現在はポーランド領になっているボヘミヤの町ゲルリッツで、一人の信心深い若者が心の暗黒を彷徨っていた。彼の名前はヤコブ・ベーメという。靴屋が生業だった。悪という心の闇に怯えていたのである。もはや天にまします神のコスモスは、コペルニクスの地動説のなかで急速に崩壊していたし、心の中では悪魔のような貪欲と怒り、嫉妬、高慢が根深く内側から彼を蝕んでいくのであった。教会は腐敗していたし、キリスト教以外の新たな思潮にすがるにはあまりに無学だった。そして、時代は泥沼のドイツ30年戦争への長い下り坂の上にあった。しかし、天啓が訪れた。1600年25歳の時、圧倒的な光と愛の体験が彼を襲う。彼はすべてを了解した。
この光のなかで、彼の霊は一切を見、万物に神を認め、神とは何者であり、神はいかに存在し、神の意志が何であるかを悟り、あらゆる存在の本質を、その根拠と底なしを、さらには神の聖なる三性の誕生、森羅万象の由来とそのはじまりの姿を、神の知恵を通して見、認識したのである。
たった15分間のことだった。しかし、この霊眼は終生失われることがなかったという。もはや天は内なるものとなり、霊の天の中で神は誕生し、臨在した。宇宙はこの天で遍満している。神はベーメ自身の中に生まれ、活動し、休むことなく導いていた。
彼の著述にイライラしながらも研究したのはヘーゲルだったし、その思想をヘーゲルにもたらしたのはヘルダーリンだった (四日谷敬子『無底と根底』解説) 。とりわけ、シェリングやロマン派の詩人たちには大きな影響を与えることになる。ノヴァ―リスは彼についてこう述べている。「私は全く彼の中に、内からの世界を、―― 暗い熱望と不思議な声明とでいっぱいに満ちた真正なカオスを、―― 四散する真のミクロコスモスをもった、湧き出で、駆り立て、形成し混合する諸力を持った強力な春を見出します (四日谷敬子 訳)。」
今回の夜稿百話は、ドイツ最大の神秘主義哲学者の一人であるヤコブ・ベーメの『シグナトゥーラ・レールム』お送りしたい。長年の宿題だった。
ベーメの生涯
ベーメは、ボヘミア地方の北端にあるゲルリッツ近郊のアルト・ザイデンベルクの農家に生まれた。体が弱く、農家には不向きだったため靴屋の見習いとなり、1594年にゲルリッツに移り、市民権を得て靴屋の親方になった。ちなみに、このゲルリッツは第二次大戦後にドイツ領ゲルリッツとポーランド領ズゴゼレツに分割され、ベーメの住んでいたと確認される家屋はズゴゼレツ側にある。 1600年、長男誕生の喜びに沸いていた頃、錫の器を見ていて霊的体験に襲われる。これが15分の「無の体験」と言われるものだった。この体験をベーメは12年の歳月をかけて処女作『黎明』にまとめることになる。この書は彼の知らない間に写され回覧されて、その一冊が、ゲルリッツのルター派の牧師長だったグレゴール・リヒターの手に渡り、ベーメは異端者として糾弾され、著述は禁止された。
そのためなのか、仕事場を売却して糸の行商をしながら人々の質問に答える日々を送っていたが、リヒターの誹謗は続いた。しかし、友人たちの望みでもあり、自らの使命感によるところもあって1619年に『神的本質の三つの根源の記述』を書き上げる。その後の著作は10作に及んだ。それらの中の小篇を集めた『キリストへの道』が生前出版された唯一の著作だったが、これもリヒターによって糾弾されゲルリッツを離れざるを得なくなる。やがて、1642年にリヒターも亡くなり、同年、ベーメも亡くなった。「渋さ」と「苦さ」のような二人の不思議な縁は終わったのである。
無という底なしの神
岡部雄三『ヤコブ・ベーメと神智学の展開』
ベーメの「無」の神秘体験についてベーメ研究者である岡部雄三(おかべ ゆうぞう)さんが述べられていることは意外なものだった。ここから既に核心に入るのである。今回は岡部さんの著作『ヤコブ・ベーメと神智学の展開』を大いに参考にさせていただく。
「ベーメは一五分間で一切を見たと言っている。しかし、誤解をしてはならない。この『一切』とは実は何も見えなかったのと同じ一切なのであった。より正確に言うならば、ベーメは一五分間に光輝く『無』を見たのである。」 たいていの人は、ここで面食らうだろう。キリスト教徒が無という神秘を見るということがあるのだろうか?
