
フリードリヒ・ヘルダーリン (1770-1843)
謎が魅了する詩人ヘルダーリンの詩を1913年に若きノルベルト・フォン・ヘリングラート(1888-1916)が、全集として刊行を始めた。ヘルダーリンの核心にして頂点といわれる後期賛歌の全貌が明らかとなった時、大きなうねりが始まる。リルケが激賞し、ベンヤミンは驚喜し、ディルタイは唸った。ゲオルゲは、ヘルダーリンが言葉を若返らせ、魂を若返らせる者であり、簡単には分析され得ない予言によって、近づくドイツの未来の礎石となり、新しい神を呼ぶ者だと語った。
三島由紀夫はヘルダーリン全集をこのように言祝ぐ。「ヘルダーリン。そのギリシア狂。その静澄。その悲傷。その英雄主義。その明るい陶画のような風景。‥‥青春の高貴なイメージのすべてがここにある。(『三島由紀夫全集34』新潮社)」
そう、ギリシア狂だった。
ヘルダーリンが古典語、とりわけギリシア語に強いことは、学生時代から周囲に聞こえていてマウルブロンの僧院学校在学中にホメロスの『イーリアス』の翻訳を一部手がけるなど、古典語の中の音性にひそんでいる<神々>に耳を澄ました。そして、彼の言葉の中には陽光に充ちた南方的な世界が開けていくのである。

マウルブロン修道院・僧院学校
夜稿百話は中欧出身の詩人であるトラークル、リルケとご紹介してきましたが、続く第三弾は、ドイツの詩人ヘルダーリンをお送りします。ハイデッガーの愛した三人の詩人ですが、それらの作品を通して彼の言う「存在」の開け広げ、神なるものへの帰郷に迫ります。
エンペドクレスと一なるものエーテル
特にエムペドクレス(BC490-BC430)との繋がりは深い。イタリアはシチリア島のアクラガス(現アグリジェント)に生まれ、ピタゴラス学派に学んだ彼は、自然哲学者、医師、詩人、政治家であり弁論術の祖といわれる。ウーヴォ―・ヘルシャー著「エムペドクレスとヘルダーリン」によれば、この古代ギリシアの哲学者は、万物には地(母なる大地)・水(天上の水)・火(夜の炎)・風(神々の賜物アイテール)という四つの根があるとしていた。ヘルダーリンにおいては、『エーテルに寄す』の詩に表れているようにアイテール(エーテル)の優位は動かない。彼の、このエーテルについての強い関心には、古代ローマの詩人ルクレティウス(BC99-BC55)の影響があるといわれている。ここは、ヘルダーリンの言う「形成衝動」と密接に関係しているのだが、この「形成衝動」がヨーロッパ文化のなかで如何なる巨大な潮流に列なるかは想像を超えるものがある。
この四つの根は、それ自体消滅することはなく、あるのはただ四つの不滅なるものの混合と分離だけである(エムペドクレス 断片8)。それらの分離と結合が個々の物や事の表面的な生成と消滅をもたらすと考えられていた。そして、諸元素は、或る時は愛によって一つのコスモス(秩序・構成)へと結びつけられ、或る時は争いによって再び個々ばらばらに分離する。諸元素が分離する以前の原状態は、毬(スパイロス)であって球形をしており、ハルモニアと愛と神業の絆の中に隠されていた。愛はこの諸原素の球の中にあって縦も巾も等しくあった(エムペドクレス 断片17)という。

エトナ火山 シシリー島

エムペドクレス像
ヘルダーリンの中では、自然と人為は対立していて、自然は全体であり、限界はなく、差別もなく、一般的・基礎的で、意識されることなく、理解もされないものである。人為は人工的で、作り上げられ、特殊で、熟考された、個別的なものである。前者を非組織体的なるもの、後者を組織体的なるものと彼は名づけた。ここで問題となるのは、愛と争い、あるいは非組織的なるものと組織的なるものとの闘争と和解である。彼の戯曲『エムペドクレスの死』の中ではエムペドクレスは一者であり、「新しい救済者」として自ら火山に身を投げて焼死することによって「世界の争い」を和解させる。‥‥そこには英雄主義があり、キリスト教的なモティーフヘの変容があった。
ヘルダーリンも読んだといわれるヨハン・ヤコブ・ブルッカー(1696-1770)の『哲学史』の中では、世界精神つまり、「魂のように世界に浸透し、我々を一切の生命あるものと結びつける精神」の起源はエムペドクレスの哲学にあるとされていた。そして、ヘルダーリンは、彼の生きていた時代のギリシアを描いた書簡体小説『ヒューペリオン』の序文にこう書いた。
「我々が自然と結びついて一つの無限な全体となる。このことは我々の志向の目的である。しかし、この至福なる一致、つまり言葉の唯一の意味における存在は、我々にとって失われている。我々はそれを得ようと努力し、その為に闘わなければならないならば、それを失わざるを得なかったのである。我々は世界の平和なる “一にして全” から引き離された。そして、それを我々自身によって生みださねばならないのだ(最終前稿序文)。」「無限の合一は美が君臨するところに存在する(同左)」と。
この “一にして全”という言葉は、フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ(1743-1819)の『スピノザ書簡』から得たといわれているが、ウーヴォ―・ヘルシャーは、ヘルダーリンが結局当時の思想界を席巻していたフィヒテの観念論を離れて宇宙論に傾斜していったことを指摘している。意識からではなく世界から出発するのである。この言葉は、ヘルダーリンの親友であったヘーゲルの標語「ヘン・カイ・パン(一にして全)」にも唱和した。

フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ
(1743-1819)
ヘルダーリンの生い立ち
手塚富雄さんの『ヘルダーリン』から彼の生い立ちを追ってみよう。1770年、ヘルダーリンは、南ドイツのネッカー川沿いにあるラウフェンという街で長男として生まれた。シュトゥットガルトの少し北にある街である。父は僧院執事及び宗務管理者という肩書で僧院の所有する土地などの管理やそこからの農産物に関わる金銭の出納などの仕事にあたっていて、母はラウフェン近郊の牧師の娘であり、敬虔主義の濃厚な宗教的雰囲気の中でヘルダーリンは育つことになる。だが、2歳の時にその実の父を失い、4歳の時に母の再婚に伴いシュトゥットガルトの南南東にあるニュルティンゲンに移る。ここは、ネッカー川とシュワーベンアルプ(アルプは高地を指す)を望む圧倒的に美しい自然に恵まれた地であったようだ。ネッカ―とラインとドナウという河川がヘルダーリンの情緒を育てた。

ネッカー川とラウフェンの街 レジスウィンディス教会

ネッカー川とラウフェンの街
新しい父は、実父の友人で、若くしてこの街の市長となった人だったが、8歳の時にはこの義父も失った。10歳の時には、すでにニュルティンゲンのラテン語学校の生徒となっていて、そこで短期間だがフリードリヒ・シェリング(1775-1854)と出会っている。難関の国家試験に念願の合格を果たし1784年10月にデンケンドルフの初等僧院学校に入学、1786年から上級課程を学ぶマウルブロン校に通った。この学校にはおよそ100年後にヘルマン・ヘッセが通うことになり、ここでの経験から『車輪の下』が書かれたようだ。僧職に就くための学校であり、大学での授業を官費で受けられることが保障されていた。残された遺産を女手一つで守り、少しでも殖やそうと努力する母にとって、息子を大学に進ませるためのコースはこれしかなかった。

ニュルティンゲン ネッカー川沿い

テュービンゲン大学 神学部
1788年、18歳でテュービンゲン大学のシュティフト(大学神学寮)に進学する。そこには、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831)や飛び級で進学してきたフリードリヒ・シェリングがいた。彼らの世代の精神を鼓舞したものはヴィンケルマンに発したギリシア精神の復興と、カント、シラー、そして、フンボルトが打ち立てた「自由の理想主義」の哲学、そしてフランス革命が挙げられている(ディルタイ『ヘルダーリン論』)。この頃にはキリスト教の教義からの離脱が決定的となり、司祭職への予定コースには背を向ける結果となった。これは、キリストその人からの離心を意味しない。それにかわって詩作へのやみ難い想いが募り始める。こうして、家庭教師として糊口をしのぎながら詩人としての生活が始まるのである。

フリードリヒ・シェリング(1775-1854)
比較文学者アレマンのヘルダーリン
折に触れてヘルダーリンに回帰した詩人パウル・ツェラン(1920-1970)が、セーヌ川に投身自殺した時、彼のアパートの机の上にはヴィルヘルム・ミヒェルの『ヘルダーリン伝』が開かれたままになっていたという。彼は、遺書に自分の遺稿の管理をベーダ・アレマン(1926-1991)に託した(関口裕昭『評伝パウル・ツェラン』)。比較文学者アレマンはへルダーリンの極めて優れた研究者の一人だった。

