1934年の5月のある日、午前1時頃、秘密警察の捜査官が突然やって来て、見たこともない素早い身のこなしで夫人は玄関の内側に押しのけられると部屋の中はたちまち秘密警察官であふれた。家宅捜査が始まり、ここ数年間書かれた夫であるオシップ・マンデリシュタームの原稿が一枚一枚目を通され、選別され、没収され、彼も連れ去られていった。夫人によれば、これが問題の詩の初稿の言葉であった。
ぼくらは生きている 祖国を足に感ぜずに
十歩先にはもう聞こえないぼくらの言葉
聞こえるのは かのクレムリンの山男
人殺し 百性殺しの声ばかり
予審判事によれば、これは「挑発行為」「テロ行為」であった。クレムリンの山男とはスターリンを指していたのである。決定稿では、この後に、こんな言葉さえ続いていた。
‥
彼の太い指は 脂ぎった芋虫のようだ。
言葉は 分銅のように忠実だ。
ごきぶりのようなひげの笑い
長靴の胴は光る。
‥‥
『スターリン・エピグラム』(川崎隆司 訳 )
今回ご紹介する回想録『流刑の詩人マンデリシュターム』は、彼女が夫のマンデリシュタームの詩を守り通したドキュメントであり、彼との大切な思い出を綴ったもう一つの『時のざわめき』であった。この回想録は、最初の逮捕の時、五月十四日の夜から始まるのである。
著者 ナジェージダ・マンデリシュターム
マンデリシュターム夫人であるナジェージダ(本稿では夫人とよばせていただく)は、1899年にカザフスタンに近いヴォルガ川の流域にあるサラトフという町のユダヤ系の中産階級の家庭で生まれた。父親は事務弁護士だった。1902年からキエフ (現キーウ) に移り住み、ここで育った。豊かな文化的な環境で育ち、ロシア構成主義の女流画家アレクサンドラ・エクステル(1882-1949)のアトリエで学んだ。多和田葉子さんが大好きだという画家である。エクステルは、マレーヴィチやアーキペンコらと親しく、ロシア未来派、構成主義、アールデコの作家といわれ、多様な作風を持つ画家だった。そのキエフのアトリエにはアフマートヴァやマンデリシュタームをはじめとして多くの若者が訪れたが、後にパリに定住するようになる。
1919年に夫となるオシップ・マンデリシュタームと出合うが、革命後の内戦が勃発し、赤軍、白軍相乱れた。そのため二人は、ウクライナ、ジョージア、ロシアを放浪し、この波乱万丈の旅の後、1922年に、オシップとナジェージダは結婚届を提出している。
やさしさにまさるやさしさの
君が面 (おもて)
しろいうえにもしろい
君の腕 (かいな)
この世のすべてのものから
きみは遠くにあって――
しかも きみのすべては
さけられぬこの世のさだめ
きみのかなしみも
ひえることなききみの腕の
指も
衰えることなき小川の
しずかなささやきも
君が瞳の
遠いかがやきも
すべてみな
さけられぬこの世のさだめ
オシップ・マンデリシュターム (木村浩 訳)
冬の時代の助命嘆願
1923年には、全ての雑誌の寄稿者名簿からマンデリシュタームの名は一度にはずされてしまっていた。それで翻訳の仕事を余儀なくさせられるようになる。オイゲンシュピール事件は、この頃起きている。1928年にシャルル・ド・コステールの『オイゲンシュピール伝』の訳書を改訳した時、出版社が原訳者の名前を掲載せずに出版したために剽窃疑惑事件に巻き込まれたのである。紀行文の『アルメニアの旅』は雑誌に掲載されたが、担当の編集者は解任された。1926年から1930年まで5年以上もの間、詩が書けない時期が続いた。革命賛美の詩など書けなかった。「世をあげての大合唱に調子を合わせない者は、いつの間にか片隅へ追いやられていた」と夫人は回想している。
スターリンはレーニン没後の1924年、トロツキーを制して権力を握った。1930年代に入るとスターリン主義の波は富農撲滅運動の強化とその一環としての文学の体制化に力を注ぎ始めていた。クリミアへの旅行の途中、マンデリシュタームが見たものはウクライナやクバンの恐ろしい亡霊たち、飢えた農民たちだった。彼は「黙っていられなかった」のである。スターリンは農民たちから穀物を強制的に吸い上げ、その利益で工業化を推し進めようとしていた。新しいアパートに住んでいた1933年から34年にかけての冬ほど恐ろしい思い出はないと夫人はいう。食べ物がないのに夕方になると大勢の客が訪れた。その半数はその筋から派遣されたスパイであったという。秘密警察は一般の人間をスパイとしての密告者に仕立て上げていた。家族に危害が及ぶと暗示するだけでよかったのである。
マンデリシュターム夫婦の親友であったアンナ・アフマートヴァ(1889-1966)はスターリンが死ぬまで逮捕の恐怖に苦しめられていたという。30年代も末になると逮捕の仕方は簡略化され、「これからは万事明瞭よ。耳当て付きの防寒帽を被ぶらされて、密林 (タイガ) へぽいだわ。」と彼女は夫人に語った。この時、この詩句が生まれた。「有刺鉄線のかなた、密林 (タイガ) のさなか、尋問にひかれてゆく、わが影は。」
