ベーメが生きていた神聖ローマ帝国の時代、皇帝ルドルフ2世は1583年に首都をウィーンからプラハに移し、街は繁栄の時を謳歌した。ベーメが8歳ころのことである。だが、軍事的にはオスマントルコとの長い反目があり経済的にも疲弊していたし、宗教的には、拮抗したプロテスタントとカトリックの勢力争いが政治的な困難さを助長し、スペインで成長して熱心なカトリックであったルドルフ二世もおよそ宗教に関心を失い、政治も投げ出すような状況に追い込まれる。
このあたりの事情は、R.J.W.エヴァンズ『魔術の帝国 ― ルドルフ二世とその世界 ― 』に詳しい。ルドルフ二世は宋の皇帝であった徽宗と同様、政治に投げやりな風流天子ではあったが秘められたものには目がなかった。彼の宮廷は、ルネ・ホッケが強調したように後期マニエリスム芸術の宝庫となり、それらに用いられる象徴や寓意は錬金術や穏秘学にも通じるものだった。アンドレーエの薔薇十字の思想も流れ込んでいて、アグリッパ、カルダーノ、ポルタなどの著作は、当時、広く読まれた。ルドルフ二世もポルタを再三、宮廷に呼び寄せようとしたし、一度はジョン・ディーに謁見を許している。とりわけ錬金術への情熱は、1570年から半世紀ほどの間に頂点に達したいわれ、宮廷侍医であったミヒャエル・マイヤーなどは『逃げるアタランテ』などの錬金術書を立てつづけに出版した。この頃最も大きな影響力を持っていたのはパラケルスス (1493-1541) であった。
このような帝国の状況の中では、ペシミズムとユートピア思想が混淆し、政治に対しても千年王国説や汎知学的叡智の情熱と穏秘学や魔術とを切り離すことができなくなっていく。現実に国家を魔術的宇宙論の一つの様相として捉えていたとエヴァンズは指摘する。ベーメは神秘学や錬金術思想へと接近を図るのである。パラケルスス文献最大の蒐集家はシュレジェン (シレジア) 人シュトリーガウのヨーハン・モンタヌスで、パラケルスス全集は主にシュレジェンに流布していたといわれる。ベーメが暮らしたゲルリッツもその地方に接していた。
ベーメの錬金術
パラケルススの錬金術は、生気論的宇宙観、天上的なものと地上的なものの照応、様々な力の影響関係とその調和、それらの表れとしての徴 (シグナチュス) といった原理から導き出されていた。例えばベーメの手稿ではないかと思える『徴 (デ・シグナトゥーラ) について ―― 事物の誕生と関係について』では、こう述べられている。
「徴からは全てを読み取ることができる。何故ならその徴のうちに宿る精神が、徴の本質を成すものによって明らかにされるから、すなわち究極の根源的言葉を通じてその精神が開示されるからである。また、徴は他者のうちにある同じ精神を呼び覚ますことができる。そこで、徴は他者にとっても明らかなものとなり、こうして一つの意志、一つの精神、一つの理性となるのだ (R.J.W.エヴァンズ『魔術の帝国 』註より) 。」言うまでもなく、この徴は直観に導かれ物を介して実地にその精神的働きを探求し、検証することによって確認されるものであって、論証によるものではなかった。
万物の第一の母である欲は七つの性質・姿に移行することは part1 で既に見た。簡単に振り返ってみたい。第一は引き込む渋さ、第二は突き抜けようとする苦さ、第三はその二つによってグルグル回る大いなる不安、ここまでは永遠の自然の闇の世界である。ここに正・反・合の第一世代が登場する。第四の姿は火だが、サルニテルの爆発によって生命の第一プリンキピウム (原理) となって闇と光の世界を分け、マテリア (物質性) の分離が行われ、身体性の起源となる。そして、永遠の心情が生まれ、死すべきものと生命あるものとが分けられる。第五は愛の欲。その自由なルスト (よろこび) と飢えに苦しむ火のルストの姿であり、それぞれ棘と渋さの性質を分け持っている。
