菅原道真の『菅家後集』か、君にそんな事が書けるのかね? と言われそうですが、この間、『山岳まんだらの世界』で、ご紹介した川口久雄さんが書かれた道真の現代語訳に感動しました。それは、つらく、深かった。それに続いて大岡信さんが『詩人 菅原道真 うつしの美学』で、やはり川口さんの仕事を激賞され、それに感化されて「うつしの美学」を書いておられたのを知った次第です。 「おおっ、同士よ! 」と思わず心の中で叫んでしまうくらい共鳴してしまいました。大岡さんのような人を同士と呼ぶのは僭越のきわみではありますが‥‥と、いう分けで今回は、恐れ多くも菅原道真の『菅家後集』を川口、大岡という二人の顕学に頼りながら、おおくりすることになりました。
道真と言えば天神様であって、人であって神になったには色々訳がありますが、摩多羅神 (またらじん) や祇園の牛頭天王のように疫病神と同時に衆生を救済するヌミノースな神であったのは、あまり知られていないかもしれない。昨今は受験生の頼みの綱ですよね。僕は長らく進学校の教師をしていたので、この1月下旬頃は、入学試験の監督をしていた。受験生の中には太宰府天満宮お墨付きの合格鉛筆を筆箱の中にズラッと揃える子たちもいるのですが、受験の後に時々その一本が床に落ちていたりすると、ウッ! と思っておりました。昨今では、その鉛筆が宅配されるようでもあり、そういうのは、はたしてご利益があるんだろうか。
時平の策謀と太宰府配流
寛平八 (896) 年、菅原道真の長女である衍子 (えんし) が宇多天皇の女御となったが、その翌年宇多天皇は譲位し、13歳の醍醐天皇が即位する。川口久雄さんの『絵解きの世界― 敦煌からの影 ―』から藤原時平の策謀を要約してみる。昌泰二 (899) 年、藤原時平は左大臣に菅原道真は右大臣に任命された。後ろ盾のない道真は、この昇進を辞退したかった。「鬼瞰 (きかん) の 睚眦 (がいさい)」、つまり鬼にねめつけられるような嫉妬を恐れたのだ。時平と道真の二人に重責が集中したことで、他の官吏たちが政務に参加できないという不安から出仕を取りやめるというボイコットに出たこともあった。
道真は、醍醐天皇に何度も辞任を願い出ていたが、受け入れられなかった。頼りの宇多上皇は、出家して、かまびすしい政界を逃れて御室 (おむろ) に隠棲してしまう。嘆息する道真に親交のない学儒三善清行から辞職勧告の書状が届けられた。彼は、暦数や占星を行う者で来年は革命の年に当たるので貴公の身は危ないという内容だったが、道真の辞任は受けいれられない以上どうすることもできなかったのだ。この革命への警戒を報ずる建言は朝廷にも提出された (滝川幸司『菅原道真』)。布石は打たれていた。この頃、時平は、法皇から反対された醍醐天皇と自分の妹の穏子 (おんし) との婚姻を強引に推し進めていたのである。これは、穏やかとは言えなかった。
昌泰四 (901) 年、禁裏の諸陣は警戒態勢に入り、醍醐天皇は紫宸殿に出御。道真を太宰権帥 (だざいのごんのそち) に任ずる宣明が下される。「欲望のままに権力を求め、法皇にへつらい、天皇との仲を離間し、道真の娘婿であり皇弟である斎世 (ときよ) 親王を帝位に就けんとしている」という罪状であったが、醍醐天皇廃位は既に法皇の了承のもとだという時平への讒言が物を言っていた。17歳の醍醐天皇は、おびえて父に相談することなく、このクーデターに同意したのである。法皇は左衛門の陣に幸し、帝に道真の無実を説得しようとしたが、官人や衛士に遮られ翌朝空しく還ったという。同日、道真は配所に向かった。
塵芥 (ちりあくた) よりも軽くひきおろされ
弓の弦 (つる) よりも速やかに追い放たれ
おもてもあからむこの恥ずかしさ
くびすをかえすいとまもないあわただしさ
牛のひずめのあとのたまり水さえわたしにはみなおとしあな
そらゆく鳥の路にさえ私を待つものは鳶やはやぶさばかり
年老いたしもべはいつも杖にすがってついてくる
疲れた驂 (そいうま) は何度も鞭をあてて車をひく
(『菅家後集』「叙意百韻」川口久雄 訳)
