第58話 高田 衛『完本 八犬伝の世界』秘鍵の神仏が交響するテクストを読み解く



高田 衛『完本 八犬伝の世界』

 玉梓が怨霊~~‥‥おおっ~‥‥と『新八犬伝』に痺れていたのは何時の頃だったろうか。辻村寿三郎さんの縮緬 (ちりめん) ぽい肌合いの人形はとても新鮮だった。この人、かなり伝説的な予知能力があるらしかった。それは、ともあれ、筆者の馬琴自身が、本作は、婦幼が一日の芝居見物の代わりにこの書を楽しんで、春日秋夜の長さを忘れるのだと書いているくらいの自信作だったし、超人気だったのである。その作品を高田 衛 (たかだ まもる) さんが文外の隠微を尋ね、唱道の深意を探るまたとない本を書いてくださっている。それに作家並みの文章の上手さだ。

 『南総里見八犬伝』は、文化11年 (1814) から28年の歳月をかけて書かれた全98巻、上下巻を含めて106冊に及ぶ超大作である。今回の夜稿百話は、馬琴の語りの見事さ、数学的とも言えるプロット、場面設定の妙、時代考証の卓抜、その学識と見識の深遠、これらに高田さんが推理小説のような切り口で迫ることになるのだけれど、八犬伝への導入としても虎の巻としてもお勧めできる見事な著作が、この『完本 八犬伝の世界』なのである。


『八犬伝』口絵 
「金碗八郎、大儀に自死」部分 柳川重信 (初代) 本書より
玉梓の怨霊と唐獅子の襖絵 

 この謎解きにとって『南総里見八犬伝』(以下『八犬伝』) の口絵は、極めて重要なものらしい。画工は葛飾北斎の弟子で、その長女お美祢の婿であった柳川重信がつとめ、後には二代目が引き継いでいる。そういう分けで作風は北斎のテイストを彷彿とさせて秀抜だ。本書は下に掲載した初輯 (しょしゅう) の口絵の謎解きから始まる。題して「八犬子髷歳白地蔵之図/はっけんし あげまきのとき かくれあそびのず」。関八州の各地に隠れ住む幼い八犬士たちがカクレボ遊びをする図で、はるか後に登場する配役の顔見世である。左は後々八犬士を助け出し、宿縁を諭して彼らの結集を主導援助する「ゝ大 (ちゅうだい) 和尚/犬の字を分解」という設定になっている。


「八犬子髷歳白地蔵之図」本書より

 読本 (稗史/よみほん) や草双子といった江戸の小説は挿絵の仕組み、口絵、表紙、見返しなどの造本デザインは全て作者の指揮下にあったと言う。だから作者は普通、原稿と共に挿絵の下絵を描いて絵師に渡すらしい。物書きも絵師顔負けの腕を持つ人もいて馬琴の先輩である山東京伝なども絵師としてもなかなかのものだった。意外に文章で表現していない意図が挿絵などに示唆されている場合があるのである。これは面白い。かつては文人画だけでなく絵画と大衆文学との蜜月があった。


馬琴肖像 歌川国貞画 『南総里見八犬伝』
「回外剰筆」より



著者 高田 衛


 高田 衛 (たかだ まもる) さんは富山県砺波 (となみ) 市のお生まれ。生家は老舗の旅館だった。早稲田大学文学部、同大学院をご卒業後、東京都立大学で博士号を取得されている。日本近世文学の研究者で、滝沢馬琴をはじめ上田秋成、怪談などの江戸の幻想文学の研究で知られる人だ。文教大学女子短期大学、東京都立大学、近畿大学で教鞭を執られ、東京都立大学の名誉博士であられる。著書に『女と蛇』、『新編 江戸幻想文学誌』、『新編 江戸の悪魔祓い誌』、『滝沢馬琴―百年以後の知音を俟つ』、『秋成小説史の研究』などがある。

 八犬伝について、明治大学教授だった徳田武氏との論争は有名らしく、高田さんが「八字文殊曼荼羅」をこの作品の原基イメージと考えるのに対して徳田氏は当時の政治状況に関わる「隠蔽」との主張であったという (大高洋司『書評 高田衛著「江戸文の虚構と形象」』) 。この「隠蔽」というのは「江戸幕府滅亡の予言」というものであったらしいが、どうも嚙み合わない論争だったようだ。



