Afterimage of Monochrome Ⅰ/モノクロームの残像Ⅰ


Op.3
2016-2018  65cm×53cm
AM-3
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Op.5
2016  33cm×45.5cm
Private Collection
AM-5

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OP.11
2017-2018  73cm×53cm
AM-11

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Op.13
2018  73cm×60.6cm
AM-13

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Op.16
2018  33cm×45.5cm
AM-16

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Op.18
2018  53cm×45.5cm
AM18
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Op.20
2018  162cm×130cm
AM-20
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Op.21
2018  162cm×130cm
AM-21
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OP.22
2018-2022   41cm×32cm
AM-22
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Op.23
2018  33.3cm×24cm
AM-23
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Op.24
2018  33.3cm×24cm
AM-24
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Op.25
2018  45.5cm×53cm
AM-25
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Op.32
2019  32cm×41cm
AM-32
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Op.35
2019  53cm×45.5cm
AM-35
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Production materials/制作素材


基底材  綿キャンバスに和紙 アクリル下地
絵具   オリジナル絵具(天然樹脂、油、蜜蝋)油彩

Original paint (made from resin, oil and beewax), Oil, Acryl
Japanese paper on cotton


Afterimage of Monochrome Ⅰ/モノクロームの残像Ⅰ

2016-2019『日本の伝統から立ち上がる新たな創造―不足からのカオス』

カオス的世界像

 はじめにカオスがあった。宇宙におけるカオスの残響は、この地球上にも木霊している。古人は、全ての音を地籟(ちらい)と呼んだ。武満徹がホワイトノイズと呼んだものだ。その根本は、風が様々な形の空洞に触れて生ずる音であった。その風に雲が乗り、整った形の山が立ち向かえば華麗なカルマン渦が目に見えることがある。

雲を媒介としたカルマン渦列

水は流行して止むことなく、流速を増して遮られれば入り乱れて渦動し、乱流となる。カオスは無ではない。そこには確実に力がある。エネルギーの場に何らかの条件が揃えば、あるシステムが創発することがある。そのフィールドに何らかの意志のように見えるものが働くかに見える。しかし、それが生まれるかどうかは確率論的な問題とされている。宇宙発生の契機が、そこには含まれているのではないか。秩序の対向概念である無秩序としてのカオスは、20世紀の半ば以降にその意味を大きく変貌させた。

 1970年代にイリヤ・プリゴジンによって命名された散逸構造は、系の物質とエネルギーの流動が、秩序を生み出す原動力だった。奇妙なのは細胞からなる生物システムもまた散逸構造になっていることだった。生物とは物質代謝を行う複雑な「渦巻き」であるということなのである。それは、生命が部分の上に成り立つものではなく、部分が作り出す全体の集団的・創発的性質の上になり立つものであるかもしれないからだ。生命は多くの場合、カオスと秩序間で平衡を保たれた状態に進化するという仮説である。

 このカオスを造形的に表現する場合、先ず思い浮かぶのは、渦の形だろう。渦は無言語的始源から浮かび来る原初の形態といえる。縄文やケルトの文化の中に特徴的にみられる形だが、古代においてはメソポタミア、ギリシア、ミケーネ、カルナックなど多くの地域に登場した。それは、月信仰と蛇崇拝と母権社会に関係していた。渦は、流速や粘度のことなる二つの流れが接する時に生じる。これは液体、気体を問わない。重要なことは、渦は、繋がりあっているということだ。

ニューグレンジの敷居石 アイルランド 前3000年頃

 渦は造形的には、無限に繋ぐことができる。これにスケーリングが伴うとフラクタル的な形態に近づいていく。

東洋のカオス

 唐の中期には逸品画家と呼ばれる人たちが登場する。ちょうど呉道玄の白画の線が「意気を用いて成る」と言われたように中唐の溌墨家たちが一気呵成で意志的な線描を発展させた。王墨、張志和、李霊省といった人たちが逸格の画家として知られているが、現存する作品はない。王墨は瘋癲(ふうてん)にして酒狂と言われ松石山水を描いたが酔っては髻(もとどり)に墨を含ませて絹地に描いたという。張志和も山水を描くことを好み、痛飲しては興に乗って撃鼓吹笛し、目を閉じ、あるいは顔をそむけて筆が舞い墨が飛んで形を成していったと顔真卿(がん しんけい)が『文忠集』に書いている。顔真卿の周囲には狂草と呼ばれる草書をよくした張旭(ちょう きょく)や懐素(かい そ)がいた。

懐素『自序帳』部分

茶聖と呼ばれた陸羽は、かつてこの張氏の食客であったという。墨を画面に注ぎ跳ね飛ばすといった動的な作画がなされた。それは墨がなせる不定形な形態から形象が現われ出てくると言った偶然を取り込むような作画である。アクション・ペインティングとオートマチズムの萌芽とも言えなくはないが中国には早くからこのような表現主義的な作品が登場する。想念にある形をイメージしながら一筆一筆、制作を積み重ねる従来の絵画とはまさに逆方向の絵画なのである。それは、<成る絵画>だった。

伏波神祠詩巻 黄庭堅 北宋 1101年 永青文庫
伏波神祠詩巻 黄庭堅 北宋 1101年 永青文庫 部分

 その荒々しさや意気に溢れ画面に横溢する感情表現が禅の気風とも相まって水墨画に与えた影響は大きかった。蘇軾や黄庭堅のいう墨戯ともその精神において繋がるものもあっただろう。南宋の梁楷は自らを梁風子(狂人)と呼んだ画院画家であったが減筆体と呼ばれる水墨画も優れ、墨を惜しむこと金を惜しむが如しと皮肉られた。そして、元初に活躍した画僧日観は破れ袈裟と揶揄された葡萄図のような作品を描くようになる。

梁楷『六祖截竹図』 
梁楷『六祖截竹図』 

明の中期には浙派の中に狂態邪学派と呼ばれる異端の画家たちが現われる。このネーミングは、きっと呉派からの揶揄だろう。郭詡(かくく)、孫隆、陳子和、鄭顚仙(ていていせん)などの作家がいた。徐渭 (じょい) の作品もまたこのような唐から続く逸格の系譜の内にあった。筆は走りエネルギーがみなぎるのだ。万暦二十一年(1593)に73歳で亡くなるが、彼の作品は、やがて明末から清初にかけて活躍した八大山人や揚州八怪と呼ばれる画家たちに大きな影響を及ぼしていく

2020年9月 Afterimage of Monochrome Ⅱ/モノクロームの残像 Ⅱに続く

日観 『葡萄』 元
八大山人『12羽の鷺と沼地の草』明末-清
八大山人 『蓮と家鴨』
 徐渭 『榴実』 16世紀 明
徐渭 『牡丹図』