資本主義には教義も神学もないが、御利益を目指すものだとしたのは、アダム・スミスでした。それが公共社会の利益に資するのは、その結果だとした。それが「見えざる手」です。マルクスは商品と言う物神を崇拝することが資本主義祭儀の唯一の中身だと考えていた。彼の興味は、生産構造とそこからの矛盾であり、そこには市場メカニズムという動力エンジンしか作動していなかった。
これに対して、マックス・ヴェーバーは、市場メカニズムには倫理や道徳と言った動機付けがあったと言います。これを知る人は多くないかもしれない。彼が言ったのは、宗教によって倫理的・道徳的生活態度が社会の中に形成された際、救済の理念だけでなく、「世界像」が与えられたということ。そして、その中でもプロテスタンティズムが唱導した禁欲とそれに関わる日常生活の規定が資本主義的経済の活動を支え、救済というプレミアムを与えたということ。その緻密な論証によって、ヴェーバーは西洋近代の合理主義の賛美者、ユーロセントリズムの権化として名を馳せることになる。
しかし、それは、大きな誤解だった。彼は、本書の最後に近代合理主義は「鉄の檻」となって「ついには逃れえない力を人間の上にふるうようになってしまった」と述べるのです。近代資本主義の限界を予告していた。人間が万物の霊長であるというような人間本位主義が19世紀後半から20世紀初頭にかけ大きく揺らぐ。1859年ダーウィン『種の起源』、1885年ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』、1916年フロイト『精神分析入門』。これらによって人間本位主義は哲学、生物学、心理学の分野で大きな打撃を受けた。これにヴェーバーは、経済学、歴史学、(社会学/自身は社会学者と自認していなかった) の分野における近代合理主義に楔を打ち込むことになるのです。
著者 マックス・ヴェーバー
マックス・ヴェーバーは1864年、プロイセン王国のエアフルトに生まれた。父親は政治家、母は敬虔なプロテスタントでした。1882年にハイデルベルク大学の法学部で法律学とローマ法を学ぶ。その後、シュトラスブルク、ベルリン、ゲッティンゲンの各大学で学びますが、1年ほど兵役について1886年から裁判所で働きながらベルリン大学で研究生活を続けます。1889年に法学博士号を取得。1891年には『ローマ農業史』で教授資格を得る。1894~1897年フライブルク大学に勤務。
1897年にハイデルベルク大学に移ったのですが、翌年には精神疾患によって講義ができなくなり精神病院に入院することになるのです。この前年ヴェーバーは訪ねてきた強権的な父親と激しい口論を起こし、息子の家を飛び出した父は一か月後に旅先で亡くなるという破局を体験をしている。この頃『古代農業事情』初版が完結しています。
自分は病的素質から過去何年もの間、護符に取りすがるように学問の仕事にしがみついてきたと彼は言います。しかし、今では仕事の重荷に抑え込まれていたいという欲求は消え、妻と共に人間的生活を楽しみたいと思い、それが与えられたら、それこそが幸せだと妻への手紙に書いていた。ここで、彼はプロテスタント的な禁欲性から離れようとしていました。しかし、その後の病状は芳しくなく、5年後の1903年にハイデルベルク大学正教授を退任し正嘱託教授となった。その後は一年半に亘ってイタリアを中心に転地療養を行います。
その年から論文の発表や雑誌の編集を手がけますが、1905年にロシア第一次革命が起こりロシア関係の大部の論文が書かれる。前年からこの頃にかけて、『プロテンタンティズムの倫理と資本主義の精神』が雑誌に掲載され始めますが、翌年には二度にわたって神経症の激しい発作に襲われました。しかし、1910年から第一次大戦の始まる1914年までのイタリアへの度々の旅行によって精神は癒されていくのです。
徐々に病魔から解放されていった1911年から1916年にかけて『経済と社会』、『世界宗教の経済原理』序論、『儒教と道教』、『ヒンドゥー教と仏教』、『古代ユダヤ教』が発表されます。このように見てくると彼が射程に入れていたのはプロテスタントを中心とする西洋近代の宗教だけではなく古代を含めた世界的な視野における宗教と社会・経済だったということが分かります。大戦中は一時期ハイデルベルクの野戦病院で軍役に服していたこともあったようですが、1917年には講演『職業としての学問』を行い、翌、1918年にはウィーン大学で講義を手がけることができるほど回復します。その翌年に『職業としての政治』と題された講演を行い、ミュンヘン大学の教授に復帰します。実に20年に亘る闘病があったことになる。1920年に肺炎で亡くなりますが、その死後、続々と著作が刊行されていきました。