アンドレア・ディ・ボナイウート 画
マイスター・デ・マリエンレーベン 画
すでに14世紀、ドミニコ会士マイスター・エックハルトは説教集の中で「無と同じものだけが神と等しいのである (ドイツ語説教集 6 植田兼義 訳) 」と述べている。彼にとって神は一切の存在の上にある存在であり、存在のない存在と言えた。それゆえ「無」なのである (説教82) 。異端とされたが(異端の理由は、はっきり分かってはいない)、本人は異端宣告の前に亡くなっていた。
15世紀にはニコラウス・クザーヌス (1401-1464) によって無としての神は引き継がれたが、おおっぴらに神は無であるとは言えない状況であったらしい。それで、こういう言い方になった。「主よ、私は御身が見出される所へ、不可視の直観の壁を飛び越えていかねばなりません。そして、その壁は万物であると同時に無なのです。というのは、御身は、あたかも万物であり、万物の無であるように私に向かっておいでになり‥‥」(『神を見ることについて』 第12章47 坂本堯 訳 )
涙ぐましい苦労の跡が窺える。ついでに鏡のメタファーもあるので紹介したい。「御身の無限の力が鏡のようで種のようであり、また照射と同時に反射、原因と結果の一致を超えており、さらに、この絶対的力が絶対的直観であることを私は経験します。これは完全性そのものであり、そして、見ることのあらゆる仕方を超えているのです。‥‥」(同上 第12章48)
『シグナトゥーラ・レールム』 すなわち万物の誕生と名称について Ⅰ 無の系
『シグナトゥーラ・レールム』1622
本書より転載
ベーメの著作『シグナトゥーラ・レールム』は、「物事のしるし」ほどの意味だと思われる。この「しるし」を記号ととれば言語を中心とした象徴体系の学になるし、形ととれば形態学になるのかもしれないが、一つには括れないほど根源的で、包括的なものであるのは確かのようだ。 自然は、全てのものに、それぞれのエッセンス (本質) と姿に相応しい言葉 (ロゴス) を与えた。本質は物事をそれとなさしめる性質・要素のことだ。人間の内なる心にも「しるし」が森羅万象をなぞって巧みに書き込まれているという。
シグナトゥール=しるしは、「本質=エッセンス」の中に潜む楽器であって、夫々の弦が爪はじかれる時、一つの概念、一つの意志、一つのガイスト、一つの理あるいは理解が生まれるという。この「しるし」と共にガイストが他者の姿の中へと入り、同じ形を「しるし」の中に目覚めさせ、二つの姿は一つの形の内に共鳴しあう。こうしてみるとコミュニケーション論をも包括しているのである。このガイストという言葉は、本来、霊とか精神という意味で、ドイツ語ではその二つに区別がないが、「気」と考えた方が分かりやすい箇所も多い。
●底なしの無
ベーメのテクストで、神は「底なし」と訳されてきた。けれど、底を設定すると天井もないのかということになる。この「底なし=Ungrund」という言葉の un は「無い」、grund は底、地面、土台、根拠、理由などの意味があり、べーメのテクストから考えると「底なし」は「理由や根拠がない」と言う意味になる。ちなみに、マイスター・エックハルトは既に「無底の神には名前がない (『ドイツ語説教集』 説教 80 植田兼義 訳) 」と述べている。続けて「何故なら、魂が彼に〔神に〕与える全ての名前は魂自身の認識から得られたものである (同上)。」エックハルトの考えでは、恩寵による認識によってさえ神は人間にとって言葉で言い表せないものである故に「無底」である。
ベーメにとって神は絶対無であり、無なる神は自己が立脚する根拠を一切持たない「あれ ! 」であり、「充溢=プレロマ」の極限である故に無と呼ばれる。この底知れぬ父の深淵の中に、自己を知りたいという欲望が、父の有るか無きかの意志、自己限定の中心となる子の意志、そして自由へと向かう気息としての聖霊の意志という三位のペルソナの意志に成り変る。この意志による自己展開によってカオティックな一切の「像/フィギュア」が描かれるのである。ダンテが『神曲』の「天国篇」の最後に見せたものは三位一体のヴィジョンであったことは、強調して良い。ここに向かって『神曲』の全てのヴィジョンは遡行する。