第六は響き・言葉。サルニテルの衝撃を受けて相反するスルとフルの硫黄の発生とその影響をうけた回るメルクリウスという第二世代の正・反・合が現れ、この工匠メルクリウスの性質によってエッセンス (本質・イデア) が増大していく。この合は第一・第二世代ともにロータリーエンジンのような駆動力となっている。火が燃えはじめると同時にヴェヌスの愛の欲が全てに浸透して他を求める欲を起こす。ここに、味覚、嗅覚、聴覚、視覚、他の感覚、言葉、知性、森羅万象の真の生命が始まる。光が第二の泉である第二プリンキピウムを開くのである。死の中に生命が、苦の中に愛が芽生える。
第七の姿は体、住まい、食べ物。一から六までの全ての姿とそこから生まれる他の姿の器となる。愛と飢えとが生まれ欲するものを求めて外へと向かい、七つの姿は、それぞれ固有の飢えの性質に応じてその生命にあう体を作る。そして、分離が起こり太陽と星、全被造物、金属、石と土となるのである。これが第三プリンキピウム、物質世界である。
上図は、硫黄スルフルの持つ二重性 (光・自由のルスト+激しく引き込む暗黒と火のエッセンス) を中心に、それらの働きによって生じる七つの惑星と七つの金属の成り立ち、及びその性質を示している。詳細は図をご覧いただきたい。ベーメにとってサルニテルの爆発によって生じるスルフルは「渋さ」と「苦さ」を受け継ぐもので、宇宙創造において極めて重要な働きをするのである。
スル+フルは、この二重性によって回る輪であり、これがスルフルの中にメルクリウスを生じさせ、それが分裂し始めることによって身体的・物体的な本体ができ始める。スルは内なる神の中にあり、フルは自然へ向かう。サルニテル (稲妻・閃光) のショックは死と生という二方向に導いた。死という厳しい欲の憤怒とルスト (よろこび) という愛の本体性への方向である。この相反する性質が外なる自然への扉を開き、ガイスト (精神) の王国が、ガイストと物質の本体との分離へと展開する。
スル (生の方向) 光・自由のルスト(よろこび)
フル (死の方向) 火のエッセンス、激しく引き込む暗黒・憤怒
自由へのマテリア (物質性) が殺されて、一旦、自由になり、憤怒から解放される。死は変容への契機とお考えいただきたい。この時、マテリアは沈下してもなお憤怒に捉えられた水になる。揮発性が抜けて液体に安定すると喩えてもよい。この水は分離し、一方は憤怒の本体から地と石に、一方は光の優しさから水になる。固体と液体の分離である。まず、不安の死をくぐり抜けて硫黄の水が誕生する。硫黄の中には油・光があって自由なルストが成長を促す。そして渋く厳しい性格から塩水が生まれ、火の熱によって塩となる。生きとし生けるものは塩と硫黄を含む。苦く棘のある引きつける性格は水から闇の本性である土を生む。土のマテリアは混合物であり、地の死によって青々とした植物を生み出す。
永遠の火は魔的なガイストであり、死を知らない。その鋭さが永遠の自然となり、光によって憤怒の性質を失うと死ぬ。それは死と言っても、苦の欲から愛の欲へと別の泉に入ることに過ぎない。火に死んで死をくぐり抜けるものは神の本体である。サルニテルの衝撃によって光からやさしさの本体を生む。やさしさはよろこびに震え、神の怒りである火の死の中に沈んで消えると、神が優しい光の内に宿る。光をもたらす第一性質は、永遠の自然の火と憤怒であり、闇の世界を開くのである。風は機織るガイストであり、スルフルの内にある外へと向かうガイストである。
このようにしてスルフルの相反した性格は相携えて地水火風を形成し、星辰やあらゆる生きとし生けるもの形成していくことになるのである。
アダムの誕生と死
