今回の夜稿百話は、ゲルショム・ショーレムの歴史的名著『ユダヤ神秘主義』をお送りしています。前回 part1 は、本来のカバラーの前段階に当たるメルカーバー神秘主義を中心にご紹介しました。それは、旧約聖書のエゼキエルの書や聖書外典のエノク書などに登場する天の玉座と戦車の車輪で象徴される世界であり、忘我の中で体験される幻視がテーマでした。
この part2 は、贖罪主義と祈祷を中心とした中世ドイツのハシディズムをご紹介し、とりわけ祈祷主義が忘我へ至る道であり、その意味でメルカーバー神秘主義の流れの中にあることが闡明にされます。そして、ドイツにおけるグノーシス的・新プラトン主義的な流れを汲むハーシード・ユダとその弟子のエレアザールの思想をご紹介し、神の栄光・シェキーナーが見えない光と見える光に分化していく過程をみていくことになります。
第三章 中世ドイツのハシディズム 祈祷神秘主義
9~10世紀にドイツには、メルカーバー神秘主義がルネサンス的広がりを見せていたイタリアからその神秘主義がもたらされたが、哲学的な要素は、欠落していたという。一方で、10世紀のバビロニアの神学者であり神秘主義者ともいわれる *a サアドヤー (サアディア・ベン・ヨセフ) の哲学的な合理主義も伝搬していて、この十字軍の時代には様々な思想がドイツに流入していた。
ドイツ南西部、ルクセンブルクに近いヴォルムス出身のラビ・エレアザールは幻視的な天の遍歴を行ったとされ、1226年から1240年の間にメシア的終末の出現を予言し、その言葉は遥か遠い国々にまで広がったという。メシアニズムにおける黙示録的側面の形成がドイツの *1 ハシディズムにおいては進まなかったと言われるが、エレアザールの師で1217年に没したヴォルムス出身のハーシード・ユダは、終末期計算に反対はしたが、彼にとっても天国の至福やメシアの復活、正しき人の歓喜に溢れた観照、褒賞と懲罰に関わる終末論的モチーフや理念は、単なる文学的素材ではなく、ありとあらゆる具合に形を変えて現れてくる最も生き生きとした宗教感情から発生したという。ドイツでは、古いメルカーバー神秘主義よりも、もっと広範な思索が出現することになる。
中世のアシュケナージ・ハシディズム、つまり、ユダヤ系のディアスポラ (民族離散) のうちドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々のハシディズムは、このような流れの中で涵養されていったのである。ドイツのハシディズムの原動力は、学識や伝統ではなく、それらを超えたハーシード (敬虔者) の宗教的理想像であると言われる。ここでの伝説的な人物たちは「詩篇詠唱者」だった。ハーシードであるためには、世事からの禁欲的離反、完全な心の平静、極度な利他主義者であることが求められる。徹底的な非ブルジョア的生活が求められたのである。そして、とりわけ「辱めをこらえる人」でなければならなかった。「私のものは、あなたのもの。あなたのものは、あなたのもの」がハーシードの流儀となる。これは *2 ハーラーハー (ユダヤ法) よりずっと厳しいものであった。
1. ハーシード (敬虔者) の理想像
このようなハシディズムは、人間を悪魔に対する不安から守るというより、純粋に神秘的状態から魂に喜びをもたらし、世俗的で利己的なものを押し流し、神への畏怖と愛を沸き上がらせようとしたのである。神への愛は、同時代のキリスト教神秘家の *3「ミンネ」と同様にかなりエロティックな形で描かれる。ミンネにおけるような形象と譬喩は サアドヤーの著作に見られる地上の愛の描写に依拠したものだと言われる。同時に、おそらくキリスト教側からもたらされたと思われるが、犬儒派やストア派といった古代の哲学学派のいう不動心とも繋がり、僧侶階級の禁欲的理想にも緊密な関係を持った。そして、回教の神秘家であるスーフィーの生活をさえ規定したと言われる。古いメルカーバー神秘家が、玉座世界の秘密を解く鍵の保管者という敬虔者像を作り上げたのに対して、ドイツのハーシード (敬虔者) は、自己放棄と謙遜を旨とし、偏在する無限の中へ沈潜し瞑想する敬虔者として現れる。
2. 没我とゴーレムと数秘術
魔術やオカルト教義を熟知していたハーシード・ユダだが、彼自身は、それらを実際に使用する者に対して敵意を感じていたという。だが、その存命中にさえ、周囲の者たちに自らが魔術的創造者として祭り上げられることになる。魔術的に生命の吹き込まれた人造人間であるホムンクルス、つまり伝説のゴーレムは、彼らに端を発するという。先ほどのヴォルムスのエレアザールの著作には、『*4 セーフェル・イェツィーラー (創造の書)』の文字の組み合わせが忘我状態を呼び起こす訓練と結びついている記述があるという。そのような方法で忘我状態にある時のみ、ゴーレムに生命を与えることができると思われていた。それで、忘我状態とゴーレムの生命を結び付ける伝説が、民衆の間に、その後数百年間花開いたというのである。
