御菓子は幼な心の桃源郷ですね。母や祖母の傍らで小豆の煮える芳香を笑顔の中でわ待ちわびた子供時代、何かのお祝い事やお土産でもたらされる喜びの記憶。それらを綴った人は多い。バターの溶けて泡立つ音、ホットケーキの焼ける甘やかな香り。お祭りや縁日で団子が炭火で炙られて立ち上がる砂糖醤油に匂い。笑顔のオリジンはみんなそこに潜んでいるのではないでしょうか。
僕がお菓子に関わったのは、2016年に『煎茶への誘い 植田信隆絵画展』と題して自分の展覧会の会場で、当時、若宗匠だった三癸亭賣茶流 (さんきていばいさりゅう) の島村幸忠さんに煎茶会を開催していただいた時だった。茶会の菓子を旬月神楽の明神宜之 (みょうじん のりゆき) さんに特別につくっていただいた。 見た目にも涼しげで美しい和菓子だった。銀座の老舗菓子店で修行した人だ。
その後、和菓子について少し学びましたが、そのヨスガが今回の夜稿百話です。和菓子をテーマに、それにまつわるコボレ話を虎屋文庫の『和菓子を愛した人たち』、藪光生『和菓子』、杉田淳子+武藤正人 編『ずっしりあんこ』といった著作などを取り混ぜてご紹介したいと思っています。それから特別に菓道家の三堀純一 (みつぼり じゅんいち) さんの作られる和菓子の極致と言える芸術作品をお目にかけます。
虎屋文庫の『和菓子を愛した人たち』には、歴史上の人物たちが愛玩していたお菓子が紹介されていて、とても楽しい。例えば、源頼朝は矢口餅が、道元は汁を添えた饅頭が好みだった。明智光秀は粽 (ちまき)、秀吉はノシ柿が、伊達政宗は煎餅が好物だったいうから戦国の武将の好みは、かなり地味だった。忠臣蔵でお馴染みの吉良義央と坂本竜馬はカステラが好きで、竜馬は分かりますが、悪役の吉良上野介は結構モダンだ。文学者とて辛口だけが好みという分けではない。陰翳を賛美した谷崎潤一郎は羊羹愛好者で、楯の会を組織した三島由紀夫は菊型の干菓子が好きだった、これらは、ピッタリすぎて怖い。極め付きは森鴎外の饅頭茶漬けでした ! オッ~ 。
『和菓子を愛した人たち』虎屋文庫
御菓子のオリジン
御菓子の起源は、古くは古能実 (このみ) や久多毛能 (くだもの) といった「果子」であったことは疑いない。源順 (みなもと したごう/911-983) が編纂した『倭名類聚抄/わめいるいじゅうしょう』には梨子、林檎、桃子、橘、棗、栗子など多数の菓菰 (くだもの) の他に「毛知比 (もちひ) /持ち飯」と記載され、古来より神性視されていた「餅」の存在があった。『豊後国風土記』には豊国の氏族となる莬名手 (うなて) が豊前の国に来た時、明け方に白鳥が飛来し、やがて餅となり、たちまちに芋草 (米) に化した。その知らせに景行天皇は「天の瑞物(みずもの)、地の豊草、汝が治める国は豊国と呼ぶがよい」と詔を下したとされている。この米や餅によって団子が作られるようになり和菓子の基本要素となっていった。
宮廷貴族の御菓子と女性文学
尾形乾山(1663–1743) 『蔦紅葉図』 1732
そして、重要なのは甘味である。日本書紀にも記載があるという飴 (あめ) は日本で古くに発明されたもので、砂糖ではなく「米もやし」で作られたと考えられている。もう一つは「甘葛煮 (あまづらせん) 」と呼ばれるナツヅタの樹液を煮詰めて作る甘味材料があった。
清少納言 (966頃-1025頃)17世紀頃
『枕草子』にも「削り氷に甘葛かけて新しき鋺 (なまり) に入れたる‥‥」とあり、砂糖が輸入されるようになるまで貴重な甘味だった。平安貴族にも優雅な食文化があったのだ。この時代に唐菓子が招来され米粉や麦、大豆や小豆などの粉を捏ねて塩を加え油で揚げたりした菓子が登場する。