人間アダムはルチフェルに損なわれた神の顕現運動を回復するために三つのプリンキピウムの中心に創造された。アダムはソフィアの智と一体であったために神の似姿となったし、この永遠の乙女と一体であったが故に両性具有と呼ばれた。それは王と王女の結婚だった。
天国でアダムが創られた時、天上のメルクリウスがアダムを導き、その生命と知性は神の本体性の油の内に輝き、天使に近かった。しかし、悪魔が蛇の本質と性質を使って、サトゥルヌスの全てを支配する冷たい毒を油の光の中に入れ、闇が生じることによって、アダムは神の光の内に死んだ。アダムは、水のメリクリウスを欲したが、それには死に至る毒を含んでいたし、ルチフェルは火の性質を欲して、その強さと力によって反逆の心を生むことになる。神のやさしさの本体性である油は両者から去った。
「女の末が蛇の頭を踏みつぶす」と神が言われたが、蛇が咬むのは神の怒りを表している。女の末とは愛の火であり、それが再び目覚めれば怒りを貫いて輝き、憤怒を無にして神の喜びに変え、死んだ魂は蘇り、高貴な石を手にする。賢者の石のプロセスもまた同様であるとベーメはいう。
イエス・キリストと賢者の石
闇の泉である死による不安の苦は、生命の内に輝く光の泉に変換されなければならない。こうして人間は再び生命あるものとなり、ティンクトゥール (霊液) に染め上げられ、キリストに包まれる。
ユングは『パラケルスス論』の中でこう書いている。錬金術は太古からアルカナ(秘儀)哲学として生き続けた。その中心は「ヘルメス」ないし「メルクリウス」であり、水銀と宇宙霊としての二重の意味を持っていた。錬金術の作業は、本質的には「プリマ・マテリア(第一質料)」、すなわちカオスをアクティブなものとパッシブなもの、すなわち魂と体に分離することであった。その分離の後で、両者は人格化された姿で「結合」もしくは「化学の結婚」の中で再び合一される。この「結合」は、「聖なる結婚」として太陽と月との祭儀的な「床入りの儀」として寓意的に表現された。この合一から「英知の子」もしくは「賢者の子」が生み出される。これが変容したメルクリウスであり、完全無欠な状態を示すために両性具有として描かれてきたという。
ベーメもまた、こう述べた。天上に閉じ込められ、力を失い死んでいるメルクリウスをメルクリウス自身の (永遠の) 洗礼で洗礼し、メルクリウスの神の水・地の水を手にしなければならない。神のメルクリウスは自らの中に活動と飢えを引き起こす力を受けいれると神の本体が注ぎ込まれてよろこびの国が生まれる。こうならなければ地のメルクリウスにも神的な水は与えられないと言うのである。
そして、こう続ける。「キリストは、その奇跡すべてを古いアダムを通じてあらわしたが故に、古い人間、新しい人間両方を神の大いなる怒りの中に投げ入れ、古いアダムを死なしめ、風に曝し、十字架にかけ雨ざらしにし、おろして、墓に入れ、腐らしめよ。そのとき、キリストは死からよみがえり、姿をあらわすが、その姿を見る者は、信仰ある者のみ (南原実訳 )。」
ユングもまたこのように述べる。カオス=混沌塊は、ニグレド(黒化)に照応する。それは意識と無意識の衝突であり、それによる混乱である。錬金術の作業はまさに暗黒への降下、ないしは無意識への下降とともに始まる死と再誕の「腐敗」運動である。
キリストによるアダムの復活
錬金術書はこう言う。原物質 (第一質料) だけでは同類のものが結合しているのみで何も生み出すことができない。王は水底で魂の抜け殻 (エクスアニミス) となっている。この時、隔絶された水底という無意識の深みから王の叫び声が聞こえる。意識はこの叫びに応じなければならない。それは、「穴の中への降下」という儀式、あるいは「夜の航海」という冒険行となる。その目的は生の再興、死の克服と復活である。王と王女、金と銀、水と火、水銀と硫黄、などなどの対立物が結びあわされる。「対立物の結合」は、坩堝やレトルトの中の化学の結婚でもある。肉体を意味する父王は若返り、「王の息子」の姿に変る。変容が起こるのである (C.G.ユング『心理学と錬金術Ⅱ』)。
