第16話 ブルーノ・シュルツ『ブルーノ・シュルツ全集』変身する父と無数の仮面

『ブルーノ・シュルツ全集 1』

『ブルーノ・シュルツ全集 1』
創作編・評論編 工藤幸雄 訳 新潮社 1998年刊

 
 「ダークなビジュアル・イメージで世界中の映像ファン、アート・ファンを虜にする、一卵性双生児のアニメーション作家スティーヴンとティモシー、二人のブラザーズ・クエイによる短編作品集」‥‥と銘打たれた映像集を見ました。纏めてみたのは初めてでした。前回は、クレア・キッソン 『話の話』の話でロシアの伝説的なアニメーターであるユーリー・ノルシュテインについてご紹介しました。今回は、コマ撮りの人形アニメーションで知られるクエイ兄弟の作品『大鰐通り』を契機として、その原作者であるブルーノ・シュルツとその作品についてご紹介しましょう。


ブラザーズ・クエイ『大鰐通り』 一部

 2017年に渋谷の松濤美術館や鎌倉の近代美術館でクエイ兄弟の作品が紹介されたので、ご覧になった方も多いのではないかと思います。彼らの作品群の中でも今回、ご紹介するブルーノ・シュルツ原作の『大鰐通り』は傑作と言っていいでしょう。この映像は美しいと思います。しかし、原作者のブルーノ・シュルツ、どんな人なんでしょうね。


原作者 ブルーノ・シュルツ


ブルーノ・シュルツ(1892-1942

ブルーノ・シュルツ(1892-1942)

 
 ブルーノ・シュルツは1892年、ポーランドの南東部 (現ウクライナ) ドロホビィチにユダヤ人の両親のもとに生まれました。イギリスでは J.R.R.トールキンが生まれた年です。服地屋を取り仕切る父ヤコブは、妻のヘンリエッタの名を店の看板に掲げていた。父親が46歳の時の子供で、幼児の記憶に残る父は苦行者のようにやせ細り、背中が丸く、白髪交じりの顎ひげを生やし、薄暗い店の奥に白々と見える姿だったという。クエイ兄弟はこの父親のイメージを巧みに人形に投影しています。父親は「哲学者商人」「目立って冗談好きなインテリ」「絵心のある夢想家」として知られていた。彼は、その父を偶像のように敬っていました。普通の父親ではなかったことは確かです。


ドロホビィチ市街 リヴィウの南西にある都市。ポーランドやスロバキアとの国境に近い。


 長兄イズィドルとは11歳離れた末っ子で、それに姉のハンナがいました。一家はユダヤ社会に属してはいても家庭ではポーランド語を使い、先祖伝来のドイツ語に近いイディシュ語は使わなかった。家族の反対から美術学校には進めず、理工科大学の建築学科で学んだが、画家への夢は捨てきれませんでした。第一次大戦中、兄の計らいによるものと思われますがウィーンに避難し、ウィーン工科大学の建築科に所属していた。1915年にはドロホビィチに戻っています。その年、ブルーノが23歳の年、彼と同じく病身痩躯で、不安に駆られ神経過敏になりやすく、結核の上に癌を病んでいた父が亡くなります。

 戸主を失い、戦火で店舗も失ったシュルツ家は、ルブフ(リヴィウ/現ウクライナ)にある石油会社の支配人であった長男に経済的に負うことになるが、ブルーノも1924年、32歳の時、国立ドロホヴィチ高等中学校の契約教員となり絵画を教え、やがて工作を教えるようになる。宮沢賢治の『春と修羅』、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』、トーマス・マンの『魔の山』などが発表された年ですね。繊細で控えめなシュルツにとって教職は、執筆との板挟みをともなって、しばしば苦痛となります。それで、長期休暇の申請を繰り返している。しかし、経済的柱であった兄も1935年に心臓病で急死する。ブルーノは母と精神を病んだ姉とその息子、兄の家族の生活を支えなくてはならなくなるのです。




『大鰐通り』に登場する父


 クエイ・ブラザーズのアニメ作品『大鰐通り』ですが、こんな感じで始まります。錆びた歯車に油を注すように機械仕掛けの装置へ人によって唾が落とされる。すると、再びのその人形芝居が開始されます。埃が積もった床からネジたちが自動回転して捻じれ上がり、床に倒れてゾロゾロと移動し始める。この感覚は、子供の頃、セルロイドの下敷をこすって頭の上に持ってくるとフワ~と髪の毛が逆立っていったあの感じに近いのかもしれません。最後に語られるポーランド語と思われるナレーションの響きが如何にも美しかった。シュルツの文章が引用されている。この作品には原作があることを知ったのです。