伏姫という名の聖女縁起


 房総の安房にある竜田城主である里見義美 (よしざね) には三伏 (夏の酷暑の頃) に生まれたので伏姫と名付けた娘があった。三歳になっても物言わず、笑みもせず、うち泣くのみだった。蛭子のように奇異な子であり、素戔嗚のように泣き止まなかったのである。女房にかしずかれて伏姫は須崎明神の役行者の石窟に七日の祈願に訪れる。その帰り、役の行者が八十余りの翁として現れ、悪霊の祟りであることを見抜き、娘の禍福について予言すると夜泣き封じに水晶の数珠を与えたが、この数珠には八個の大玉に仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字が刻まれていたのは周知のことと思う。

 この頃、竜田城に近い犬懸 (いぬかけ) の里で、母犬が狼に殺されて残された雄の子犬が夜な夜な鬼火か人魂に伴われて訪れる狸に育てられていた。白い毛の八ヶ所に斑毛 (ぶち) があり八房 (やつふさ) と名付けられ竜田の城に飼われて姫の遊び相手となる。やがて逞しい猛犬に成長した。姫が17歳の年、里見領は深刻な飢饉に見舞われ、かつて飢饉の援助をした館山城主である安西景連 (かげつら) に援助を乞うも逆に里見の城を包囲される。下剋上の世であった。


右上から里見義実、息子の義成、伏姫、女房、下が敵将の首を咥えた八房
本書より

 ここから『後漢書』などにあるの「槃瓠 (ばんこ) 伝説」やその翻案である太平記の卷二十二「畑六郎佐衛ガ事」に見られる話しと軌を一にするストーリーになってくる。特筆すべきはこの太平記では「犬獅子」と記されていることだった。進退窮まった里見義実は痩せさらばえた八房に向かって敵の大将の首を取って来るなら恩賞は思いのままだと戯れに語ってしまう。官職、領地にも興味を示さなかった八房だが女婿にと言えば尾を振りながら、それが望みだと吼えるのだった。その夜、八房は敵陣深く忍び入り、敵将安西景連 (かげつら) の首を咥えて戻ってくる。

 しかし、犬に娘を嫁がせることはできない。最高と思える待遇を与えたが狂暴になるばかりで、姫の居室に押し入ってその袂を押さえて離さないまでになる。義実は長槍で八房を殺そうとするが、伏姫は「綸言 (りんげん) 汗の如し」、つまり天子の発した言葉は汗と同じく元には戻すことはできず、それを破れば「言の咎」となると父を説得し自分は畜生道へ伴われるも前世の因縁と覚悟を決めるのである。玉梓の「児孫まで、畜生道に導きて、この世からなる煩悩の、犬となさん」という呪詛が不気味に木霊してくる。



玉梓、悪霊となる


 玉梓 (たまずさ) が怨霊となったのも「言の咎」によるものだった。馬琴は里見軍記・房総地誌を参考にしながら山下定包 (さだかね) の苛政に苦しむ上総や安房の百姓たちによる一揆に里見義実が頭領として迎えられるという設定にした。それを画策したのが、金碗 (かなまり) 八郎であった。彼は定包とその妻となった玉梓との姦計によって滅亡した安房の名族である神余 (じんよ) 光弘の家臣だった。八郎の郎党の二人が定包を討とうとして逆にその計略によって神余を誤って殺害してしまうのである。定包が征伐された後、仁愛の人である義実は玉梓の処刑を一旦は取りやめるも金碗八郎の必死の説得に斬首と晒首を命ずる。この時、一度は取りやめよと命じた義実の翻意を恨んで発する玉梓の呪詛が前節に述べた畜生道と煩悩の犬というキータームとなるのである。


玉梓の処刑 本書より

 玉梓は元々滅ぼされた神余光弘の愛妾だったが、奸臣である山下定包と通じ神余家の滅亡に加担したあげく定包の正妻に収まった女だった。忠臣の金碗八郎にとって不倶戴天の敵と言えたのである。こうして玉梓の怨霊が数々の祟りを呼び起こすことになるのだ。義実の「言の咎」によって因果の糸車は回り始めるのである。