紫式部を描いた扇子 17世紀頃
源氏物語にもお菓子は登場している。「兵部卿の宮は、また室 (へや) の中へ院とごいっしょに席を移してお落ち着きになった。高官らもごいっしょである。殿上役人たちは敷き物を得て縁側の座に着いた。饗応というふうでなく椿餠、梨、蜜柑などが箱の蓋に載せて出されてあったのを、若い人たちは戯れながら食べていた。乾物類の肴でお座敷の人々へは酒杯が勧められた。(『若菜上 与謝野晶子 訳』)」ここに登場する椿餅 (つばいもち) は、もち米を挽いて餅粉にし、甘葛(あまづら)で練って丸めて加熱したものを椿の葉で上下を挟んだもので常緑樹の生命力に肖 (あや) かっている。あんこはまだなかった。
『絵本小松原』より和泉式部
西川祐信(にしかわゆうしん/1671-1750)
メトロポリタン美術館
和泉式部は和歌の天才だったが、紫式部に素行が悪いと詰 (なじ) られた。橘道貞と結婚し、小式部内侍という子供を儲けたが、結婚は破綻、しかし歌の名声は高まり冷泉天皇の第三皇子・為尊 (ためたか) 親王に求愛されて一大スキャンダルとなり、その死後今度は弟の敦道親王と恋仲になって石蔵の宮を生んで二大スキャンダルを引き起こした。その石蔵の宮への思いを詠んだ歌がある。「花のさと 心もしらず春の野に いろいろつめる ははこもちひ (母子餅) ぞ」
ハハコグサの葉と花
母子餅は三月の上巳 (じょうし) の節句に厄除けとして食べる習慣があった。この餅に入れるハハコグサの古名はゴギョウ (オギョウ) で春の七草のひとつと言ったらおわかりであろう。一説には茎や花の先が冠毛してホオケ (旧仮名遣いはハハケル) だっていることからホウコグサと呼ばれ、それに母子の宛字を付けたものだという (新牧野日本植物図鑑) 。これに米粉と甘葛などの甘味と一緒に練ったものが母子餅で、中国伝来の草餅の一つだったようだ。情の深い女性だったが、心の迷いとその振幅も大きかったのだろう。母譲りの才能だった小式部内侍を失った悲しみは深く「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月」という歌を残し、晩年は性空上人のもとで出家した。
餅と言えば雑煮だけれど、関東の人は餡餅を雑煮にすることがあるというとエッ ! と驚かれるのではないでしょうか。僕は広島の人ですが、小さい頃、正月の雑煮に飽きてくると、祖母が餡餅を雑煮にしてくれたものでした。甘い雑煮が子供心に嬉しかった。これは味噌仕立ての雑煮で、ちょっと胡桃餡のおもちを食べているような感じです。そんなの美味しいんですかと思う人もいるかもしれませんが、なかなかのもので、料理研究家の土井善晴さんも、ある番組で、我が家では餡餅の雑煮も作りますとおっしゃっていた。関西では珍しくないのかもしれませんね。
中世から近世へ 茶会の菓子
鎌倉時代には栄西が茶をもたらし、喫茶の風が起こる。そのための菓子も考案された。室町時代には点心、つまり、お八つとして羹 (あつもの)、麺類、饅頭が登場する。羹は本来、猪、羊、白魚などを使った多くの種類があったが、生臭物を嫌ったところから小豆や小麦粉を練って羊肉の代わりにしていたものがあり、それを汁に入れずに、そのまま蒸し菓子にしたものが蒸し羊羹となる。煎餅や栗の粉餅、ふの焼きなども食された。安土桃山時代にはカステラ、金平糖、カルメラ、ビスケットなどの南蛮菓子が渡来したのは良く知られている。砂糖の輸入によって菓子は大きく様変わりしていく。
千利休像 部分 1566 正木美術館
