聞け 嫋々 (じょうじょう) たるこの葦笛の語る言葉を
葦笛はしめやかに別れの愁いを語る
「根を切られ、故郷の川辺に分れを告げてきて以来、啜り泣く私の音色に、そも幾人の男、そも幾人の女が涙に咽んだことか」と葦笛の歌は語り出す。
ああ、独り寝のやるせなさに
その胸を千々に裂かれた人に逢いたい
わたしの胸に燃える恋慕 (こころ) をその人に
せめて語って聞かせうものを
(詩集『精神的マスナウィー』井筒俊彦 訳)
とルーミーは詠った。詩歌が百花繚乱と咲き、その芳香が馥郁と漂う国ペルシア。畢生の詩人、ルーミー (1207-1273) とハーフィズ (1325-1390) の生まれた国である。そして、そこはイスラム神秘主義であるスーフィズムの中心地であった。
今回の夜稿百話は、神韻と言祝がれた『シャムス・タブリージィー詩集』や〈ぺルシア語のコーラン〉とさえ呼ばれた詩集『精神的マスナウィー』を書き上げ、神学・スコラ学の権威でありながらスーフィズムの最高峰としての名声を博したルーミーの言行録『ルーミー語録』をご紹介する。
本書のご紹介に当たっては、その訳者である井筒俊彦さんの『ルーミー語録解説』に負うところが大きい。例えば、ルーミーの語源だけれど、〈ルームの人〉を指し、ローマ、すなわち東ローマ帝国を意味する言葉でもあり、ビザンチン文化の中心地としての小アジアを示唆する。ちなみに、半世紀後、この小アジアにオスマン・ガージィ (1258-1326) がオスマン帝国の礎を築いていくことになる。
ジャラール・ッ・ディーン・ムハンマド・ルーミー
主人公、ジャラール・ッ・ディーン・ムハンマド・ルーミーは、1207年ペルシアのホラーサーン地方、現在のアフガニスタンの北部にあるバルフに生まれた。学問、宗教といった叡智の一大中心地、当時のイスラム文化の主導的役割を果たしていた都市と言われるが、蒙古の襲来を目前に控えて物情騒然たる時代を迎えようとしていた。父親のバハーウ・ッ・ディーン・ワラドは「学人のスルターン」と呼ばれるバルフ屈指の顕学であり神秘家であった。しかし、クブラ―教派とハ―リズム・シャーとの政治的対立が深まっていくに及んでバルフを去った。ルーミーが12歳の頃である。
二ーシャープ―ル、バクダード、メッカと続いた10年間の旅は現トルコのコンヤ (コ二ヤ) の地で終わりを迎えた。1229年、アナトリアの君主であったセルジュク朝のカイコバートの招きの応じたのである。父のバハーウ・ッ・ディーンは第一級の神秘家であり、コンヤの地で顕学のスーフィー (イスラムの神秘家) として尊崇を受けたが、息子にはコーラン学、伝承学、神学、哲学、法学といった顕教に関わる学問を徹底的に教えるだけだった。その父もルーミーが24歳の時に亡くなってしまう。その教育の成果は彼を回教法の権威となさしめた。
コンヤの墓地で説教するルーミーの父
コンヤ市街遠望 トルコ
ルーミーをスーフィズムに招き入れたのは、父の弟子であったブルハーヌ・ッ・ディーン・ムハキックだったと言われる。この師に就いて9年間修業することになる。この間にアレッポやダマスカスでも学んだ。この師のことは『ルーミー語録』にも何度か紹介されている。
ブルハーヌ・ッ・ディーン師が有益な話をされている最中に一人の愚か者が「わしらは、譬えなしの話が聞きたい」と言い出す。師は「これそこな〈譬えなし〉のやつ、こっちへ来て、〈譬えなし〉の話を聞け」と言われ、こう続けた。お前が自分と思い込んでいるものは本当のお前ではない。人が死ねば「誰それさんは逝ってしまった」と言う。もし、身体がその人なら、何処かに行ってしまうのはおかしいではないか。お前の外側はお前の内側の譬えに過ぎない。(『ルーミー語録 61』 井筒俊彦 訳)
ブルハーヌ・ッ・ディーン師が亡くなった1241年頃には、ルーミーは既に名声高い師と仰がれ、顕教の講義には400人の弟子が集い、選ばれた少数の弟子には神秘道も教えたが、意外なことに詩とは全く無縁だったと言われる。
放浪の師 シャムス・ッ・タブリーズィーとの邂逅
