


ネリー・ザックス(1891-1970)『ネリー・ザックス詩集』
死んだ子供が話す
かあさんはぼくの手を握っていたんだ。
すると誰かが別れの刃 (やいば) をふり上げた――
それがぼくに当たらないように
かあさんは手を離したんだ。
でもその手はもう一度ぼくのお尻にちょっとさわり――
それから血を流した――
その時からぼくの喉のなかでは
別れの刃が食べ物をふたつに引き裂くんだ――
刃は朝の薄明りのなかで太陽といっしょに現れ
ぼくの眼のなかで鋭くなりはじめ――
耳の中では風と水が研がれ、
慰めの声はみんな心臓につき刺さった――
そして死へと引き立てられて行ったとき、
最後の瞬間にもまだぼくは
大きな別れの刃が抜かれるのを感じたんだ。
(ネリー・ザックス『死の家の中で 死んでしまったわたしの兄弟・姉妹たちに』より 網島寿秀 訳)
1940年五月十六日。ナチスの鉄槌が振り下ろされる直前、彼女は薄氷を踏む思いでベルリンの地を脱した。安息の地を求めて辿り着いたストックホルム近郊。翌年十月に彼女が身を潜めたのは、陽光の差し込まぬ薄暗い一室と、簡素な台所のみが設えられた寒々しいアパートだった。
病の母を抱え、スウェーデンの詩をドイツ語へと移し替える翻訳作業によって辛うじて日々の糊口を凌ぐ。逃亡から二年、しかし、その静寂の中から堰を切ったように詩や劇詩が溢れ出す。1947年、ついに処女詩集『死の家のなかで』が世に問われることとなった。その詩集の中に先ほど掲げた『死んだ子供が話す』がある。弾圧の網の目を潜り抜け、五十の坂を越えた彼女が、抑えがたい熱情とともに結晶化させようとしたもの。それは、もはや「哀悼の涙」と呼ぶほかない、純粋で過酷な祈りであった。
彼はわが肉と皮を衰えさせ、わが骨を砕き 、
苦しみと悩みをもって、わたしを囲み、わたしを閉じこめ、
遠い昔に死んだ者のように、暗い所に住まわせられた。
彼はわたしのまわりに、かきをめぐらして、出ることのできないようにし、重い鎖でわたしをつながれた。(『哀歌』第三章)
「肉と皮」、「骨」、「衰えさせ」、「砕き」といった受難を暗示する言葉。 この旧約聖書の『哀歌』に見られるような換喩(メトノミー)の連なりが、彼女の言葉の骨格を成している。その詩行は、精緻なリズムを刻みながらも、深淵から浮かび上がる死の影を投げかける。その衝撃は、他のいかなる抒情をも圧倒してやまない。
この苛烈な表現の背後には、彼女が生涯決して口にすることのなかった、凍てついた過去が横たわっている。かつて、彼女の著作を手に取りながら『夜稿百話』に書き切れなかった理由が、秘められた「過去の真実」に迫ることができなかったからに他ならない。
今回の流風一詩は『ネリー・ザックス詩集』を網島寿秀さんの名訳と「ネリー・ザックス詩集 後記」に、そして『パウル・ツェラン/ネリー・ザックス 往復書簡』、関口裕昭著『パウル・ツェランとユダヤの傷』に依りながらご紹介します。
ネリー・ザックス 秘められた過去