室町幕府の八代将軍・足利義政の頃、対面所での書院の茶が盛んになるが点心は砂糖羊羹、三峰膳、驢(りょろ)腸羹、饅頭、索麺、蒸し麺などがあり、これらは茶菓子というより唐物荘厳で知られる本院の茶における本膳の豪華なデザートというべきものだった。砂糖羊羹は輸入された砂糖を使い、わざわざ砂糖と銘打って希少価値をアピールしている。三峰膳は葛粉で山を見立てた形を作って五色に染め、たれみそをつけたもの、驢 (りょろ) 腸羹は腸詰の形の羊羹、索麺はいわゆる素麺である。(『茶道学体系 四 懐石と菓子』)
村田珠光から詫茶を引き継ぎ大成させたのは千利休だった。その茶会に供せられたお菓子は何か ? 興味津々だが、意外と言うべきか侘茶だから当然というべきか、かなり質素なものだった。秀吉の茶会にも妥協はなかったらしい。茶会記の記録によれば、ふの焼きと栗の取り合わせが46回に及び最も多い。その他、焼餅、煎餅、おこし、焼き栗といった木の実の他に果物類、牛蒡やシイタケなどの煮物、室町時代から作られるようになった薄皮、あこや (小団子) などもあったようだ。ふの焼きとは小麦粉を水溶きしてグルテンにして薄く延ばして焼く、塊のまま茹でれば生麩で焼けば焼き麩となる代物だ。そのクレープ状に薄く延ばして焼いたものに味噌などを塗りつけ巻いたものがふの焼きである。もちもちした食感でけっこう美味しい。茶菓子とは言われるものの、この頃はまだ本膳に付けられた菓子が主流で、まれに薄茶に茶菓子がつけられる程度だったようだ。それが定着するのは、江戸時代になってからである。(同上)
化政期の二人の流行作家
江戸時代に入って平和な時代が続き、お菓子も飛躍的に発展していく。元禄の頃には京を中心に白砂糖を使った菓子が作られるようになり、その名も上菓子 (じょうがし) と呼ばれた。茶の湯の影響もあり花鳥風月をあしらう高雅な名と洗練された形の菓子が登場する。お菓子も精巧になっていった。『古今名物御前菓子秘伝抄 (1718年) 』、『菓子話舟橋 (1841年) 』などの菓子製法の書物も出回るようになり、四代将軍家綱の時代には蒸し羊羹に寒天を加えた練り羊羹が発明され、やがて落雁、饅頭、外郎 (ういろう)、葛餅、求肥 (ぎゅうひ) 、草餅など今日にもおなじみの菓子が登場するようになっていった。
●曲亭馬琴
曲亭馬琴 (1767-1848) は、山東京伝と親しくしてもらい、蔦谷重三郎の下で働いた後、黄表紙作者として売り出し始めていた。三十歳も半ばを過ぎたころ、伊勢参りを思い立って京・大阪にまで足を延ばした。それを記録したのが『羇旅漫録/きりょまんろく』である。目にした珍しきモノどもを仔細に書きつけていて地誌や旅行記として重宝された。京都では清水の縁日で音羽の滝の白糸に因んだ〈しらいと餅〉という挽き餅をねじったものを紹介している。白味噌は甘すぎて口に合わず南禅寺の豆腐は江戸のあわ雪に劣り、祇園の豆腐は真崎の田楽より劣ると述べ、黒糖を使った外郎などは不味いとか上菓子は確かに良いが高価すぎるとか色々クレームをつけているけれど、気に入った菓子が一つだけあってそれが大仏餅だった言う。江戸の羽二重もちに似ていて飴をうちに包んであり、はなはだ美味いと書いていた。糯米 (うるちまい) の粉に砂糖を入れて練った柔らかな餅菓子である。異常に几帳面な性格だった馬琴だが、晩年は失明しながらも『南総里見八犬伝』に心血を注ぎ完成させている。気骨の人であったのは確かだ。
●山東京伝
左 扇屋かなめ・ 傘屋六郎兵衛『米饅頭始』 山東京伝全集 第一巻 ぺりかん社
右 『江戸花京橋名取 山東京伝像』 鳥橋斎栄里 (ちょうきょうさい えいり)
メトロポリタン美術館
