今回の夜稿百話は山東京伝の『桜姫全伝 曙草紙』を高田衛 (たかだ まもる) さんの著作に依りながらご紹介している。老中松平定信、その寛政の改革で京伝は手鎖50日の刑となったのだが、高田さんは定信にまつわる怪事件を『江戸幻想文学誌』の中で、このように紹介している。
その妾五人の内、一人は雷に打たれて死亡、また一人は死病したが、三日の後に屍動して奥女中らを震え上がらせる。その後、何処からか無名の虫多数集い、打てども払へども立ち去らず、その後また雀が幾多りも飛び来り障子、襖をついばみ荒らした。心中穏やかならぬ定信は僧に祈祷なさしめて翌日登城したが、事もあろうに退出する江戸城御玄関口で寄合横田甚右衛門に「あいつを見ろ、世の中を悪くした馬鹿なるやつ」と悪口雑言されたのは前代未聞のことだった (『日本経済叢書』) 。
この事件は手鎖の刑になった寛政3 (1791) 年の9年後にあたる1800年のことで、曙草子が書かれたのはその5年後の1805年のことだった。これらの怪異については風聞であろうが、そこに庶民の積悪への恨みがあり、特定の権力者の悪とその結果を祟りとして捉える風潮を端的に反映していた。定信の怪異はこの曙草紙の怪異に符合していく高田さんは述べるのである。それゆえ野分の方の悪事はこれからもエスカレーションしていく‥‥
曙草紙 巻四 因果応報のアルス・コンビナトリア
● 第十三
野分は蝦蟇丸に抵抗を試みるが知らないうちに襟近くに刺さった三本の手裏剣を見て適う相手ではないと悟り、あっさり抵抗をやめた。自分が寄る辺ない立場の上に蝦蟇丸の凛々しい姿に悪い気はしていない。蝦蟇丸も野分の美貌に魅惑され、二人は愛宕山の隠れ家に連れだった。そこには盲目の妻、小萩と二人の先夫の子、松虫、鈴虫がいたが、蝦蟇丸・野分の二人には邪魔者でしかない。蝦蟇丸は小萩を酷く責めさいなみ、後に売り飛ばそうと二人の子を引き離そうとした。野分は、二人の子供を縛り打たせて小萩を雪中に追い出してしまう。出て行かねば子供たちを折檻し、子供たちには逃げれば母を殺すと脅すのである。蝦蟇丸は去らせた小萩の後をつけ、雪の中に倒れた虫の息の小萩を絞め殺し山中に捨てるのである。
● 第十四
蝦蟇丸は仲間に連絡を取ろうと西海に旅立った。野分は柴を売って日錢を得ようと子供らに法外な量を言い渡して柴刈にだすのだが、ついに母の遺骸を見つけ、毎日そこを訪れ九想図のように変わり果ててゆく姿を見るにつけ川に身を投げて後を追おうとした。その刹那、法然上人の高弟、常照阿闍梨が二人を止どめる。夢告により孝心深き姉妹のことを知ったのだった。こうして二人は上人の徒弟となり美しい声明で知られる二人比丘尼として知られる存在となる。
● 第十五
桜姫は生き別れた母・野分のことを案じながら山吹とともに殺された父の館を離れ、山里に隠れ住み、そこから京を目指して出発したが、父の仇である信田の郎党たちに囲まれ、捕えられたところを若き侍に助けられた。玉琴を主から預かりながら奪われたために自害した篠村八郎の子・二郎公光 (きんみつ) であった。三人は小野の里に隠れ住んだが、父を打たれ、家滅び、母は行へ知れず、恋人の宗雄ともいつ会えるとも知れず、気鬱の病は体を蝕み、ついに桜姫を死に追いやった。山吹は生前の如く麗しい装いを姫に施し、公光は柩に入れて鳥部野の荼毘所に到着したが、郎党・藤六から山吹が信田 (しだ) の手のものに捕らえられたという知らせを受けた。
● 第十六
公光の郎党藤六は、柩が焼かれる時が来たので、それを墓守の僧に託して主人を心配して馳せ帰った。僧は経を読み南無阿弥陀仏を十回唱える十念を授けていたが、微かに柩の中から唱和する声を聞く。怪しみながら蓋を開けて驚愕した。この僧こそ桜姫を見初めたがために堕落した清玄だった。桜姫の遺骸を眺めて涙にくれる清玄だが、その涙が姫の口に流れるや息を吹き返したのは奇蹟だった。遺骸の屍動に松平定信の風聞との類似を見る。
