今回の夜稿百話は、ゲルショム・ショーレムの歴史的名著『ユダヤ神秘主義』をお送りしています。前回 part2 は、非常に厳格な贖罪主義と忘我へと導く祈祷を中心とした中世ドイツの *1 ハシディズムをご紹介しました。とりわけ祈祷主義の忘我へ至る道は、カバラーの前段階であるメルカーバー神秘主義からの一筋の道の途上にあることが明らかにされました。そして、独自の汎神論的傾向と神の内在からくる宗教感情を持つハーシード・ユダとその弟子たちによる『栄光に関する書』に見られる神学的・神智学的理念、その実践によって訪れる内的栄光 (カーボード・ペ二ーミー) に論旨は及びました。
この part3 は、スペインのゾハールと同時期に存在した忘我的カバラ―の代表者であるアブラハム・アブーラーフィアの神秘主義を概観する予定ですが、最後に彼の弟子によって書き留められるアブーラーフィアの瞑想過程を開示す『シャアーレ・ツェデク/正義の門』にある瞑想の段階を少しだけご紹介しましょう。
第四章 アブラハム・アブーラーフィアと預言者的カバラ―
1200年頃の南仏とスペインの多くの地方にカバラ―集団が現れ始めた。カバリストは、例え霊感が与えられようともそれをひけらかすことは慎まなければならなかったが、同時代の人々を感化したいという願望の間で、悩ましく悶えた。そのため自分の名は伏せて偉大な人物の名を借りることによって、その言説の輝きを増そうとする流れが生まれた。いわゆる偽書であり、その最も有名なものが『ゾーハル』である。理論的な形で神秘体験への道を教えようとするカバリストもいたが、その場合でも深い段階の実践方法が印刷に付されることは稀だった。印刷されるにせよ、そうでないにせよ神秘主義テキストにおいて、かつての忘我への卓越した地位は後退し始めている。『ゾーハル』は、忘我をほとんど問題にしていない。カバリストの瞑想や観照は内的な性格を帯び始めるのである。
しかし、忘我的カバラ―の代表者もいた。その最も重要な理論家でありながら最も人気のなかった人物がアブラハム・アブーラーフィアであった。彼は、1240年にサラゴーサで生まれる。父にミシュナーとタルムードを少し習ったが28歳で父を失い、30歳でスペインを離れ、オリエントに向かったが、パレスチナとシリアでフランク人とサラセン人との戦いに巻き込まれそうになり、アッコー (イスラエル北部) からヨーロッパへ移動、ギリシアとイタリアに10年留まった。その頃、神秘主義と合理主義の偉大な結合を成し遂げた *a マイモニデース哲学の崇拝者となる。その哲学は、キリスト教神秘主義者であるマイスター・エックハルトとの驚くべき類似をみせるといわれる。
スペインに戻ったアブーラーフィアは、バルセロナで *2『セーフェル・イェツィーラー』を祈祷先唱者のラビであるバルーフ・トガルミーから学ぶかたわら、秘密集会と関わりを持った。その会員たちはゲマトリアとノタリコンとテムーラー (part1 「4. 神秘的宇宙創造説 ― イェツィーラー」参照) によって深い秘密を発見できると考えていた。31歳にして神の真の名の認識に達する幻影を見た。しかし、その一部には悪魔の幻惑があったとして、彼は15年間右手に悪魔を連れて、手探りし続けたと述べている。1274年に、スペインを再び離れ、イタリアとギリシアを放浪しながら弟子を見つけては、失望した。1280年にはローマに赴き教皇ニコラウス三世の前でユダヤ教の名において膝詰め談判をしようと考えたようだ。一説には教皇を改宗させることを目論んだという。しかし、市の城門に足を踏み入れた時に、教皇の急死を知らされ、フランシスコ修道士たちのもとに28日間留め置かれた後、釈放されたらしい。現在ほとんど残存している26のカバラーに関する理論書とわずかに『セーフェル・ハ=オース/しるしの書』のみが残る22の預言書に関わる書物を書いた。預言書を書くことは、即ち出過ぎた釘となることだったが、貧困も追放も投獄もかれの意志や円満な性格を曲げることはなかったという。
1. ホクマス・ハ=ツェルーフ (文字の組み合わせの学)
