Urformen / 原形態

Non-Linear Modern

Op.8 *
1996    117cm×117cm
UF-8
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Urformen 9

Op.9 *
1996    73cm×51.5cm
UF-9 Private collection


Urformen7

Op. 7*
1996  73cm×51.5cm
UF-7 Private Collection


Op. 6*
1996  73cm×51.5cm
UF-6

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Urformen5

Op. 5*
1996  73cm×51.5cm
UF-5

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Urformen10

Op.10
1996-1997  162cm×130.5cm
UF-10
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Op. 14*
1996  73cm×51.5cm
UF-14

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Op. 15*
1996  73cm×51.5cm
UF-15

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Op.11
1996-1997  194cm×392cm
UF-11
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Urformen 13

Op.17
1997-2022  73cm×61cm
UF-17
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Op. 2*
1996  73cm×51.5cm
UF-2

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Small works Op. 3*
1996-2022  41.5m×32cm
UFS-3

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Small works Op. 4*
1996  43.5m×37cm
UFS-4

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Small works Op. 2*
1996  36.5cm×43.4cm
UFS-2

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Production materials/制作素材



基底材   綿カンヴァスに和紙 アクリル下地    
      * パネルに紙 アクリル下地 
絵の具   オリジナル絵の具(天然樹脂、油、蜜蝋)、油彩

Original paint (made from resin,oil and beewax), Oil, Acryl
Japanese paper on cotton
* Paper on Panel  


Urformen / 原形態
1996-1997 形態学とは面影の学問

存在する全てのものが自己を表す方法が形である。

 何故、柄にもなくこんなタイトルかというとゲーテの形態学に敬意を表したかったからである。ほんとは、定冠詞のdieが必要かもしれないが省略した。ゲーテ自然学という名称があるくらい彼の自然へのアプローチの仕方は、独特で興味深い。ドイツだけでなく日本にもこのようなアプローチを愛する人は、多いようである。最近(2009年春)、筑摩学芸文庫からゲーテ形態学論集の植物編と動物編があいついで刊行された。三木成夫さんは、そのようなゲーテ自然学の立場に立つ解剖学者である。
三木さんの「解剖学論集」(うぶすな書院)を読んで仰天してしまった。三木さんによれば、動物とは、二重の筒である。こんな形に還元してしまうのかと驚いたのである。まず栄養・生殖過程を担当する内臓系がある。それは、植物的な器官なのである。試しに、動物を一匹捕まえて口の中から手を突っ込み肛門まで表裏を靴下のように引っくり返して、粘膜のすべての穴から中の臓器を引張り出した姿が、植物の姿に重なるのだという。

 
 動物の内的構造は、植物の外的構造なのだ。なんて人だと思ったが、形態から考えると確かにそうなのである。その筒の外側に感覚・運動機能を担当する新たな筒である体壁を獲得したのが動物なのだ。だから、動物には、食べ物をみつけてきわどく掠め取るための近の感覚と同時に、植物から継続した器官を持つために宇宙のリズムに反応する遠の感覚があるのだという。宇宙リズムに共振する生体リズムについて説明する必要はないだろう。まさに暗在系と明在系の器官を併せ持つ存在なのである。
 
 もっと驚いたのは、お母さんのお腹の中で繰り広げられる宗族発生のドラマをみごとに胎児の顔貌から明らかにしてしまったことである。このことは、「UZUME」でも少し触れておいた。受胎後、一ヶ月過ぎた頃の数日間に胎児は、鰓呼吸するからだの仕組みが、肺呼吸できるような仕組みに変化する。その顔には、まず魚の面影がみられる、やがて両生類から爬虫類へと移ろい、人の顔に近くなっていく。手もヒレから水かきが消え、五本の指が現れる。ほんの一週間ほどの間にみられるこの変化は、古生代から新生代にいたる3億年の歴史を凝縮させて通りすぎる現実であるという。それは、過去そのままの再現ではなく、いわば「かくありなん」という「おもかげ」の再現なのだと三木さんは書いている。
 

 もう随分前のことになるが、当時ハンブルクで治療教育にあたられていた仲正雄(なか まさお)さんの芸術治療の講習会に参加したことがある。両手で楽に覆えるくらいの粘土を渡されて指の先だけで球にしていくのであるが、これが意外にも人によって球の外見が異なるのである。同じ質、同じ量の粘土にもかかわらずである。指の先の圧力など微妙なものなのに一見して差がわかる。お互いにその粘土を交換して、人の球を持ってみると暖かさや、滑らかさ、驚くことに軽さまで微妙に違うのが不思議だった。 次に、その球を少しずつちぎって粘土板の上に円柱を作っていくのであるが、これが意外に難しい。何故かおわかりだろうか?粘土の小さな塊をくっつけていく時には、いわば目に見えない円柱の型がそこに前もってなくてはならないからである。それは、設計図というような静的なものではなくて、もっと力に関係するような強い何かだった。これがアリストテレスのいうフォルマ(形相)なのかとボーと思ったことを今でも記憶している。
 