ベーダ・アレマン
『詩的なる精神 ヘルダーリン』
そのアレマンの著書『詩的なる精神 ヘルダーリン』によれば、ヘルダーリンは、ギリシア人と近代の人たちの文化的・社会的な形成衝動が、根本的に対立した現象であると考えていたという。形成衝動はもともと生命の形態形成力と関わる言葉だったが、次第に文化などを形成する力をも指すようになる。古代ギリシアのそれは、文字通り美しく型どった形態形成を目指す組織的な形式に向うのに対して、近代人の衝動は、エムぺドクレス的全への合一、創造的な「太古の混沌(カオス)」へと向かう非組織的な形成を目指すという。到達不能の目標を設定し進展的に思考する近代であった。
しかし、ヘルダーリンは古代の組織化にも近代の非組織化にも組みしようとしなかった。『ヒューペリオン』第二巻では、祖国ドイツへの激しい批判がみられはするのだが。『ベーレンドルフ書簡』や『ソフォクレス注解』などのヘルダーリンの著作によれば、芸術の国へと向かう排他的独占的傾向と現実性の中にあっても、ギリシアには破滅の道に抗して、その硬直化を突破するためのラディカルな力を内部に秘めた一つの手段が存在していたはずだという。それが「祖国回帰」であった。彼はそのプロセスの中でギリシア芸術と文化が「祖国回帰」をなしうるためには「革命的経過」を経なければならないと考えた。ここにはフランス革命やその後のナポレオンの動向が反映されていただろう。ヘルダーリンはこう書いた。
こうして 彼等はうち建てたいと願った
ひとつの芸術の国を。そのとき しかし
祖国に関わる事柄が彼等自身の手で
なおざなりにされて みじめにもまっしぐらに駆け降りたのだ
ギリシアは、このあまりにも美しかった国は、破滅(ほろび)への道を。(『‥君は考えるのか 事態の推移の必然を‥』)
「そして、ここで祖国に関わる問題が浮上する以上、各々が、無限の回帰として把握され、魂を揺り動かされ、魂が震えさせられる無限の形式のなかで自身を感受することこそ最重要なのである。何故なら祖国回帰とは、一切の表象=観念の種類と形式とが回帰(転換)する事態にほかならないからである (『ソフォクレス注解』) 」と述べている。ソフォクレスは、古代ギリシアにおける三大悲劇詩人の一人であり『オイディプス王』の作者である。この回帰は、単なる方向転換ではなく、ひとつの国家や社会における人間の共同生活に関わる認識や相互の伝達の土台が完全にひっくり返されることにほかならないとアレマンは言う。それは、オリュンポスの神々を放棄するという犠牲、ギリシア文化の東方の源泉への帰還を放棄するという犠牲のもとに完全なる文化革命を成し遂げることであった。この困難な回帰を可能にするものは、いったい何、あるいは誰なのだろうか‥‥。これは、単に国家機構や社会構造の変革に留まらない。ここで、踏み込むべきは、ハイデッガーの注視する「帰郷」なのではないだろうか。
葬儀にはヘルダーリンを
ハイデッガーは、ヘルダーリンを「ひたすら詩作の本性を詩作する詩人としての使命を担っている」として、卓越した意味での詩人の詩人であると称賛する。自分の葬儀に自らヘルダーリンの詩の朗読を計画したほどであった。ヘルダーリンの中期以降の詩は、自分が詩人であることのありかたと使命についての省察と信念の吐露に尽きるといわれる。ハイデッガーは、ヘルダーリンの詩に呼応してこう述べる。人間は「人間とは誰なのか? 自分が何であるか? ということを証しなければならないものである」。証するためには表明しなければならず、その内実に対する責任を負わなければならないと述べる。それは有るもののなかに全体として帰属するという証しであった(『ヘルダーリンと詩作の本性』)。ここに言葉の問題が浮上するのである。

(1889-1976)