ベーメは、聖なる三位の他に第四の聖性として神の智である乙女・ソフィアについて体系的に語っており、それは三位のペルソナの活動を可能にする場、あるいは体である。ソフィアは、それらのペルソナが自己の姿を映し見、自己展開の様を確認する鏡、あるいは目であった。ここでは、ユングが言祝いだ四位一体を構成していた。
小さな子が初めて鏡をみて思う疑問「これは誰あれ ? 」は、やがて「これは私からしら」という想像とともに自己理解に変わっていく。
●永遠の乙女 ソフィア
意志は、知恵の鏡を覗き込んで自分が何者であるかを見、見ることによって自分自身の本体を欲するようになる。根拠を求めるのだ。それを可能にするのがソフィアの持つ「場としての身体性」である。それは、神が自己が何者であるかを示すために父・子・精霊の三様の意志を束ねて自らの内から湧き出る豊かな想念を知恵の鏡という場に描き出す作業だった。「イマギナチオ (想念・構想) 」による像という本体を造り出す働きと言える。ここには想像力の優位がある。この西田幾多郎を思い出させる知恵の鏡に映る神の像は万象の存在のフィギュアであって本体ではなく霊的な混沌ではある。ここでは自然を生み出すのは三様の意志であって、ソフィア自身は生み出す者ではない。彼女は永遠の乙女なのである。
エックハルトは聖グレゴリウスの言葉をこう引用している。「神に他のものより高貴なものがあるならば、これを人が言うことができるならば、それは認識であろう、認識することで、神は自分自身に現れ、認識することで、神はすべてのものに流れ込み、認識することで、神は万物を創造した。もし、神に認識がないと仮定するならば、三位一体もありえないであろう、またけっして如何なる被造物も流れでなかったであろう (『ドイツ語説教集』 説教 80 植田兼義 訳) 。」ベーメにおいても、無の系から「永遠の自然」の発生、万物の創造へと発展する鍵を握るのは神の叡智による認識なのである。
ソフィア 神の叡智
「知恵は呼ばわらないのか」で始まる旧約聖書・箴言第八章は、「主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた (22節)。」「いにしえ、地のなかった時、初めに、わたしは立てられた (23節) 」とある。ユダヤ・キリスト教において絶対的権威であった男神一神教の世界に、万物の創造と救済に関わる神の智である女性性ソフィアが登場するのは後期ユダヤ伝承においてである。ソフィアは宇宙創造以前から存在し、神の前で戯れながら創造の可能性明らかにする援助者となるのである。
ハンブルク=アルトナの薔薇十字団の
テクストにおけるソフィア 1758
「ソロモンの知恵の書」とも言われる旧約聖書にある「知恵の書」では、知恵について、このような記述があり、聖書における唯一の女性的神格として登場する。
「知恵は神の力の息吹、全能者の栄光から発する純粋な輝きであるから、汚れたものは何一つその中に入り込まない。知恵は永遠の光の反映、神の働きを映す曇りのない鏡、神の善の姿である。」
「わたしは知恵を愛し、求めてきた。わたしの花嫁にしようと願い、また、その美しさのとりこになった。知恵は神と共に生き、その高貴な出生を誇り、万物の主に愛されている。知恵は神の認識にあずかり、神の御業を分けて行う。」