ドロホビィチの大鰐通り


 クエイ兄弟の作品『大鰐通り』は、15章からなるシュルツの原作『肉桂色の店』(1934年刊、英訳のタイトルは『大鰐通り』) のいくつかの場面からインスパイアーされて作られています。上にご紹介した動画は、この作品のほんの一部ですが、その場面は『肉桂色の店』の第四章「マネキン人形」をもとに創られたのではないかと思われます。その原作を端緒としてクエイ兄弟独自のイメージが横溢していく。登場人物は、家政婦アデラとお針女のポルダとパウリナたちで、衣装を着せるのは黒い木の球を首代わりにつけた麻屑と布でできた貴婦人のマネキンでしたが、クエイ兄弟の作品では初老の服地屋の主人=父親に仮託される人物です。お針女たちに寄ってたかって変身させられている。原作は、こんな風です。長くなって恐縮ですが、ご紹介しましょう。

 「父がマネキン人形という言葉を口にしたそのときであった、アデラは腕環についた時計に目をやり、それからポルダに目くばせで合図した。次に彼女は椅子ごと一歩前にせり出すと服の裾を捲 (まく)って、そろそろと足先を現してゆき、黒い絹にぴっちりと包まれた足首を蛇の頭のように伸ばした。‥‥こうして彼女は堅苦しい姿勢を保ったまま、アトロピン(ベラドンナから採れ、瞳孔を広げる作用のある有機化合物)の藍色で深さを増した大きな瞬きする目を据えて、まる一時間ポルダとパウリナに挟まれて坐りつづけた。‥‥霊感に駆られた異端者、めったに熱狂の嵐から逃れ出ることのない父が、とつぜん自分のなかに引っ込み、沈み、たたみ込まれた。‥‥突き出したアデラの片足の靴が小刻みに震え、蛇の舌のようにちらちらとした。父は伏し目のままゆっくりと立ち上がり、機械人形のような一歩を踏み出し、それから跪いた。ランプが静寂のなかでSの音を響かせ、壁紙の茂みのなかには、往きつ戻りつ物いう視線が走り、毒を含んだ舌の囁き、思考のジグザグが飛び交った‥‥(『肉桂色の店』より「マネキン人形論あるいは創世記第二の書」工藤幸雄 訳)


父は変身する


 シュルツの作品群の中で、父親は変幻自在なイメージに変容していきます。息子は、ある夜、魔物が父の身体に入り込むのを聞きます。ベッドから起き上がると預言者のごとき怒りによって、ひょろ高い長身へと変貌し、割れるような声で機関銃のような言葉を浴びせる父がいました。時には、発酵の結果生じる内部構造を持たないようなコロイド類、それらから成る疑似動植物となっていく。そこにいたのは、見かけの上で脊椎動物、甲殻類、節足動物に似た、スライムのように無定形でありながら、一たび形態を付与されれば、それを記憶する形状記憶合金のような存在なのです。それらを空想の中で自由に編み出す父でした。これはカフカの『変身』を思い浮かべないわけにはいきません。

1923年のフランツ・カフカ

フランツ・カフカ(1883-1924)


 父の変身は妄想を伴いながら広がっていきます。『肉桂色の店』では、従兄弟の一人が不治の長患いの末、姿を変え、徐々に一巻きのゴム管になると従姉は冬、いつとも果てない子守唄を歌い続ける。そんなことを語る父に我慢ならない女中のアデラは、近寄るなり指一本たてて、くすぐる意味の仕草をすると、父は、狼狽し沈黙し、恐怖に怯え、彼女の揺り動かされる指の前からあとずさりし、部屋から逃げ出してゆく。

 あの黒い群れの洪水、身の毛もよだつジグザグを描いて床を突っ走る恐慌の野放図な妄想。ドン・キホーテのように手に投げ槍を握りしめ、椅子から椅子へと飛び移りながら威嚇の声を上げ、油虫の大群に口の周りを嫌悪の痙攣に歪めながら発狂する父。やがて奇怪な祭儀を思わせる節足動物の複雑な運動をみせて油虫に変身してゆきます。ちなみに、ポーランドやウクライナに油虫がいるかどうかは僕は知らないのですが、寒さの関係かウィーンにはいなかった。しかしロシアの文学には油虫は登場しますね。