アブーラーフィアの理論の特徴は忘我と預言者的霊感だったが、その目的は、「魂の封印を解くこと、魂を縛っている結び目を解くこと」であった。人間の魂とすべての創造を貫く宇宙的活動の流れとを隔てる障壁をなくすことだと言える。その障壁は感覚的欲情や外的世界の知覚からもたらされるものである。そのための瞑想としてホクマス・ハ=ツェルーフ (文字の組み合わせの学) と呼ばれる体系を作り上げた。瞑想の中で文字を組み合わせ、あるいは引き離し、文字群の上にモチーフ全体を構築するのだが、それは純粋思考の音楽に喩えられた。音は耳から心に伝わり、感覚の中枢である脾臓へ伝わる。文字の組み合わせの術は、ヘブライ語だけでなく、ギリシア語やラテン語といった全ての言葉も聖なる名に鋳直すことが可能であり、人間の話すことはすべて聖なる文字で構成されたものであるとされる。それらは、ヘブライ語の祖語の堕落から生じたと考えられている。すべての言語と聖なる言語は秘密の深い結びつきを持っている。これが、ヴァルター・ベンヤミン (1892-1940) のいう原言語の深い意味なのかもしれない。
言葉と名との関係を極めるためには、言葉の数値化であるゲマトリアと共に概念から別の概念への「飛躍」、もしくは「跳躍」するディッルーグ、あるいは、ケフィーツァと呼ばれる方法がある。緩やかだか、ある規則に従う連想から連想への飛躍によって新たな領域が開かれ、その中では自由に連想が可能となる。統御された連想と自由な連想は統一され、秘儀を授けられた者の意識は拡大される。こうして、現世的な領域から脱出をはかることによって瞑想の準備段階は終わる。次に神の名と最高の天使たちを自分の周囲に思い浮かべる。それが想像できるようになると、考えられた文字を通して自分の内部で上からの知的な流れが異常に強まってくる。やがて全身は激しい痙攣に見舞われるが、この時、意識的に死を選ぶ覚悟をしなければならない。すると、この流入は受け入れられる。それによって魂に着々と最終的な発現の用意が整い、純知性の神々しい光を妨げていた封印は緩み、ついには完全に解かれる。魂のうちに神的な生命の流れがほとばしり出るのである。
神秘的上昇の最高段階である第七段階に到達した者は完全な意識をもって彼を照らし守る神的光の世界に立つ。これが御国の全き栄光が明かされる預言者的幻視の段階となる。『セーフェル・イェツィーラー/創造の書』によれば、文字は特定の身体部分に属しているため文字を組み合わせる時、その位置を間違えるとその身体部分に異常が生じることになると警告している。アブーラーフィアの『知性の光』によれば、一定の姿勢、一呼吸での子音と母音の結語、一定の朗読形式があり、ヨーガのテキストを読んでいるような気がしてくるとショーレムは述べている。
2.『彼は彼である』
例え、忘我の境地に参入したとしても、自分が純粋な知力によって触発されたことを認識していなければ、その人を預言者と呼ぶことはできないとアブーラーフィアは述べる。盲目的な忘我は斥けられるのである。その人が、神との接触を感じその性質を把握したのであれば、彼は『教師』と呼ばれるのにふさわしい。その時、彼は彼の教師なのである。そこに彼我の分離は無く、デベクメース (合一/癒着) がある。彼は、彼 (神) だからである。人間とトーラーは、この最高の状態で一つとなる。しかし、真に完全な一致を彼自身も望んではいなかった。それは「我は神なり」という宣言になるからである。少なくとも忘我的体験が存続している間、自分は自分自身のメシアとなるとショーレムは言う。彼の理論を受け継いだカバリストの大多数は、この神との同一化を継承していないという。
アブーラーフィアは、彼の方法を「名の道」と名付けて「セフィロース」の道で瞑想し実践するカバリストたちと区別した。この両者の道が一つになる時、全カバラーが形成される。それについては次回ご紹介することになる。
ユダヤ哲学がアリストテレスと対決した根本問題に「世界は永遠なのか、発生したものなのか」という問いがあった。アブーラーフィアは、トーラーが世界の永遠性を証明するものでも、発生したものであることを証明するものでもないという。預言者にとってそんなことは、どうでもいいと言うのである。宗教的に重要なことは、人間の完全性に寄与できるかどうかなのである。その意味で彼は実践的カバリストだった。その実践において、名の巨大な力を呼び出し解き放つ神聖な形式は、魔術と密接な関係があり、彼が触れたであろう回教の神秘家たち、オリエント旅行中に接したかもしれないヨーガの伝統にも通じている。しかし、彼自身は降魔術などを真の神秘主義を偽るものとして否定していたが、後継者の多くは、混乱に陥ったという。エルサレムの *b アブラハム・ベン・エリーエゼル・ハーレーヴィは、殉教者たちに、最後の試練にあっては、神の偉大な名に集中し、光り輝く文字に思念を集中すれば、拷問などの苦痛から逃れることができる、それは聖なる殉教者たちに体験されてきたことだと言う。これは、内面への沈潜によって獲得された魂の力を実際に魔術的に使う例と言いうるのである。
