Uzume/渦のメタモルフォーゼ

non-linear modern


Op.1*
2000  73cm×51.5cm
UZ-1

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Op.2*
2000  73cm×51.5cm
UZ-2

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Op.4*
2000  162m×130.5cm
UZ-4

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Op.9
2000  194m×392cm
UZ-9

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Op.7*
2000  73cm×51.5cm
UZ-7

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Op.3*
2000  73cm×51.5cm
UZ-3

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Op.10*
2000-2001  117cm×117cm
UZ-10

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Op.12*
2000-2001  73cm×103cm
UZ-12

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Op.20*
2001  73cm×51.5cm
UZ-20

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Op.14*
2001  73cm×51.5cm
UZ-14

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Production materials/制作素材


基底材  綿キャンバスに和紙 アクリル下地
     * パネルに紙 アクリル下地
絵具   オリジナル絵具(天然樹脂、油、蜜蝋)油彩

Original paint (made from resin, oil and beewax), Oil, Acryl
Japanese paper on cotton
*Paper on panel 


Uzume/渦のメタモルフォーゼ
2000-2001 水の精霊と水の形

折口信夫「河童の話」とテオドール・シュベンク「センシティブカオス」とを重ねて

 UZUMEと綴ると渦眼とか渦芽、それに渦女とか読めてしまう。埋めと読む人は少ない。渦女というとやはり天宇受売命(あめのうずめのみこと)を思い浮かべるのも自然だ。天宇受売命といえば天の岩戸神事の重要な神様なのであるが、猿田彦とは夫婦神であること知る人は少ないのかもしれない。媛女(さるめ)の神ともいわれる。俳優(わざおぎ)、神楽、技芸の祖神(おやがみ)とあるから、猿楽との関連もおしはかられるところだが今は置いておこう。渦に関係してるのだから水の神様かとも思うがはっきりしない。逆に猿田彦の神は海で貝に手を挟まれて溺れたりしている。夫婦なんだからヤマノカミだなどという不謹慎な人もいた。UZUMEをテーマに作品を描いたことがある。その後も渦のことを色々調べたりしていた時期があるのだが、そうこうしているうちにちょっと気きにかかっていたことが、思いがけず共振することになった。そのことを今回は、ご紹介しよう。
  
 きっかけは、折口信夫 (おりぐち しのぶ) という人の全集を読んでいた時のことなのだが、折口さんという人は、民族学、国文学の大学者だ。才能豊かな人だったようで、歌を詠み、小説も書いた。「死者の書」は、日本の小説ベスト10に入れる編集者もいるほどすばらしい。いにしえの奈良の都とその周辺が舞台、藤原南家の朗女(いらつめ)を主人公に、謀反で死罪となった滋賀津彦の死霊の目覚めから始まるという異色の作品である。日本の神々の世界へ仏教がその影響力を浸透させようとする時代に響き渡る万葉の言の葉の余韻の美しさ、そういった世界なのである。折口信夫は、釋迢空 (しゃく ちょうくう)というペンネームを持つ小説家、歌人でもあった。
 
 その折口信夫が、「河童の話」という民俗学関係の文章を書いている。これにも感動した。民族学の大切な要素に、民間伝承、いわゆる民話と呼ばれるものがある。かぐや姫も、坂田の金時も、大江山の鬼もそう。折口さんによれば、河童にはいくつかの特徴がある、すこぶるなまぐさい、甲羅や水かきがある、頭に皿がある(これも上を向けたもの、下に伏せたもの、二枚貝のように重ねたものと種類がある)などの、一般に知られている特徴に加え、相撲をとると腕がすぐ抜ける、きゅうりが好き、人の使いをしたり、富をもたらすなどの反面、しりこだまを抜いて人を溺死させるなどの災いをもたらすことなどをあげている。中でもすごいのは、ほんのひとすくいの液体さえあれば、そこを自由に通り抜けるドアにしてしまうのである。どこでもドアは、未来の猫の専売特許ではないのだ。そして、このドアは竜宮城にまで通じている。これらを思い合わせて、河童とは何かと考えてみても、私にはせいぜい亀とカエルとかわうその合体した妖怪ぐらいにしか思いうかべることができないのだが、折口信夫の推理は、さすがにするどい。
  
 まず、人と相撲をとって腕が抜けた河童はその腕を返してもらうかわりに人の役にたつという証文を書かされる。それは、かつての役(えん)の行者のような修験者が、その呪力によって精霊たちを使役し、彼らは、行者の隙をみては自由な野や山や川へ逃げ出す。そういう考えに基づくのだという。手の抜けるのは、夏の祓(はら)えに人の邪悪を負わせて川や海に流した草人形が、水界に生を受ける、その伝承が河童と結びついた。きゅうりも昔は顔を描いて川に流したのだ。藁人形と同じなのだが、その人形の手をひっぱれば容易にぬけてしまう。それには、こんな伝承も響きあってくる。あまんじゃくと九州の左甚五郎といわれた竹田の番匠(ばんしょう)とが一晩で橋を架けるという賭けをした。まず、あまんじゃくが、三千体の藁人形を作って呪文をかけて働かせると、あれよあれよという間にできあがる。番匠は鶏の声をまねて朝がきたことにしてしまう。すると、あまんじゃくは、くやしさのあまり藁人形の千体を海へ、千体を川に、もう千体を山に放した。それがみんな「河太郎(があたろう)」つまり河童になったのだという。だから海・山・川に行き渡って馬の足形ほどの水があればそこに河童がいるのである。こうひもとかれていくと、水の精霊としての河童の姿があざやかに蘇ってくる。その水の精霊は、皿をめぐって古代の水の神へと結びつけられていくのだが、今回はこれくらいにしておこう。それから余談だが、もう一つ。かつてのトイレつまり厠(かわや)の底から手を伸ばして人の尻を撫でるという妖怪がいる。それも、もとは河童ではないかと折口さんは書いている。厠もほんとうに川屋であった時代があるのだ。だが、し、しかし、これは怖い‥‥‥
  
