第15話 クレア・キッソン『話の話』の話 ユーリー・ノルシュテイン・幼少の思い出

クレア・キッソン『話の話』の話

クレア・キッソン『話の話』の話  未知谷刊

 「このフェスティバルでは、ある作品が際立っていた、誰もがその作品の噂をしていた。大賞は必ずや、この三十分もののロシア映画が受賞するに違いなかった。謎めいているにもかかわらず、この詩的で独特のユーモアに満ち哀愁を帯びた作品を誰もが、傑作だと感じていた。(本書より)」

 この本は、かなり前に一度ご紹介しましたが、バックアップを取っていなかったので今回、新しく書き直しました。その時は、ノルシュテインの作品が日本に (おそらく何度目かの) 本格的な紹介がされようとしていて、ゴーゴリの『外套』をアニメ化したものが、まだ完全には完成していなかったように思います。『外套』も素晴らしい作品ですが、僕はやはり、この『話の話』が好きですね。まずは、その30分弱の作品をご覧ください。


ユーリ―・ノルシュテイン 『話の話』

 
 如何ですか。とても不思議なテイストを持った映像でしょ。初めて見たときは衝撃でした。アニメと言えばウォルト・ディズニーを思い出すのですが、全く違う事にお気づきでしょう。宮崎駿さんや大友克洋さん、高畑勲さん、松本零士さん、最近では新海誠さんなどなど素晴らしいアニメーション作家は続出している感はあるけれど、作画の上では全てディズニーアニメの延長線にあると考えて良いでしょう。

 この作品は1979年に制作されたものですが、ノルシュテインの子供のころの戦争の記憶を引きずっていて、戦いの終わった喜びの様子と夫を失った妻たちの悲嘆が描かれている。現在のウクライとロシアの戦争を思うと、とても切ないですね。しかし、モンタージュが多用されているのでストーリーは、かなり謎に包まれている。その秘密を本書は明らかにしてくれます。それは最後のほうに書いておきましょう。


著者 クレア・キッソン


 クレア・キッソンは、イギリスのアニメーション研究者です。彼女は、1978年にナショナル・フィルム・シアター、及び、ロンドン・フルム・フェスティバルの企画者となっている。1989年に映画専門のチャンネルも持っているイギリスの公共放送局・チャンネル 4 に入社しました。多くのアニメーション映画の委託作品を手がけた。その中には、ヨーロピアンオスカー賞を受賞した『ボブの誕生日』、ブロードキャスト・マガジン賞を受賞したシリーズ『クラプストン・ビラ』、1993年の『ヴィレッジ』はヨーロピアンオスカー賞をチャンネル 4 と共に受賞したようです。1999年に英国のアニメーションに対する貢献を評価されてASIFA (国際アニメーション映画協会) の特別賞を受賞された。

 筋金入りのアニメーション・オタクであられる。同じ年にチャンネル 4 を退職して、ロシア語とドイツ語の翻訳に関する修士号を得て、デザイン大学の講師をしながら本書の基となる研究を行ったといいます。2008年には、アニメーション理論についての画期的な業績でザグレブ・マニフェスト賞を受賞されている 。



突出したアニメーション


 多くのアニメーションが日本でも紹介されていますね。広島でも国際アニメーションフェスティバルが1985年から2020年まで各年夏に開催されていた。アヌシー、オタワ、ザグレブと並ぶ四大アニメフェスティバルでしたが、経済的理由で共催していた広島市が打ち切ったようです。本当に多様なアニメを見られるようになっていた。しかし、僕が本当にアニメの芸術性に目覚めたのは、かなり遅くて、2010年に広島市現代美術館でウィリアム・ケントリッジの展覧会を見た時なんです。


『ウィリアム・ケントリッジの謎』 DVD

 この展覧会は、MOMAの学芸員さんが会場の設置を担当したらしく、評判の展覧会でしたが、何よりもケントリッジの作画に驚いた。コンテで描かれた暗くて荒い画面から南アフリカでのアパルトヘイトの様子が緊迫感を持って伝わってきた。美術館でアニメを見たのは初めてでしたが、彼の映像は白い大きな美術館の壁を圧倒するように動きまわっていました。しかし、ケントリッジに比較してもノルシュテインの制作方法は突出して不可思議です。どのような表現方法が取られているのか興味津々ですね。その前に、ノルシュテインについてご紹介しましょう。