3. 『シャアーレ・ツェデク/正義の門』
1295年にアブーラーフィアの弟子の一人が、対象の物質的知覚から純粋に精神的な道へと至る三つの道程とその体験を記している。それが、『シャアーレ・ツェデク/正義の門』である。精神の進展には三つの道があり、誰もが知る道、哲学的道、カバラーの道である。この書にはこのように書かれている。
だれもが知る道は、回教の禁欲者たちが行う道として知られるもので、自分の魂から「自然の形式」と呼ばれるなじみ深い世界の全ての形象を排除するためのありとあらゆる手段である。例えば、ALLAH という言葉の発音に集中することにより、彼の魂の中は「滅却」という状態になり、それによって彼の想像力は、いやがうえにも高められ、将来の事柄を予言できるようになると言う。しかし、彼らはカバラーを知らないのでやみくもに恍惚状態に陥る。
哲学的道は知識の道である。学問の道は、心地よい平静をもたらし、幸福をもたらすことになり、それを超えていく扉は閉ざされ、彼は世間から引き籠る。やがて、自分が全ての学問に通じていると自惚れ、ある事柄が自分には預言によって明かされていると思いこむ。実際には文字が彼の空想力を捉えて難解な問題への思索の方向を与えていることに気づかない。
自分が放浪を終えて故郷に戻った時、一人の哲学者によって「戒律の意味」を教えられ、マイモニデースの『迷える者への手引き』を学んだ。そして、一人のカバリストに出会って、文字の置き換え、数秘術、『イェツィーラー書の道』を学んだ。彼は4か月の間、それを丁寧に教えてくれ、それが終わると、すべて「滅却」するように私に命じた。
師は言われた。「名の道」によってある力が働きはじめる。その力を制御するのではなく、その力に制御されるようになる。全ての文字の組み合わせと名の神秘的数字 (ゲマトリオース) からなる数冊の本があるが、それらを理解できるものはいないだろう。何故ならそれは、理解するためのものではないからである。自分が一切の物質的なものから離れて文字の組み合わせについて哲学的瞑想をしていると灯がずっと自分と共にいるようになり、文字の組み合わせは迸り出て書き留められなくなった。やがて、身体が衰弱し、どっと倒れると心臓から何か言葉に似たものが湧き出て、無理に唇を動かそうとした。それは、純粋な叡智だった。
徐々に物質的に肉体を純化できるようになり、上記のような文字の操作が終了すると〔跳躍〕の段階に到達する。自分の思考についての瞑想であり、自分の全ての言葉を概念が結びついていようといまいと抽出する作業である。これには文字の組み合わせを素早く繰り返さなければならない、これによって思考は活発になり、喜びとその内的欲求が高まる。逆に食べ物や睡眠といった欲求は消し去られる。思考を剥ぎ取る作業は、初めは文字と言葉の助けを借り、次には想像力の助けによって一歩一歩進める。その制御を超えられたら、思考をその本源から引き出し続ける。その時、なお思考を引き出す余力があれば内面が外面に告知され、純粋な想像力によって研ぎ澄まされた鏡のようになる。それが、いわゆる〔ぐるぐる回る剣の炎〕である。その時、自己の最も内なる存在も自己の外側にあることが分かる。これが〔ウリームとトゥンミーム〕の道、すなわち〔祭司の神託の道〕である。
このトーラーにおいて、祭祀の胸当ての文字も初めは内から光るけれど、想像力によって把握できる形式へと包み込まれないかぎり不完全であり、文字の正しい配列が生まれるためには、想像力が不可欠であって、そうして初めて完全で秩序正しい、理解しやすい組み合わせに入る。しかし、この想像力による形式が具体的にどのようなものなのかは書かれていない。続けて最後にこう述べている。これこそ、カバリストが、神秘体験の中に現れた場合に *3〔着衣/マルブーシュ〕と名付けている形式のように思われると。 この概念は、『ゾーハル』の霊魂論の中で発展を見せる。
さて、次回はいよいよカバラー文学の精華、一切を凌駕したと言われる『セーフェル・ハ=ゾーハル/光輝の書』をおおくりします。数世紀に亘って、聖書とタルムードに比肩する地位を維持した、この書が最初はカバリスの間に伝わり、ユダヤ人のスペイン追放以降はユダヤ民族全体に広がり、ラビ文学の中で一つの規範となったのです。
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