中世イスラム世界、それも図書館について書かれている。う~ん、なんてレアなんだろう。史上最も有名な図書館は、アレクサンドリアの図書館といってよいと思うけれど、これに匹敵する図書館がイスラムに登場する。人間の知は、戦争、災害、略奪、焚書、宗教・政治上の弾圧によって、繰り返し飛び散り、焼かれ、土に埋められて朽ち果ててきた。アレクサンドリアの図書館も例外ではなかった。
西洋の歴史上、書物の最も危機的時代であったのは中世、特にその前期であろう。エジプト、バビロニア、ギリシア、ローマの知は、キリスト教の登場によって切断されたのである。これによって医学、自然科学、哲学といった諸学は異端となり、それらを保存していた図書館は破壊され、本は焼き捨てられ、永遠に閉じられた。
このキリスト教が浸透した西洋に対して、かつては知の中心であったこともある中東にイスラム教が登場し、知を尊び、学問を奨励したのである。ムハンマドの言行録であるハディースには『神よ、わたしは、あなたの知識によって、わたしに知識をお与え下さるよう求め、あなたの力によって、わたしに力をお授け下さるよう求め、またあなたのお恵みを切に求めます。‥‥(ブハーリー訳)』とある。古代の英知はイスラム世界に残存し、発展を見るのである。
エジプト、バビロニアで生まれた最古の文明は再び中東の地で改良され、新たな発見をみ、アラビア語からラテン語へと翻訳され、西洋にもたらされることになる。イラン東部のホラーサーンの出身と言われるイスラム初期の哲学者アル=ファーラービー (870-950) は、哲学の祖をイラクに置いて、エジプト、ギリシアへと伝わり、シリアを経てアラブに伝わり、ついにバクダッド (バグダード) においてルネサンスの花が開いたと文化のブーメラン現象を述べているという。
日本であまり紹介されないイスラム文化、とりわけ図書館などは皆無と言っていいのではないだろうか。この『中世イスラムの図書館と西洋』、多少の瑕疵は、あるものの資料として極めて貴重な著書と思われる。今回の夜稿百話は、この『中世イスラムの図書館と西洋』を軸に他の図書の内容や史実も加味してイスラムの図書館を中心とした文化をご紹介する予定です。
著者 原田安啓
著者の原田安啓 (はらだ やすひろ) さんは1947年のお生まれ、明治大学、近畿大学に学び、司書として公立図書館に勤められた。教育委員会で生涯学習に従事していた間に、米国図書館研究のため日本図書館協会より派遣され渡米、文部省給費だった。国内各地の図書館設立にかかわり、奈良大学教養部で図書館情報学を、次いで近大姫路大学教育学部でも図書館情報学についての教鞭をとられた。専門は図書館史、図書館政策論、図書館評価法、各国図書館事情とある。著書に『最新図書館用語辞典』、『フィンランドの図書館』、『図書・図書館史』などがある。図書館一筋の人のようだ。
席巻するイスラム教
ムハンマドの遺体が埋葬されたアルマスジッドアルナバウィ(預言者のモスク)の門に刻まれたムハンマドの名前 「神の使節」という称号付
ムハンマドのムスリム
イスラム教の始祖ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは、6世紀の571年頃、アラビア半島のマッカ (メッカ) に生まれた。早くして両親を失い祖父に育てられた。叔父のアブ・ターリブに伴われ隊商に加わり、商人として成功するようになる。しかし、40歳の時に大天使ジブリ―ル (キリスト教におけるガブリエル) によって唯一神アッラーの啓示を受けてマッカで布教活動を開始する。しかし、そこは多神教を奉ずる遊牧民であるクライシュ族の支配する都市であり、迫害を受けることになる。622年にマディーナ (メディナ) にアラブ部族の調停者として招かれ、ムハンマドは、そこに定住した。これがヒジュラと呼ばれるイスラム歴の元年となる。
左 カアバのムハンマド 右 天界のムハンマド 16世紀
力の行使を伴わない布教活動が行われ、安息日を金曜日に、ラッパと鐘の代わりにミナレットからの呼びかけであるアザーンを唱え、断食の月ラマダンを定め、礼拝の方向であるキブラをエルサレムからマッカのカーバに変更したのである。ムスリム、つまりイスラム教徒の啓典である『クルアーン』は経典であると同時にイスラム法の根幹を形成していてムハンマドの言行録『ハディース』と共に哲学、倫理、民法、刑法、商法、国際法、儀礼にいたる「暮らしの百科全書」のような性格を持っているという。それにワクフ (喜捨) の精神は「飢えない社会的仕組み」を形成していた。ヒジュラ歴10年の632年にはアラビア半島のほぼ全域がアッラーのウンマ、すなわち信徒集団の地となったのである。イスラムとは元々、神への服従という意味であるらしい。