アニメーション監督への道は遠かった



ユ―リ―・ノルシュテイン (1941- ) 2012

 ユーリ―・ノルシュテインは、1941年、モスクワのユダヤ人の家庭に生まれます。三か月前にドイツがロシアに侵攻し、一家はヴォルガの都市サラトフに疎開した。2歳の時にモスクワに帰っている。少年の彼はロシアの偉大な宗教画家アンドレイ・ルブリョフや19世紀の風俗画家パーヴェル・フェドートフに魅了される。文学ではジュール・ベルヌ、ジョナサン・スウィフト、H.G.ウェールズやアレクサンドル・ベリャーエフの空想小説などを乱読。12歳になるとツルゲーネフ、チェーホフ、ゴーリキー、ゴーゴリに浸った。特にゴーゴリのロマンティクな小説が好きだったという。


 ユダヤ人であることのハンディはあった。11,2歳のころ、絵画を学べる特別学校でいい成績だったにもかかわらず登校を差し止められ、父親は突然退職させられ、厳しい労働環境の職場に移ったことによって肺を病み、51歳で亡くなってしまう。だが、1953年にスターリンが死んで状況は変わり始める。

 18歳になり芸術大学に進もうとしたのは自然なことだったが、四校を受験して、こともあろうに全て落ちます。これは、痛手だったでしょう。美術教室の夜学に通いながら、家具工場で、その梱包箱に巨大な釘を打ち付けていた。しかし、転機が訪れる。サユーズムリトフィルム・アニメーション・スタジオの養成コースに入学します。ソ連は雪解けの時代だった。彼は、チャプリンやフェリー二の映画に感動する。ロシア映画も突如面白いものになっていった。特にエイゼンシュタインです。そのモンタージュの影響は大きかったと言われています。


 1961年に、サユーズムリトフィルム・アニメーション・スタジオの職員となることが出来ました。フルシチョフの雪解けの時代、子供向けのアニメだけでなく、大人向けのアニメもつくられるようになっていった。時代は膨らみ始めていたが、彼は人形アニメーションのコマ撮りの方法を嫌って、独自の手法を使いたかった。スタジオから大量に生み出される作品を是認しなかった彼は、監督として働けるようになるのに5年、公式に監督になるまで、さらに14年かかるのです。


生み出され始めた傑作たち


 周囲の創造性が停滞する中で、1970年代に監督として円熟し始めたノルシュテインは、内容や物語、技術上の冒険をあえてするようになります。それは、権力との衝突をもたらした。問題の作品は『二十五日、最初の日』でした。このタイトルは、ロシア未来派の詩人であったウラジミール・マヤコフスキーの作品から取られている。作画は、タトリン、マレーヴッチ、シャガ―ル、パーヴェル・フィローノフら既に国家によって封印されたアヴァンギャルド芸術家たちに影響されていた。それらの作品をもとに国家の資金で作るという尖ったコンセプトであったのです。


 最初の成功作は、イワノフ=ワノーとの共同作品『ケルジェネツの戦い』でタタールの騎兵隊がロシアの守備隊に突っ込む場面が、マレーヴィッチの作品 (参考画像参照) から援用されている。ザグレブ・アニメーション・フェスティバルで優勝しています。この頃には、画家への未練は無くなっていたことでしょう。

 1972年にはヨーロッパの一連の民話の制作をイタリア人プロデューサーから依頼されます。それが『キツネとウサギ』でした。木の家が、絵の額縁のようにしつらえられ、不思議な世界を覘くような趣になっていた。次作の『アオサギとツル』は、親密さを求めようとしながら自我の殻を破れない人間の性 (さが) をアオサギとツルに託して描いている。些細な対立にこだわるあまり人生を丸々浪費したことに気づく夫婦を描いたゴーゴリの『昔気質の地主たち』と関係していると著者は書いている。切り絵のアニメーションによるサイコドラマです。


『アオサギとツル』 ユーリ―・ノルシュテイン 原案
フランチェスカ・ヤールブソワ 絵 ロシア民話より

 次作、『霧の中のハリネズミ/(邦題) 霧につつまれたハリネズミ』 は、セルゲイ・コズロフの童話に基づいています。この作品も世界中で絶賛され、アヌシー、タンペル、メルボルン、シカゴ、ニューヨークなどで上映されましたが、彼自身は一度も海外フェスティバルへの参加は認められていなかった。当時のソ連ではゴスキノ (ソ連邦映画省) によって渡航の可否が決定されていて、ノルシュタインは、全て許されていなかったのです。