八玉縁起


 八犬伝の三大典拠は先ほどの里見軍記・房総地誌、そして槃瓠伝説、及び水滸伝を中心とした中国演義小説である。水滸伝の発端はこのような話になっている。北宋の皇帝仁宗は、疫病退散を張天師に依頼するために国防大臣にあたる洪信大尉を竜虎山に遣わした。その道観で「伏魔殿」という額の掛った建物を目にする。腕の太さほどもある鎖で閉ざされ珠印を押された数十枚の封印のある格子扉があった。かつて、老祖天師が魔王をその中に閉じ込めたのだと道士たちはいう。彼らが止めるのもきかず洪信は扉を開けさせた。ただ、石碑が真ん中に一つあり、台座の下の「かなめ石」である四角い石版を掘り出すと忽ち閃光が走り、三十六の天罡星(てんこうせい)と七十二の地煞星(ちさつせい)が天空へと飛び去った。それらの星が梁山泊の百八人の頭領たちだったのである。石が魔星を封じていた。

 伏姫の自害によって八犬士の精が生まれ空中に飛散する。馬琴は「虚々相寓 (あいおう) て生 (なる) ゆえに、その子全くかたち作らずしてここに生まれ、生まれて後にまた生れん。これ宿因の致す所、善果の成る所なり」と第十二回に述べている。役行者が泣き止まない幼い伏姫に与えた数珠の玉は煩悩の数である百八であり、八つの大玉には儒教の八徳が刻まれていた。それが八犬士の精となるのだった。儒仏のシンクレティズムに役行者の修験道と仏教のシンクレティズムが重ねられている。


異人 (役行者) 伏姫を抱く 本書より



伏姫の物類相感と死


 さて、八房と伏姫は異類婚姻譚と言うべき枠組みのなかに設定された。狸に育てられた八房だが、狸の異名は玉面であり玉梓に繋がると高田さんは述べているし、伏姫の伏は「人にして犬に従う」と読むと馬琴は書く。このあたりの緊密な言葉のネットワークは馬琴の真骨頂なのである。伏姫は八房に向かって、一旦義によって夫婦となり婚姻の分は守るも人畜のけじめはある。お前が情欲にでたなら自分は自害する諭した。山中で暮らすある日、伏姫は水を汲みに水面に映った自分の姿が顔だけ犬になっていることに驚く。一瞬の錯覚だったが月のさわりは止まったのである。後に、またも役行者の化身である水牛に乗った笛吹童子が懐妊を告げるが、「相見て孕むことあり」と理外の理である「物類相感」を説く。


笛吹童子と伏姫 本書より

 異類婚姻譚には中国の『捜神記』などにある槃瓠 (ばんこ) 説話があり、犬と夫婦になる経緯は八犬伝と同型だが異類の夫婦が異族の祖となる犬祖神話になっている。太平記にも似た話があるが生まれたのは一人の犬頭の男の子であった。特筆すべきは、そこに登場する猛犬を「犬獅子」と記していることである。日の下にも犬婿入りという伝承があって、ここでも犬と人間が親の言挙げによって夫婦となるが、犬の夫は妻に懸想した山伏あるいは猟師によって殺され、山伏が夫に収まるのだが、七人の子を成した後、殺害を漏らしてしまうために妻に殺されるという筋になっている。しかし、馬琴は獣姦タブーを破ることはしなかったのである。ちなみに犬婿入りは多和田葉子さんが同名の現代版小説に翻案している。

 伏姫の処女懐胎は逃れられぬ因果であり、純潔であるがゆえに無限の苦艱にさらされ父にも人前にも出られぬ身となった。伏姫は遺書を書き身投げを決意し八房も後を追おうとしている。そこへ鎌倉へ救援を求めるために流浪していた金碗八郎の遺児である大輔が姫の奪還に向かい八房を狙撃したが、その弾は伏姫の胸をも射てしまうのである。自分の過ちに気づいた大輔は切腹しようとするが、姫の身を案じてそこに駆け付けた父親の里見義実が遺書を読んで切腹を思い止まらせる。それは伏姫の立場を救うものだったというのである。


伏姫の自害・八玉を走らす 本書より
この挿絵で八玉は犬の形状に描かれている。

 伏姫は一旦蘇生するが、自らの懐胎を恥じて懐剣を腹に突き立て真一文字にかき切った。その傷口から白気閃き出で首にかけた水晶の数珠を包んで虚空に登るが忽ち千切れて一百は連ねたまま地上に落ち、残る八つの玉は流星のごとく光を放って飛び巡り入り乱れたのである。義実は大輔に出家するように命じ、大輔は「ゝ大 (ちゅうだい) 和尚」となって飛び散った八玉の行へを探す旅に出るのである。伏姫の壮烈な死は、ついに玉梓の悪霊を解脱せしめる契機となる。