トーラー (モーゼ五書) ケルンのシナゴーグ
ドイツのハシディズムは、祈祷や賛歌のなかの一語一語を数え、計算し、トーラー (モーゼ五書) の祈祷中にある語の数の根拠を探したという。古くから伝わる祈祷の語数とその意味についての思索がなされてきた。そのような方法として、言葉の数値を一定の仕方で計算し、同じ数値を持っている他の言葉や文章との関係を考えるゲマトリア、言葉の字母を文章全体の略語とみなすノタリコン、言葉の字母と字母との交換であるテムーラーといった神秘的解釈学の技術が13世紀のカバリスト文学には存在した。祈祷は地上から天上まで通じるヤコブの梯子であり、神秘的な神へと向かう上昇である。しかし、数秘術的考察の真の意味や目的は皆目明らかになっていない。関心がもたれているのは神の玉座に歩む道ではなく、祈りの道であり、問題となるのは言葉なのである。これは祈祷神秘主義、もっと言えば祈祷魔術であるとショーレムはいう。
3. 猛烈な贖罪主義
ここに初めてユダヤ教に猛烈な贖罪主義が登場する。秘密の意味に充ち溢れた祈祷の形式と共に、真のハーシードが歩むべき新たな道であり、極端なまでに磨き上げられた規範となる。一つ一つの過ちに正確に規定された贖罪勤行が定められる。中世初期のキリスト教の『贖罪の書』などの影響と言われる。いくつもの段階を持つ断食、しばしば奇妙奇天烈な行為、自発的な流罪といったことが広がりを見せる。トーラーが死刑に定めた罪の場合は、「死のようにつらい苦しみ」を自らに課した。14世紀のアッコー (イスラエルの町) 出身のイサアクはこう語った。「自分はドイツのハーシードから話を聞いたことがある。彼は、学者ではないが誠実で素朴な男だった。ある時祈祷の文字が書かれた羊皮紙の文句をうっかり消したのだが、その中に神の名が含まれていた。神の名誉を軽んじた彼は、自らの名誉を贖罪の種とした。毎日の祈祷のために皆が出入りする教会堂の入り口に身を横たえると大人も子供も彼をまたいで通った。しかし、一人が、うっかり彼を踏んでしまった。それで、彼は狂喜して神に感謝したというのである。破門されたスピノザ (1632-1677) だったが、彼の時代のアムステルダムでもシナゴーグの入り口に身を横たえて背中を踏まれるといった贖罪行為もあったようだ。ちなみに、『セーフェル・ハッシーディーム (敬虔の書) 』では理性的で市民的な結婚生活の秩序に最大の価値が置かれていたためにキリスト教におけるような性的な禁欲は要求されなかったといわれる。
4. 汎神論的神の遍在
『セーフェル・ハッシーディーム (敬虔の書) 』
中世ドイツにおけるユダヤ人の宗教的生活、
習慣、信念、伝統について記述されている。
一般的なドイツ・ハシディズムの特徴は以上のようなものだったと言ってよいと思われる。しかし、独自の汎神論的傾向と神の内在からくる宗教感情を持つハーシード・ユダとその弟子たちによる神学的・神智学的理念を知ることは、ハシディズムの理解にとって重要だとショーレムは言う。その理念は、異様な感じの生命力や神表象で充たされていたが、理論的により優れたスペインのカバラ―が14世紀からドイツへ浸透するのに伴い、影響力は失われていった。*5 アッガーダー (聖者伝説) やメルカーバーの遺産は、ハーシード・ユダの弟子であったエレアザールによって哲学的な *b サアドヤーの神学と結びついたが、奇妙にも正統派から疑いをもたれた神智学的理念が再び取り入れられ、ユダヤ中世の最も敬虔で純朴な信仰者たちは、異教徒と宗徒の遺産を共に受け継ぐことになるのである。ハーシード (敬虔者) 以前の神は、最高天にあって荘重で、巨大、圧倒する神であったが、今や、一切の尺度を超える無限の神となり、神の遍在が現れるのである。エレアザールは、こう述べる。
「神はいずこにもおわし、善と悪をみそなわす。‥‥『神よ、あなたはほむべきかな』―― たとえば友に語りかける人間のように。」
この「神よ、あなたは」のあなたはドイツ語の親称である Du が使われている。これによって神は、最も近く、開かれたものであると同時に最も遠く、包み隠されたものとして捉えられるのである。このエレアザールの神観は13、14世紀のキリスト教神秘主義の著作に好んで引用された。
また、ハーシード・ユダやエレアザールの考えをとても印象的に表現している賛歌『合一の歌』は、早くから礼拝に取り入れられた。
「万物はあなたの中にあり、あなたは万物の中にあらせられる。あなたは万物に取り巻かれ、万物を満たされます。万物が生まれた時、あなたは万物の中におられました。万物が生じる前は、あなたが万物であられました。」
これは、9世紀に汎神論的な説を展開した新プラトン主義神学者である *c ヨハネス・スコトゥス・エウリゲナに似た表現が見られるという。
13世紀のハーシード (敬虔者) であるモーセス・アズリエルにはこんな表現もある。
「彼は世界エーテルのなかにある方である。‥‥万物は彼のなかにあり、彼は万物を見給う。彼は、もっぱら見ることだからである。しかし、彼は目をもたない。何故なら彼は彼自身の存在の中に万物を見る力を持っているからである。」
