Non-linear Modern
Op.1
2003 162cm×130.5cm
SW-1
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OP.3*
2003 73cm×51.5cm
SW-3
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OP.8*
2003 73cm×51.5cm
SW-8
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OP.9*
2003 73cm×51.5cm
SW-9
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OP.15*
2003-2004 73cm×51.5cm
SW-15
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OP.12
2003 73cm×60.6cm
SW-12
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Op.13
2003-2004
162cm× 194cm
SW-13
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OP.12
2003 194cm× 162cm
SW-12
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OP.11*
2003-2004 100cm× 100cm
SW-11
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OP.16
2004 53cm×45.5cm
SW-16
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Production materials/制作素材
基底材 綿カンヴァスに和紙 アクリル下地
* パネルに紙 アクリル下地
絵の具 オリジナル絵の具(天然樹脂、油、蜜蝋)、油彩
Original paint (made from resin,oil and beewax), Oil, Acryl
Japanese paper on cotton
* Paper on Panel
Sowing the wind, Reaping the whirlwind /風を蒔いて旋風を刈る
2003-2004
彼らは風の中で蒔き嵐の中で刈り取る。
芽が伸びても、穂が出ず麦粉を作ること
もできない。—- 今や、彼らは諸国民の間にあってだれにも喜ばれない器のようだ。
ホセア書 8.7-8
「風を蒔いて旋風を刈る」 旧約聖書からとられた言葉だが、上のような意味で使われている。展覧会と称して空騒ぎをしては、周りから無視される、そんな自分の身の上のようでもあり、それゆえ私にとっての自戒の言葉のようでもある。 しかし、この言葉にカオス理論をかさねた時、そこには言い尽くすことができないほどの深みが加わってくるのである。
カオスという言葉の使い方には二つある。混沌というとまとまりのない複雑さ、でたらめな多様さという言葉が思い出される。ギリシャ神話のカオスや中国神話の混沌、太湖石に象徴されるような道教にまつわるイメージ、ケルトや縄文にみられる造形などを思い浮かべる人もいるだろう。こういう一般的な意味でのカオスという言葉と、かなり特殊な場合だが科学や数学で使われる場合のカオスという言葉がある。数学や科学で使われる場合は、決定論的なシステムにおける確率論的振る舞いをさす。決定論的システムとは、数式で表せるということであり、確率論的振る舞いとは、一見でたらめな予測不可能な振る舞いをするということである。 例えば、マンデルブロ集合は、Z→Z2+C という漸化式と呼ばれる数式から得られる。ちょっと、苦手な名前だ。Cは複素定数、Zは複素変数である。あるCに対してZ=0から出発して得られた値を、また改めてZとしてZ2+C に代入する。それを何回か繰り返すとあっというまに大きな数字になってしまう。Cの値によって、その大きな数字が無限大に発散する場合と有限な範囲をさまよう場合があるのだが、その結果に応じてCの値を複素平面上に色分けしていく。マンデルブロ集合とは、有限な範囲をさまようCの値の集合ということなのである。例えば、白黒の場合、有限にとどまるCの値を黒に、発散する早さが早いCの値ほど白く塗るというような操作を繰り返す訳である。そのようにしていくと、ジンジャーブレッド・マン(図版1)と呼ばれる形が得られる。ジンジャーブレッドクッキーと関係あるのかないのか知らないが、このマンデルブロ集合に特徴的な形は、細部を拡大していくと一見複雑で、でたらめのようだが、スケーリングを伴って相似的な形(図版2-1,2)を無限に繰り返していくことが分かる。自己相似性を持つのである。そういうクッキーもあっていいのかもしれない。