「ヘルダーリンと詩作の本性」収載
●「一つの対話」と現にある根拠
「私たちが一つの対話であって、/互いに聴くことができるようになってから、/天のものたちの多くが名づけられた。」ハイデッガーは、ヘルダーリンの詩のこの一節を掲げる。
そして、このように述べている。少しシャッフルして纏めたい。神々自らが私たちに語りかけ、その語りかけのもとに私たちは存立するのである。神々を名づける言葉はいつもそのような語りかけに対する答えでもある。語り合うことの前提として聴くことがあり、実はその二つは同時にある。この前提によって、私たちが対話であることは同時にいつでも、私たちが「一つの」対話であるという意味になる。「現にあること」を神々が言語にもたらすことによって、私たちは、初めて神々に賛同するのか、背反するのか、という決断の領域に入り込むという。神々が私たちを会話に連れ込んでから、その時以来、時があり、歴史がある。それ以来、私たちが現に有る根拠は一つの対話となるのである。言語が人間に有ることの最高の出来事であると。
このような根源的な命名力によって名がつけられることにより物事の本性が語りだし、それによって初めて事物が輝き始める。そのことによって「人間が現に有ること」が確固とした関わりのなかに引き込まれ、根拠づけられるという。存在史的対話が始まるのである。「一つの対話」であるためには言葉のなかで同一なものが開示され成り立たなければならない。現に有ることを担うことは対話と一つになることである。
●言語は存在の家
ハイデッガーは、『ヒューマニズムについて』のなかでこう述べている。「言葉は存在の家である。言葉という住居の中に人間は住む。思惟しているもの、作詩しているものは、この住居の番人である (小磯仁訳)。」アレマンは『ヘルダーリンとハイデガ―』の中でこうつけ加えている。作詩的な言葉は始原的命名力によって満たされている。思惟は、究極のものと明言されざるものとの緊張めがけて冒険に乗り出す。ここに思惟と作詩との感応が生じると。
こうして、有るとは何かという存在の真理が、詩のなかで実現に移される。この時、思惟は完全に或る全く異なる広がりへと連れ去られ、この広がりの中でこそ詩が純粋に現前していることを理解するというのである。この異なる拡がりが、存在の明るみ、聖なるものの拡がりである。この拡がりのうちで現‐前することは、脱我的に実存することの意味、つまり存在を要求することに向って、あるいは聖なるものに開かれてあるものに向って、彼方へと現れ出ることであるとアレマンは言う。
現に有ること=実存することの全く異なる領域、それをハイデッガーは、ヘルダーリンの詩『帰郷』に因んで「故郷」と呼んだのである。ハイデッガーの考える帰郷とは、祖国回帰をこのような深い次元にまで追及した結果だったのかもしれないのである。

ベーダ・アレマン『ヘルダーリンとハイデガ―』
●異国の中で失う言葉
ヘルダーリンはこう歌う「‥‥そして、合図は/はるか昔から神々の言葉なのだ」と。ハイデッガーは『ヘルダーリンと詩作の本性』において続けてこう述べる。詩人はこの合図を感じとり、それをさらに民族のなかに合図する。詩人は「最初のしるし」のなかにすでに完成したものを見抜いて、それを大胆にも言葉にするので、まだ成就されていないことを予告することになる。「‥‥鷲が雷雲に先立つて飛ぶように、大胆な精神は/予言しながら、到来する神々に/先立って飛ぶ――」。詩人は、逃げ去った神々の時代と到来する神の時代という二重の欠如と無のなかに立っている。この欠乏の時代に、詩人は詩作の本性を創造することによって新たな時代を規定すると。
「救済が遠のいている。世界は癒しがたくなる。このことによって、ただ聖なるものが神性への痕跡として隠されているだけでなく、聖なるものへの痕跡、救済すら消え絶えてしまったように思われる。未だ少数の人間だけが、癒しなき状態が癒しなき状態として脅かしてくるのを見ることが出来るのを除いては(ハイデッガー『森の道』小磯仁訳)」。
あるいは、ホラティウス(BC65-BC8)のこの言葉が暗い闇に響き渡るのだ。「未来の成り行きを知っていても、神は暗黒の夜でこれを蔽われる。そして人間が許された限界を越えようと、いくらもがいても、神は笑いたもう。(氷上英広訳)」
われらはひとつのしるし、解くべくもなく、
苦しみも感ぜず、ほとんど
言葉を異国の中で失ってしまった。
それゆえ、人間の頭上の
天に争いがおこり、荒々しく
あまたの月が進むとき、海もまた
語り、川の流れはおのれの道を
探し求めねばならぬ。けれども、疑いもなく
ある一者は存在する。この一者は
日ごと事態を変えることができる。彼にはほとんど
掟は無用なのだ。そして、木の葉は響を立て、かしわの樹々は万年雪のかたわらで
風にゆれる。なぜならば、天上のものたちも
いっさいをなしうるわけではない。すなわち
死すべき身の者たちはまず深淵のほとりに到達するのだ。こうしてエコーは
彼らとともに変転する。ながながと
時は流れるが、真実のことはおこるのだ。
‥‥
(ヘルダーリン『ムネーモシュネー 第二稿』浅井真男訳)
Mnemosyne
Zweite Fassung]
Ein Zeichen sind wir, deutungslos,
Schmerzlos sind wir und haben fast
Die Sprache in der Fremde verloren.
Wenn nämlich über Menschen
Ein Streit ist an dem Himmel und gewaltig
Die Monde gehn, so redet
Das Meer auch und Ströme müssen
Den Pfad sich suchen. Zweifellos
Ist aber Einer. Der
Kann täglich es ändern. Kaum bedarf er
Gesetz. Und es tönet das Blatt und Eichbäume wehn dann neben
Den Firnen. Denn nicht vermögen
Die Himmlischen alles. Nämlich es reichen
Die Sterblichen eh an den Abgrund. Also wendet es sich, das Echo,
Mit diesen. Lang ist
Die Zeit, es ereignet sich aber
Das Wahre.
‥‥
傷心の別れ