新訳聖書ではソフィアに関する記述はないが、キリストとソフィアを同一視する傾向はあったといわれる。アヤソフィア大聖堂に代表されるように東方ビザンツ教会ではロゴスともマリアとも異なる神格として崇拝された。西方カトリックでは注目されることはなかったが、ソフィアを幻視したビンゲンのヒルデガルトやソフィアを人間の恋人・霊的母としたハインリッヒ・ゾイゼなどの神秘思想の中で復活を遂げ重要性を増していった経緯がある。一方、グノーシスではソフィアに関する多様な神話が生まれていた。
アヤソフィアにおける聖母マリアのモザイク
『シグナトゥーラ・レールム』Ⅱ 永遠の自然の発生
●永遠の自然
無の底なしから突き上げてくる神の本性としての欲望は、七相の展開を見せる。その第一段階は「永遠の自然」である。これはまだ、物質的な自然ではなく霊的な段階と言える。自然 (natura) は誕生 (nasci) を語源とする。それは、欲望され濃度を増した意志が自己出産する空間である。その空間に現れる性質・姿は、(1)渋さ、(2)苦さ、(3)不安の輪、(4)稲妻・閃光、(5)愛の欲、(6)響き・言葉、(7)体・天の国であった。
第一の性質 (渋さ/押し込み) と第二の性質 (苦さ/打ち破り) は互い相手を克服しようとして激しい対立と敵意によってグルグルと回転運動を引き起こし、第三の性質「不安の輪」が生じる。この二つの性質の闘争による不安の輪の中で、様々な区分を持ったエセンチア (本質) が続々と生まれる。それは、無の知恵の鏡に映ったイデアの「永遠の自然」における実体化、あるいは本体化である。荘子の「坐忘の四段階」で言えば「一切の純粋可能性」の段階から「本質群として現れる段階」、つまり事象の本質 (イデア) が生まれる段階と言える。これは、イブン・アラビーにおいても老子においても見られる段階だった。
この原初の「はじまり」のなかに表れる性質が、渋柿を食べたときのあの引き込まれるような感覚「渋さ」であり、苦瓜を食べたときの吐き出したい感覚「苦さ」であることは興味深い。視覚の次は聴覚ではなく味覚であるのは注目される。鏡における視覚が受動的であったの対して、この味覚には動的運動をもたらす能動性がある。この決定的な意味を持つ味覚が、原初の感覚の芽生えに登場するものであるのは興味深い。
ちなみに、この無の系から生まれたグルグルと回る輪が、禅竹の能楽論の一つである六輪一露説に似ているところはあるけれど、「渋さ」と「苦み」という対極が存在しないために不安の輪といったネガティブな要素がない。
●霊の運動 外と内
岡部さんは、ベーメの創造論の画期的な点は、無なる神に明確な自由への意志を見ていて、意志による創造の展開を「無、永遠の自然、天使、人間、森羅万象」に亘って論じたことだと指摘し、その創造の本質が、何者かが何かを対象として造るというのではなく、霊 (ガイスト) が本体を求めて外へとあらわれていく誕生の運動に見ていたことだという。この外への運動に対して内への運動と考えた思想家もいた。
16世紀の最も偉大なカバリストの一人、つまりユダヤ神秘主義者であったイサアク・ルーリアは、神は「全ての中の全て」であるのなら神でないないもの、つまり「無」は如何にして存在しうるのかを問うた。この問いに対してルーリアが出した答えは、神は自分自身の中から撤退して創造と啓示へと歩み出す原初的な空間を作り出さなければならなかったというものなのである。この老子的空虚・凹み、充満する無宇宙の中のブラックホールのような空間は、外部に歩み出るのではなく、内部へ退く「自己自身から自己自身のなかへの」神の自己交錯だとゲルショム・ショーレムは言うが、神の一層深い孤独の中への「亡命」、自己の「追放」であり、それはもっとも深い象徴となった。これは、ベーメの考える聖霊による自己解放という考え方とは対照的であった。
『シグナトゥーラ・レールム』 Ⅲ プリンキピウムと錬金術