ネリー・ザックス 1910
1891年、ベルリン。ネリー・ザックスは、ユダヤ系の家庭に生を受けた。父はエキスパンダーなどのゴム製品を製造する工場の主でありながら、傍らでピアノの即興演奏に耽るような、豊かな情緒を湛えた人物であった。十六歳年下の母は、ベルリンという喧騒のただなかにありながら、山羊やノロ鹿を慈しみ育てるという、どこか世俗を離れた純朴な家庭環境を築いていたという。
しかし、そのあまりに繊細な感性は、教室という名の集団生活には馴染まなかった。内気な少女は小学校を中途で退き、個人教授による孤独な学びのなかで成長していく。女学校は無事に終え、十七、八歳の瑞々しい季節を迎えて、彼女は生涯の呪縛となる「ある恋」に落ちる。相手の名も、その詳細も今や歴史の闇に沈み知る由もないが、その破局が彼女の魂に刻んだ傷はあまりに深く、精神の均衡を欠き、治療を余儀なくされた。
1903年頃、彼女の指先から最初の言葉が零れ落ちる。当時のドイツを席巻していた表現主義の奔流に背を向けるように、彼女が心を寄せたのは、『ゲスタ・ベーリングのサガ』を著したセルマ・ラーゲルレーヴの幻想的な世界であり、ノヴァーリスやヘルダーリンの詩、あるいはヤコブ・ベーメの深遠な神秘思想であった。現実の痛みから逃れるように没入したその静謐な宇宙こそが、後の彼女の言葉の揺籃となったのである。
この頃、彼女は生涯の盟友となるグドゥルン・ハーランと運命的な邂逅を果たす。しかし、穏やかな日々は1930年の父の死とともに終わりを告げ、時代は不穏な様相を帯び始める。台頭するナチスの軍靴が不気味に響き、私邸をナチスの準軍事組織である突撃隊が蹂躙する。その混乱の最中、彼女はかつての恋人と再会を果たすが、彼はあまりに過酷な運命に翻弄され、「殉教の死」を遂げたという事実のみが、後に彼女の口から語られるだけだった。
1940年。労働収容所への召集という死の宣告が彼女に突きつけられる。絶体絶命の淵にあって、彼女を救ったのは、親友グドゥルン・ハーランがラーゲルレーヴへと繋いでくれた「心の糸」であった。辛うじて母を伴い、北方の地スウェーデンへと逃れた彼女の背後で、かつての故郷は狂気の淵へと沈んでいったのである。
(網島寿秀 『ネリー・ザックス詩集』後記)

セルマ・ラーゲルレーヴ
(1958-1940)
『ニルスのふしぎな旅』で知られる。
パウル・ツェランの第二の母
1950年には母が亡くなるが、この頃から詩人としてのザックスはドイツでも知られるようになり、50年代後半にはドイツやスウェーデンで受賞の栄誉に輝いた。住まいは同じ建物の白夜も見渡せる三階に引っ越していたが、その上の階での物音をたてる住人が越して以来、自分が監視され無線で報告されていると不安を訴えるようになる。
このような騒ぎの中で19歳年下のユダヤ人、パウル・ツェランとの交友が深められていった。ツェランはドイツ語で詩を綴るホロコーストの詩人として知られる。交流の契機は、1957年にツェランが編集に加わったイタリアの文芸雑誌『ボッテーゲ・オスクーレ』にザックスの未発表の詩を掲載してもらえないか依頼したことから始まる。やがて二人の間に共通の心の傷と使命のあることが闡明となっていった。ツェランにとってザックスは第二の母のような存在になっていく。ツェランへの手紙にザックスは、このように書いている。
「私の内部には、私たちの携わっている仕事が、犠牲者たちの灰をともに苦しみ抜き、聖霊化することだという信仰が、今も昔も一息するごとに感じられます。私たちのこの暗い成就が刻み込める目に見えない宇宙があることを私は信じます。私は石を音楽の中に解放できる光のエネルギーを感じます。(1958年1月9日書簡 関口裕昭『パウル・ツェランとユダヤの傷』)」

パウル・ツェラン(1920-1970)
この頃、反ユダヤ主義の思潮が再燃し始めていて、評判の高まっていくツェランの詩にたいする誹謗・中傷は後を絶たなかったと言われる。ツェランが傷ついた心情を手紙に託すとザックスは「親愛なるパウル・ツェラン、今後も真実を届け会いましょう。 パリとストックホルムの間には、慰めの子午線が通っているのです (1959年10月28日 ツェラン宛書簡)」と返事を書くのだった。この子午線という言葉はビューヒナー賞受賞講演でツェランが使った言葉として知られている。
1960年ザックスはドロステ・ヒュルスホフ賞を受賞し、その受賞式のためにドイツの最南端のメールスブルクを訪れることとなる。彼女はできるだけドイツの地を踏もうとせず、チューリッヒ経由でメールスブルクに行く径路をとった。彼女もまたツェランと同様にドイツに対する不信と恐怖を引きずっていた。チューリッヒのリマト川と大聖堂が見えるホテルでザックスとツェランは出会うことになり、パウル・ツェランのこの様な詩が生まれている。