手塚富雄著作集2 ヘルダーリン下
中央公論社 1981年刊
永遠の女性ズゼッテ・ゴンタルト。彼女は、ヘルダーリンが書いた書簡体小説『ヒューペリオン』に登場する主人公ヒューペリオンの恋人であるディオティーマと同一視される。プラトンの『饗宴』において、ソクラテスに愛の本質を教えた巫女に因んだ名である。家庭教師先のフランクフルトの銀行家の若妻あった。1796年の1月から、このゴンタルト家でその子を教えることになる。26歳の年であった。実りのない恋に終わることは誰の目にも明らかだった。二人は傷ついたまま別離を迎える。1800年5月の最後の出会い、その瞬時の別れにズゼッテは彼に鉛筆の走り書きを渡す。
「‥‥そして、苦痛の中でわたくしたちはお互いにわたくしたちの幸福を感じ、この苦痛がいつまでもいつまでもわたしたちのために残っていることを願うことにいたしましょう。なぜならわたしたちは苦痛の中に完全に高貴な感情を保ち、強められ、―――― 御機嫌よう ! 御機嫌よう ! 祝福があなたと共にありますよう。―――(手塚富雄 訳)」
‥‥‥この悲傷
『ヒューペリオン』は、このズゼッテとの愛の世界とその別離の中で書かれた。ディオティーマはこの小説の中でこう語る。
「あなた(ヒューペリオン)は、はたからお助けすることがむずかしい方なのです。‥‥あなたはご承知でしょうか。あなたに欠けているただひとつのもの、あなたがいつも悲しみながら尋ねているものは何かということを。それは、つい二、三年前になくなったものではありません。‥‥けれども、それはかつてあったのです。今もあるのです。それは、よりよい時代、より美しい世界。それをあなたは探しておられるのです。‥‥わたしのいうことを信じてください。あなたは人間を求めていたのではありません。一つの世界を求めていたのです。‥‥(手塚富雄訳)」
1797年に『ヒューペリオン』第一巻が、1799年に第二巻が出版された。この頃、戯曲『エムペドクレスの死』が書かれる。
精神の黄昏と一つの世界

ヘルダーリン塔 テュービンゲン
1801年、31歳、スイスでの家庭教師の仕事は4か月余りで終わり、翌年、フランスのボルドーに勤め先を移すが、これも数か月で終わりを迎えた。「アポロンに打たれた」と言うヘルダーリンは、ただならぬ様子でフランスから故郷に戻るが、追い打ちをかけるようにズゼッテの訃報を知らされることになる。1804年にはソポクレスの翻訳『オイディプス王』『アンティゴネ―』が出版された。だが、2年後には精神病とみなされ、テュービンゲンの大学付属病院に入院する。1807年、37歳の時、同地の指物師の親方エネンスト・ツィンマーの保護を受けて、彼とその娘の介護により、その家の一室に終生暮らすことになる。ヘルダーリン塔として知られる建物の二階であり、36年の長きに亘った。ツィンマーは、『ヒューペリオン』の愛読者でありヘルダーリンを敬愛していたのだろう。
自分の世界の中での絶え間ない対話、それによる独り言が続いた。時に激高することもあったという。だが、野外の散歩の時には独り言が止み、その眼は穏やかになったようだ。神性に触れたエムペドクレスは、救済者としてエトナ火山に身を投げた。ヘルダーリンは薄明の精神の中に身を沈めることとなるのである。1826年には、多くの人々の熱意と協力によってグスタフ・シュワープらの編集による『ヘルダーリン詩集』が刊行された。やがて、その息子クリストフ・テオドーア・シュワープがヘルダーリンを訪れるようになる。彼は、後に史上初となる『ヘルダーリン全集』を出版した。ヘルダーリンは、1843年、肺水腫のため73歳で亡くなっている。