第四の性質「稲妻・閃光」の出現によって『シグナトゥーラ・レールム』は、一挙に錬金術テクストの様相を帯びるようになる。賢者の石と同一視されることもある全てを愛に染め上げるティンクトゥール (霊液) が誕生するからである。「渋さ」は塩、「苦さ」は水銀=メルクリウス、「不安の輪」は硫黄=スルフルで表現される。これらは外的世界である第三プリンピキウム (後述) では、まさに塩、水銀、硫黄だが、第一・第二プリンキウムにおいては、それらに象徴される働きと言えるだろう。プリンキピウムは「原理」という意味である。
人間の魂は三つのプリンピキア (原理) にまたがって存在している。第一は永遠の自然・火の性質のガイスト、第二は永遠の光・神の本性の性質のガイスト、第三は外なる世界の性質のガイストである。
●第一プリンキピウム
第一プリンキピウムは自然へと向かう欲であり、自分自身を闇で塗りこめ、干からび、怒りっぽく、腹をすかせた神の怒りの世界、創造の不安が支配する死と闇の世界である。
硫黄スルフルの体は万物を包み、水銀メルクリウスはスルフルの生命となり、さらに塩サルは押し付ける力の役割を果たして物がバラバラにならないように手につかめるものにして、その内にガイストが認識されるようにする。
ベーメはこう述べる。「人の魂は神の第一プリンキピウムから出来ているとは言え、そこでは魂は聖なる本体ではない。第二プリンキピウムの中で、はじめて魂は神のなかに現れ出て、神に繋がる被造物となる。何故なら、ここで神の光が誕生するからである。魂の中に光が存在しない限り、神は魂のなかになく、原初のきびしい泉のうちにあり、そこには自己自身に反発する永遠の反感がひそんでいるのです (『神智学書簡一』)。」つまり、自己への反感がなければ、けっして自分自身を対象化できない。
ヤコブ・ベーメ『魂に関する40の問い』
第一プリンキピウムと第二プリンキピウム
第二プリンキピウム
火薬の硝石サルニテルに象徴される爆発の働きによって稲妻・閃光という光が発出し、この第二プリンキピウムにおいて、被造物の内に喜び、愛、歓喜が生まれる。こうして、新たな魂は神のうちにあるとべーメはいう。それは天使の世界と呼んでいい。既に述べたが、第一プリンキピウムにおいて「永遠の自然」にあらわれた性質は、(1)渋さ、(2)苦さ、(3)不安の輪、(4)稲妻・閃光の四つであったが、この第二プリンキピウムでは、(5)愛の欲、(6)響き・言葉、(7)体・天の国という性質が現れる。
火を前にクルクル回る輪からメルクリウスの性質により神の言葉・響きが生まれ、ここに味・臭・聴・視・感・言葉・知性・森羅万象の真の生命が始まる。
第三プリンキピウム
ルチフェルは第四の性質に潜む「永遠の自然」の神秘を見抜き、創造の不安と焦躁、あるいは死が支配する第一プリンキピウムと光の世界「神の聖なる自然 (安息の身体性=ソフィアの衣) 」である 第二プリンキウムとを引き離し、第三プリンキピウムである現宇宙の産出を導いた。そして、自らの尾を咬む魔王となって第一プリンキウムに潜む。そこは、高慢と吝嗇と嫉妬と憤怒が逆巻く暗黒の地獄となり、ここに悪の権化と悪そのものが永遠の世界に留まる。悪の誕生である。
ここにベーメは世界創造の内に悪の成立を明言した人の一人になる。
ヤコブ・ベーメ『魂に関する40の問い』
ベーメが見たもの
岡部さんは、ベーメがあの15分の霊の世界を見た後、恍惚状態から殺伐とした現実世界に引き戻されたのではないという。彼の体験は、ビンゲンのヒルデガルトやマグデブルクのメヒティルト、16世紀スペインのアビラやテレサといった神秘家が体験したものとは異なっていた。肉眼に隠されていた霊の領域を見る力を獲得したことに決定的な意味があった。彼は、この開眼の後に家の外に出て森羅万象の中に働く霊の力を見て自己の霊眼に驚嘆し、言い尽くせぬ歓喜に包まれ、神を賛美してやまなかったのである。
次回シグナトゥーラ・レールム part2 は、錬金術用語による四大と惑星の成立、アダムの転落とイエス・キリストの到来、アダムと人性の復活という内容をご紹介することになる。
コメント