 そして、『砂時計の下のサナトリウム』における「父の最後の逃亡」の章では、家が経済的に破綻した年、ザリガニかサソリのような甲殻類に変身した父は、あらたな遠近法から家の様子を窺っていた。昼間は家中を歩き回り、ドアの隙間からハサミと脚を差し入れ、無理やり体を平らにしてドアの下をくぐって部屋に入り込むことを覚えた。そして、宿命と言えるのか、やり切れない気持ちをあえて振り払って息子は母に問うた。「まさか‥‥母さんが‥‥」父は皿に載せられて運び込まれていた。このオチは壮絶ですね。


カフカとシュルツ


 フランツ・カフカの『変身』が「ディ・ヴァイセン・ブレッター」誌に発表された1915年は、奇しくもシュルツの父が亡くなった年です。カフカが実利的な父親に対して反感しか持てなかったのとは対照的にシュルツの父は、作品を書くうえで極めて重要なファクターとなるほどの磁力とオーラを持っていた。

 シュルツは、1936年にカフカの『審判』に関する書評を書いていますが、その前年にカフカの全集が出版され始めます (刊行は中断された)。このカフカ作品に対する極めて早い反応は、訳者の工藤氏が述べているように、ユダヤ人の血に根差し不条理な世界に新しい創作を求めた両作家の資質と彼らが生きたオーストリア・ハンガリー帝国という同じ文化圏に属する者の共感のなせるわざなのでしょう。しかし、カフカの『変身』とシュルツの『肉桂色の店』に登場する父の変身とは設定がかなり異なります。


 カフカの『変身』一、二章で、グレゴール・ザムザは、一人称で語るのですが、彼の心の中にあるものは、一介のサラ―リーマンが不慮の出来事で仕事に遅れるという焦りと仕事を失い一家の経済を破綻させるのではないかという恐怖でした。南京虫か、甲虫になるという奇想は、身体が不条理というものに化けるという設定へ結びついています。三章では三人称の語りとなり、気味悪がりながらおっかなびっくりの愛情をこめて世話していた妹も、気遣いが裏目に出る母も、怪物から家族を守ろうとする父も、お手伝いという第三者の登場によってか、家族のお荷物となるグレゴールの死を安堵をもって迎えると結末になっていく。ここには、内面世界と外界世界との衝突によって軋む人間のモラルが浮き彫りにされる。この設定は、現代にも痛烈に響きます。

 父親は、シュルツ家の家庭内叙事詩の重要な登場人物です。そこには第一次大戦もナチスの胎動も登場しません。店にあった「紙製の模造品や棚ざらしの去年の古新聞からの切り抜きを貼り合わせたモンタージュ写真」のような現実から移し替えられたりアイロニカルな神話です。シュルツは自分の家庭を題材としながらも、その現実から魔術的変容によって逃れ出ようとする生命実体としての父を描きました。彼はカフカへの評論でこう述べる。「‥‥これらの認識、観察、究明は、彼の独占する財産ではなく、あらゆる時代と諸民族の神秘思想――それはつねに主観的で偶然的な言葉、ある共同体と秘教的流派の型どおりの言葉で伝えた――の共通の遺産である」と。あらゆる時代と諸民族の神秘思想という言葉が、実はそのまま自身の作品へ当てはまってしてしまうのです。


 彼は現実が、ある形を装うのは、もっぱら見せかけ、冗談か遊びと考えていた。誰かは人間で、誰かは油虫だったのです。それは、かりそめに受け入れられた役割であり、仮面のように脱ぎ捨てられるものでした。すべては自分の限界を超えた外へと拡散し、ほんの一瞬、ある形を保つだけで、隙あらばそこから脱出しようとする神秘の生命でした。楽屋に戻った役者が、衣装を脱ぎ捨てて、われと我が役をあざ笑うのと同じだと彼は言います(1935年『公開書簡』)。そこにはある種の笑いの原理や復活とユートピアが開示されていきます。


画家への思慕


 シュルツは画家になりたかった。幼い頃、床に座って次々と絵を描いて周りを感嘆させた少年は、28歳になっていた。その1920年頃からガラス陰画と呼ばれる技法で『偶像賛美の書』というシリーズを制作している。ガラスに黒色のゼラチンを塗り、その塗布した膜をニードルで引っ掻いて絵を描き、写真の感光紙を重ねて光を当て、現像するというものです。