 北村透谷は、この「伏姫聖女譚」を全編の大発端であり八犬伝の脳髄であるとした。「伏姫の中に因果あり、伏姫の中に業報あり、伏姫の中に八犬伝あるなり、伏姫の後の諸卷は、俗を喜ばすべき侠勇あるのみ」と激賞していた。しかし、後の侠勇は水滸伝ばりのスペクタクルを展開するのである。


騎乗されるものの魔性と聖性 


 言うまでもないが、八犬士が何故八人なのかは八徳の玉に関係する。何故女装の犬士が二人いるのかは謎だった。高田さんは、ここに八犬伝の原基があるのではないかと考える。それは何か。高田さんは八房は玉梓が怨霊の呪縛によって成長した魔犬であり、悪なる魔犬は伏姫によって、その呪縛から解放され聖化されると考える。聖化された魔犬は狛犬のイメージに重なる。それは以下の二つの挿絵から発想された。

 下の左図は金碗八郎が図らずも自分が主の誤殺の原因を作った責任から里見義実と共に主の仇をとった後に、切腹する図の部分である。全体図は冒頭に掲載しておいた。上右が里見義実、左が怨霊と化した玉梓、下の百姓に負われている子供が八郎の遺児。ここでは玉梓の右に描かれた唐獅子の襖絵が注目される。右の図は八犬伝第八輯の口絵に描かれた狛犬である。唐獅子の日本化したイメージが狛犬である。それは太平記に記されていたように「犬獅子」と言えるのではないか。ここから八房の聖化 → 狛犬 → 唐獅子 という図式が馬琴の頭の中にあったのではないか。それに加えて八房の斑 (ぶち) は牡丹状の痣のようだった。つまり、唐獅子牡丹なのである。

 八犬士の初出である第二輯三巻は「庚申塚に手束 (たつか) 、神女に謁す」と題され犬塚万作の妻手束が八房の黒い神霊に騎乗した伏姫神女から孝を刻んだ玉を与えられる場面が描かれる。それは犬塚信乃の誕生の契機だった。シャーマンたちの世界では鹿や龍、獅子といった霊獣に乗って霊界を周遊することが知られている。それは魔獣であると同時に聖獣でもある。西宮の戎神はケルトのアーサー王の霊のように馬に乗って現世と冥界とを往復し、一言主も小栗判官も馬に乗る。道真や老子は水牛に、春日明神は鹿に乗り、鶴に乗る仙人もいる。八犬士の一人大江親兵衛仁 (まさし) の神性の名馬青海波に乗るのである。そして聖なるものの騎乗する動物の極めつけと言えば普賢菩薩の象、文殊菩薩の獅子である。


文殊菩薩像 南北朝時代


八犬伝の基底 八字文殊曼荼羅


 これから女装する二人の犬士の縁起に入りたい。日本で知られる聖数は、中世以来の北斗信仰を考えれば七である。七福神にしても奇数である。何故八なのか。ここで、高田さんは馬琴の文字の解体と合成による換義法に読者の目を向けさせる。伏姫の「伏」は「人にして犬に従う」であったし、八房を育てた「狸」は「里に従い犬に従う、すなわち里見の犬」である。八徳の八つの聖なる玉は八房にとっては「如是畜生発菩提心」の八字の聖玉となる。聖数八を窺わせる聖なるイメージ、犬と観念連合する聖なるイコンは八字文殊しかない。頭部を八髻(やつぶさ)に結い八童子を眷属とする八智尊である。


八字文殊菩薩 八大童子 13世紀 MOA美術館
八字文殊の真言と八大童子及び方位 

 文殊菩薩の八字真言は天台・真言密教において戦災、飢饉、自然災害などの危急の事態に修される呪術の際に唱えられた。その呪文の八字には、それぞれ童子が割り当てられている。ここで注目されるのは二人の尼童子がいることなのである。もう一度「八犬子髷歳白地蔵之図/はっけんし あげまきのとき かくれあそびのず」を見ていただきたいが、上から犬塚志乃、犬江真平、その下左が犬塚毛野、下右に犬村角太郎が描かれている。志乃と毛野は女装していることが分かる。八犬士の「六男二女」の根拠はここにしか考えることが出来ないのである。