桜姫を尋ねて零落の身となった清玄は、桜姫に言い寄るも突き倒されたが、逃すまい解けた帯をしっかと握った。何かに追われた雉が庵室に飛び込み、言いなりにならねば、この雉のように食い殺すと、雉を咥えて姫の黒髪を掴んで引き倒すのであった。この頃、諸国を勧進していた弥陀二郎は、かつての主君が討たれ国が滅んだことを嘆き悲しんでいたが、近くで女の悲鳴を聞く。桜姫の名を聞きつけ姫を助け出そうと、みね打ちを施そうとしたが誤って清玄を殺めてしまう。すると、突然の暴風雨の中に一団の心火が燃えだし、その中に清玄の姿が現れた。桜姫の母親である野分によって子と共に殺された玉琴の怨念のなせる業だったが、二人は、ようよう逃げのびるのだった。
● 第十七
弥陀二郎は桜姫を負い逃れ、篠村二郎も山吹を取り返して落ち合った。この後、伴宗雄 (ばんのむねお) を主として篠村二郎公光、田鳥造酒丞 (たとり みきのじょう) ら鷲尾の家士だった者たちが結集して、信田平太夫をついに打ち取り、鷲尾義治の仇を打った。義治を供養すると共に旧地に館を再興して桜姫を迎えると同時に九郎判官が賜った太刀と家系の一巻とともにゆくへの分からくなった野分の方の探索を開始する。
日向から立ち戻った蝦蟇丸は野分が尾のある蝦蟇の干物のことを知っていることを怪しみ、酒をすすめて眠らせ、家宝の太刀と家系の巻物を盗み見て野分が鷲尾義治の内室だと悟り、縛り上げた。義治を殺害したのはこの蝦蟇丸だった。蝦蟇丸が野分に一刀を浴びせようとする刹那、子蛇が腕に絡みつき、田鳥造酒丞の強 (ごう) の矢が胸を貫いた。野分は欺かれて囚われたが辱めは受けていないと偽って桜姫の元へと帰るのだった。
● 第十八
義治の仇も打ち、桜姫との婚姻も整った宗雄は鷲尾の家の婿となり、山吹と篠村二郎も正式に夫婦となり館は幸福に包まれる。弥陀二郎は常照阿闍梨の導きで法然上人の徒弟となった。
野分が久しぶりに桜姫の琴が聞きたいと言う。桜姫が弾き澄ましていると燈火の蔭に妖しい人影が立ち、姫はこれを見て「あなや」と叫ぶ。それを聞いた野分は枕刀を抜いて切りつけた。忽ち一団の鬼火となって消え去ったが、勢い余って姫の琴を真っ二つに切り割った。すると琴柱は飛び散って、琴糸は全て蛇に変じて鎌首を姫に向かって伸ばすと、姫は忽ち倒れ伏した。
姫はそれから病に伏すようになり、数々の怪異が起き始めた。丑三つ時に人の足音響き、障子の開ける音がするので野分が目を覚ます。すると見知らぬ禿 (かむろ/おかっぱ) 姿の童女が二人して鎧唐櫃の蓋をあけると無数の蛇が這いだし、姫の首筋や腹に取りつけば、姫は絶叫しながら身悶える。夢かと思った野分が気を取り直した時には、姫は口より血の泡を吹き手足が震えて悶え苦しんでいた。
これより毎夜家鳴り震動し、床の下に悲しむ声、家の棟の高笑い、昼夜別なく異類異形のもの現れ、戸障子に烈火燃えつき、壁や蔀に大石を打ち付ける音が聞こえる。腰元たちはこれを見聞きするたびに絶入し、耐えかねて病と言って暇乞いする者が多数に上った。ここにも松平定信の風聞との類似を見る。
子思いの野分は思い惑うようになるが、看病の皆が眠りに誘われた時、姫が一声「あっ」と叫ぶ。振り乱した黒髪を左右の手に握った姫は一体二形の姿になって「あなうらめしや、はらたちや」とはたと睨んだ形相は身の毛もよだつほどの恐ろしさであった。これは、唐の陳玄祐 (ちんげんゆう) が描いた『離魂記』に描いた離魂病であると京伝は解説して信憑性を持たせている。
● 第十九
弥陀二郎は常照阿闍梨と共に鷲尾の館を訪れ、何とか姫の病苦を救いたいと述べ、夢告により網を打って得た弥陀の尊像を奉った。姫は病み疲れた様子ではあるが美艶梨花の如く錦の褥の上に二人同じ様ですやすやと眠っていた。常照阿闍梨は清玄の霊に語りかける。仏を学ぶも恋慕の情によって戒を破る、速やかに悪執の念を立って成仏せよと。姫は成仏の望みさらさらなしとまた眠ってしまう。さらに阿闍梨が畳みかけると姫は、本心を証し始める。