ルイーズ・ケラー画 ヘルダーリン 1842
1837年に書かれた晩年の詩をご紹介してこの『ヘルダーリン詩集』を締めくくりたい。ゲオルク・トラークルが、この観照に影響された詩を作ったと言われる (手塚富雄『ヘルダーリン下』)。ただ、手塚さんは、トラークルのそれが嘆きの変奏であるのに対して、ヘルダーリンのこの詩では自然と人間とのすべて明るく透明で完全な調和があるという。‥‥明るい陶画のような風景
時に訪れる精神の晴れ間に、この自然への合一が歌われたのである。回帰する神的生気、フォーカスされる時間の遅速、循環する四季、広がる大地と流れゆく雲、時と空間を越えた完成‥‥そして、この拡がりのうちに現‐前すること‥‥君臨する美につつまれる深い静寂‥‥「一つの世界」へ‥‥帰郷
秋
かつてあって、また立ち帰ってくる生気についての
言い伝えは 大地を去っていたが、
それがまた人の世に帰ってくる。そして、多くのことを
われわれは 急速に去ってゆく季節から学ぶのだ。
過去のもろもろの形姿は 自然から
棄てられはしなかった、夏の盛りに
日々が色あせても、秋が大地にくだってくれば
畏懼(いく/おそれ)を呼びおこす霊気がまた空にうまれてくる。
またたくまに多くのことが終わった。
犂を駆って野にいそしんでいた農夫は見る、
年がよろこばしい終わりに向って傾くのを。
このような形姿のうちに人の日の完成はある。
巌をかざりとして広がる大地は
夕べに失せてゆく雲にひとしいものではない。
それは金いろの昼とともに現われる、
そしてこの完成には嘆きの声はふくまれない。
(手塚富雄訳)
Der Herbst
Das Glänzen der Natur ist höheres Erscheinen,
Wo sich der Tag mit vielen Freuden endet,
Es ist das Jahr, das sich mit Pracht vollendet,
Wo Früchte sich mit frohem Glanz vereinen.
Das Erdenrund ist so geschmückt, und selten lärmet
Der Schall durchs offne Feld, die Sonne wärmet
Den Tag des Herbstes mild, die Felder stehen
Als eine Aussicht weit, die Lüfte wehen
Die Zweig’ und Äste durch mit frohem Rauschen,
Wenn schon mit Leere sich die Felder dann vertauschen,
Der ganze Sinn des hellen Bildes lebet
Als wie ein Bild, das goldne Pracht umschwebet.
生い育つものすべての広がりが「世界」というものを贈ってくれる。全ての被造物は神の語る言葉であり、神は語られ、しかも語られない (ヨーゼフ・クヴィント『エックハルト著作集』) 。そして、その世界の言葉の「語られないでいるもの」のうちで「存在」は開け広げられ帰郷は完成する。そこで、神なるもの (ein Gott) は初めて神なるものである。一者は存在し、死者たちは深淵に到達する。リルケが言うようにそこには無限の死と立ち昇る幸福がある。何故か ?
死は、到来することで、消滅する。死すべきさだめのものたちは、生のなかで死を死ぬ。死のなかでは、死すべきさだめのものたちは、不‐死となる。(マルティン・ハイデッガー『ヘルダーリンの大地と天』濱田惇子、イーリス・ブッハイム 訳)


『ヘルダーリン全集 1 詩Ⅰ 1784-1800』河出書房 (手塚富雄、浅井真男 訳)
「ヒューペリオンの運命の歌」
あなたたちは天上の光をあびて / やわらかなしとねの上をあゆむ、しあわせな精霊たちよ、/ かがやくそよ風は / かるくあなたたちに触れる、/ たおやめの指がきよらかな弦 (いと) をかなでるように。// 天上の精霊たちは運命のない世界にやすらっている、/ 寝入っている赤子のように。/ つつましい蕾のうちに / けがれもなくまもられて / そのいのちは / とわに花咲いている、 / そしてそのやすらかな眼は / かわらずしずかな/明るさをたたえてかがやいている。// だが わたしたちは定められている、/ どこにも足をやすめることができないように。/ 過ぎてゆく 落ちてゆく/悩みを負う人の子は、/ ものぐるおしい谷水が / ひとときまたひとときと / 岩から岩になげうたれ / はてはその跡も / 知られぬように。
(手塚富雄、浅井真男 訳)