「八犬子髷歳白地蔵之図」部分 本書より


 ちなみに中国の七福神にあたる八仙においても女性性で表現される二人の仙人がいて、それが何仙姑 (かせんこ) と藍采和 (らんさいか) である。下の図で藍采和は一番下に顔を後ろに向けて寝転がっていて足元に花籠が置かれている。当初は女性として描かれたが、やがて両性具有のような存在になったという説もある。笛を吹いている韓湘子 (かんしょうし) は童子姿だが男性である。最終的に八犬士は八仙となって昇仙するのである。

 さて、かくして高田さんの八犬伝謎解きの序章は終わる。この後は八犬士のそれぞれの活躍が紹介されるけれど、今回はここまでとしたい。戦国乱世に里見家の勃興史を描く、この八犬伝がいかなる書物であるのか、お分かりいただけたのではないだろうか。その幻怪な景観が繰り広げられるその背景には実に驚くばかりのテクストが秘められていたのだった。



夜稿百話
高田 衛 著作一部


高田衛『滝沢馬琴 百年以後の知音を俟つ』

滝沢馬琴は明和四 (1767) 年に江戸深川で生まれている。幼名を倉蔵といった。父親は旗本松平鍋五郎家の用人で小禄ではあったが有能な人だったようだ。しかし、父興義 (おきよし) は51歳で急逝し、やがて長兄興旨も次兄興春も他家に養子にはいり、家督を継いだ倉蔵だけが小姓として松平家の孫に仕えたが癇癪があり虐めが過酷で、ついに14歳の10月のこと、「木枯らしに思ひたちたり神の旅」と主家の障子に書きつけて出奔した。長兄の家に身を寄せて医学を学ぶも2年で挫折、長兄は東岡舎羅文 (とうこうしゃ らぶん) と号して連を作り、倉蔵も加わり馬琴という俳号を持った。その兄の主家に足軽としていやいや働くが身長は6尺 = 180cmほどの丈夫な体躯となっていた。行状の放逸が始まり兄が出仕を取りやめさせた。その後は浮浪の生活で、本を読み、筆写し、写本を売った。母のもんが病を得て亡くなった時、男兄弟は皆失職しており、妹たちはまだ14歳と12歳であり滝沢家はどん底の状態だった。その母は貧乏の中でも手を付けなかった20両の大金を子供たちに残していたのである。兄たちは仕官でき新たな職に就いたが、翌1786年、次兄が病死、2年後に馬琴は病を得て (梅毒ではないかと言われる) 職を追われ長兄が自宅で療養させている。22歳になっていた。そして、1790年24歳の時、酒一樽を持って銀座の山東京伝宅を訪れて門人になることを乞うたが、弟子は取らない、しかし心安く話しにきたらよい、出来たものは見てあげるといわれたようだ。二人の社会的身分には雲泥の差があったが馬琴の方では意気投合し友人としての遇されることになると書いている。馬琴は早くから浄瑠璃本を読み、兵書、軍記の類、漢籍・古典に通じても徘徊もよくし、卜筮の術も少し齧っていた。この異様な青年を京伝は気に入ったのである。この年、住んでいた深川の裏家は浸水崩壊し、京伝宅に半年居候となった。この頃、京伝の計らいで馬琴の処女作『廿日余四十両尽用而二分狂言 (はつかあまりよんじゅうりょう つかいつくしてにぶのきょうげん) 』が京伝門人大栄山人の名で刊行されている。しかし、寛政の改革のあおりを受けて京伝の洒落本が出版制禁の咎を受ける。京伝は50日の手鎖、版元の蔦谷は財産半減となった。その蔦谷に馬琴は手代として働くことになる。寛政五 (1783) 年知人の世話で馬琴は、履物商伊勢屋の寡婦会田氏のお百に婿入りしている。この頃、曲亭馬琴の戯号を用い始める。三歳年上で美人ではないが貞婦だと言う。履物商は縮小して自ら手習い塾を始めた。町人としての生活が始まるのである。
馬琴は生涯に絵解きを中心とした草双紙の総称である黄表紙を84作、その黄表紙5巻を一刷にした合巻を70作を刊行したが、本格的な読者を対象とした読み本作家としての名声の方が高く、大衆紙である黄表紙作家としての影が薄かったと言われる。
馬琴 の『羇旅漫録/きりょまんろく』は享和二年 (1802) に記された旅行記であり、この作品以後馬琴が大きく飛躍する契機となった。太田南畝がしたためてくれた上方の知人たちへの紹介状が、ほとんど無名の馬琴にとって極めて有難いものだったのである。東海道筋の狂歌壇へのネットワークを形成するのが大きな目的だったと言われる。大阪で執筆を決意した作品である『月氷奇縁』は、近松作の浄瑠璃『津国女夫池 (つのくにみょうとがいけ) 』を下敷きに中国の小説や他の読み本を翻案した伝奇的テイストを持つ作品で、中国白話小説的な迫力を醸し出していたのである。こうして馬琴の名声は一気に高まることになった。