「第一のアダムは倒れて、神の世界の力を失い、眠りに落ちた。死の死のうちに死んだのである。第二のアダムは、死の死のなかに入り、死の死を自分のなか、アダムの人間性のなかにとらえ、死に対する死となり、生命を死から救い出して、永遠の自由へと導き、神の全能のうちに、第一のアダムの本体となって立ち上がった (南原 実 訳) 」とベーメは言う。この第二のアダムこそイエス・キリストに他ならない。神のガイストがキリストの人間性を通して、アダムを死から救い出したのであり、ここにアダムは復活する。これがキリストの死の内に死に、キリストのうちに蘇って生きると言う意味なのである。
ウィリアム・ロー『ドイツの神智学者ヤコブ・
ベーメンの深淵なプリンキピアについて』1763
本書より転載
上段の左からMは光の国に住むミカエル、Sは智の乙女ソフィア、Uもまた光の国に住まうウリエル、その下に第二プリンキピウム、太陽を中心とした7惑星、そしてアダムである。アダムは闇の世界から逃れ、十字架 (キリスト) と重ねられている。
罪に枯れた人間の枝は、イエスにより生命の力と樹液を与えられ、自らの父アダムの心臓と力となったキリストの幹に人性の枝葉を広げ、実を結んで神を褒め称えることとなる。こうして自身の内に天国が開かれ、父なる神の特性はすべて自身において神の似姿としてあらわれる。それは、半陰陽というべきメルクリウスの毒性に犯された人間性をキリストが神の永遠性と処女性である天上の血によって染め、人間の我性は滅び無心の生命へと蘇へらせる。それは、メルクリウス的、マルス的、サトゥルヌス的な闇に押し込む渋さのマトリックスに染まった意志と欲が錬金術のヴェヌスの血の中で死に、死の中へと向かい、共に一つの愛、一つの意志によみがえることを意味した。王と王妃の結婚と王の息子の誕生である。
ベーメはこう述べている。「同好の士のよく心得るべきは、キリストのたどった道と錬金術の実験において行われることは、同じ一つのプロセスであるということである。すなわちキリストは、人生のなかの死の憤怒に打ち克ち、みずから人となって父の怒りを愛に変えた。錬金術師の意志もまた同じである。すなわち、おそろしい地を天となし、毒のメルクリウスを愛に変える (南原実訳 ) 。」
自然の光とベーメの世界
ベーメが無学で、その著述が、タドタドしく、文法の間違いなどを指摘する翻訳者もいる。はたして、そうばかりと言えるだろうか。『シグナトゥーラ・レールム』を読むと「四散する真のミクロコスモスをもった、湧き出で、駆り立て、形成し混合する諸力を持った強力な春」とノヴァーリスが言祝いだ意味がよく分かる。「死の死の内に死んで」「罪に枯れた人間の枝」というような表現は詩的でさえある。そこには物質性と霊性とがどのように手を携えたかが語られるが、人間が意識を持つ前の暗い闇の世界から立ち上がる自己を認識したいという欲は無底の神の意志とパラレルな世界でもあるのかもしれない。
これは、科学ではない。広い意味での自然哲学なのである。『シグナトゥーラ・レールム』において、彼を導いたものはパラケルススが自然の光から得た錬金術による概念だった。徴を開くには概念が必要だった。自然の光は無心の鏡に自然の姿を科学とは異なる姿で映してくれる。「全ての内なるものは外なるものにおいて知られる」というパラケルススのテーゼはこの自然の光というものの性質をよく示している。いかなる果実も一つの徴であり、その中に隠された秘密を保っている。ここからゲーテの自然哲学までは、そう遠くない。
コメント