アンナ・アフマートヴァ(1889-1966)1914
当時、文学者や詩人たちの少なからぬ人々は、自然な死に方をしていない。アフマートヴァのかつての夫で、アクメイストとして知られる詩人、小説家、評論家であるニコライ・グミリョフ(1886-1921)は、反革命の陰謀に加わったとして銃殺。未来派の詩人で斬新な言語実験を展開し、ロマン・ヤコブソンと親しかったヴェリミール・フレーブニコフ(1885-1922)は餓死。夫とともにパリに亡命していた詩人マリーナ・ツヴェターエワ(1892-1941)は、帰国後、夫と娘が逮捕され、不遇のうちに自殺。イズベスチアの編集長を務め、マンデリシュタームを助けたニコライ・ブハーリン(1888-1936)は銃殺。未来派の革命詩人マヤコフスキー(1893-1930)と革命を情熱的に支持した天性の農民詩人エセーニン(1895-1925)もまた、孤独と絶望の果てに自殺した。そんな冬の時代だった。
オシップの逮捕後、夫人とアフマートヴァは彼の釈放のために奔走し続けた。その中で『イズべスチア』の編集長をしていたニコライ・ブハーリンがスターリンに手紙を出してくれ、そこに『ドクトル・ジバゴ』を後に発表してノーベル文学賞を受賞することになる作家のボリス・パステルナークが逮捕に驚いて訪問してきたと追伸に書いた。それで、スターリンはパステルナークに直接電話してきたのであった。二人の援助によって減刑はなされた。しかし、パステルナークもブハーリンも『スターリン・エピグラム』の存在を、その時知らなかった。
ボリス・パステルナーク(1890-1960)1958
流刑の詩と本を読むこと
最初、カザンの北東、ウラル山脈に西側、ヴォルガ水系のヴィシェラ川流域にあるチェルドゥイニ (チェルディン) という小さな町に流刑が決まった。スターリン時代に労働収容所があった地域であるが、娑婆では、とうになくなっていた相互互助の美徳が残っていたという。流刑地に向う途中、オシップは精神錯乱と強迫観念に憑りつかれ始め、幻聴が始まる。当地の病院に入院中に窓から飛び降りて自殺を図った。同伴を許されていた夫人が見張っていて、腕を伸ばして肩口をつかまえたが、上着だけが彼女の手の中に残った。掘り返した土山の上に落ちて、肩の骨折に終わるが、気がついた時には正気に戻っていたという。だが、この後も幻聴は続いた。
病院暮らしの最中に、干天の慈雨の如き奇蹟が起きた。突然の再審により12年減刑され、キエフ (キーウ) とサラトフの中間にあるヴォロネジへ移って、3年間の流刑となった。1934年のヴォロネジは食料不足に悩む暗い町だったが、それでもチェルドゥイニ (チェルディン) に比べれば別天地だった。ここでは、夫がラジオ番組の解説を書いたり、劇場で働いたりできたのでいささか安泰だったのである。それも1936年の秋には終わった。地方の放送局は廃止となり、劇場もさびれてしまった。それは大粛清の始まった年であった。1937年には、狭心症のような発作が度々夫を襲いはじめる。
彼方に去り行く、人間たちの首塚。
ぼくはそこで小さくなる、だれにも気づかれずに。
だが、可愛らしい本の中に 子供らの遊びの中に
ぼくは復活する、お日様は輝いているよというために、
いつか
1936-37年? ヴォロネジ(川崎隆司 訳)
オシップには独特の二元論があり、詩人は善悪に対して無関心では有り得ず、存在するものが全て理性的であるなどと思ってはならないと語っていた。両立しがたいものを無頓着にのみ込んでしまうことをオシップは嫌った。普通人々が読書する時には、活字に全面的に支配されてしまう。彼は一つ一つの言葉を自分の体験から検証するか、人として個性たらしめている理念と照応しなければならないと考えている。読書は、そのような「行為」だというのである。彼の愛する著者は、若い頃ならウラジミール・ソロヴィヨフであり、晩年はダンテだった。二度に亘る逮捕の時も縮尺版の『神曲』を携えていたという。偶然、同じ頃アフマートヴァもダンテに浸っていた。
アフマートヴァには、独自の才能が有り、予審判事か嫉妬深い女の目ざとさで、例えばプーシキンを取り巻く亡き人々が、どのように行動し、考え、語ったかを嗅ぎ出し、プーシキンの微笑みに浴した女性の心理的動機を手品のように解き明かせたという。読み解くというレベルが、ここまでに達している。ちなみに、彼女は作家の妻、とりわけ詩人の妻には我慢ならなかったらしく、自分は何故、例外だったか分からないと夫人は漏らしている。
詩は如何にして書かれたのか
オシップ・マンデリシュターム (1891-1938)
最初に逮捕された翌年に撮影された写真 1935