資本主義の精神
ヨーロッパでは、宗教改革後のプロテスタンティズムに帰依したのは富裕な都市の住民であった。特に、プロテスタントの子弟が実業系の学校に進学する割合はカトリックのそれに比してかなり高く、熟練労働者の上層や工場経営の幹部の地位に就く者が多かった。プロテスタントの中でも特にカルヴィニズムは17世紀のオランダ、ニューイングランド、一時はイギリスをも支配した。アメリカに渡ったピューリタン (イギリスのカルヴァン派) の説教師たちは、かなりの過激な説教で知られ、ニューイングランドの地で少女だったエミリー・ディキンスンを震え上がらせることになる。
中産階級の市民たちが、かなり過激な宗教改革者たちを受け入れるには訳があった。それは、政治的に不利な立場にある社会的な少数者が、その地位を確立するためには営利的な生活に向かう他なかったからだ。だが、その生活は「世の楽しみ」とは逆な方向に振れていった。当時のフランスのカトリック信者の下層は享楽的で、上層は宗教に敵対していたのに対しドイツのプロテスタントは経済的な発展を見る中で上層は著しく宗教に無関心だったという。このような種々の現象が見られるものの資本主義的な営利主義と非現世的・禁欲的信仰とは内面的な親和関係を持つようになっていった。
100ドル紙幣に印刷されたベンジャミン・フランクリン (1706-1790)
アメリカ型サクセスストーリーを描いたベンジャミン・フランクリンはこう述べている。「時間は貨幣だということを忘れてはいけない。一日の労働で10シリング儲けられるのに、外出したり、室内で怠けて半日過ごすとすれば、娯楽や懶情 (らんだ) のためには、たとえ6ペンスしか支払っていないとしても、それを勘定に入れるだけではいけない。ほんとうは、そのほかに5シリング支払っているか、むしろ捨てているのだ (『富まんとする者に必要な心得』)。」
ヴェーバーはこのような倫理的色彩を持つ生活の原則を「資本主義の精神」と呼んでいる。ここから読み取れるのは、一切の自然な享楽を厳しく斥けて天職としてひたむきに貨幣を獲得しようとする努力は利己主義や快楽主義を帯びることなく自己目的的であったということであり、それは超越的で非合理なものでさえあった。ここでは労働者への長年の教育が必須となる。その基盤は宗教教育にあった。ただ、別様な資本主義は中国、インド、ハビロンにも古代にも存在したとヴェーバーは言う。あくまで多元主義的であり、それが現代の社会・経済学にも通じていく理由の一つとなっている。ともあれ、それらの資本主義には近代西洋に見られるような独自なエートス (習慣) が欠けていたのである。
カルヴァン主義と救済のプレミアム
旧約聖書のベン・シラの知恵の書11章20節には「汝の契約に確に立ちて常にこれを保ち、汝の業に熟達せよ」があり、この「業」という言葉は「職務」の意味としてルターによって訳され、プロテスタント諸国に定着した。やがて「天職」という特別な意味あいを持つようになる。ルターはカトリックの修道生活を逃避として退け、世俗の職業労働こそ隣人愛の現れだとしたが、決して資本主義の擁護者ではありえなかったし、職業は神から与えられると言う伝統的な考えから外れることはなかった。ちなみにパスカルは職業を選ぶ際の決定的要因は偶然だと考えていた。
国際宗教改革記念碑 ジェノヴァ 左からギョーム・ファレル、ジャン・カルヴァン、テオドール・ド・ベーズ、ジョン・ノックス
ヴェーバーが資本主義を支えた宗教理念とし、カトリックやルタ―派に折り合いの悪かったカルヴィニズムとは、一体どのようなものだったのだろうか。カルヴァン主義神学の伝統下にある改革派の信仰告白として、イングランド国教会のために1646年にウェストミンスター会議で作成された「ウェストミンスター信仰告白」には以下のような内容が書かれていた。「人間は自らの力で悔い改める力を失っている。罪故に不信仰な人間に対する恩恵は神によって拒まれる。救われるのは人間の一部だけで、残りの者は永遠に死滅することが既に永遠の昔から決定されている。人間の努力によってその決定は覆されない。」ミルトンは、「例え、地獄に落ちようと、私はこのような神をどうしても尊敬することができない」と述べたと言う。