太宰権帥に任ずるとは名ばかりの絶滅収容所送りに他ならなかった。領送使として左衛門少尉善友益友が左右兵衛各一人を率いたが、山城、摂津他、途上の国々での食料、伝馬の給しは禁じられ、旅は苛烈を極めた。ささやかな屋敷の中をのぞきこむように、物見高い人々がつめかけ、道真は嘔吐してもまだ胸がむかつき、げっそり衰えて脚も萎えてよたったという。
岐れ道にきたとき膓を断つかなしさ
遠ざかる都の宮殿をふりさけて眼 (まなこ) も穿 (うがた) れる思い
こぼれる涙はよあけの草におく露の珠 (たま)
とぎれ啼く声はさつき夜の杜鵑の音か
街道筋では砂煙に街並みもかすみ
広野原では春の草が色も濃やかに茂り
駅伝 (うまや) では蹄のやぶれた馬をとりかえもしないし
入り江では艫 (とも) のこわれた船が迎えにくる
ああ郵停は五十にあまり
歩いた距離は三千里の半ばだ
(『菅家後集』「叙意百韻」川口久雄 訳)
配所の官舎は既に使われていなかった無人のあばら家で垣根は破れ、井戸はふさがり、米や塩も途絶え、長雨になれば洪水がへっついの釜に魚を注ぎ込んだ。そのような茅屋にも門衛の監視があった。
旅の愁えをさそう 雲井の雁の列よ
樹はだにしがみつく ひぐらし蝉のさえた啼き声よ
私はある日、匂やかな蘭が秋風に吹きそこなわれるのを見た
わたしは九たび、月の中の桂の花がまどかに咲きみちるのを見た
室を掃って 馨 (けい/石の打楽器) を懸けると心が安らぐ
門をとざして 鍵をはずすさえものうい
わたしはびっこで そのうえつながれている牝羊
わたしは瘡のできた しかも手なえになった雀の子
つながれた羊は せめて垣根の外にあこがれる
手なえの雀は こっそり戸窓の前を歩いてみるのだ
(『菅家後集』「叙意百韻」川口久雄 訳)
娘の衍子 (えんし) は剃髪し出家、長男は土佐、二男は駿河、三男は飛騨、四男は播磨へ流され、あるいは勅使が馬を駆って連れ去る。「口に言うこと能はず 眼の中なる血 / かつ俯 (ふ) しかつ仰ぐ 天神と地祇とを」(『菅家後集』「詠楽天北窓三友詩)。後に自身が天神と呼ばれるようになるのだが、白楽天 (白居易) に倣って琴・酒・詩を三友としようとするも琴は弾けず、酒も嗜めなかった。彼の配謫のあとと伝える榎寺に立つと、北に都府の丘が望まれ、南に道真が登攀し、無実を訴えたと伝えられる天拝 (てんぱい) 山がそびえている。
都府楼は わずかに瓦の色を看る
観音寺は ただ鐘の声をのみ聴く(『菅家後集』「不出門)
この詩は清少納言の故事で知られる廬山に隠棲していた白居易の「香炉峰の雪は簾を撥 (かか) げて看る / 匡廬 (きょうろ/廬山の別称) は是れ名を逃るる地」の詩句を本歌としている。幽閉された彼にとって白居易とその友人元稹 (げんしん) を詩友とする他なかった。
城 (あづち) に盈 (み) ち廓 (くるわ) に溢れて 幾ばくの梅花ぞ
なほしこれ 風光 早歳の華
(『菅家後集』「謫居春雪」前半)
川口さんはこう書いている。「都府の城や条坊の廓に降り積もった春の淡雪に、梅花の映像を思い描きながら、自分を*蘓武や*燕丹に比してやきつく望郷の思いをうたった七絶一首、絶筆。京を放たれてから二年、延喜三 (903) 年二月二十五日、59歳だった。
(『絵解きの世界― 敦煌からの影 ―』「菅原道真とその文学意識)」
*蘓武 漢の使者として匈奴へ向かったが捉えられ、辛酸をなめながらも耐えて漢への帰還を果たす。
*燕丹 燕の太子だった丹は趙の国に人質として送られが、帰国し、同じく人質だった秦の政 (始皇帝) の性質を危ぶみ、その暗殺を画策するも失敗し、逆に燕王によって殺害された。
いずれも帰郷が適った蘓武と燕丹子の故事に掛けて激しい望郷の思いを詠っている。
菅帥 (かんのそち) の怨霊
6年後の延喜九 (909) 年、藤原時平39歳で早世。「菅丞相の霊、白昼顕現す。(時平の) 左右の耳より青龍出現す (『扶桑略紀』)。」