ブルーノ・シュルツ『自画像』 1920-1922 ガラス版画

 カリカチュアの系譜にあることは間違いない。自画像の右端とかを見るとゴヤのタッチを彷彿させる。フェリシアン・ロップスのポルノグラフィを思わせるものもありますが、ロップスほどには過激ではなさそうです。ガラス版画の『鞭を持つ女』はマゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』の挿絵と考えられている。同時代の作家ならオットー・ディクスやジョージ・グロスに近いでしょうか。同じポーランドのクラクフ出身であるモイズ・キスリングに対抗心や羨望はあったでしょう。パリに伝手を探し求めようとしたこともあった。絵画の教師として教壇に立ってもその夢は捨てていなかったようです。


ブルーノ・シュルツ『出会い』1920-1921



開かれていく両極性の文学


 しかし、シュルツは文学の方面において注目されはじめていきます。41歳、1933年頃『肉桂色の店』が刊行され、4年後の1937年『砂時計の下のサナトリウム』が出版されました。ポーランドの批評家エヴァ・クリークルはシュルツの芸術を格調高く謳いあげています。シュルツは、ヨーロッパ文学の地下水脈を流れる闇なるもの、外典的なもの、異端的なものを手法としてきた奇矯なアウトサイダー、夢想家の一人であると断定します。ダンテの天国は地獄の滑稽な描写に補完され、シェークスピアでは悲劇のあとに卑猥な冗談が流れ、ダ・ヴィンチの醜怪な男の頭部は聖母像とコントラストを画し、ジャック・カロは喜劇コメディア・デラルテの風刺画を描いた。そのように、彼の作品もまた、文明の奥に潜む異常、愚劣、残酷さを暴き出すというのです。



 開明的エリート、純粋理性の高みに舞い上がろうとする芸術は、原始的な過去という泥沼に浸り暗黒の洞窟に永遠に閉ざされた芸術と並置されるべきだとクリークルは述べるのです。比較的少数のラブレーのような作家やボス、アルチンボルド、ビアズリーのような画家がグロテスクの手法に携わったというクリークルの指摘は鋭いですね。それは、普通言う意味のグロテスクではなく、ミハイル・バフチンの言うグロテスクです。バフチンは、グロテスクを大衆的な笑いの原理とし、物質的生活や肉体的な原理を排除しませんでした。グロテスクは、アンビヴァレントな価値を併せ持つ両極性と再生と復活のユートピア性を持つと規定し、宗教の厳格性や学問の抽象性をこととするお堅い文学と対抗させました。


ミハイル・バフチン(1895-1975)
間テクスト性の端緒を開いたロシアの思想家


 そして、クリークルは自分たちの時代は全体主義の時代だったと喝破します。ファシズム、ナチズム、コミュニズムのイデオロギーは、科学的ないしエセ科学的傾向に、善と悪との宗教的二元論と古色蒼然たるメシアニズムを抱き合わせにした。地球の表面から劣等種族や劣等階級といった人類の一切悪を抹消し、究極の楽園を目指すという新たな黙示録的な「啓示」は、空前の堕落退廃をもたらし、数百万人が隷属に置かれ、油虫のように撲殺されたという。国という国が幼児化し、新たな暴政はありとあらゆるものの品質を低下させ、個人間、社会間に野獣性をもたらしたと断言するのです。シュルツの壮年時代は、そんな暗黒に塗りつぶされていったのでした。


戦争がやって来る


 戦争がやって来ます。ドロホビィチはソ連の赤軍によって占領されます。かつて同じオーストリア・ハンガリー帝国の東端であったチェルノヴィッツ(チェルニウツィー/現ウクライナ)とまるで判を押したように同じ運命をたどるのです。そこはパウル・ツェランの故郷だった。次いで1941年、ドロホビィチをナチス・ドイツが占領する。シュルツ一家はゲットーへ強制的に立ち退かされました。


ドロホビィチのゲットーを記念する壁


 翌年、シュルツはドロホビィチのユダヤ人評議会の指示でゲシュタポ所属の図書館で働けるようになる。イエズス会の蔵書をカタログに残して保存するか廃棄処分にするかを仕分ける作業でした。絵描きとして奉仕させられることもあったようですが、強制労働に比較すれば楽な作業だったでしょう。ワルシャワへの脱出の話もあったのに踏み切れず先延ばしにしていた。家族や自分の作品をどうするかを気に病んでいたようです。同じ図書館で働いていたルボヴィェツキは手紙にシュルツの最後をこう書いている。

それは、1942年の「黒い木曜日」と呼ばれる日だった。私たち二人はたまたま食料の買い出しのためにゲットー内にいた。突然、銃声が鳴り響き、逃げ惑うユダヤ人たちを見た。私たちも急いで逃げたが、体力の弱っていたシュルツはゲシュタポの一人に追いつかれ、頭に二発の弾丸を撃ち込まれた(『ブルーノ・シュルツ全集 2』)