その結果、人々は内面的な孤独に陥っていく。教会も聖礼典も神でさえ助けてはくれないのである。同時にすべての被造物は神から隔絶し無価値なものであるという教説に結びついて、これまでの文化とその信仰に対する基盤が揺らぎ始める。やがて、ピューリタリズムの歴史を持つ諸国の国民性の中に現実的で悲観的な色彩を帯びた個人主義がもたらされるのである。主人公クリスチャンが滅亡の町に住んでいることに気づき、取りすがる妻子を西行法師のように振り捨てて「生命を、永遠の生命を!」と叫びながら野を走るのはバニヤンの『天路歴程』でした。
ラファエル・ロビンソン画『家を出るクリスチャン』
こうなれば、当然自分が救われる側にいるのか否かが問題となってくる。ここでは、神の栄光を増すための道具となって堅忍な信仰を自己確信するための日々の闘いが始まるほかなく、悔い改めによって神の恩寵にすがる謙虚な罪人のイメージは払拭されることになった。それは、「どんな時にも、選ばれているか捨てられているか、という二者択一の前に立つ組織的自己審査」だったという。こうして、見えない至福を追って抑制された自己統御と絶え間ない職業労働によって資本主義の英雄時代と鋼鉄のようなピューリタン商人が誕生するとヴェーバーは言うのである。無条件な規範と神の超越性、そして絶対的な決定論が結び付けられることによって不安を取り除くための「救いの確信」を作り出すという矛盾に満ちた行為が始まる。これは、「私の存在意味は何か」という近代的問題にも通じていくのである。
1620年、メイフラワー号からアメリカ大陸へ上陸する清教徒 (ピューリタン) アントニオ・ギルバート 画 1883
本書の後半は、プロテスタントの宗教史といった観を呈するようになる。再洗礼派やクエーカー派といったプロテスタント諸派が先のフランクリンに見られたような世俗内禁欲を促進していったのに対してカルヴァン派は私経済の営利に対するエネルギーを開放していくという。結果として「行為するものは常に良心を持たない。良心を持つものは観察する者のみだ 」という言葉は、リアルなものになって行った。
ポストヒューマン文化とヴェーバー
人生は苦しいもの、不条理なものであり、それに意味を与える体系が必要となる。それが伝統的に宗教と呼ばれてきた。それは太古の呪術から始まる。西洋において、この呪術的要素を完全に払拭した合理的な教義がプロテスタンティズム、とりわけカルヴィニズムであり、近代資本主義の萌芽においてプロテスタンティズムの禁欲形式と日常生活を規定する生き方が多大な影響を与えたというのがヴェーバーの本書におけるこれまでの大筋でした。この章は本書から離れて、その周辺にあるいくつかの道標をしばし眺めます。
社会学者のアーノルト・ゲーレン (1904-1976) は、彼が比類なき社会宗教学と呼ぶヴェーバーの主張を引いて、経済活動が、やがて道徳的規準では測れない物特有の論理と合理性を繰り広げるようになり、その活動が純粋になればなるほど、感情的雰囲気や有機的自然の合理性から独立したものに、つまり技術的なものになって行ったと述べる 。そこでは、倫理的動機は自動的におせっかい役にまわることになった。現代文明の倫理規制に対する絶望感は、まるで古代から続く宿命のようにマルクスの言う失望と諦めをもたらしたと言うのです(『人間』)。ちなみにヴェーバーの近代ヨーロッパにおける合理化論 (次章後述) とマルクスの『資本論』における商品形態論を重ね合わせたのは、ハンガリー出身の哲学者ジョルジュ・ルカーチでした。
ジョルジュ・ルカーチ(1885-1971) 1917
メディア学者のノルベルト・ボルツ (1953-) は、文化が人間の直面する自然・社会の複雑性から逃れる道を教えることを約束すると同時に、統一性のシンボルを提供してくれると前置きした上で、理性の統一性=万人共通の理性とは、近代の基礎ではなく、宗教的な慰籍であると断定する。ヴェーバーが本書の最後で暴いたように西洋の理性は社会の近代化の原動力ではなく、近代化の埋め合わせであったというのである。そこでは「人間とは何か」という問題が、どの時代にも増して焦眉の急となっていく。それは、文化的意味喪失につながっていくからである。
ヴェーバーの言う「価値自由」とは社会科学に携わる人間が一切価値基準に囚われてはならないということではなく、研究者は自分の研究について如何なる価値判断を前提にしているかを明確にする必要があるということだと山之内靖さんは述べる。なぜなら社会科学の営み自体が特定の歴史的状況の中に置かれているからである。したがってヴェーバーの学問論では、ある歴史対象に対して別の価値基準を設定すれば同じ対象に対して別の像が描かれることを是認しなければならない。そうした不確実性にたじろぐことなく、そこに生じる不安に直面する必要があるとヴェーバー考える。近代科学はそのような不確実性を認めず、確実な知をもたらすことが科学の使命と考えた。ヴェーバーは、そのような近代知が限界点に達したことを見抜いていたという ( 『マックス・ヴェーバー入門』)。