 話しは変わるが、水の精霊のかたちとも言うべき数々の写真を紹介してくれた学者がいる。ぼくの大好きなテオドール・シュベンク。ドイツの流体力学者だ。工作舎から「カオスの自然学」というタイトルの本が出版されている。原題は「センシティブカオス」という。この本がなかったらぼくは神戸まで行って渦を研究することはなかったろうと思う。シュベンクについては、乱流の結晶学でも少し触れている。
 
 水の世界は壮大なサーキュレーション(循環)を持っている。海・川の表面、そして山の木々などから生ずる水蒸気は、雲となり、雨を降らせて、せせらぎとなり、それらをあつめて川ができ、また海へと帰る。その過程の中で水は渦となって様々な形を生み出すのである。 

図版1 カルマン渦 © Ueda Nobutaka

 一番のお気に入りは、カルマン渦だ(図版1)。ハンガリー人の科学者セオドア・フォン・カルマンにちなんでいる。比較的ゆっくりした流れの中に円柱状の棒を立ておくと、その後ろにこの渦ができる。ただし、それを見るためには、インクのようなものを一緒に流さないと形は見えてこない。空気のような気体にも渦は生じる。比較的形の整った山や島の風下にも条件がよければ雲を介してこの渦を見ることができる(図版2)。雲がインクの役目をするのである。小さな枝の後ろにも巨大な山の風下にもこの形はある。

図版2 韓国の済州島(左下)付近に発生したカルマン渦 ひまわりの映像

 水のような流体が動物の器官を形作るということを教えてくれたのもこの本だった。動物に限らず植物、とりわけ樹の肌にも水の痕(あと)は現れる。すべての木では勿論ないが、ある種類の樹幹には、水の渦のような形や海の干潟に出来るような形がみられる。大地から葉っぱまでの水の旅のなごりなのである。言うまでもなく樹幹は水の通り道なのだ。その他、クラゲなどの水生生物にも流体の形は、多くみられる。
  しかし、何といってもそのような水の形との関係を鮮やかに教えてくれるのは人の体である。例えば肩甲骨をうまく着色してやると表面に水の流れを思わせる形が見えてくるという。肩から胸にかけての筋肉の形は直角に曲がったパイプの中に圧をかけて水を流した時に出来る流れの形にそっくりだ。静止した水のなかに管を通して他の液体を流し込んだ時に出来る形は、人の喉の内部の形とよく似ている。図版3を見てほしい。左側は、その流体の形、右側は人の喉の解剖図である。

図版3 静止水中に管を通して流入する液体の様子
喉の内部の解剖図 三木成夫の図を模写

人は胎児となって30日を経過する頃、えら呼吸する体の仕組みが肺呼吸できるような体の仕組みに変化していくといわれている。つわりのもっとも激しい時期にあたる。解剖学者の三木成夫(みき しげお)さんによると、私達の喉には、魚だったころの先祖の遠い面影をみることができるそうである。(三木さんについては、原形態 のところで詳しく述べておいた。)喉は、えらの変容したものなのである。お母さんのお腹の中で胎児の血管や心臓ができる時、体液の中で血管は生まれ、その一部がねじれて太くなり心臓が生じる。心臓が出来てから血流ができるわけではない。動物の体の内部の器官を、液体が形成する形と考え合わせてみるのは非常に面白いのである。私たちの記憶の及ばない世界で流体が体の形を作っている。そのイメージを感じとっていただいたとしたら幸いだと思う。
  
 水は、どのような隙間にも入り込み、また海のような巨大なかたまりにもなる、この変幻自在な存在は壮大な循環運動の主役でもある。そう、馬の足形から竜宮城までの。流れる水のなかに、そこにひそむ精霊たちの民話の中にいきづく姿が幽かに見えてきそうな気がする。その水の形が動物の体のなかにさえ刻印されているとしたら、その長(おさ)である人間とはいったい何ものなのだろうかとまた考えてしまう。私たちは、心にも体にも水の変容したオモカゲを宿す存在である。面影とは、遠い、あるいは朧げな過去の記憶である。その過去の記憶が変容されてファンタジーとなる時、イマジネーションは、その面影を思い起こす手段になりうるのではなかろうか。それは、理性の裏側をかいくぐってやって来る。民話や、お伽話の本質とは、きっとそのようなものなのではなかろうか。
  

2009年 1月