京伝の作風は物語のプロットや設計よりも語り物のように人物・時代を複合化して、それらに応じたパフォーマンスを描くことにあり、主題の抽象化よりも様式性を重視したと言われる。高田さんに言わせれば、「反意味的、カレイドスコープ (万華鏡) 的な混沌から生まれる華麗な様式美」であったという。語りの文学なのである。一方、馬琴の小説は中国小説などに本邦の伝承や故事、俗史などを極めて計画的に配するもので、初めに構想と概略設計があり、その設計に基づいて様々趣向を凝らすと言うべきものであった。都市芸術としての浄瑠璃や歌舞伎などが持つ観衆婦幼をわくわくさせるような華やかさ、歓楽性、情緒性、豪悪・怪奇な戦慄性、涙の悲哀性が京伝の魅力の基にある。馬琴は京伝の人としての優しさ、天稟 (てんりん) の異能をもって近世社会にある身分階層社会を超える遊民の論理を見抜いていた。それに対して馬琴は朱子学的な原理主義的批判者として自らを打ち出したと言うのである。それは武士の血筋を引く者としての矜持であったかもしれない。



高田衛『定本 上田秋成研究序説』

秋成の浩瀚な研究書と言ってよいと思う。秋成文学に迫りたい人にはお勧め。章立てをご紹介しておく。

序 本書の著者に 森山重雄
まえがき

第一篇 和訳太郎の世界
Ⅰ 「わやく」と中国白話小説 ―『諸道聴耳世間猿』の構造
Ⅱ 「人の徳を損じ候書形」について ―『諸道聴耳世間猿』序説
Ⅲ 玉手箱女房説話の研究 ― 和訳太郎の方法と技術

第二篇 『雨月物語』の構造
秋成との出会い(一) 怪談は文学たりえるか
秋成との出会い(二) 秩序と私憤について
Ⅰ 怪談の思想 ―『雨月物語』の美学
Ⅱ 女人愛執の主題 ―「浅茅が宿」覚書
Ⅲ 復讐の主題 ― 私憤の文学的位置について
Ⅳ 文体の思想 ―『雨月物語』の文体論序説

第三篇 狂蕩・風流の文学
Ⅰ 「発奮」から「狂蕩」へ ― 秋成の精神史
Ⅱ 紫蓮覚書 ― 秋成、風流の試論として
Ⅲ 日の神論争についての断章―宣長と秋成の思想の体質
Ⅳ 『癇癖談』の位相 ― 毒舌の風流について
Ⅴ 『歌聖伝』の文献学について
Ⅵ 歌人余斎論
Ⅶ 俳人無腸論 ―「月や霰」の句をめぐって
Ⅷ 死者の書についての断章 ―『胆大小心録』ノート
Ⅸ 『春雨物語』の発想 ― その歴史意識をめぐっての試論

あとがき

秋成の戯号は和訳太郎であり、その名で『諸道聴耳世間猿 (しょどうききみみせけんざる) 』『世間妾形気 (せけんてかけかたぎ) 』という読本を書いた。上方の言葉である「わやく」はダダを捏ねる、悪戯で人を当惑させる、冗談好きなどの意味がある。「てんがう」という言葉にも似ているが、それと異なるのは無法、聞き分けなしの我慢に通ずるものらしい。「訳す」には外国語を和訳するという意味は当時、まだなかった。漢文の俗語訳は「通俗」という言葉が使われていた。古典や外国の文学を和らかに訳 (通俗化) することでもあった。高田さんは、この言葉を秋成が翻訳、あるいは翻案という作業の寓意として用いたのではないかと言う。『諸道聴耳世間猿』では、浮世草子の『世間母親容気(かたぎ)』や『諸芸神日記』などの翻案が見られ、これに『伊勢物語』や『西鶴織留』などが加わる。後半三分の一は宋の白話小説『今古奇観』の「逞多財白丁横帯」から採っているという。ちなみに、秋成が後年、青年期の上述の二作を否定的に述べたと考えられていた時期があったが、それは誤りだったらしい。そんな世界から突然決別させ『雨月物語』に移行したのは賀茂真淵の『国意考』の影響だと言われている。