『霧の中ハリネズミ』記念切手

 そして、『話の話』が制作され、1979年に発表されます。ノルシュテインは台本を書くことが許されていなかったので、当時の卓越した三人の作家の内、リュドミラ・ペトルシェフスカヤが台本を書いてくれることになった。彼女は冷酷なブラックユーモアの作家として知られていましたが、子供たちのために童話も書く人だったのです。ザグレブのアニメーションフェスティバルで、この傑作が話題をさらってしまいます。一体どんなロシア人が、この真に独創的な作品をこの時期に作りえたのだろうか? 一体どうやって、この作者は処罰をまぬがれたのだろうか? と。


如何にしてアニメは独特になるのか


 ノルシュテインは撮影技師のジェコフスキーと共に独自のマルチプレーンシステムによる撮影台を作り上げていました。このシステムは、1926年にロッテ・レイ二ガーによって作られ、ディズニーアニメでは、『ジャングル・ブック (1967)』まで使われていましたが、その後、コンピーター処理にかわります。背景は、通常、平板な一枚のものが使われるけれど、監督のノルシュテインと奥さんであり作画を担当したフランシェスカは何層にもわたって背景を作り上げました。例えば『話の話』では10層にもなっている。この装置ではカメラは垂直にも水平にも移動可能であり、作業用のガラス板も上下左右に自由に動かせるようになっていました。

ノルシュテインの当時使用していた撮影装置 本書より

ノルシュテインの当時使用していた撮影装置 本書より

 アニメはデジタル化される以前は、セルと呼ばれる透明なセルロイド板に絵を描きその絵を少しずつずらしたものを何枚も撮影して動きを表現していました。『アオサギとツル』のころには、セルに描いた絵を切り抜く切り絵アニメの技法をノルシュテインは本格的に使い始めます。切り抜いた端を黒い絵具で塗り、光を反射させないようにし、絵の表面を様々なテクスチャ―で覆った。そして、主人公の動きに応じて色々なパーツが切り絵で作られました。『霧の中のハリネズミ』では、霧を表現するためにガラスの上に埃を積もらせます。デュシャンの大ガラスの作品みたいですが、スタジオでは、くしゃみが厳禁された。

 『話の話』では、重要な要素である家が様々なテクスチャーで10層ものレイヤーに描かれ、マルチプレーン台に置かれて、絵の深みを現出させています。それは、レンブラントやヴェロネーゼが不透明な厚塗りのテクスチャーを絵具で作った上に半透明な色を薄塗する技法をアニメにおいて成し遂げたのでした。


 『話の話』は、アニメーション・カメラ技術の百科事典と言われている。スキダン=ボーシンの手腕がひかりました。二人の革新的トリックは、すでに『(邦題) 霧につつまれたハリネズミ』でも使われていましたが、アニメの中に実写を取り入れたことです。『話の話』では、家具の燃えるシーンで、火を実写し、撮影台の隣にプロジェクタ―と鏡を置いて炎のイメージを投影させました。


日本の文化へ


 ノルシュテインが15歳ころから興味を持ち始めたといわれるものに日本の俳句や短歌がありました。東洋の芸術や哲学にも関心を持ち、アニメーションを始めたころには、日本の哲学や自然観に魂の融合とも言うべきものを感じていたといいます。『アオサギとツル』では、既に山水画のように樹木や建築物などが、霧の中から現れる。水、火、煙といった無形のものの移ろいは、東洋絵画を舞台構造に取り入れていて、「道 (タオ)」の原理の表現だとミハイル・ヤポリンスキーは「映画芸術」誌の中で述べていると言います。


『冬の日 オフィシャルブック』 2003


 日本の芸術との直接の触れ合いは、芭蕉と名古屋の連衆 (連歌・連句の句会に出る連歌師) との五巻の連句「冬の日」でした。江戸時代の富山道治が書いた仮名草子『竹斎』が下敷きになっています。藪医者なのにひっきりになしに患者の来る竹斎、しかし、食い詰めると、にらみの介という御供をつれて弥次喜多道中を繰り広げる設定になっている。その連句をもとに36人のアニメーターたちによって映像がつくられました。ノルシュテインが担当したのは発句の「狂句木枯の身は竹斎に似たるかな 芭蕉」です。このアニメ作品への凝りようも尋常でなく、30秒の予定が2分に膨らんでいると言います。奥さんのフランシェスカも蕪村の作品を研究したそうですよ。


与謝野蕪村 『奥の細道』扇面画



灰色の仔狼がやってくる


 さて、これからいよいよ『話の話』に話題を移しましょう。この話の主人公は仔狼ですね。ロシアで子守歌が歌われる時、ゆりかごの子供たちは、いささか緊張する。

ねんねんころり
端っこには寝ないでね
灰色の仔狼がやってくるから
オオカミは、わき腹をひっつかむ
そして、森へ引きずって行く
ヤナギの茂みの下に

(児島宏子 訳)