浮世絵師としても活躍した山東京伝 (さんとう きょうでん/1761-1816) は馬琴と読本(伝奇的小説集)を巡って競うことになる同時代人だった。安永九年に刊行された第二作が『米饅頭始/よねまんじゅうのはじまり』で、なんと饅頭屋の話が鍵になっている。有徳の町人・正直屋幸兵衛の一子・幸吉は発明に優れ孝行者だったが、腰元のお米 (よね) と良い中になり駆け落ちするものの、借金のカタにお米は提重箱 (さげじゅうばこ) を持って食べ物を売りながらの裏で売色をする堤重に出される。お米は人気があったので妬みを受け、仕方なく吉原に売られることになった。お米を不憫に思う幸吉は待乳山 (まっちやま) の聖天に日参し加護を祈った。息子の行方を案じていた正直屋幸兵衛は、ついにお米を身請けする金子を息子におくり、勘当も解いた。待乳山のふもとに鶴屋という屋号の菓子屋を開き、お米の発案で饅頭を売り出したが、この米饅頭がヒットする。やがて幸吉、お米は正直屋に迎えられ父の幸兵衛は隠居となってハッピーエンドとなった。
この米饅頭は米粉の生地で餡を包んだものらしく形は米粒型だから、やや扁平であったらしい。かしわの葉っぱのないお米の形の柏餅を想像していただければよいだろうか。
さあ、こうしてあんこが登場するようになるのである。
餡 (あん) と小豆
藪光生『和菓子』
あんこは基本的に小豆で作られる。その赤い色から陽の食べ物とされ、邪気を払うと信じられ、ハレの日に食べるのは赤飯などを思い出していただければよい。縄文時代から栽培されている豆だ。開花は一か月から一か月半に及びこの間に子実するために収穫するとしても同じ畑に未熟な豆から熟して乾燥し過ぎてしまったものまで様々であるらしい。それを大きさ品質などが揃えられ出荷されるわけである。北海道産や丹波産が有名で日中と夜間との温度差があることが品質を決める要点であるらしい。ここからは藪光生さんの『和菓子』から適宜プロットしたい。
アズキの豆の表皮にはタンニンやサポニンといった苦み、渋み成分が含まれていて、これが隠し味になるが多すぎるのは味を害する。それで菓子職人は「渋を切る」という作業を行うが、職人さんの個性によってやり方が色々異なるらしい。それが、あんこの味にも影響する。加えて、その年によって小豆の出来は異なるのだがら、それに合わせて渋切りも異なってくるという。
渋切りには、豆を焚いて、沸騰する前に切るか、沸騰後何分で切るか、何度切るかによって味が異なって来るらしい。百人が作れば百の味になるという所以らしいが、普通の私には、そんな微妙な差は分かりません。小豆の主成分は57%が澱粉だけれど、特異な澱粉であるらしい。澱粉粒四~五個をセルロース系の食物繊維が包んでいて、その名も餡粒子と呼ばれている。この餡粒子が口溶けの良さに繋がるのである。ちなみに片栗粉の澱粉などはベトベトになる。
白餡の素材としては白いんげん豆が良く知られていて、なかでも手亡 (てぼう) という種類が有名らしい。他に白小豆、大福 (おおふく) 、福白金時などがある。そして、エンドウ豆はうぐいす餡に、赤豌豆はあんみつや豆大福に使われている。
小豆のあんこ 美味しそう
母への愛・母の味
●頼山陽
頼山陽 (1780-1832)
頼山陽は江戸遊学後、突如、脱藩を企てるも叔父に連れ戻され、廃嫡のうえ自宅監禁の身の上となったが、その頃『日本外史』を書き始めた。謹慎が解かれて後、京都に出奔して私塾を開くことになる。実家は広島藩の儒教の祭祀を司る家柄で、菓子を供するのが習わしだった。父の春水亡き後、母の梅颸 (ばいし) に向けてしばしば、小倉野や羊羹などの菓子を送っていたようで、手紙にはくれぐれもご自分で食べて下さいと書かれていたという (『和菓子を愛した人たち』虎屋文庫) 。心配をかけ続けた母への思いが伝わってくる。
