Jewish Wounds and Perishing Summer Flowers/ユダヤの傷と燃え落ちる夏の花


Dedicated to Paul Celan

Todesfuge/死のフーガ
2021  100cm×100cm
JP1
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Hier/ここで
2021  117cm×91cm
JP2
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TENEBRAE/暗闇
2021  117cm×91cm
JP3
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Engführung追拍
2021  91cm×117cm
JP-4

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Wir Lagen/私たちは横たわっていた
2021-2022
100cm×100cm
JP5
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Dedicated to Tamiki Hara

Broken Pieces, Glittering/ギラギラノ破片ヤ
2021-2022
117cm×91cm
JP6
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Midsummer Night on the River/真夏ノ夜ノ河原ノ水ガ
2021-2022
100cm×80cm
JP7
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An Epitaph
2022
100cm×100cm
JP8
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Near the Sunset/日ノ暮レ近
2022  117cm×91cm
JP9
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Jewish Wounds and Perishing Summer Flowers/ユダヤの傷と燃え落ちる夏の花

2021-2022 証言の世紀の継承としての展示 

 原水爆禁止運動が原水協、原水禁とバラバラになり平和運動が分裂した時期、1962年、その年2月、広島から3千キロ以上離れたアウシュヴッツへ向けてほぼ徒歩による平和行進が始まった。第二次大戦におけるヨーロッパの悲劇の地と被爆の地が共に平和を訴える、そのためにアジア諸国とイスラエル、東欧を通過し1963年にアウシュヴッツに到着した。グローバルな「コスモポリタンな記憶文化」という発想は比較的最近のものだが、この広島・アウシュヴッツ平和行進は、第二次大戦後の記憶のグローバル化と絡み合った戦争の記憶化が1950年代にまで遡ることを示唆していた。この平和行進の参加者たちは、戦禍による被害を抽象化し、普遍化することによって、異なった状況にある被害者たちの意識を結び付け、国際的な関係性を築こうとしていった。こうした犠牲者=証言者のグローバル化は、語りの収束を可能にし、ひいては「証言者の世紀」をもたらすことに貢献してきた。このような活動が継続的に行われることが、戦禍を記憶し平和運動に対する国際的な連動を高めていくことは言うまでもないことと思われる。

 このような記憶文化の継承を考える上で、極めて重要な二人の詩人パウル・ツェランと原民喜の詩を取り上げ、展示したいと考えた。ツェランはホロコーストを経験した作家であり、詩人としての使命を告発者、良心の代弁者となることであると考えていた。原民喜は被爆という凄惨な体験の後にその記憶を世に問うことを目指し詩や散文を書くことの意味を自覚した作家である。そして、ツェランにとってユダヤ人への差別や迫害と言った問題が戦後も彼の心を圧迫していたことが知られています。原にとっても被爆した身体的ダメージと被爆者への差別といった二重の重荷がその上に圧し掛かっていたのは容易に想像できることだった。そういった苦難を背負いながら詩作し、戦禍やホロコーストを記憶し平和を祈念していった態度は長く私たちの記憶に留められてしかるべきではないだろうか。

パウル・ツェラン

 20世紀最大の詩人の一人と言われるパウル・ツェランは、1920年、旧オーストリア・ハンガリー帝国の東端(現ウクライナ)、チェルヴィッツ (チェルニウツィー) に生まれます。その地はソ連の侵攻をうけたのち、ドイツ軍に占領され、ユダヤ人である両親は強制収容所で亡くなり、自身も強制労働収容所に収容されました。この事件は、ツェランの詩作の意義を形成する意味で決定的出来事でした。彼はウィーンを経由してパリに亡命し、エコール・ノルマルでドイツ語の講師をしながら翻訳、詩作を行っていきます。その詩は母の母語であるドイツ語で書かれました。
ツェランの強制収容所での経験を題材にした詩『死のフーガ』は、印刷物やテレビ画面に強制収容所の写真や映像と共に掲載され、センセーショナルものとなります。1958年(38歳)にブレーメン文学賞を受賞、1960年にドイツにおける最高の文学賞であるビューヒナー賞を受賞し、詩人としての地位を確立し、名声はいや増していきました。
 その頃、フランスの詩人イヴァン・ゴルの未亡人によって夫の詩を剽窃したと言う噂がばらまかれ、ドイツ文壇を騒然とさせる事件となります。無実は証明されたものの、その過程での軋轢はドイツ人への疑念を深め、ツェランはドイツの友人たちとの繋がりを次々に絶っていきました。彼は、それまで感じていたユダヤ人ゆえの自分に対する差別と迫害に対する思いを一層強めるようになっていったのです。
そのような状況の中で、彼の精神は蝕まれていきました。1965年(45歳)には錯乱状態になり、精神病院への入退院をくり返すようになります。パリのゲーテ研究所でイヴァン・ゴルの未亡人と遭遇したことをきっかけとして重度の精神障害に陥り、1970年(49歳)、セーヌ川に投身自殺します。

原民喜

 
言うまでもなく、峠三吉、栗原貞子、太田洋子、竹西寛子、林京子と並ぶ著名な原爆詩人の一人です。原は1905年、広島市の幟町に陸海軍・官庁用達の繊維商の家に生まれます。千葉で英語の教師などをしながら俳句、小説や詩などを書くという生活を続けていましたたが、空襲も激しさを増し、妻の死の翌年、1945年 (39歳) 2月に広島に吸い寄せられるように帰ります。まるで広島の惨禍に会うために帰郷したようなものだったと原は述べています。

 平和への願いは、被爆者たちの中に生き残ったことの意味を与え、その人生に目的を与えることになります。原民喜は、こう書いていました。「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かして僕を感動させるものがあるなら、それはみなお前たちの嘆きのせいだ (『鎮魂歌』)。」

 そうした動機によって原爆詩は生まれました。そして、『夏の花』は、全編、被爆後のドキュメントとなっていて、被爆当時に書いた手帳のメモが、かなり正確に使われていました。その手帳は現在、原爆資料館に収蔵されています。1945年の秋頃には執筆されはじめ、まとめられた『夏の花』は1946年に雑誌『近代文学』への原稿として東京に送られました。
その後、原は原爆のPTSDなどに苛まれながらも東京で編集の仕事に携わりますが、1951年(45歳)に鉄道自殺します。 

作品の展示にあたって

 ツェランの詩の使用に関しては、遺稿管理者であるBertrand Badiou氏の快諾とご協力を得た。また、ドイツの出版社Suhrkamp Verlag、S. FISCHER Verlag、Penguin Random House Verlagsgruppe GmbH、に使用の許可を頂いた。原民喜に関しては、原文学の研究・継承団体である広島花幻忌の会の協力を得ました。ここに感謝の意を述べる次第です。

トーク・イヴェント

本展に関連するイヴェントとして、次のトークが開催された。

8月22日 『記憶と文化―ホロコーストと原爆の詩人』
この動画は限定公開です。御覧いただくにはURLの取得が必要です。申し込みは こちら
出席者
梯久美子(ノンフィクション作家)
関口裕昭(パウル・ツェラン研究)
柿木伸之(ベンヤミン研究)
植田信隆(画家)
8月23日 『パウル・ツェランとユダヤの傷』
  https://youtu.be/18-FKAHEXEo
出席者 
関口裕昭
植田信隆




Production materials/制作素材


基底材  綿キャンバスに和紙 アクリル下地
絵具   オリジナル絵具(天然樹脂、油、蜜蝋)油彩

Original paint (made from resin, oil and beewax), Oil, Acryl
Japanese paper on cotton