1244年、漂泊の托鉢僧シャムス・ッ・ディーン・タブリージィーがコンヤにやって来た。ルーミーは、慧可のように腕は切らなかったが、奴隷のようにか恋人に対するかのように、全てを擲って足下にひれ伏し、師と仰いだ。かの人は、生涯無一物、飄逸無辺、魁夷無類なる放浪僧であったが、ルーミーにとって天の配剤であり、その詩心に火をつけたのは彼である。
シャムスのために全く顧みられず、ほったらかされた弟子たちは不満を募らせ、敵対的になり、一時、彼はコンヤから姿を消すが、ルーミーはダマスカスにいることをつきとめて息子を差し向けてシャムスを再度コンヤに招来した。だが、またも姿を消し、ルーミー自身がダマスカスまで探しに出向いたけれど、その行へは杳として知れなかったという。シャムスとの出会いは、ルーミーに深遠な脱自体験をもたらした。それを詩という形で表現することを学び『シャムス・ダブリーズィー』詩集という流麗な神韻の宝庫を生み出し、独特の音楽と〈円舞の托鉢僧団〉であるマウラウィー (メウレウィ―) 教団を成立させる契機となさしめたのである。
太陽が昇るころ 旋回するたくさんの小さな塵と
大きく旋回する一者の存在
わたしたちの魂は あなたとともに踊っている
足はなくとも塵は踊っている
‥‥
(『ルーミー愛の詩』コールマン・バークス英訳 あらかみ さんぞう邦訳)
ダルヴィーシュ・ダンス コンヤ
ダルヴィーシュはスーフィーの修行僧を指す言葉
マウラウィー (メウレウィ―) 教団のダルヴィーシュ・ダンス
ルーミーが弟子たちと市場を通り過ぎようとしていた時、見知らぬ男がルーミーに突然、こう問いかけた。「ムハンマドとバスターミー、どちらが優れているのか ? 」バーヤズィード・バスターミー( ? 〜874)は、「合一の肉体と永遠の翼を持った鳥」と自らを例え、神との究極的な融合を説いたスーフィーだった。これに対してルーミーは即座に「ムハンマドです」と答えた。その男は更に問うた。「バスターミーは『私は私を讃えよう ! 』と言い、ムハンマドは『神よ、私はあなたを称賛してもしきれないほど無価値です ! 』と言ったが、どうか ? 」
それは神学の問いではないことは明らかだった。それを聞いたルーミーは、意識を失ってばったりと地に落ちた。意識が回復した時、ルーミーは、その男に答えた。「バスターミーは、神の知識の一つを得て、それが全てだと思い込んだ。しかし、神の偉大さは、ムハンマドにとって絶え間なく開かれ続けたのです」と。この見知らぬ男こそシャムス・タブリージィーだったのである。(『ルーミー愛の詩』コールマン・バークス英訳・解説 あらかみ さんぞう邦訳)
この二つの立場は、スーフィズムを二分する問題だった。
シャムス・タブリージィー (左) とロバに乗るルーミー (中央) との出会い
ムハンマド・タヒル・スフラヴァルディ
16世紀末から17世紀初頭 トプカピ宮殿博物館
『ルーミー語録』
『ルーミー語録』写本
ブラチスラヴァ大学図書館
『ルーミー語録』の原題は、『フィーヒ・マー・フィーヒ』であり「その中 (フィーヒ) には、その中にあるところのものがある (マー・フィーヒ)」という意味であるらしい。なにか曰くありげだが、要するに何でもありの雑談を門弟たちが聞き書きし編集したもので、一部にアラビア語で書かれた部分もあるけれど、ほとんどがペルシア語で書かれた散文である。神事であれ俗事であれ、彼の頭脳は敏速に反応し、その意識のカーソルは融通無碍、天衣無縫、鮮明な形象的言語となって奔出するという。
その話題は、預言者ムハンマドや聖者の言行は当然として、神の世界を映し出す天体観測儀、乙女の色鮮やかな綾衣の功罪、宰相や王族・摂政といった人物の値踏み、イエスはよく笑いヨハネがよく泣いたこと、薬物商の計量と人の器量の話、恋の情熱への消融、全宇宙の煌光と目の中の光、禿げ頭の薬売りバアルベックと神の行商人、生物には三つあり天使と禽獣と哀れな人間といった話題から、自身の周辺の人物評、娯楽、服飾、占いなど多様な話題に及んでいて、かなりなウィトもある。孤雲懐奘は『正法眼蔵随聞記』を書き、ヴィタールがカバリストの師であるルーリアの言行録『八つの門』を書いた。同じ師の言行録といっても、内容は、もっとザックバランなもので、こんな具合だった。
屋根の上に立っている駱駝すら見えないやつが、「針の穴がみえました、ちゃんと糸をとおしました」などと言う。 (『ルーミー語録』20 井筒俊彦 訳)