●幸田文
幸田文(1904-1990)
露伴の次女で、やはり優れた作家だった文 (あや) 、その娘さんの青木玉も優れた随筆を残していて、その随筆集『上り坂下り坂』に母の文が作ってくれたおはぎの思い出がある。戦後の甘いものに不自由していた頃、小豆とわずかの砂糖を買ってきてくれた。眺めていたって美味しい思いはできないよと言って笑いながら小豆を水に浸し煮始める。その煮える小豆の甘い匂いは、うっとりするほどで楽しみをいや増した。母の匂いである。ところが糯米 (もちごめ) が手に入らず、水加減はしたものの普通のご飯で作ったのでオムスビに煮豆を付けたようなおはぎになり、爆弾みたいだねと二人して笑い転げた。それは、二度とない母の味だった。(『上り坂下り坂』より「つぶれたおはぎ」)
米粉と砂糖と桜餅
佐藤慶次郎(1927-2009)© UEDA Nobutaka
桜餅には二種類あることを東京に出るまで知らなかった。春に東京で個展をしていた時期が長く、作曲家で造形作家でもあった佐藤慶次郎さんのお宅に遊びに行く時、春なのでよく桜餅を手土産にしていた。すると佐藤さんは必ず「道明寺だな」とおっしゃる。東京には長命寺という桜餅もあったのだ。
大阪の道明寺の「道明寺糒 (ほしい) 」は、もち米を蒸したものを乾燥させたもので携帯用の食べ物として重宝された。それを荒く挽いたものを再度蒸して餡を包んで丸め塩漬けの桜の葉で巻いたものが桜餅になる。一方、長命寺の桜餅は小麦粉や上新粉を水溶きしたものを薄く延ばして焼き、中に餡をいれて桜の葉で包む。
和菓子にとっては米粉も重要である。粳米 (うるちまい) を粉にしたものが上新粉で、柏餅や草餅、団子に使われ、もっと細かなものが上用粉と呼ばれ、薯蕷饅頭 (じょうよまんじゅう) や外郎 (ういろう) になる。これに対して生のもち米を粉にしたものが求肥粉 (ぎゅうひこ) で水を加えてすり潰し乾燥させたものが白玉粉である。求肥や花びら餅、大福もち、あんころ餅などとなる。
そして砂糖であるが、周知のようにサトウキビやサトウダイコンから抽出される。保水能力が高く、生菓子の乾燥を防ぐ働きと共に水分の活性を防止するため雑菌の繁殖を防ぐという優れものだった。実は、砂糖は白いのではなく透明なものなのだ。サトウキビから作られる有名な素材は独特の風味を持つ和三盆糖である。竹糖というサトウキビを搾って煮詰め褐色の白下を作る。それを畳み一畳ほどの舟 (盆) に入れて水を加えて練り、それを袋に入れて再度搾る。これを最低三度繰り返すので三盆と呼ばれた。江戸中期に讃岐や阿波の地で栽培され始めた白砂糖であり、高級な上菓子に使われ、打ち菓子や押しもの菓子の必需品だった。(藪光生『和菓子』)
和菓子は手わざの芸術
photo © UEDA Nobutaka
「洋菓子は積み上げるもの、和菓子は包むもの」と藪光生さんは言っておられるが和菓子の精巧さとその美しさは、時として食べてしまうのが惜しいと思わせるほどだ。その主役は、やはり「練切 (ねりきり) 」だろうか。白餡に蒸した薯蕷 (じょうよ/粳米を洗って乾燥させ粉にしたもの) や求肥 (ぎゅうひ/白玉粉などに砂糖・水飴を加え練りかためたもの) を加えて煉りこんだ練切餡を細工して作るもので、極めて巧緻な造詣が可能な素材のようだ。その極致は、はさみ菊だろう。練切の表面を和ばさみを使って完全に切り取ることなく少しずつ切って立ち上げていくのである。
