者となる可能性を担保するものが「変身」なのである。それによって、偶々そうであったにすぎない「根源的偶有性」と呼ばれるものに人は気づくのである。
社会秩序やその安全弁としての身分登録があり、あなたは誰と問われた時、「私は何々です」と答える。その時、既に秩序づけられ拘束された自分がいる。人は、もはや変身によって逃れる術を失っているというのである。こうして、エミリー・ディキンスンの「誰でもない私」やパウル・ツェランがオシップ・マンデリシュタームを言祝いだ「誰でもない者」は標本の蝶のように社会制度という針に刺し止められるのである。
頭脳の中の世界 弟・ゲオルクの登場
キーンの弟ゲオルク (フランスでの呼び名はジョルジュ) は精神科医だった。パリにある瘋癲 (ふうてん) 院の院長に納まったのは二年前のことだ。彼は、その磨きのかかった伸縮自在の顔面の筋肉を駆使し、熱狂的で苛烈な演技によって一人の患者の中の二人と親交を結ぶことができた。学者の世界では多様な意識分裂に関わる治療法が論争のタネとなっていた。この設定は、19世紀の終わりころまで神経科の治療としてパリのジャン・マルタン・シャル―コーの治療法が主流を占めていたのに対して、20世紀になってフロイトらの精神分析が席巻するようになったのを反映しているようだ。
(1825-1893)
ミケランジェロ 『天地創造』からアダムと神 システィナ礼拝堂
ゲオルクは、ミケランジェロが描いたアダムのような風貌となかなかの知性によって超人気の産婦人科医として名を馳せていた。だが、ある患者の精神を病んだ義弟が発するゴリラ語のような言葉に興味を持ち、それを理解したことを契機に精神病学に転向し、狂人たちの世界を理解できる該博な精神科医にまで成長したのである。治療の成功した患者たちは、かつては万人に代わって身に負った大いなる罪過への苦しみ、卑しい人間の尊大ぶりに対する無力を嘆いていたが、ゲオルクは、ほんの少しでも「あの頃は、よかった」と病気を懐かしむ言葉を彼らに期待していた。
スコットランドの精神科医ロナルド・レインを先取りするかのように理性とは名のみの誤解であり、患者の生活は純粋に精神性に満ちていると感ずるようになる。毎日、三度の病棟巡回では、まるで一斉に拍手が起こる様であった。ゲオルクは、演技すべき無数の役割を肉体に刻み着けており、彼の精神は瞬時の変貌に飢えた。「変身」こそが他者との通路なのである。
ロナルド・レイン (1927-1989)
ゲオルクは、助手たちを解雇したいくらいだった。彼らは歴史を深いところから、より本来的に渦動させる力、人間の向上力を知らないと思う。群集に混じってあたかも一人の人間もいないかのごとく完全に自分を喪失する衝動がある。教養は個人間の壁を作るだけだ。自分たちの中には非常に野性的で、たけだけしい獣のような精気が母胎よりも深い場所で沸々と煮えたぎっている。それこそが本来の生物であり、目的であり、未来であると思う。いつの日か群集は散乱するのを止め、野火のように蔓延し、我も汝 (なれ) も彼もなく、ただ、それだけが、つまり群集ばかりがあるだろうと。
ある日、病棟を巡回中に妻から急ぎの電報を受け取った。例のフィッシェルレからの悪戯の電報だった。何かの洒落か、何かの下心があるのか疑ってもみたが、最後の「*バカヤロー ! 」は、兄ペーター・キーンが通常使わない言葉だった。何かあったに違いなかった。
* この箇所を須藤温子さんは〈イカレトル ! 〉としている。
キーンの最後
ゲオルクは兄ペーターが眼を悪くして絶望し、自暴自棄になったのではなかろうかと推測した。一方、ペーターは弟の成功を女性に対する厚顔無恥なお世辞によって勝ち得たものと信じており、瘋癲院にいる患者たちの盲目が医師の価値を決定しているのを認めるかと詰め寄った。或る者は、目に緑がちらついて離れないと訴えるだろう、しかし、君は、あなたがご覧になっているのは緑ではありません、青色 (テレーゼの外套の色) です ! と言うだろうと。とにかく、妻がいる限り、彼 = ペーター は狂気の内にあり、死に与かっているのだ。彼は妻を遠ざけよと声を競り上げて言う。そして、後漢の王充の言葉を引くのだ。『病み、死に瀕したる者はさも狂人に似たり』。
小路の眼鏡店 ウィーン
核心に近づいていた。アフロディテに出会ったら射殺すると迄言っていた兄が年寄り淫婦にたぶらかされるとは‥‥。兄はオリンポス世界の仮借ないヘラの憎悪を恐れている。ならば、離婚させればよいのだ。弟との議論に激高し始めた兄は、僕には策がある、君の瘋癲院に火を放って燃え上がらせるという。ぼくの蔵書は火に染めることはないとも言うのである。
ゲオルグはさすがに人の心理を察し、いいように導くテクニシャン、機略のオデュッセウスだった。テレーゼには質入れの件で脅し、誓約書を書かせて離婚させ、玄関番には自分はパリの警視総監だと偽って処払いにした。見事なものである。
弟がパリにたち、キーンは自分の図書室に戻った。しかし、奇怪なことが起き始めた。妻であったテレーゼの死体の幻覚が現れ始める。絨毯の血の跡だった。焼き棄てなければ。彼は絨毯にマッチを押し付けた‥‥
自身が作リ出した荒野
カネッティは自伝三部作の最後である『眼の戯れ 伝記1931-1937』の冒頭において、『眩暈』の中で、キーンを死なせ、図書館を灰塵にしてしまったことを後悔し始めていたと書いている。自分が住む世界の脅威をキーンを死なせた後ほど強烈に感じたことはなかった、それも自分自身が書いたことによって ! 何か新しい長編小説や計画していた連作に手をつけることさえできなくなった。彼は夜も昼もウィーンの同じ通りを幾つも通り抜けた。そこで小耳に挟む会話は、脅かされている人々の最後の会話のようだった。あの最後を書いてしまったことによる罪の意識はエーテルのようにあらゆるものに浸透していった。
『眩暈』においては、確かに様々なシーンを次々と書いていった。どのシーンも他のシーンとある一点を除いて関係を持たない。その一点とはカタストロフィであった。他の人々に裁きを下せると思い上がっていた人間が、最も容赦なく罰せられた。裁きを回避することを望んだ人間が、その裁きを引き起こしたのである。
マティアス・グリューネヴァルト(1470頃-1528)
『イーゼンハイムの祭壇画』磔刑図
この小説を執筆中、自分の部屋にはグリューネヴァルトのイーゼンハイムの祭壇画、それも磔刑図の複製写真が掛かっていた。書庫と中国学者が炎上した後、グリューネヴァルトは、かつての全き力を回復し、小説家自身が作り出した荒野の中のあらゆる威嚇的なものを増幅し始めた。或る夜、最悪の絶望の瞬間に――私は、自分が二度と再びいかなるものをも書かないだろうとことを確信していた‥‥(『眼の戯れ 伝記1931-1937』)
‥‥やがて彼は、あらゆる人々の死に抵抗する思想家になっていくのである‥‥
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