リマト川とフラウミュンスター(中)、ツム・シュトルヒェンホテル (右端)
チューリッヒ、鸛 (こうのとり/ツム・シュトルヒェン) ホテルで
ネリー・ザックスのために
あまりに多すぎることが話題でした、あまりに少なすぎることが。
あなたともう一人のあなたのことが。
明るいことによって濁っていることが、
ユダヤ的なことが、
あなたの神のことが。
それら
のことが。
昇天祭の日、寺院は
かなたに立ち、
黄色の幾筋かとともに水を渡って来ました。
あなたの神のことが話題でした。
わたしは神に逆らって語り、わたしのものである心の望みを
その至高の、ひきつりからまりながら出てくる言葉、その
ののしる言葉
に
かけました――
あなたの眼はわたしを見つめ、外 (そ) れ、
あなたの口は
あなたの眼に語りかけていました、わたしは聞きました――
「わたしたちには、
ね、分からないのです、そうでしょう ?
わたしたちには、
そう、分らないのです、
何が
本当なのか‥‥」
( 『パウル・ツェラン/ネリー・ザックス 往復書簡』飯吉光夫 訳 )
この詩はザックスとツェランの宗教観、神観の違いが鮮明になっている。ヤコブ・ベーメなどの思想に親しんでいたザックスはユダヤ神秘主義に造詣が深かったが、TENEBRAE(暗闇/参考図書参照)で神への激越な抗議を表現したツェランは、あくまでユダヤ教や神に対して懐疑的だったのである。冒頭の「あまりに多すぎることが話題でした、あまりに少なすぎることが」は、ユダヤ系ドイツ人の文学者マルガレーテ・ズースマンが『ヨブ記とユダヤ民族の使命』においてアウシュビッツに対する「おそらく、この出来事に対しては、どの言葉も多すぎ、少なすぎるのである」から援用されていると考えられている (関口裕昭『パウル・ツェランとユダヤの傷』)。
ザックスの晩年
チューリッヒでの出会いの三週間後、ザックスはパリのツェラン一家を訪れたが、同行したエヴァ=リザ・レナートソンはザックスの精神状態を打ち明け、ユダヤ人問題に触れないように頼んだという (網島寿秀 『ネリー・ザックス詩集』後記) 。ストックホルムに戻ったザックスは精神の異常を加速させていく。
「ナチの心霊術者たちの協会が無線電信を使って恐ろしいほど巧妙にわたしを追いつめています。わたしがどこに赴くかを、すべて知っています。旅に出たときは、神経ガスを用いようとしました。もう何年も前からひそかにこの家に入って、マイクで壁ごしに聞いています。‥‥」(1960年7月25日、ツェラン宛書簡『パウル・ツェラン/ネリー・ザックス 往復書簡』より 飯吉光夫 訳)
8月8日には全身硬直を発症して病院に運びこまれている。翌9月にはツェランにストックホルムに来てほしいとすがるような手紙を書き「理性を取り戻すまで恐ろしい時間だった」としたためた。だが、ツェランが彼女のもとに訪れたときには錯乱がひどく面会は叶わなかったという。入退院を繰り返しながら病院と自宅を行き来し、1963年まで療養所での治療は続いた。しかし、束の間の朗報が訪れる。1966年、ノーベル文学賞の受賞がきまったのである。