今回、ご紹介する三堀純一 (みつぼり じゅんいち) さんの作品は、その手わざの精華と言える。三堀さんは菓子司いづみやの三代目で、菓道家として知られる人だ。はさみ菊ではなく、はさみの先が針状になっているので針切菊と呼ばれている。これは素晴らしいという他なく芸術作品そのものと言えよう。快く作品の掲載を許可していただいた。この場をお借りしてお礼を申し上げたい。
三堀純一 練切 針切り菊 © MITSUBORI Junichi
三堀純一 練切 針切り菊 © MITSUBORI Junichi
小説家を支える甘いものたち
●芥川龍之介と池波正太郎のしるこ
久保田万太郎がしるこのことを書いていて、芥川龍之介もまた、そのことを書いてみたいと思ったという。震災後、東京の汁粉屋・梅園や竹むらのような老舗が次第になくなりカフェだらけになったと嘆いている。それも広小路の常盤の汁粉に匹敵するほどのコーヒーが飲めるのなら、まだ我慢もできるという分けである。自分はペンを持ったまま、クラブで汁粉を啜りながらチャップリンの話をするニューヨーク子やカフェでやはり汁粉を啜るパリジャンの画家を思い描いている。そんな自分は暇人に違いないと結構自虐的だ。(『芥川全集第五巻』岩波書店)
池波正太郎の小説には色々な料理が登場するのでご存じの方も多いだろう。その代表作、鬼平犯科帳には火付け盗賊改方の同心である木村忠吾が足袋屋善四郎の娘お雪と新堀端の汁粉屋・松月庵であいびきするシーンがある。奥座敷で忠吾は桃の花びらのようなお雪の唇を奪い、固く張ったむすめの乳房をまさぐるという艶な場面なのだけれど、江戸の頃には一部に、いわゆる茶屋を兼ねた汁粉屋もあった風なのである。
ともあれ、戦前までの東京の汁粉屋には独特の洗練された風情があったらしい。東京の汁粉は関西ではぜんざいと呼ばれるが、東京のぜんざい (汁なし汁粉) は熱い小豆餡をこってり盛った上に栗などをあしらったもので池波正太郎の好物だった。酒を飲んだ後の神田の竹むらでの栗ぜんざいは格別だったという。こういった処は女性客でごった返していて若い頃には身を縮めながら食べ、食べ終わると脱兎のごとく店を飛び出したらしい。(『むかしの味』)
杉田淳子+武藤正人 編『ずっしりあんこ』
芥川龍之介と池波正太郎の汁粉についてはこちらからご紹介させていただいた。
●絶賛 ! 饅頭茶漬け 森謳外
森鴎外(1862-1922)
どうも小説家の中には甘いもの大好きという人も少なく無いようで、勿論両刀使いという作家も結構いるだろう。甘いものは発想の源なのか、体力回復の秘薬なんだろうか。びっくりしたのは森鴎外で、饅頭茶漬けが大好きだったという‥‥本当か ? それは食べれるのか ? ‥‥。長女の森茉莉は、やはり優れた小説家だったが、彼女によれば、父の鴎外は、象牙色で爪の白い綺麗な掌で二つに割り奥さんに煎茶を入れてもらったのを注いで美味しそうに食べていたという (『和菓子を愛した人たち』虎屋文庫) 。
饅頭茶漬け © UEDA Nobutaka
ものは試しだ。手近な吾作饅頭でやってみた。煎茶の味は冒頭でご紹介した三癸亭賣茶流の島村さんの煎茶会で覚えた。二つに割り、それをかけて一口 ‥‥‥‥‥あんこが煎茶にサラサラと溶け出しさわやかなハーモニーを奏で、饅頭の薄皮が麩のように柔らかになり、その間をご飯粒が流れ通ってゆく。これは、いける ! 黒い水の面 (おもて) をすべる『高瀬舟』を思い出したが、こちらは心得違いを犯した罪人を送る舟である。鴎外が食べていたのは薄紫色の餡が入った大きな葬式饅頭だったというから‥‥ 何か意味ありげのような ‥‥‥ 一つ忠告があります。この茶漬けをけっして大福餅でやってはいけません‥‥ 悪しからず。
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