灰色の仔狼 本書より

 仔狼の表情が、なんとも素晴らしい。何かに驚いたような、それでいてちょっと空虚だが、愛らしさを持っている。これは、絵画でなければ表現できない表情ですね。奥さんのフランシェスカ・ヤールブソワさんの手腕ですが、ノルシュテインは絵描きかけの絵のような状態を望むのだそうです。ストーリーの進展に伴って発展していけるような絵の有り様を欲しがっていると言います。それに細部に対する異常なこだわりがあった。

 この仔狼の目は、川から拾い上げられて、びしょ濡れで玉石に首を縛り付けられていた子猫の写真が掲載された雑誌の切り抜きからインスパイアされました。子猫の目の片方は悪魔のように邪悪な火の色に燃え、もう一方の目は火が消えたようにあらぬ所を見ている空虚な目だったというのです。ノルシュテインは、この目を「家の入り口に立つ仔狼の目に。ゆりかごを揺らしながら頭をかしげている時の、仔狼の目に。演技のロジックを必要としない所に、映画のコマの力の眼差しに集約される所に、その目が理屈っぽい分解に屈しない映画のコマの力を現す所に、私たちはあの目を残した (本書より)」と述べています。

 脚本を書いたペトルシェフスカヤによれば、この制作で最も惨めだったのは、ノルシュテインとヤールブソワの夫婦だったと言うのです。お互いを破壊しようとしていた。彼は頭を壁にぶつけ続け、彼女は自殺しそうなところだったと。子猫の目のような二つの闘争が、悲劇と懐かしさが、この作品を傑作に育てたのです。



『話の話』の秘密



 さて、『話の話』の秘密を解き明かす時です。この物語は、タルコフスキーの自伝的映画『鏡』のようにストーリー輻輳していて、夢のような不可思議な展開になっています。それを紐解きたいというのは人情ですよね。しかし、警告しておきますが、不思議な世界は不思議のままにしておく方が良いかもしれませんよ。謎の意味を知ってしまえば、このアニメの意味は限定的なものになってしまうかもしれません。それでもいいですか?

 子供の時、疎開からモスクワに帰ってきたのは、古いが温かみのある木造二階建ての市営共同アパート (コムナルカ) だった。ここが、『話の話』の舞台となっています。アパートには5家族、12人が暮らし、廊下には電球が一つしかなく一階に台所とコンロがあり、暖房は薪ストーブだった。廊下の端には道路に出るドアがあり、その向こうには永遠の幸福、明かり、話ができる猫、砂糖をまぶしたパンが待っていると思えたのだとノルシュテイは回想しています。

 「冬の日曜日」のシーン、雪の中に突然現れる白昼夢のような世界。実は、過去の回想に浸る中に突然現れる現代の家族を描いています。夫婦は子供にかまっていられない。その子の友達はカラスという分けです。ここは、ノルシュテインの特別な経験に基づいている。ある地下鉄の駅、寒い時には美味しいリンゴの香り、ホワイト・グレーの静かな雪、ひとりでに開いた雑誌の中から現れたカンディンスキーの絵、それは、複雑な感覚が発展していく瞬間でした。


「永遠」のシーン  本書より


 旅人、ネコ、さかな、漁師の家族、「永遠」と呼ばれるシーンですね。最初は、とても気難しかった牡牛は、とても大人しくなり、漁師の娘のために縄跳びの縄をまわす姿が可愛らしい。詩人 (グミリョフがモデル/参考画像参照) の詩の力でボッティチェリの『ヴィーナス誕生』のように美しく立っている幻を見ます。特別なことは何も起こらない。この事件のなさがノルシュテインにとってずっと強烈で壮大だったのです。


 戦争のことは覚えている。戦後帰還した復員軍人には手足を失った人たちも多くいた。ヴェーラ叔母さんは空軍にいて戦争末期に結婚しました。家に戻って赤ちゃんを産んだけれど、不幸にして2週間後に亡くなってしまった。叔母さんは灰色めく朝まだき、張ったお乳を絞りだしていた。ノルシュテインは目を覚ます。はだけた胸が白く浮きあがり、ミルクがジョッキに流れ出る音が微かにした。彼は、このミルクの味と光と温かさを覚えているというのです。