自分は清玄の霊ではなく、義治の妾であった玉琴の怨魂である。野分の嫉妬によってなぶり殺しにされ、顔の皮剥がれ、大江山の谷川に沈められ、体は犬に食い破られたが、子は弥陀二郎どのに助けられ、清水寺で徒弟となり清玄の法名を授かった。しかし、清水で桜姫の美麗な姿をみるにつけ、その兄である清玄のみすぼらしい姿に怨恨いや増さり、我が子に凡情を起こさせ姫を悩ませたのは、ひとえに野分に対する恨みであった。自分と清玄とは一つの魂魄であり、桜姫は小野の里で業報により死したけれど、蘇生させ一命を保させたのは、自分の為せるわざであって真の蘇生ではない。罪無き姫を苦しめることは本意ではなかったが、あの夜、姫が琴を奏でた時、この恨みは再び火と燃えたのだと述べる。
それに子蛇の導きによって篠村殿と弥陀二郎殿を会わしめ互いに力を合わせて義治殿の仇を報わしめたのは自分の寸志であった。このようなことを為したる自分に成仏の望みなどない、早くお帰りあれと言うのである。そして野分に向かって「汝、わらわをなぶり殺しにせし時、わらわの苦痛いかばかりかと思うぞや。生きかわり死にかわり、六道死生に怨 (あだ) をなすべしと言ったことをお忘れか。こう語った上はこの世に永く留まりがたし。見よ、汝を取り殺し、共に奈落に率 (ひ) きゆかん」と言う。
阿闍梨は玉琴の霊が語ることに同情しながらも怨恨の悪鬼となるよりも早く成仏得脱せよと様々に真言・陀羅尼を誦し給うと弥陀仏の白毫より光明が発して姫を照らすや、姫は「ありがたや、今は恨みも果て、願わくば安養浄土に導きたまえ」と語る。阿闍梨は喜び、片方の姫を数珠で打てば一匹の子蛇となり、もう一方を打てば身にまとった小袖と一具の骸骨に化すのであった。
野分は、この十八年の悪事ことごとく露顕し、自害せんと守り刀を取って庭づたいに走り出たが、晴天俄かにかき曇り大雨車軸を流し電光曄々 (ようよう) と閃き、雷鳴おおいに鳴り響き、野分の頭上に炎を煌めかせて落ちかかり、体は宙に引き上げられ、二つに裂けてドッと落ちた。こうして、因果応報のアルス・コンビナトリア (結合術) は完結するのである。
伴の宗雄は、義治殿が自分を桜姫の婿に定めて下さったのは鷲尾の家の血筋を絶やさないためであり、姫亡き後、嫁を迎えても血筋は絶えてしまう。この上は法然上人の徒弟となって桜姫の供養をしたいと語る。田鳥、篠村両名も涙とともに伴雄を送り出した。
●第二十
宗雄は源宗法師となり、北岩倉の庵に住んだ。鷲尾の家督は義治の甥に継がせ、弥陀二郎の感得した仏像のための御堂建立を田鳥、篠村らに進言する。それが後の西方寺である。一夜、桜姫の霊が枕元に現れ、宗雄が仏道に入り、仏堂の建立あって、その功徳により我ら母子兄弟は安養浄土に生まれることが出来た。仏前に供した桜の枝を庭に挿してもらえれば根を生じて花が咲くだろう、それは自分の輩 (ともがら) の成仏の徴である。しかし、兄清玄の遺骨が鳥部野の草むらに残ったまま故、なにとぞ埋葬してやってほしいと頼んで消えた。源宗の枕元に桜の一枝が残っていた。
清玄の遺骸は小野の里に葬られ塚が設けられたが桜塚、一名文塚と呼ばれるようになる。かの松虫・鈴虫の両尼にも源宗は出会い野分の方の最後を語った。庭に植えられた桜は源宗の名にちなんで楊貴妃桜と呼ばれる。かくして様々に織り拡げられた物語は、きれいに折り畳まれて完結することになるのである。
京伝の結合術
本文のストーリーに関連する京伝が参考にした文献の主なものを本書の解題から列挙してみたい。
・『通俗金翹 (ぎょう) 伝』は日本で翻訳された中国の作品で、夫が妻の宦氏に隠れて妾の翠翹 (すいぎょう) をかこったことを不満に思った宦氏が夫の面前で妾に琴を弾かせて夫を恥じ入らせる話で妾殺害の話はない。京伝はこれを「うわなり (後妻) 打ち」とその殺害の話にアレンジしている。