ちょっと、余談だが、成長する自然の中では、スケーリングを伴って同じ形が繰り返されることはよく見られる。というより、自然は、形態をそのように作り出すと言ったほうがいいのかもしれない。時に、このような異常なケースの中(図版3)に植物の隠された形態形成方法が、はからずも現われ出てしまうことがある。これは、驚異である。この図は、ゲーテがスケッチした貫生のバラの絵である。ゲーテは、優れた科学者でもあったが、絵もなかなか上手だ。雄しべや雌しべのかわりに茎、花弁、葉が現れている。ゲーテの発見した原植物は、自己相似性とメタモルフォーゼとを対にして成り立っているのだが、このようなケースは、正しくメタモルフォーゼすることなく自己相似性が現れてしまっているのだ。(ゲーテの形態学については「原形態」 をご参照ください。)
話をもどそう。フラクタル幾何学の代名詞のようになったマンデルブロ集合は、無秩序と秩序が入れ子となった形態と呼んでよいのではないかと思われる。マクロ的に見れば、無秩序の中にある秩序が存在するのである。
バタフライ効果と呼ばれる言葉がひところ話題になったことがある。ちいさなゆらぎがあっと言うまに大きな変化をもたらす。北京の蝶の羽ばたきが、リオデジャネイロの嵐を呼び起こすのである。気象学者のエドワード・ローレンツに由来する言葉であるが、これも数学的なカオスと関係している。カオスの数式では、ほんの少しの差が繰り返し代入される過程で膨大な差になってしまう。これが長期の天気予報を困難にしている理由なのである。
ローレンツは、大気の対流を調べるのに今や古典となった、温度、気圧、風の方向という三つの変数を持った方程式を使った。天気予報にもこのような数式が使われていることをご存知だろうか?必ずしも蝶の羽ばたきが嵐を呼ぶわけではないが、その要因になりうる可能性はありうる。しかし、蝶の飛んでるとなりで、おじさんがくしゃみをしたらどうなの?という問いかけは勿論可能だ。話は複雑なのである。
カオスの中には、ある段階がある。例えば、水の流れは谷底のような低みにゆっくり流れる。この場合、シンクの穴に水が吸い込まれるような動きを示す。水量が増せば、岩の後ろでは、水が大きな渦を巻き始め、一つのサイクルのような動きになる。もっと水量が増せば、岩の後ろの渦は、次々と形成されはじめ、ゆらぎながらも、ある動きを繰り返すのである。そして、激流ともなれば乱流が生じて次々と渦は分裂していくのであるが、ここに至っては、言葉で表現できる限界を超えてしまう。まったくのカオスと言うほかない。このように乱流に至るにはある段階を経るのであるが、異なる段階に移ることを一般に分岐する言う。自然は、跳躍もするのである。
位置と速度を座標とするような図、つまり位相空間と呼ばれる場に、乱流に至る段階の様子を記述してみよう。谷底に水が吸い込まれるような動きは、シンクと呼ばれる軌道を吸い寄せる点、ポイント・アトラクターとして表現される。岩の後ろの大きな渦は、リミットサイクルと呼ばれる円で、岩の後ろの次々と形成される渦は、トーラス(ドーナツ型)の表面に巻き付いた螺旋状に回転する軌道として表現される。円運動は、周期的だ。しかし、似たような動きではあっても全く同じではない準周期的な動きの場合、このようなトーラス表面上の螺旋運動になるのである。最後の乱流の場合は、ストレンジアトラクターと呼ばれ、表面がフラクタルなつまりガタガタのトーラスに喩えることができる。先に述べたトーラスの表面が2次元と3次元の中間のフラクタルのような奇妙な形になると言われている。
さっきの対流を調べるローレンツ方程式では、位相空間上での振る舞いが、双葉を捻ってつぶしたような図形で表現される。ローレンツアトラクター(図版4)と呼ばれる図形である。この方程式は、このような振舞い方をするのである。妙な形のアトラクターに乗っかった動きは、街中をぐるぐる巡っていることは確かだが、何時、何処にとまるかは、まるっきりはっきりしないバスの動きに例えられる。町中を規則正しく運行するバスのようには動かない。ローレンツが研究した天気の変化を表わす方程式では、バスはこのような動きになる。 しかし、これでもある意味では安定しているのだ。けっして宇宙に飛び出したりはしないのだから。
カオスに見られる動きは、電車やロケットのようではけっしてない。これらの動きは線形的といわれる。しかし、それに対して水の激しい流れや、台風の動きは非線形的といわれる。分岐を起こして予測不能な振る舞いに出るからである。世界の事象のほとんどは非線形的である。私は、この非線形的な動きに興味を持ってきた。グルグルやバタバタが好きなのである。世界は、複雑で予想しがたい、一方で、俯瞰的な視野を持つとある種の秩序のようなものが見えてくる。私には、このことのほうが、全ては予測可能で、秩序は普遍であると考えるよりずっとずっと自然なのだ。つまり、リアルなのである。
世界が蝶のように風を蒔いてきた。器のような誰にも喜ばれない空虚な空間の中に何かを生み出そうとしてきたのだ。一瞬のゆらぎがその空虚な何かを増幅させはじめる。それは時に嵐を呼び、人は時に旋風を刈り取ることにもなるだろう。それは、地球という惑星のいとなみ、息吹なのである。私は、世界が非線形的に運動しているように、アートもそのような非線形的な何かを表現するようになれば良いと思っている。あるゆらぎが突然自己組織化しはじめて新たな分岐を生じるような、そのような運動が起こることを夢みている。(自己組織化については、「乱流の結晶学」 を参照してください。) だから蝶のように羽ばたいてきた。今だって羽ばたいている。となりで、象があくびをしようとも。
2009年 2月