延喜二十三 (923) 年、醍醐天皇王子保明 (やすあきら) 親王21歳で夭逝。「世を挙げて伝く、菅帥霊魂忿宿のなすところなり (『日本略紀』)。」保明親王の母は時平の妹である穏子 (おんし) である。ここに至って道真の左遷の宣明は破棄され、右大臣に復帰に加え一階加増され正二位とされ、名誉回復がなされた。しかし、三年後、保明親王皇子慶頼 (よしより) 王5歳で夭逝。
延長八 (930) 年、内裏に落雷。雷は清涼殿の南西に落下し、大納言清貫 (きよつら) 袍に着火し死亡、右中弁平稀世 (まれよ) 顔が焼けただれて死亡、右兵衛佐美努忠包 (うひょうのすけ みぬのただかね) 髪を焼かれ死亡、紀陰連 (きのかげつら) 腹を炙られ悶え乱れ、安曇宗仁 (あずみのむねひと) 膝を焼かれ倒れ伏した。『北野聖廟縁起』によれば、天満大自在天、つまり道真の眷属である火雷火気毒王の所業とされている。この時、醍醐天皇は体調を崩して寛明 (ゆたあきら) 親王 (朱雀天皇) に譲位し46歳で崩御する。(山田雄司『怨霊とは何か』)
『北野天神縁起』では、道真が北野に祀られる要因に二つの託宣があったことが述べられている。一つは、天慶 (てんぎょう) 五 (942) 年、多治比 (ひめの) あやこに「自分が生きていた時、右近の馬場に遊ぶことが度々あり、そこへ向かえば胸の炎がしばらく安らぐ故、そこに祠を構えて立ち寄るよすがとしてほしい」という内容だった。あやこは身の程の卑しさをはばかり、自らの住居の近くに瑞垣を作ったが神慮に叶わず北野に奉遷して敬ったと言う。
もう一つは、天慶 (てんぎょう) 九 (946) 年、近江国比良宮 (おおみのくにひらぐう) の禰宜神良種 (ねぎ みわのよしたね) の子で7歳の童に降りた。「我が従者に老松 (おいまつ)、冨部 (とみべ) がいるが、老松は我に親しい者であり、大臣だった時に見た夢は松が破断するという配流の前兆だった。松は自分の象徴である。自分の怒りは天に満ち、雷神、鬼神は十万五千の我が眷属となり世界に災いをもたらす。帝釈天も我が手に任せているのだ。不信の者が増えれば疫病を起こすようにも仕向け、雷公に踏み殺させ、悪瘡を流行らせることもしよう。しかし、鎮西にいた時には、我が命が絶えたならば、思わぬ外災に会い、詫び悲しむ者を助け、人を損ずる者を正す者となろうと願ったが、今や、その通りの者となった。公事のために仏の燈明料を止めたことがあり、悔やまれている。それで法華三昧堂を建て大法の法螺を吹きならし、『菅家後集』の「*離家三四月」や「*雁足」の句でも誦してくれるなら嬉しい」、こう言うと童は正気づいたという。
*離家三四月
家を離れて三四月(みつきよつき)
落ちる涙は 百千行
万事みな夢の如し
時々彼の蒼を仰ぐ
*雁足 『謫居春雪』の後半部分
雁の足に黏(ねやかり)り將 (ゐ)て(雪が粘り着いて) 帛 (絹) を繫 (か) けたるかと疑う
烏の頭に點 (さ) し着きて (雪が点のように着いて) は 家に帰らんことを思う
天台側からと真言側からの働きかけがあり、天暦元 (947) 年朝廷の命により北野の朝日寺の最鎮らによって社殿が作られる。後の北野天満宮となった。道真が亡くなって44年後のことだった。これが、道真という巨大な詩魂が天神となった謂われである。
うつしの美学
大岡信『詩人・菅原道真 うつしの美学』
大岡信さんの『詩人・菅原道真 うつしの美学』には「うつし花」と呼ばれた露草のことが書かれている。道真が太宰府に連れて行った幼子二人は、露草のように儚い運命であったろう。その草から得られる汁は花と同じ美しい青で、それを染物の下絵の絵具として使う。それをもとに染め上げたものを水にさらすとその青い汁で描いた部分は水に溶けてなくなり純粋な染料だけの色になるという。「移す」には色や香りを他のものに染みこませるという意味がある。だが、うつし花の名にある移すという語が持っている興味深い働きは、ものを単に他の場所に移すだけではなく、別の者に成り変わらせる、もっと言えば成り入らせることにあるという。
露草