このような一元的な科学的志向の歪が指摘されはじめる一方で、人間中心主義の世界観が実は波間に揺れる芦のように不安定なものであることが19世紀半ばから20世紀初頭にかけてダーウィン、フロイトらによって明らかにされていったことは冒頭に触れた。それはポストヒューマン文化を予告する狼煙だったと言えるのかもしれない。ニーチェは、人を超人か、それとも末人 (最後の人間) かという選択に直面させる。人間本位主義・啓蒙主義的思考こそ、型にはまった人間観を作り上げ、その型を信じる限り神を振り切れないとした。
それは、近代化の埋め合わせとしての西洋の理性に対するはっきりとした拒絶だった。ヴェーバーは、ニーチェの思想に馴染んでいたといわれる。母から受け継いだプロテスタンティズムの強固な殻を打ち破るのに強力な鉾となったことは想像に難くない。それに、ニーチェの古代ギリシアへの文献学的アプローチが自分の所属する社会集団から距離を取って他の時代や社会集団を眺めると言う自己相対化をヴェーバーにもたらすことになるのである。
恐ろしく正しい良心とポスト歴史
本書に戻ります。人間は神の恩寵によって与えられた財貨の管理者であって、その一部を神の栄光のためではなく、自己の享楽のために支出するなどはもってのほかであり、危険な事柄にさえなっていった。神から委託された財産に対して管理する義務を負い、その財産の僕 (しもべ)、合理的な「営利機械」として奉仕する者とならなければならない。こうした端緒は中世に遡るものの、禁欲的プロテスタンティズムにおいて、初めて首尾一貫した倫理的基礎を見出すことになるとヴェーバーは言う。結果として利潤の追求は合法化され、消費の圧殺は裏返って資本の蓄積となった。一方で、低賃金にもめげない忠実な労働者を神は喜ぶとされるのである。そして、家庭では市民的な清潔で堅実な慰めが求められた。これが資本主義の合理化である。
この近代的合理化を貨幣経済の観点から詳細に研究したのが、ヴェーバーの友人であったゲオルク・ジンメルだったが、彼は人間相互の心理的な動機付けが社会に及ぼす影響の方に関心があったと言われる。そのため、ジンメルは心理学的社会学の論者と言われるようになる。
ゲオルク・ジンメル (1858 – 1918) 1914
メゾシスト運動を主催したジョン・ウェスレー(1703-1791)は「私は懸念しているのだが、富の増加したところでは、それに比例して宗教の実質が減少してくるようだ」と既に述べている。宗教的生命に充ち溢れていた17世紀が後の時代に残したものは、合法的な仕方で貨幣利得が行われるかぎりでの、恐ろしく正しい良心だったと言う。ちなみに、ヴァルター・ベンヤミン (1892-1940) は、資本主義が宗教的に規定されただけでなく、それがキリスト教に寄生して発展し、ついに寄生主と一体化した資本主義教というべきものになったと考えていたという(ノルベルト・ボルツ『意味に飢える社会』)。
かつての修道士たちの禁欲は、やがて職業理念の中に移植され、世俗の道徳を支配すると供に機械的生産に結びつけられた近代的秩序というコスモス=鉄の檻を形成した。この秩序は圧倒的な力をもって、この機構に入りこんでくる一切の諸個人の生活スタイルを決定し、逃れられない力を化石燃料の最後の一片が燃え尽きるまで揮うだろうとヴェーバーは言うのである。あまつさえ、最後の警句は痛烈だった。「『末人たち』にとっては次の言葉が真理となるのではなかろうか。『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて到達したことのない段階にまで既に登りつめた、と自惚れるだろう』。」
ダーウィンが人間は長大な進化という鎖のパーツの一つに過ぎないとし、フロイトが人間の意識が広大な無意識のほんの欠片に過ぎないとし、そしてニーチェが型にはまった人間の終焉を予想したように、このヴェーバーの言葉は、線形的な歴史の頓挫を言挙げしたポスト歴史の時代を予告するものであったかもしれないのである。
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