この内在的神秘主義はスペインのカバラ―が入ってきた後も存続した。カバラ―の中にも、そのような傾向がないわけではなかったからである。結局、ハシディズムは正確な論理的表現を欠いたために色々なものを同時にいっしょくたに働かせる「物の見事な不明晰さ」と呼ばれるものとなった。
5. 見える光、見えない光、そして原型
ハーシード・ユダの『栄光に関する書』には、内的栄光 (カーボード・ペ二ーミー) の概念が登場する。それはシェキーナ― (輝き/神の栄光) や聖霊と同一で、形は無いが声を持っている。時には、神自身や神の意志とも重ねられ、聖霊並びに神の言葉として一種のロゴス神秘主義ともなった。無限で包み隠されている神は「創造された光、あらゆる創造のうちの最初の創造」、すなわちカーボードとして展開するという。隠れた神と創造する神はハシディズムにおいては同一なのである。創造の全ての行為が導かれるカーボードの潜勢力は、刻一刻と見えることなく変わっていく。世界が不断に変容する過程は、神の秘密の生の過程と一致していると考える。これは、カバリストの表象に近い。この見えない「内的な光」に対してそこから派生するカーボードの「可視的光」もあるという。それは、神の意志によって変貌する形式と形態を持っている。メルカーバーや預言者に現れる光にはこのような二重の構造がある。カーボードを見ることがハーシードの禁欲の目標であり、報いとなる。
もう一つの栄光と言葉に関する重要な要素は、メルカーバーの玉座の上に現れる聖なるケルーブである。このケルーブは、神のシェキーナーである不可視の栄光から流出される、あるいは神のまわりに燃え盛る「大いなる炎」から創造された「目に見える栄光」である。この「大いなる炎」からは人間の魂も流出するのである。それゆえ、人の魂は天使界のものより位が高いとされる。ケルーブは、人間や天使や動物のあらゆる姿をとることができるという。神の「言葉」の媒介によって世界は創造されたと述べた *d アレクサンドリアのフィロの教義は、未消化のまま10世紀の *a サアドヤーの時代のユダヤ宗徒のなかに出現する。ケルーブは変身したロゴスに他ならなかった。神は、直接世界を創造したのではなく、彼から流出したデミウルゴスとされた天使であれ、被造物的な天使であれ、それらの媒介によって世界を創造したというものだった。アレクサンドリアの神智学がペルシアやバビロニアのユダヤ宗徒にまで達していた。ハシディズムは、ケルーブから第二の神を創り出した、それは玉座に座った変身したロゴスに喩えられる。
アレクサンドリアのフィロ (フィロン)
紀元前20/30年? – 紀元後40/45年?
さらに重要な第三の要素として「王国」とも彼らに呼ばれる「聖性」がある。その聖性は神の栄光の創造された実体であり、全ての事物における神の隠れた現在なのである。タルムードでもシェキーナー (輝き/神の栄光) について、その本質的場所は「西方」にあると述べていることから、この聖性も西の地方に特定されることになる。「聖性」が無限であるのに対して「偉大さ」や「王」としての神の現れは有限であるゆえに内的栄光 (カーボード) やケルーブと同様の構造を持つ。隠れた神は、祈祷の対象とするのは困難だった、したがって、それに代わって被造物である神の姿として有限で可視的な顕現である「王」に呼びかける。しかし、真の志向は、姿なき神の無限の栄光に向けられているのである。
新プラトン主義のあいまいだが神学的・グノーシス的現れ、それどころか神話的逆形成が「原型」と呼ばれるものである。part1の「3. メータトローン神秘主義」で、*e ラビ・アキバがメータトローンについて語る重要な要素に宇宙の帳あるいは、幕があることは述べた。ハシディズムでは西以外の玉座の四方を囲む青い炎の幕である。栄光の玉座の前の幕には、地上のすべての原型 (デームース) が織り込まれている。この原型とケルーブとの関連は僕にはよくわからない。この中にはプラトンの理念や天上の存在と地上の存在との照応、全ての事物の持つ占星術的な「星」の存在といった考えが、ひしめいている。原型は隠れた魂による隠れた行為の最も深い根源と言われる。運命は、既にその中にあり、存在に生じるどんな変化も独自の原型を持っている。悪魔ばかりが、原型を読み取るのではなく預言者も原型の中に「前兆」を見る。神は、モーゼにこの原型を示した。神秘的に彩られたイデア世界にあるあらゆる存在の原型は人間が自然や神に至るための秘密であった。それこそが、ハシディズムの神智学的考察の重要な局面を形作ったとショーレムは言う。しかし、彼らは驚くほど途方に暮れて、出来る限り晦渋な思索でまったく素朴な神話的リアリズムを神秘的洞察や体験と結びつけようとした。これが中世のアシュケナージ・ハシディズムだったのである。
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