マンデリシュターム夫人は、幻聴は詩人の職業病だと感じているようだ。最初は形式のない、次には正確だが、まだ言葉にならない音楽的語句がしつこく耳に響いてくるらしい。ミツバチの羽音のような音だった。その旋律から何とか逃げ出そうとして頭を振る夫の姿を、彼女は何度も目撃したと言う。ある時、この音楽的語句から突然言葉が現われてくる。そして唇が動き始めると言うのである。彼の詩は、埋もれた状態で「作られる以前にすでに存在している」のである。詩人と作曲家の仕事には共通点があるのかもしれない。その音はだんだん言葉の形を取っていく。詩人は調和のとれた意味の統一体を懸命に捉えようとし、次には偶然に忍び込んだ余計な語を取り除き、最終段階では懸命に自己に聞き入るという。こうして詩は、作者から離れ落ち、蜂の羽ばたきは消える。もし、詩が離れ落ちなければ、何処かが間違っているか、まだ何かが隠されているかのどちらかであった。
ヴォロネジでの最後の一年、オシップは破局が迫っていることを肌で感じていた。詩は、群れをなして次々と生まれてくる。彼は二、三篇も立て続けに詩作し、夫人に筆記してもらっていた。持病の狭心症が悪化しはじめたのもこの頃だった。息切れ、脈の乱れが起こり、唇は青く変わった。二人は鼻を突き合わせて座り、夫人は夫の唇の動き見守った。
最後の時
1938年5月1日、マンデリシュタームは再逮捕され、ウラジオストックの北東共同作業キャンプに移された。そこは流刑地への中継収容所でしかなかった。もう中国や北朝鮮が間近に迫る地域だ。反革命活動の罪科で5年の刑である。夫人はその中継地へ差し入れの小包を送ったが、宛名人死亡として返送されてきた。実弟に渡された死亡通知の年月日によれば、1938年12月27日、死因は心臓麻痺と書かれてあった。この非運の詩人の死については、多くの噂が流れた。海中に投じられたとか、刑事犯によって殺害された、あるいは銃殺された、ロマンティックなものではかがり火の下でペトラルカを読みながら亡くなったとかいうものなどがある。1942年か43年にヴォロネジ州のラーゲリ(収容所)でドイツ軍によって殺されたという噂まで流れたし、小説さえ生まれているらしい。
ナジェージダ・マンデリシュターム 1923
オシップは芸術家の死というものは、その人生行路を光の束で照らし出そうとする最後の創造行為であると考えていた。詩人が待ち構える死を予知しているからと言って驚くべきではなく、それは最も大きな人生の構成要素であると夫人は言うのである。オシップがそのことを悟ったのは1915年スクリャービンの死を悼む評論を書いた時だった。
夫人はこう書いている。「‥‥死後、あるいはその前だったろうか、オシップは、かつて自由のときには詩を書き、それ故に『詩人』と仇名され、お粥のための飯盒を持った七十歳の狂気の老人としてラーゲリに伝説の中に生きた。そして、また別の老人は、それがオシップだったのだろうか、「フタラヤ・レチカ」のラーゲリで暮らしたのち、コルイマへ選抜された。多くの人びとは、その人がオシップ・マンデリシュタームだと思っていたが、私はその人がだれであるかを知らない(『流刑の詩人マンデリシュターム』)。」
Lと記されているモスクワの匿名の物理学者はラーゲリからの生還者だったが、彼のもたらしたものは、かなり信憑性のある情報だった。マンデリシュタームは、フタラヤ・レチカのラーゲリで、毒殺されるという強迫観念に再び捉えられ、支給されるスープに手をつけようとせず衣服まで売って角砂糖に換え、それを齧って生きていたようだ。それもすぐに盗まれたという。かなり衰弱しはじめていた。Lはチフスのための隔離室へ移され、そこにマンデリシュタームがいたことを知らされた。そこからLは病院へ移され、退院後にマンデリシュタームの死を知らされたというのである。1938年12月から翌年の4月までの間の出来事だと推測できる。
夫人は彼の死が早ければ早いほどよいと呟いてきたという。それだけが苦しみから逃れる唯一の方法だったからである。詩人自身は自分の未来を既にはっきりと予感していた。彼もまた、少なからぬロシアの文学者たちがそうだったように祖国を捨てるに忍びず、運命に甘んじた。何故だろうか。僕は彼がヴォロネジで書いたこのような詩を愛する。
大動脈は血でふくれ
隊列をささやきが走る。
――おれの生まれは九四年‥‥
おれの生まれは九二年‥‥
人の群と獣の群
いっしょに擦り切れた生まれ年を握る。
ぼくはささやく 血の気の失せた唇で、
――おれの生まれは九一年
一月二日から三日にかけての夜
希望のない年である。
だが幾世紀もがぼくを炉火で囲んでいる
『無名戦士についての詩』より 1937年2-3月 ヴォロネジ
(川崎隆司 訳)
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