『ヘルダーリン全集 2 詩Ⅱ 1800-1843』河出書房 (手塚富雄、浅井真男 訳)
「メノーンのディオティーマの哀悼歌」7
けれども、おお、あの日の分れ道のほとりで、/ わたしがあなたの前にくずおれたとき、早くも慰めながらいっそう美しいことを示し、/ 偉大なものを見て、こころ楽しく神々をうたうべきことを、/ 神々のように黙 (もだ) したままで、静かな感動をもって教えてくれたあなた、/ 神々の子よ ! あなたはかつての日のように、わたしの前に現れて、会釈するのか ! / かつての日のように、ふたたび高貴なことがらをわたしに語りかけるのか ! / 見よ ! あなたの前でわたしは泣かずにはいられない、嘆かずにはいられない、/ もっと高貴な時代を思えば、そういうことを魂は恥じるだろうが。/ あなたになれ親しんだわたしは、まことに長いあいだ、/大地のわびしい道をたどって、迷い歩きながらあなたを探し求めたのだから。/ 悦ばしい守護の霊よ ! だが探し求めても無益だった、そして歳月は流れ去った、/ わたしたちが予感をいだきながら、身のまわりに夕べの輝くのを見たときから。
(手塚富雄、浅井真男 訳)
『ヘルダーリン全集 3』河出書房は「ヒューペリオン」「エムペドクレス」収載
『ヘルダーリン全集 4』河出書房は「論文・書簡・ドキュメント」ディオティーマへの手紙収載

ヘルダーリン『ヒューペリオン』
ヒューペリオンは「彼方に越えて行く者」の意味。ウラノスとガイアの子で巨人族の一人である。太陽神へ―リオスの父であるが、ホメロスではへ―リオスと同一視されているという。
ニーチェがこの散文『ヒューペリオン』は音楽であると評したことで知られるが、ギリシア人の若者ヒューペリオンが自分の思いをドイツ人ベラルミンに手紙で語る形で話は進められる。幼児の素朴な至福の世界が、対立や別れといった戦慄的な運命よる不協和音によって失われた後に自然との一体な関係を取り戻し、再び一にして全という世界を取り戻そうとするが、最終的に失敗へと導かれる筋となっている。物語は師アダマスからの学び、アラバンダとの友情、ディオティーマとの恋愛、解放戦争という四つのメルクマールを巡って展開される。その展開はフィヒテに哲学に影響を受けたシュレーゲルの「詩的反省の累乗」と言うべきものではないかと言われている。初期ロマン派の影響を窺わせる。

高木昌史『ヘルダーリンと現代』
「『最も偉大な』二律背反詩人ゲーテ、最も偉大な『ドイツ』詩人ヘルダーリン。」「実際、何故にヘルダーリンの狂気は人の心を捉える力を持っているのだろうか? その理由は、問いが解決されるからではなく、謎が魅了するからなのだ。全体的な構成ではなく、予感される深みが心を捉え魅惑するのである。それ故、語られれば語られるほど、それだけ一層、この技法においては、謎めいた語りになるに違いない(高木昌史訳)。」ノルベルト・フォン・ヘリングラートは自身の「オファリズム集」にこのように書いた。
1908年、20歳の時、シュトゥットガルト図書館でそれまで公開されていなかったヘルダーリンのピンダロスの翻訳を彼は発見する。2年後、学位論文にまとめ、「歴史-批判版」『ヘルダーリン全集』刊行を計画する。1913年、第五巻『翻訳と書簡』を刊行し、その中に収録された「ピンダロス翻訳」は、はじめて世に知られることとなる。翌年、第四巻『詩集1800-1806』を刊行した。この快挙によってヘルダーリン文学は一挙に注目を浴びるようになる。ヘリングラートは、絶頂期(1800-1806)のヘルダーリンの作品を『パトモス』(1803)以前と以後とに分け、その後半、彼が テュービンゲンの塔に入る前までの時期の作品をバロック的と名づける。そこに、過剰さや歪みばかりでなく、それを越えた「沈黙」の境地を見る。高木昌史さんは、ツェランらの現代詩人が彼に惹かれる理由もそこにあるという。だが、この俊英は28歳の若さで惜しくも戦死してしまうのである。

ノルベルト・フォン・ヘリングラート(1888-1916)