高田 衛 『江戸幻想文学誌』

開化していく人間の意識形態は、昼の怪談であり、零落していく神々(自然霊)の怨恨は夜の怪談と言える。その交錯と対比の内に描かれるのが近世怪談であると高田さんは言う。「人はばけもの、世にないものなはなし」という西鶴の言葉 (『西鶴諸国ばなし』) が一つの現実認識となる中、一方で「罪無くして殺さるる者怨霊と成る」という『因果物語』の情念の道理化は近世の二極として併存し、いわば光と影との関係になると言う。
二極と言えば、言葉の二重性に秋成は苛立っていたという。「真 (まこと) くさき嘘」と「偽 (いつわり) めきしき真」は同一物の両面に過ぎなかった。この言葉のアナーキズムは激しい焦燥となって作者にかえってくる。しかし、それを利用することもあったようだ。『雨月物語』の「浅茅が宿」は西鶴以来の出稼ぎ失敗譚と言ってよいが、下総の葛飾郡真間の郷の勝四郎は零落した百姓であり周囲からの蔑視に一旗揚げようと懇意になっていた都下りの商人に同行を頼んで田畑を売って金に換え足利染めの絹を買って都で売ることに決めた。美貌の妻は、それを案じたが夫は聞き入れず不安なままに旅支度を手伝うのだった。男は、こんな言葉を残す。

「いかで浮木に乗りつもしらぬ国に長居せん。葛のうら葉のかへるは此の秋なるべし。」

高田さんは、ひねくれた盆栽の松のような文章だと言う。秋までに帰ると言えばよいものをどうしてこのような往古の言葉を組合さねばならなかったのか。秋成は、この時既に幻語の道行を辿っていて、この三十六文字には一種の悪意があると言う。

「いくかへり行きかふ秋を過ぐしつつ浮木に乗りてわれ帰るらむ」

これは『源氏物語』の「松風」にある母親の尼とのやりとりに登場する明石の君の歌である。浮木は故郷に帰るための乗り物を指しているが、歌そのものは幾度の秋を過ごして後の帰郷を読んでいるのである。読者が文章からの出典や引歌まで読み取るかどうかは別にして、作者には自分の文章の出自が求められる。結果的に勝四郎の帰還は七年目の秋となる。この矛盾は「葛のうら葉のかへる」にも言えることで「葛の葉」は「かえる」の序詞で『玉葉集』の巻十四に

「秋風と契れし人はかへりこず葛のうら葉の霜がるるまで」

という歌があり、約束した人は帰ってこないのである。表層では帰ると言いながら語の出自を辿れば帰らないのである。「帰る」「帰らぬ」という二つの意図に跨る不安と混沌のアイロニーがあり、作者の真意は注釈学的には韜晦の中にしかないと高田さんは言う。それに「葛の葉」の裏見が恨みに繋がるレトリックがあり、それは世阿弥の『砧』で知られる。秋の帰国を誓った夫は三年経っても帰ってこなかった。

「恨みは葛の葉の、恨みは葛の葉の、帰りかねて、執心の面影の、恥ずかしや思ひ夫の、二世と契りてもなほ、末の松山千代までと、掛し頼みは徒波 (あだなみ) の、あら由な嘘言や、そもかかる人の心か。」

ペーネロペ―のような貞婦であった妻の宮木からすれば男の違背、変節、嘘は恨みのアイロニーとなる。このような語の出自をめぐる事情によって『雨月物語』の注釈は極めて厄介なのだと言うのである。ここには言葉の背後にある不安と混沌の世界への溶暗的機能が作動していて、このことによって言葉が実体化してくるという。この三十六文字の表層的意味は薄く張られた皮膜に過ぎず、一枚剝けば、おそろしく不吉な逆説的意味や呪詛が臓物のように流れはみ出してくる。『雨月物語』が怪談であるのは、その構造の為なのだと高田さんは強調している。