・歌舞伎などで知られる『苅萱桑門筑紫𨏍 (かるかやどうしん つくしのいえづと) 』は正室牧の方と側室千鳥の頭髪が絡まり合う蛇髪譚で『曾呂利物語』にも腰元二人が寝ていて、うめき声がするので主が覗いてみると寝ている二人の腰元の頭髪が蛇となつて空中で絡まり合う様が描かれている。桜姫と蛇との絡みはこれらの話の影響と言える。
・仏教教導ための勧化本 (かんげぼん)『苅萱道心行状記』では正室桂子は側室千代姫に嫉妬はしないが家臣爪木が千代姫殺害を命じるも姫は逃げ出して、保護役の家臣が自害する話になっていて、京伝は、野分が兵藤太に命じて琴玉を惨殺し、責めをおって篠村八郎が自害する話に改めて、野分の残忍性を強調する形にしている。
・大江文坡 (おおえぶんぱ/1725-1790) の『勧善桜姫伝』が清玄・桜姫の話の元になっていて結構細部の文章まで借りているらしいが、それ以前に浄瑠璃や歌舞伎でも上演されていたようだ。従って、この話はかなり人口に膾炙したものであるらしい。清玄が桜姫を見初めて堕落し、信田平太夫の家人が姫を襲い、篠村二郎がこれを撃退する場面、あるいは墓守となった清玄のもとで桜姫が蘇生し、たまたま居合わせた弥陀二郎の手にかかるのも、宗雄が出家し源宗となること、楊貴妃桜の由来も『勧善桜姫伝』に依っている。
・『水滸伝』において魯智深と林冲が暗いアカマツ林で争い、互いの声によって相手が分かる趣向は、弥陀二郎と篠村二郎との闇夜の格闘の場面に使われる。
・また先ほどの『通俗金翹 (ぎょう) 伝』では、隣の金重が金鳳釵を介して翠翹 と偲び合う。また、李漁の『風筝誤伝奇』では韓世勲が凧に艶詩を書いて淑娟がこれを拾って和韻する話になっていて、これを組み合わせて伴宗雄と桜姫の再会の場面が作られているという。また、宗雄の詩は『通俗酔菩提伝』に見え、桜姫の返歌は待賢門院の『堀河集』からのものであると言う。
・『石言遺響』には盗賊・隈高業右衛門の妻となった万字前が、その先妻の子で盲目の八五郎を疎 (うと) み、業右衛門が誤って八五郎を射殺する話が松虫・鈴虫の母である小萩を殺す場面に換骨奪胎され、鈴木正三の『二人比丘尼』と九相図に基づく小萩の死体の腐乱の描写があり、そのグロテスク性は京伝自身の『優曇華物語』における真袖の屍の描写の再現だと言う。
その他、桜姫の一体二形は『離魂記』の他に常磐津物の「二人浅間」などに既にあり、常照阿闍梨が桜姫の頭を数珠で打ち小袖と白骨が残るのは馬琴作『雨月物語』の「青頭巾」から、野分が雷鳴と共に宙に引き上げられ落下するのは同じく馬琴の『復讐奇譚稚枝鳩 (ふくしゅうきだん わかえのはと) 』などにある。
このように見てくるとストーリーのかなりの部分に引用と翻案があることが分かる、読本が中国の白話小説だけを取り入れていた訳ではない。数多くの文献が揃えられ、競われ、別の話に見立てられる。或る時は、登場人物を入れ替え、キャラクターを全く逆にしてミメーシスとアナロギアを躍動させた。これこそパロディアの精華だったと言えよう。未完と言えた「桜姫伝」を完成させたいという欲望も京伝にはあっただろう。そして、話の奥底に為政者の害悪とその積年の恨みを晴らすため因果応報・勧善懲悪の枠組みを手放すことなく伝奇幻想を注ぎ込んだのである。
このような結合の妙は謡曲の構成を思い出させるものだった。それは白居易を中心とした漢詩の名句や名歌の語彙をふんだんに結び付けて錦織の衣装のような文 (あや) に紡ぎあげた。そして、遠くは菅原道真が六朝的綺靡艶麗な様式である四六駢儷体 (しろくべんれいたい) を身につけ和製漢詩へと「うつし」を行ったことにも通じるのではないだろうか。さらに付け加えるなら、挿絵がかなりウエイトを占めるようになった草紙や読本から言葉を吹き出しに縮め、絵を主体にしていけば、劇画や漫画などのコミックになるのは容易に想像できる。全ては繋がっているのではないだろうか。
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