子安ゆかり『聴くヘルダーリン/聴かれるヘルダーリン』
本書にはヘルダーリン壮年期の詩作の在り方についての資料が掲載されていて貴重な文献となっている。
一般に詩に見られる音楽性というと韻律のリズムの刻み方、母音や子音の配列によって生まれる旋律やその流れのことを指すけれど、ヘルダーリンの詩において「何か」としか言いようのないものを捕える行為が「音」を聞くという聴覚的行為であったことを論証することを本書の目的とすると言う。ヘルダーリンは16歳頃のマルブロン時代からシラーの詩に作曲したツムシュティークの曲をピアノで弾いていたというし、フルートは唯一の慰めであり、かなりの腕前になっていた。テュービンゲン時代、家庭教師時代にも音楽の演奏は止むことがなく、友人に宛ててこう書いている。「親しげな音たちがわたしの中で憩っていて、時折わたしの内面と私の周りが平安のうちに静かなときに、目覚めるのです (子安ゆかり 訳) 。
ドイツ・リートの最盛期と言うべき19世紀ロマン派音楽の時代には言葉が滑らかに結合された詩が使われていて、ヘルダーリンのものは僅かにブラームスが『ヒューペリオンの運命の歌』に作曲したなど数例しかない。ヘルダーリンの詩節構成の不均衡な詩は、ゲーテやアイヒェンドルフのようには使われていなかった。最も盛んに彼の詩を用いたピアノ歌曲が作曲されたのは1920年から1950年の間で、その後も1980年のノーノ作曲の弦楽四重奏『断章ー静寂、ディオティーマに』やホリガーの合唱やオーケストラ作品が組み込まれた『スカルダネッリ= チクルス』などがある。また、アドルノにとって音楽が概念なき総合であったように彼はヘルダーリンの詩にも概念なき総合を見ていた。ちょうど12音技法で個々の音が平等に扱われるようにヘルダーリンのゴツゴツした結合をアドルノは「並列」と呼んだ。ヘルダーリン自身も1800年頃『詩的精神のふるまい方について/詩人がひとたび精神を操ることができるなら』の中で詩の生成についてこう書いている。「‥‥詩人が全ての部分の共同性と一致同時存在を目指す精神の最も本源的な要求と、それとは別の要求、精神に自己自身の中から出て行くことを命じ、美しい前進と交替の中で自己を自己自身と他において再生することを命じる要求との間に必然的な抗争が生まれることを‥‥ (子安ゆかり 訳) 」ここには、リニヤーには決して運ばない「絶えざる変容にさらされる流動体」と言われる彼の詩の制作方法があった。このようにして精神の内実は響き続けたのである。しかし、真実の音楽は音と音の間に、真実の詩もまた言葉と言葉の間にあることを忘れてはなるまい。そして、彼の目指した詩音の営為とは「かつて訊いた音」をその断片から聴き取り、「今響く音」から「未だ聴いたことのない音」を聴き取ることだったのである。

ハイデッガー全集 75巻
ヘルダーリンに寄せて 付ギリシア紀行
ヘルダーリンの詩にはこうある。
‥‥
いつか真なるものは現ぜねばならぬ。
けがれなきものよ、おんみが三度それを書き換えるとも
しかもなお、真なるものはそのあるがままに
語られざるままあり続けるに相違ない。(三木正之、アルフレード・グッツォーニ 訳)
ハイデッガーの数々の詩論から導き出される〈言葉〉とは、このように要約されているのではないか。「語られざるもののみが、言語となりうる。語られざるものは然 (しか) し、既にして言葉である。何かが言語へと来るまで=そこへともたらされうるまで、永き時を要する。(語らい)。思考の集積たる記憶と長き時。(三木正之、アルフレード・グッツォーニ 訳)」
応答は、回想しつつ迎えるべく応ずる言葉であり、人間の〈本質〉は思考の集積たる記憶の中に住んでいるがゆえに、応答は最初の人間的言葉である。「言語の起源」は応答の言葉の中に覆蔵されている。しかし、応答は語りへの準備に過ぎない。それは語られざるものであり、長きに亘って〈有〉の静謐の中へ戻り言う。この〈有〉は存在論のとしての立場から考えられなければならない。回想しつつ感謝する気持ちを持つ沈黙のみが、その沈黙の静謐に注意を向けることが出来る。その注意の内に記憶は、恩恵と苦痛を内に秘めてその合図を保持し、自己に従わせる。これが根源的言葉である。

マウルブロン修道院 内部
1147年にシトー会修道院として設立され、13世紀から14世紀にかけて拡張されていった。16世紀にプロテスタントの福音主義神学校として再出発していて、1993年にユネスコの世界遺産となっている。本文でも少し触れたが、ヘルマン・ヘッセが学んだ学校でもあり、『車輪の下』の舞台となった。



フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ(1743-1819)
デュッセルドルフに生まれた思想家・哲学者。カントをはじめフィヒテやシェリングらのドイツ観念論者たちとの論争で知られ、合理性よりも超感覚性・超自然性を重視した。その「スピノザ論争」はよく知られている。

ヘルダーリンの家 ニュルティンゲン

ニュルティンゲンのラテン語学校
ヘルダーリンとシェリングが学んだ。

ズゼッテ・ゴンタルト レリーフ
『ヘルダーリン全集 2』河出書房 より
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