「自分のお袋をお前なぜ殺した。」
「よからぬことを目にしたからだ。」
「相手の男を殺してやればよかったじゃないか。」
「でもそんなことをしていたら、毎日一人ずつころさなきゃならなかったろうよ。」
どんなことが起ころうと、己れ自身を責めるがよい、そうすれば毎日誰かと喧嘩することもなくて済む。(『ルーミー語録』40 井筒俊彦 訳)
ムスリムにとって大切なムハンマドの聖典には神の啓示を集めたクルアーンと彼の言行録であるハディースとがあり、ハディースには、かなり細かな信徒の日常に関する規定がある。したがってルーミーの言行録にも日常の世話事が多々見られるということなのだろう。
哲学と神秘主義が手を携える時代
(ラテン語名 アヴィセンナ)
(ラテン語名 アヴェロイス)
スコラ的伝統を中心としたギリシア思想をヨーロッパへ伝えるという意味でのイスラム哲学はイブン・スィーナ― (ラテン語名 アヴィセンナ/980-1037) とイブン・ルシュド (ラテン語名 アヴェイロス/1126-1198) をもって思想的頂点を極めることになる。二人の違いは、イブン・ルシュドが純粋にアリストテレス主義者だったのに対して、イブン・スィーナは新プラトン主義的な傾向を持ち、スーフィーにも関心を持っていたと言われる。確かに、彼ら以降、キリスト教世界への影響力は終りを迎えた。しかし、12世紀後半から17世紀の半ばに至る時期に画期的な現象を呈し始める。とりわけ、15世紀末のサファウィー朝ペルシアが全土を統一し、イスパハーンを首都と定めて以来、イスラム哲学はペルシアの独壇場となると言われる。
16世紀
この端緒となる12世紀末、偉大な二人の神秘主義哲学者が登場した。イブン・アラビー (1165-1240) とアル・スフラワルディー (1154頃-1191) である。アラビーはイベリア半島のアンダルシア出身のアラブ人であり、スフワルディーはイラン北西部のスフラワルド出身でペルシア人であった。この東西を隔てた対照的な二人によって、それまで別々の系統であり、時に対立しながら発展してきた哲学と神秘主義が合一されることになる。ここに神秘主義哲学 (イルファーン) が誕生するのである。
スフラワルディーには一切の他者を明るみにもたらす〈光〉の神秘実体験があり、その唯一絶対の真実在を理性的に分析し思索していった。秘儀の実体験はなくてはならず、真理探究者としての理性もなくてはならない。
イブン・アラビーにおいては、スフラワルディーの〈光〉にあたるものが「純粋存在」、「玄の玄」、「不可知」と呼ばれるものだった。〈宇宙の零点からあらゆる方向に拡散し、様々に自己を限定し、変貌しながら至る所に多種多様な《もの》を成立させてゆく創造的エネルギー〉である。それは「純粋存在」の自己限定によって「拡散的存在」となり自己顕現する。その行程の構造分析がイブン・アラビーの形而上学と言われる。
『井筒俊彦全集 第五巻 存在顕現の形而上学』
「モッラー・サドラー『存在認識の道――存在と本質について』解説」収載
それ故、イブン・アラビーは照明学派の祖となり、スフラワルディーの思想は存在唯一性学派と呼ばれた。そして、後にモッラー・サドラー (1572-1640) によってこの二つの叡智 (ヒクマット) は一つに結ばれた。旧約聖書の言葉「始めに言葉 (ロゴス) があった。言葉は神と共にあった。言葉は神だった。」これに対してサドラーは、こう述べた。「始めに存在があった。存在は神と共にあった。存在は神だった。」その〈存在〉は、光の構造を持ち、絶対的な光から真の暗闇に至る無数の段階を持っている。それは〈存在〉から万有の現前へと至るのと同じ原理なのである。(「モッラー・サドラー『存在認識の道――存在と本質について』解説」)。
ルーミーの生きていた時代とは、正にそのような対立していた神秘主義と哲学が共に手を携えようとしていた時代だった。ルーミーは哲学の素養を父に、神秘の光は父の弟子であったブルハーヌ・ッ・ディーン師と放浪の托鉢僧シャムス・ダブリーズィーによって授けられたのである。
ルーミーの言葉 象徴とおもい
ルーミーとフッサム・アッディーン・チェレビ