蛇足だけれど雨月物語の題号は秋成の自序にある。

「明和戊子の晩春、雨は霽 (は) れて月は朦朧の夜、窓下に編成して‥‥」

冬は歳の余り、夜は日の余り、陰雨は時の余り、中国では、これを「三余」と呼んで学問文事にはこの三つの余暇をあてれば足りるとされていた。それは、また近世上方商業資本主義下においても市民的良識であったと言う。「晩春雨霽月朦朧之夜」はこの三余の良識を踏まえたものだったと言う。秋成は三余斎と名乗った。余斎は「余計者、この世のはみだし者」の意でもあり、最晩年には「天罰七十余斎」、つまり死にぞこないの罰当たりへと変名しているという。


高田 衛 『女と蛇』

近世前期の怪談集には妖怪譚が多いが、その中でも幽霊譚や怨霊譚がすこしずつ数を増し、特に男女の愛執、女の嫉妬と怨念を物語る話しが異常に増えたと言う。その中でも蛇にまつわる話しは一つのジャンルを形成すると言っても良いかもしれない。本書では蛇にまつわる作品が次々と紹介されている。『北条時頼記』、娘道成寺、山東京伝の『桜姫全伝曙草紙』、江戸の病んだ時代に奇形化された人間の姿を見るという柳亭種彦の『霜夜星 (しもよのほし) 』、振鷺停貞居『千代曩媛 (ちよのうひめ) 七変化物語』鈴木正三の『因果物語』、明の白話小説『白娘子永鎮雷峰塔 (はくじょうし えいちん らいほうとう) 』を翻案した上田秋成の『蛇性の淫』、それを反転させたような中上健次の『蛇淫』、泉鏡花の『南地心中』、森鴎外の『蛇』と『雁』、坂口安吾の『夜長姫と耳男』などが俎上に上がる。この中には女の髪がメドゥーサのように蛇に変わる蛇髪譚も多い。それは男を挟んだ二人の女が蛇体となって男に絡みつく両婦地獄 (ふためじごく) に連なっていく。日本で作られた偽経『十王経』から熊野比丘尼らによる勧進でも地獄絵の一部として使われていた。女と蛇の譬喩は仏教経典に出所を持つようだ。
文化三 (1806) 年、馬琴は『勧善常世 (かんぜんつねよ) 物語』を書いた。男のぼんのくぼに巣食った子蛇に脳髄にまで食い込まれ半狂乱になるが、妖しくも不思議な快感を感じ始める。油断していると男の首から頭を出して顔を舐め始める。捕まえようとするとスイと穴の中に引っ込んでしまう。舐められることが途方もなく甘味な感覚となっていった。しかし、嘗められた皮膚は紫色に腫れ瘡に覆われ、その子蛇は瘡 (かさ) を食い破って膿血を吸い、瘡もろとも顔面を喰い尽くす。男の快感は絶頂に達して深い眠りに落ちた。苦痛ともよがりともつかない声を漏らしながら顔が食われてゆき、蛇が両目を掘り出してゆっくり呑み込んだところで男は絶命する。馬琴のみならず、京伝も式亭三馬も、二百石どり旗本であった柳亭種彦も蛇の怪奇を書いている。19世紀初頭前後の江戸において怪奇を描いて悪魔的宇宙を幻出することが勧善懲悪の名のもとに流行となっていたのである。

修復以前の雷峰塔 西湖湖畔 1919


山東京伝『桜姫全伝曙草紙』
初代豊国 画 蛇髪譚の一つ





関連図書

多和田葉子『犬婿入り』

多和田葉子『犬婿入り』 1993

福田晃の『犬婿入りの伝承』という論文から、夫になる者が愛のヒロインの排便を舐める犬であること、ヒロインが犬を殺して夫に居座る猟師を迷わず殺してしまうこと、これらに感動して、この小説は出来上がったらしい。現代社会を舞台に触覚的な不思議な感覚世界が繰り広げられる。




参考図版


葛飾北斎『絵本水滸伝』 MET
嗣漢天師 張直人 『水滸伝』で疫病退散を依頼される張天師





『水滸伝』挿絵 洪太尉、妖魔を走らす 15世紀




『星曼荼羅』法隆寺 平安時代

中央第一院は釈迦金剛、その外側である第二院は上部に北斗七星、釈迦金剛の左右を含めた下部に九曜を描いている。




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