それは、一段高次のものの中に完全に融け入らせることなのである。そして、「うつし」は「移し」、だけでなく「写し」や「映し」にも通ずる。日本の文学・芸術の世界で律儀な写しである写実の影が薄いのは、それよりも一層高い価値を持つ「うつし」へと人々を向かわせたからだからではないか。和歌や俳諧が、たかだか三十一音や十七音によってなされる短小な形式でありながら、不死鳥のように甦り生き続けた秘密はそこにあるのではないかと大岡さんは、言うのである。
実は、それこそが川口久雄さんが道真の詩の中に見出したことなのです。道真は儒教古典は勿論、史記や漢書などの紀伝書や老荘の道教古典、文選や白氏文集、蒙求、千字文といった幅広い教養を身に着けたが、それを貫く太い柱は、官人として為政のための学問と教養だった。学問で身を立てようとする者には必携の中国古典の「写し」としての教養と言ってよかった。
そして式部少輔に任じ文章博士となって、王朝妖艶詩の開花期といわれる宇多天皇の宮廷歳時の詩宴に文人として連なるようになれば、題詠詩に即答し、奉和詩に磨きをかけるために四六駢儷体 (しろくべんれいたい) の六朝的綺靡艶麗な様式を身に着ける必要があった。41歳には、こんな詩を詠んでいた。
しらぎぬのこまやかさにも似た舞姫たちの白い肌に、舞い衣をかさねるさえ重くたえがたい様子である。
「春の色、春の情が腰のまわりにみちみちているからだわ」と煙にまかれそうだ。
化粧くずれした宮女たちは、アクセサリーの宝石箱をあけるのさえおっくうそうな様子、ちょっと歩いて綾綺殿の門を出ればいいのにそれさえ大儀らしい。
彼女たちのちらちらする眼 (まなこ) つかいは、風がそよいでふき乱れるさざ波の花。
彼女たちの雪をめぐらす舞のすがたも、なお軽やかに飛ぶはれた日の風花のようだ。
(『春娃*気力なし』川口久雄 訳) 春娃 (しゅんけい)* は唐代江南の俗語で春の好女を呼ぶ言葉、要するに「お姐ちゃん」ほどの意味。
道真が宮廷文化を牽引した時代にあって、随から唐前期にかけての華麗な宮廷文学の修辞の上に彼の和製漢詩が重ねられ「映され」「移され」ていった。道真の死後1世紀ほどのちの公任の『和漢朗詠集』に収められた道真の作品は、『菅家後集』にあるような作品ではなく、このような妖艶美な作品ばかりなのです。それが人口に膾炙していった。この道真以後、遣唐使の廃止なども手伝って日本の文学が漢風スタイルから古今集、源氏物語へと大きく舵をきる。そのターニングポインにおいて、このような宮廷貴族のサロン文学と呼べるような詩しか注目されていなかったことは、留意しておかなければなりません。
ちなみに、推古朝の時代、日本が遣隋使を派遣した頃、晋、南北朝 (5世紀半ば~6世紀末/六朝時代を含む) から隋の統一にかけて四六駢儷体が最盛期となった時期が重なっている。「素朴であるべき文学の夜明けにデカダンス的な文章に影響され、難解で美飾な文といきなり直面することになる」と川口さんは言う。そこに漢文学へのコンプレックスが生まれたことは容易に想像できる。
ところで、この頃、宇多帝が発案した『新撰万葉集』という和歌を漢詩文に翻訳させるという前代未聞の撰修がつくられる。漢詩→和歌、という流れは和歌→漢詩というふうに方向性が逆転され、大岡さんの言葉を借りれば純粋な言語の創造性に向けた実験となった。ここでも、道真は大きな役割を担っていた。
話者を表す主語が隠されているのは日本の文学において象徴的なことですが、ここで、際立つのは、漢詩において嘆きなどの情緒をいだいている者が客観的に条件づけられ、明らかにされ、そのことによってより真実性に迫ることができると考えられたのに対して和歌が「ひたすら立ち上るあてどない嘆きとしてかろうじて成立している」という大岡さんの指摘です。しかし、真実性に迫るためには、虚構と誇張を含まざるを得なかった。この文学的問題を道真が『菅家後集』にまとめられた不遇の時代にどう克服していったのかが、次のテーマになるのです。
叙事性と叙情性の文学