(セルヴィチェ騎士団の創始者である若き弟子)
バクダード 16世紀
折口信夫は物語とは、ただ、話しているだけのものではなくて、何かある霊魂(もの)が人に憑いて一つの節のある文句をあとからあとから語って聞かせていたものだったという(『人間としての光源氏』)。
「わしは自分で自分の言葉がどうにもできない。それがわしには辛い。‥‥それがわしの悩みの種だ。わしの言葉はわし以上のものであって、わしはただ口から出てゆく言葉の赴くままに従ってゆくばかり ―― そう考えれば、また嬉しいことでもある(『ルーミー語録 59』井筒俊彦 訳)。」
井筒さんは、そういった赴くままの言葉がなぜルーミーにとって嬉しいことだったのかをこう述べている。「その抗し難い力をもって彼を引っ張ってゆく言葉に、彼は宇宙に遍満する神的創造力のエネルギーの奔出を感得するからである(『ルーミー語録解説』)」と。
だが、ルーミーは、こうも言う。「詩ほどいやなものはない。ちょうどそれは動物の臓腑を料理して手を突っ込み、どろどろにかき混ぜる人のようなもの。ただ、客の食欲のためにそんなことまでやらなければならぬ。お客の食欲が臓腑に向かっている以上、どうしてもそうせざるを得ないのだ(『ルーミー語録 16』井筒俊彦 訳)。」
皓々たる月の顔 (おもて) の艶 (あで) 人よ
百年の末までも、変わらずそのままでいてほしい。
あの女 (ひと) の地下の嘆きが矢であれば
我がこの胸の盾に受けたい。
あの女 (ひと) の永遠 (とわ) の宿りの戸口の土に
いそいそと息引きとったわが心。
今はの際の願いの筋は
「神よ、この土に幸あらしめ給え」。
ジャン・ロレンツォ・ベルリーニ(1598-1680)
『聖テレージアの法悦』
人は夜眠る。靴屋も仕立て屋も裁判官も王様も。眠れば一切の想念は彼らから飛び去り、やがて東の空に天使イスラ―フィールの嚠喨 (りゅうりょう) たるラッパの音とともに暁の光が差し込める頃、一人一人に飛行する書物の如く、その想念は帰ってゆく。寝たときは靴屋だったが、起きてみれば仕立て屋だったと言うことはない。この飛び交う書物が象徴である。それを用いて糸を端まで辿ってゆけば〈かの世界〉の一切の状態をこの目で見、〈かの世界〉の移り香をかぐことができる、とルーミーは述べる。(『ルーミー語録 44』井筒俊彦 訳)
ルーミーが好んで語るものは、全て象徴である。象徴は、具体的イメージであり、人の〈おもい〉を支える。
兄弟よ、そなたは正にかの思念 (おもい)
その余は全て骨と筋 (ルーミー『精神的マスナウィー』2-277)
ルーミー『精神的マスナウィー』 写本 17世紀 インド
この〈思念 (おもい)〉とは特殊な思念であって実は普通言う思念ではない。その言葉で表そうとしたのは〈かのもの〉である。外面的に表現されるにしろ、されないにしろ言葉は思念であり、人間は本質的に思念であって、その余は骨と筋であると彼はいう。言葉は全ての人間を温め生命を保つ太陽のようなものであるが、文字や音声を用いなければ言葉という太陽は見えない。言葉は至精玄微なものであり、見えないが常住不変であるとルーミーは言うのである。
「全ての言葉、あらゆる学問、あらゆる技能、あらゆる職業は、かの言葉あればこそ味もあり魅力も、喜びもある。もしかの言葉がなかったら、どんな仕事も、どんな職業も無味乾燥なものになってしまう。ここで問題としているぎりぎりのところを人は知らぬ。だから知ることは別にそれ (が存在すること) の条件ではない。(『ルーミー語録 53』井筒俊彦 訳)」
この時、ルーミーのいう〈言葉〉は、内的言語であり、根源語、つまりロゴスであると井筒さんは言う。普通の言葉は、その影にすぎない。「外なる形は内なる愛の枝葉である(『ルーミー語録 36』井筒俊彦 訳)」と言えば、理解いただけるだろう。彼にとって重要だったのは、〈言葉〉は〈思念 (おもい)〉と結びついていることであり、とりわけ感情に結びついているという点で際立っている。
最も謙虚な言葉「我は神なり」
早朝
ちょうど夜明け前に
恋人たちは目を覚まし
一杯の水を飲む
女は尋ねる「私を愛しているの ? 」
それとも それ以上に自分のことを愛しているの ?