引き出しの中の幼心の記憶


 ノルシュテインは、『話の話』の映画準備稿の中でこう述べています。「あの貧しい子供時代にもどれたら‥‥もしも私たちが違った目で見ることさえできれば、自分たちの子供時代の郷里を、大地がひどく踏みつけられ、草は縁の部分にだけ突き出し、風に吹かれた地面が太陽で輝き、ガラスの破片は、あの頃、皆どこからきていたのだろうか? 」

 後に多くの実現しなかった子供時代の夢と共に、仔狼も記憶の引き出しの中に忘れられます。そして、彼は続ける。「私たちは幸せとは何かを、永遠に記憶しなければならないのです。それは、平和な日が、毎日続くことです。毎日です。(同上)」



夜稿百話

ノルシュテインの著作


ユーリ―・ノルシュテイン『フラーニャと私』

フラーニャは奥さんであり、ノルシュテインのアニメーションの絵を担当する彼の手足ともいうべき人、フランチェスカ・ヤールブソワさんの愛称です。アニメ制作の過程がかなり詳しく紹介されている。彼らの愛と戦いの歴程とも言うべき著作。アニメファンにはお薦めです。

関連図書


ニコライ・ゴーゴリ『外套』
ノルシュテイン原案・ヤールブソワ 絵

ウクライナ出身のゴーゴリは、主人公である下級官僚アカーキー・アカーキエヴィチに、自分が故郷からペテルブルクに働きに出た時の体験を重ねたのではないか。訳者の児島宏子さんは、そう書いている。ノルシュテインは、ゴーゴリの作品に登場する描写が極めて映像的であることに興味を持っていた。この本に登場する挿絵の数々はアニメーション『外套』のために描かれた絵コンテである。そして、ノルシュテインは、ゴーゴリの作品についてこう述べている。「ゴーゴリの作品には、私たちが生きて今ある現実を超えた、強く恐ろしい何ものかがるのだ。恐怖へのこの還流作用は、私に多くのことを教えてくれる。(本書「跋」より)」


『アオサギとツル』 ユーリ―・ノルシュテイン 原案
フランチェスカ・ヤールブソワ 絵 ロシア民話より

求婚を巡って行ったり来たりのアオサギのお嬢さんとツル氏の物語。

『冬の日 オフィシャルブック』

芭蕉と名古屋の連衆 (連歌・連句の句会に出る連歌師) との五巻の連句「冬の日」を36人のアニメーターたちが映像作品にしたもの。ノルシュテインの他、川本喜八郎、高畑勲、マーク・ベイカー、アレキサンドル・ペトロフらが参加している。それぞれの絵コンテや写真が掲載されているのが嬉しい。

『ユーリ―・ノルシュテインの仕事』
ふゅーじょんぷろだくと 刊

ノルシュテインの承認のもと、その映画制作での絵コンテ、デッサン、撮影素材を実際の映画のコマとともに紹介し、彼へのインタビューや講義録が掲載されている。

みや・こうせい『ユーリー・ノルシュテイン』

エッセイイストのみや・こうせいさんによるユーリ・ノルシュテイの写真集。彼は、よく笑い、当意即妙、談論風発、アルコールに滅法強く、ある時は朝まで飲み続け、ルーマニアの地酒ツイカには、おー ! と歓声を上げるそうです。


『ウィリアム・ケントリッジ 歩きながら歴史を考える そしてドローイングは動き始めた‥‥』

2009年から2010年に京都、広島、東京の美術館で開催されたウィリアム・ケントリッジ展カタログ。ケントリッジ作品の本格的な紹介となった。

参考画像

カジミール・マレーヴッチ『赤い騎兵隊』 1928-1932

イワノフ=ワノーとの共同作品『ケルジェネツの戦い』でタタールの騎兵隊がロシアの守備隊に突っ込む場面が、このマレーヴィッチの作品から援用されている。


ミケランジェロ・ブオナローティ 『ロレンツォ・メディチの霊廟』彫刻

下図の『話の話』における授乳の場面での乳房のモデルは、上図のミケランジェロの彫刻作品だった。

ヴェーラ叔母さんがモデルになった授乳の場面 本書より


アンドレイ・タルコフスキー『鏡』
ブルーレイ

伝説的なロシア出身の映画監督アンドレイ・タルコフスキー、その両親との思いでを映像化した詩的作品。何度も編集しなおしたが、ついに完成にいたらず発表したと言われるいわくつきの作品だった。



ニコライ・グミリョフ (1886-1921)

詩人グループであるアクメイストの指導者だった詩人。『話の話』で、作中の詩人のモデルとなった人物。

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