 自分の作品を分散して人に預け、家族を気遣いながらゲットーで非業の死を遂げたシュルツ。彼は、リルケやトーマス・マンの著作を愛していた。とりわけ、マンの作品を智と夢の純乎としたエッセンス、至賢の言葉で捉えた非合理性(夢)と称えました。そのシュルツの言葉を最後にご紹介して終わります。訳も素晴らしい。

 「書物」‥‥‥どこか幼年時代の暁、人生そのものの明け方に、この「書物」の優しい光に地平が明るんだのだった。それは栄光に満ちて父の事務机の上に載っていた。黙ってその本に見入りながら父が、唾をつけた一本指であれらの写し絵の背を丹念にこすりつけているうちに、やがて盲目の紙片は靄 (もや) を帯び、薄くぼやけ始め、甘味な予感によって微光を放ち出し、にわかに薄紙のけばだちが剥げ落ちると、紙は孔雀の羽の玉模様を思わせる睫毛のある片影をわずかに覗かせた、すると視覚は失神しかけながら、神々しい色合いのけがれ知らぬ夜明けのなかへ、純潔の藍色の奇蹟の湿りのなかへ降りていった(『砂時計の下のサナトリウム』から「書物」工藤幸雄 訳)

2020年10月の投稿を加筆・編集しました。




夜稿百話

ブルーノ・シュルツ 著作

『ブルーノ・シュルツ全集 1』

『ブルーノ・シュルツ全集 1』

『ブルーノ・シュルツ全集 2』
創作編・評論編 工藤幸雄 訳 新潮社
関連図書


加藤有子『ブルーノ・シュルツ』

シュルツの本格的な評伝。絵画に関する第一章、絵画から文学へと移行を語る第二章、物語としての文学を述べる第三章という三部構成になっている。

画家で作家でもあったスタニスワフ・ヴィトキェーヴィチ宛の書簡が掲載されているので一部をご紹介します。
「決定的な意味を持つある種の諸イメージに、幼年期の僕たちがどのようにしてたどり着くのかはわからない。こうしたイメージが溶液の中に浸された細い糸のような役割を果たし、ぼくらにとっての世界の意味はその糸の周りに結晶していく。」


加藤有子編『ブルーノ・シュルツの世界』

絵画作品が割と多く収載されていて有り難い。加藤有子の他、ブルーノ・シュルツ全集を手がけた工藤幸雄、比較文学の西成彦、『シュヴァンクマイエルの世界』の赤塚若樹、ロシア・ポーランド文学の沼野充義らが執筆している。


デボラ・フォーゲル『アカシアは花咲く』

この著作にシュルツは書評を書いている。「本書のボール紙製の宇宙を俳諧する顔のないマネキンたちを使って、作者は女性の心に生じる凡庸な出来事を要約し、どこにでもある良く知られたことのように、通りに流れるヒットソングのルフラン (リフレイン) のように、括弧つきでまとめる。それは、「砕けたこころ」や「逃してしまった運命」や「その記憶と共に生きるのは到底不可能であり、すっぱり忘れてしまいたい、だめになった幸せの問題」、「逃してしまった運命」、「うまくいかなかった恋」、「まだどんなことも起こりうる生を待つこと」、「到来しうるものそのもの」に対する諦念からの同意の物語だ。すべてのうえには、用意万端の不動の物事を基盤とする世界の悲劇的単調さがある(「書評 デボラ・フォーゲル 『アカシアは花咲く』」より)。『肉桂色の店』に似ているという一部の評価は、誤りだとしている。

ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』

「フランスの地方には、婚礼の祝の席でお互いを冗談めかして軽くこぶしで殴り合うという『二股手袋の婚礼』という風習があったが、この殴り合いは陽気な性格を持ち、笑いで始まり、笑いで終わる。法院族は道化としての王の役割が与えられ、打擲と嘲罵が加えられる。そうされながらも祝福される矛盾した存在となる。ここではアヴィニヨンのカーニバルが想起されているが、肉体の分断、それも解剖学的、カーニバル的、料理的、医術的な寸断がなされている。しかし、殴られる者は葡萄酒で赤く染められ、彩り豊かに飾られる。このような祝祭的なイメージ体系には、けっして絶対的な否定はない。矛盾する統一体の中で生成の両極が捉えられるのである。(本書より)。」

ブルーノ・シュルツ『砂時計の下のサナトリウム』挿絵



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