ネリー・ザックスとヘブライ文学者シュムエル・アグノン。
ストックホルムでのノーベル賞受賞祝賀行事の準備の様子。
1968年には神経症が再発し、短期に入院した後、翌年には癌の手術で再び入院、1970年に亡くなっている。1960年代頃から精神を病み始めていたパウル・ツェランも精神病院への入退院を繰り返していて、同年、ザックスが亡くなるよりも20日ほど前にセーヌ川に投身自殺していた。互いに支え合い、慈しみあった彼らが被ったユダヤの傷は癒しがたいものであった。
子供たちが死ぬときには
子供たちが死ぬときには
つねに
もっとも静かなものたちが故里を失う。
夕焼けの痛みのマントのなかで
黒歌鳥の暗い魂が
夜をこちらへ嘆いている――
震える草の上を風は吹きゆかず
かけらとなった光たちは消え
死の種をまく――
子供たちが死ぬときには
つねに
夜の炎の顔が、秘密のうちに独り
燃え落ちる――
そして死が送り出す道しるべのことを
誰が知ろう――
生命 (いのち) の樹の匂い、
一日を縮める鶏の鳴き声
子供部屋のなかに忍びいる
秋の夕暮の魔の時――
闇の岸辺にうち寄せる水
ざわめき、ただよう時の眠り――
子供たちが死ぬときには
つねに
人形の家の鏡たちが
ひとつの息に曇る、
子供の血の繻子 (しゅす) を着た
指の *1リリパットの踊りを見なくなる――
双眼鏡のなかで
月にうっとりした世界のように
動きのない踊り。
子供たちが死ぬときには
つねに
石と星とそしてたくさんの夢が
故里をなくすのだ。
*1リリパット ガリヴァー旅行記に登場する小人の国
(ネリー・ザックス『星の蝕 わたしの父の思い出に』より 網島寿秀 訳)
子供たちが死ぬときには静かなものたちの故里が失われる。血のような夕焼けの中で風は吹くことを止め、黒歌鳥の嘆き、光のかけらは死の種となり、夜の顔が燃え落ちる、命を縮める鶏の声が忍び入り、息に曇る人形の家の鏡、動きを止める指の踊り、故里を奪われる石と星と夢。それが子供たちが死ぬときに起こることである。石は星のかけらであり、無機物である石は死者の象徴とされることが多い。そして人は夢がかなうことを星に願う。ここで思い出されるのはザックスがツェランに向けて書き送った言葉だ。「石を音楽の中に解放できる光のエネルギーを感じます。」光のエネルギーを放つ石は星となる。
戦争の中で命を奪われ犠牲になる子供たち。その報道が絶え間なく続いている。ウクライナでも、ガザを筆頭にパレスチナでも、アフリカでも、イランでも。政治家たちは戦争犯罪者となり、病院や小学校で子供たちが殺されても口を拭う。ただでさえ繊細なザックスが見たのは恋人だった人の殉教だけではなかったのではないか。ゲットーに追い立てられ、毎日のように死の列車に乗せられていく子供たちを引き裂かれる思いで見ていたかもしれない。
ザックスは『聖なる地の声』の中で、こう詠う。「眠っているあいだに殺された子供が/起き上がり、何千という樹をたわめる/そしてその先に/ かつてイスラエルと呼ばれた/ 白く息づく星をつがえ、言う。/ さあ早く戻るんだ、/ あそこへ、あの涙が永遠を意味するところまで (網島寿秀 訳)」。
もはや子供たちの魂が戻る故里の場所はなく、涙だけが永遠にある。
夜稿百話 関連リンク
第一話 関口裕昭『パウル・ツェランとユダヤの傷』
第25話 ゲルショム・ショーレム『ユダヤ神秘主義』
part1 天の玉座とカバラー的世界感情
part2 中世ドイツのハーシードと祈祷神秘主義
part3 スペイン・カバラーの黎明とアブラハム・アブーラーフィア
part4 神秘主義的精神小説 ゾーハル
最終回 ルーリアのカバラーとアダム・カドモン
第47話 ヤコブ・ベーメ『シグナトゥーラ・レールム』
part1 味覚の闘争からイデアの沸き立つ自然へ
part2 アダムとソフィアの結婚とキリストの復活
第48話 ノヴァーリス
part1 世界のロマン化と自然神秘思想
part2 絶対的偶然の詩学
第66話 『ヘルダーリン詩集』

『パウル・ツェラン/ネリー・ザックス 往復書簡』
ザックスはパリにツェラン一家三人を尋ねた後、礼状をこのように書いている。
「愛するお三方 、 お別れした後、空を飛び、飛行機を降り、すぐに車に乗せられましたが ―― 前方をあなたがいつも飛んでおられました。スウェーデンの大地の草は、しばらくの間、こどもの夢の中でだけ見られるような金緑色でした。わたしは物事を新しくみはじめようとしています。というのも、私はあなたが耐えているおられるのを見て、そこに光明を見出したからです。これまでの自分のように、苦しみ ―― や喜び ―― の中でせっかちに窒息してしまわないこと。けれども、それにはまだ訓練を要します。‥‥(6月18日 ツェラン宛 飯吉光夫 訳)」

関口裕昭 『パウル・ツェランとユダヤの傷』より
TENEBRAE(暗闇)
私たちはそばにいます、主よ、 / そばにいて掴むことができます。/ もう掴みました、主よ、/ 互いに爪を食い入らせ、まるで / 私たちそれぞれの躰が/あなたの躰であるかのように、主よ。/ 祈りなさい、主よ、/私たちに祈りなさい、/ 私たちはそばにいます。/ 風に歪められて私たちは歩みました、/ 私たちは歩みました、窪地へと火口湖へと/ 身をかがめようとしました。/ 水飼い場へ私たちは歩み寄りました。/ それは血でした、それは / あなたが流したものでした、主よ。 / それは輝いていました。 / それは私たちの目にあなたの像を投げ入れました、主よ。 / 目と口はうつろに開かれていました、主よ。/ 私たちは飲み干しました、主よ。/ その血と、血の中にあった像を、主よ。/ 祈りなさい、主よ。/ 私たちはそばにいます。
(関口裕昭 訳)


マルガレーテ・ズースマン
(1872-1966)
ユダヤ系ドイツ人の宗教哲学者、文化
評論家、詩人。詩、フェミニズム、革命、ユダヤ教などに関する書籍やエッセイを執筆したことで知られる。





コメント