ほんとうのことを話して」
男は言う
私以外の何者も存在しないよ
私は朝日に照らされて輝く
ルビーのようなものだ
そのルビーはそれでもまだ
石のままだというのだろうか
ただの石だというのだろうか
それも赤色に染められた
ひとつの世界だと云うのだろうか ?
このようにして ハラージュは
「我は神なり」と言った
彼は真実を語ったのだ !
ルビーとは朝日と同じものなのだ
勇敢でありなさい 己を鍛錬しなさい
完全に聴く者となり 耳となり
この朝陽とルビーの耳飾りを付けなさい
働きなさい 手を休めることなど考えないで
井戸を掘りつづけなさい
水はどこかにあるのだ
日々 訓練に励みなさい
そのきみの誠実さが
扉の呼び鈴となるのだ
扉を叩きつづけなさい
ついには 内なる歓喜によって
扉が開くだろう
そのとき見てごらん
誰がそこにいるのかを
(『ルーミー愛の詩』コールマン・バークス英訳 あらかみ さんぞう邦訳)
ルーミーにとって愛情すら二元論の源だった。一元性に達した人は、愛も憎しみも超越する。マンスール・ハラージュ (?-922) は神への思慕が極限に達した時、彼は自身の敵となり、己れを無として、こう叫んだ「我こそは神 ! 」。それは、自分が消滅し、神のみが後に残ったという意味である。それこそが自己卑下の極点だった。この点で、ショーレムの著作『ユダヤ神秘主義』でご紹介したアブーラーフィアが、盲目的な忘我は斥けるものの彼我の分離が無くなるデベクメース (合一/癒着) の状態を理想としながら真に完全な一致を彼自身が望んでいなかったのとは対照的だった。
ハラージュは傲慢不遜として処刑された。放浪のシャムス・タブリージィーとルーミーとの最初の出会いにおける問答を思い出してほしい。
ザルコンヌ『スーフィー イスラームの神秘主義者たち』より転載
マンスール・ハラージュは伝承では断頭台の露と消えている。
脱自とは、対立するものが一つに融け合わさり、神へと合一すること (ファナー・フィー・アッラー) であり、或るインドの僧はその体験を地震に例えている。それが、どのようなものか言葉では言い表せないといわれる。悟達者の体験が皆同じとも言えないかもしれない。
形象の世界は、概念や知覚の世界よりはるかに広漠としていて、人の心に浮かぶ全てのものは、この形象の世界を淵源とする。その淵源である〈かの世界〉 に比べればすべては狭い (『ルーミー語録 52)』 。それを表現するための詩は形象の世界を駆使して、他者を惹きつけ、他者に働きかけるための芳香と言える。言葉は、既にアリストテレスのスコラ的な概念で充たされ、新プラトン主義のギリシア思想に武装されていたにも拘わらずである。
ルーミーは、薔薇の花が開いていくのを見るのは楽しい、だが薔薇を構成する全てがバラバラとなり、一切がその根源に還ってゆくのを見ることに無上の楽しみを味わう人々もあるという。全ては散って一つに還る。
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