唐において、六朝時代を代表とする典故を散りばめ、華美な修辞をもてあそぶ文芸は、パターン化し、保守体制的な無気力と頽廃を孕むのは世の常だった。伏流していた古文に帰れという流れが顕在化し始める。史記などにみられる百科全書的な啓蒙精神とそれを直裁に表す文体とが注目されるようになった。それは、白話体と呼ばれる話し言葉を用いる文学への移行に繋がる。それは、ラテン語がその俗語であるロマンス語に置き換えられていくのと似ていた。そのような大陸の動向にいち早く敏感に反応したのは道真だった。彼の宮廷詩において、妖艶な雰囲気は、そのままに、すでに白話体が使われ、典故を用いず、対偶にも拘らないスタイルが、なぞらえられていく。わが国ぶりや人間像を素直に読み込もうとする白描文体をも創造したと川口さんは言う。彼の文体は、そのように次第に「うつされて」いったのである。彼は、歌集を編み、歌から漢詩へと編みかえ、歌人からも尊敬を受けた。このような風潮の中から『土佐日記』のような作品が後に生まれるようになる。白話体への移行にものを言わせるためには日本語で表現することが一番手っ取り早かったのである。
菅原道真 (845-903) が生まれた翌年、白居易 (772-846) が、没している。白氏の詩文は彼の在世当時から日本に流入していて、その名声は日に日に高まっていったのはご存じでしょう。彼の詩は平俗な言葉ゆえに酒楼の歌妓さえ口ずさんだ。一方で、貴族社会の腐敗に対して、皮肉な批判を加えてもいた。彼は、士大夫と呼ぶにふさわしい詩人だったと言えるでしょう。道真もそのような詩に傾斜していった。その傾向は、左遷されて讃岐に赴任するころから始まる。右大臣になる前から白氏の諷喩詩に目を開かれていった。こういう人間は、他の権力者にとって目障りだったでしょう。そして、太宰府時代、幽閉されていた身の道真にとって詩友は、この白居易と元稹 (げんしん) という左遷されながらも詩を送りあい友情を温めあった二人しかいなかった。
漢詩の受容の過程において取られた方法は、佳句を選び出して並置する方法だったと大岡さんは言います。『和漢朗詠集』は、このような断片的で叙情的な漢詩を和歌と併記したことは鮮やかな「移し」だったと。この後、叙事性は、どんどん切り捨てられて短縮化され、連歌・連句の世界となり、日本的ポストモダンの世界になっていった。勿論、道真は、ポストモダンの時代に触れてはいない。彼は、「漢」と「和」という二つの言語を繋ぐことにこだわり続けた真のモダニストでした。平明な言葉でありながら、心情を豊かに謳い上げ、迫真性に迫る。それは、叙事性と叙情性との緊密な融合に他ならなかった。同様の構造が戦後の日本文学にも存在していた。ここに、日本の文学が一千年以上に亘って失ってきた重大な実質を見ると大岡さんは言うのです。
「なりいる」
最後は川口久雄さんの文章を少し長くなりますが、引用させていただきます。
「それまでの京都での生活が栄光に満ちかがやいておればおるほど、凡てを剝ぎ取られ、凡てから断ち切られ、目に見えない藤丸籠に入れられて護送され、格子なき牢獄につながれた生活を強いられたのはあまりに酷いモンタージュだ。こうした限界状況下、五尺の肉体だけになりはてて、彼は否応なく自己に直面する。彼はこのギリギリの時点では内部からの輝き出すおのれ自身に直面する。それは彼がこれまでに数多く意識して作ったところの詩ではない。これまでと次元を異にし、自らも作ろうと意識しないで内部から輝き出してきた自ずからなる詩、『真の詩』とよぶべきものだった。彼は挫折して政治家の殻というか、ぬいぐるみ (褌脱) というか、そうした外皮を完全に脱ぎ捨てたときに、おのれの実存に目をこらし、真の詩人になりえて結局は勝利したといえよう。(『絵解きの世界― 敦煌からの影 ―』「菅原道真とその文学意識」)」
彼は白居易をうつし、なぞらえ、そして「のりうつった」と言えるのでしょうか。少なくとも漢詩を乗り越えんとし、「日本の漢詩」を創造しようとしたことは間違いないでしょう。川口さんが「真の詩」と呼ぶものに僕たちは感動する。彼は、真の詩に「なりいった」と言えるかもしれない。川口さんも大岡さんも、それに動かされて、こうした契機を作ってくださった。そのことに感謝するほかはありません。
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