 ゲーテにとって、形態は、「造られながら刻一刻と造り変えられていく」ような可塑的で動的なプロセスだった。このことは、河本英夫さんの「システム現象学 オートポイエーシスの第四領域(新曜社)」などを読まれると今日的な意義を理解されることと思う。形態の母体は、運動なのである。これは、「風を蒔いて、旋風を刈る」 の中でも少し述べておいた。形態は、ある一つの原形から変容しながら発展していく「なりたち」を持っている。この原形は、植物では、葉の形であり、動物では、椎骨の形である。植物とは、葉のメタモルフォーゼが連続して連なった形態である(図版1、2)。

図版1 葉のメタモルフォーゼ
図版2 葉のメタモルフォーゼ


ゲーテは、そのように見た。根は、地下に伸びる葉であり、双葉から多くは螺旋的に展開しながら葉をつけ、愕となり花弁となって、雄しべ雌しべとなり、最後に実や種を結ぶ(図版3)。

図版3 双葉から雌蕊までの葉の変容

種の中に含まれる胚葉までも考えの中に含まれている。雌しべ、雄しべ、実、種でさえも葉のメタモルフォーゼなのである。きっと、ゲーテにとっては、根と種(実)が対極にあり、それらの高尚したものが花弁なのではなかろうか。植物は、積み上げられながら成長していく。葉と葉の間には、節がある。自然が成長する時には、何処かに区切りを設けなくてはならない。グラスファイバーのようには、成長できないのである。竹の節のような、いわゆる分節が生じる。その分節の最も経済的で機能的な方法が黄金比である。それは、建築家で造形作家の日詰明男(ひづめ あきお)さんが強調するところなのだが、日詰さんのことは、またの機会に紹介しよう。(私が、企画した日詰さんの展覧会はこちらhttp://starcage.org/hiroshima/index_j.html
 

 この分節が、動物、とりわけ哺乳類では、脊椎骨にあたる。手や足の骨にも勿論分節は、あるが、少し性質が異なるのである。レン・メースというオランダの医師は、頭部の骨格が、球に閉じる形態であるなら、手や足の骨格は、外部に向けて放射する形態であるという(『シュタイナー医学原論』平凡社)。胸部は、静止の極としての頭部と運動の極としての四肢の間にあって呼吸などをおこなう律動する座である。そこには肋骨の形態がリズミカルな繰り返しを見せるとメースはいう。ゲーテは、この胸部を中心とした背骨に本来の動物の骨格の原形を設定した。随分悪戦苦闘があったようである。脊椎骨の一連の図を図版4にあげておいた。頸椎骨の上部から胸椎、腰椎、そして最後は、頭蓋骨の底部にある蝶形骨の図である。椎骨のメタモルフォ-ゼとして骨格の形態変化を考えたのである。

図版4 上から
第一頚椎骨
頚椎骨
頚椎骨
胸椎骨
腰椎骨
頭蓋骨底部の蝶形骨

  幼児は、自分をとりまく現象の海の中で「同類の印象」にめざめていく。「オナジ」や「ミタイ」に目ざめ、そこに根源的類似性をみるのである。「印象像」は、「回想像」と重なり合い、「同類の印象の不断の累積」としての記憶が出来上がる。それが、原形だと三木さんは、いうのである。かくして、原形とは、面影となる。しかし、その面影は、しばしば「かくありなん」という衝動を持つ。その「かくありなん」とは、何なのだろう?ゲーテは,「比較解剖学断章」の中で、こう書いている。「形態学は、存在するすべてのものは自己を暗示し、また顕示するに違いないという確信にもとづいている。最初の物理的・化学的エレメントから、人間の最も精神的な表出に至るまでわれわれは、この原理をあてはめる。‥‥‥形態は、動くもの、生成するもの、消滅するものである。形態学は、変化に関する学説である。メタモルフォーゼの学説は、自然のあらゆる徴表を解明する鍵である。」と。 この自己を暗示し、顕示する形態という言葉に注目したい。そして、動くもの、生成するもの、消滅するものという言葉にも。つまり、形とは、自己を示し、運動変化するものとなる。
 

 そう、「かくありなん」とは、私らしさを示すということなのではないだろうか?人は、人らしさを示しながら、母の胎内でメタモルフォーゼするのである。そこにみられるのは、3億年のショートカットな再現ではなく、人らしくなるという衝動に貫かれた変化なのである。前述のゲーテ形態学論集の訳者木村直司(きむら なおじ)さんは、ゲーテは、物質が洗練されて完成へと形成されていく際の、多かれ少なかれ明瞭な『原形』が現存すると考えていたと述べている。しかし、メタモルフォーゼする葉や椎骨のような原形との違いには触れていない。この『原形』には、単一で普遍な理念との繋がりがみえるという。その理念は、世界精神と呼ばれた。ピュタゴラスやプラトンに由来する自然の究極の精神的・自立的統一のことである。そこからエンテレケイアやモナド(ゲーテはエンテレケイアと同じ意味で使った)という見えざる原初の形成力の働きが現れると考えるのである。私が、粘土を積み重ねながらぼんやり考えていたフォルマのようなものをここで結びつけてみたい。ちょっと、正確に一致するかどうかこころもとないがエンテレケイア(根源力)という言葉を「らしくなるという衝動と運動変化」に結びつけ、その上に私の粘土のイメージをも重ねてみたいと思うのである。エンテレケイアとは、何か? 少し、イメージしてもらえたとしたら幸いである。
                           
2009
 4月