イスラム帝国へ
正統 (ラシドゥーン) カリフ時代において、ビザンツ皇帝ヘラクレイオス (575-641) とサーサーン朝ペルシアの最後の偉大な王と言われるホスロー2世 (570頃-628) は長く死力を尽くして戦い、両国とも疲弊しきっていたし、特にペルシアは度重なる反乱に苦しんでいた。そこに砂漠から強力な第三者の登場など全く予期していなかったのである。エジプトでもコプト教会とアレクサンドリアの主教とが対立し、コプトは独自路線を歩んでビザンツと敵対していたことによって、わずか 4~5000人のウマル・イヴン・ハッターブ率いるアラブ軍によって征服されている。彼は2代目のカリフとなる人物であるが、カリフとは、ムハンマドの後継者を指す言葉だった。
サーサーン朝ペルシアの最大版図
ピエロ・デラ・フランチェスカ『ヘラクレイオスのビザンツ軍とホスロー2世のペルシア軍との戦い』
アラブの兵は少数の例外を除いて征服した街での略奪を行わず、住民の虐殺もあまりなかったと言われる。時代が下れば、そうも言えなくなるのだろうが、「クルアーンか然らずんば剣か」と言われるようなイメージとはかなり異なる。遊牧民の彼らは宿泊するための家屋を接収することなく郊外にテントを張り、植民しても自分たちの街は郊外に形成し、税の徴収もそれまでより低く設定した。重要なことはイスラムへの改宗を強制しなかったことである。他の支配地域から逃れた者もムスリムになれば官に仕えることができたから徐々にイスラム化が進展したためにムスリムに対する抵抗が少なかった。例えば、北アフリカを攻略し、その知事となり、やがてイベリア半島攻略の立役者となったムーサ―・イヴン・ヌサイルの父親はアラム人で、イラクでアラブ兵の捕虜となって監獄送りとなり、やがてイスラムに改宗した人物だった。
サルバドール・キュベルス 画 (1845-1914)
グアダレーテ河
カリフの座を巡る抗争からクライシュ族の名門ウマイヤ家の世襲となるウマイヤ朝時代になる。イスラムの先遣隊が710年にアンダルス (スペイン) に上陸した頃、その地を支配していた西ゴートは、国内の安定を欠き、圧政を繰り返していて、ユダヤ人に対するキリスト教への改宗を強要していた。イスラムの登場は彼らにとって天の恵みであり、その圧迫から逃れるために内通者が続出した。711年に、西ゴートの王ロデリックはイベリア半島北部のバスク人征伐に向かっていたが、ムーサ―・イヴン・ヌサイル旗下のベルベル人 (北アフリカの先住民) の武将ターリク・イブン・ズィヤード率いる1万2000人のイスラム軍の侵入を受け、グアダレーテ河畔の戦いで敗れ、西ゴート王は戦死した。首都トレドは陥落し、716年までにイベリア半島をほぼ制圧したのである。
アラビア語の国際化
アラビア半島のシリアで話されるのはギリシア語かシリア語 (アラム語の方言) である、イラクはペルシア語かアラム語、エジプトはギリシア語かコプト語であり、イランはパフラヴィ―語 (中期ペルシア語) というようにアラビア語は一地方語に過ぎなかったが、ムハンマドが布教活動を開始してから100年も経たないうちに西はイベリア半島から東はインド国境までの広大な版図を持つようになるとアラビア語は国際語となった。『クルアーン』はアラビア語で読誦されなければならず、アラビア語でしか記述されない。神が選び定めた言葉の翻訳は禁止されていたのである。アラビア語が分からなければムスリムにはなれなかったし、宗教儀式は全てアラビア語で行われた。
アルモハド(ムワッヒド)朝のクルアーンの装飾
12/13世紀
アラム語から派生したアラビア語は、セム系の言語で基本的に子音のみで書き表される。短母音を文字によって表記しないが、補助的なシャクルと呼ばれる小さな記号を用いて他言語の固有名詞なども表現する工夫がなされているらしい。アラビア文字の母音は、ا/alif/a、ي/ya/i、و /waw/u の3つ、つまり、ア、イ、ウとそれを長音化したもの、及び、それらを組み合わせた二重母音のみである。基本文字は28文字だがハムザと呼ばれる声門閉鎖音のための文字や他言語の子音を表すための記号が存在しているという。あのクネクネした文字と記号の華やかさはアートにまで洗練されていく。
イスラム教は、都市の宗教だった。その領土では、当然イスラムの法が優先される。そこでは神学ではなく法として機能することが、征服者としてのイスラムがその土地の文化に埋没しなかった大きな要因となった。もともとアラブ人が交易商業に従事していた民であったことも大きな要素であったろう。イスラム地域は世界に先駆けて貨幣経済の発達した地域でもある。商業には、それなりの自由が許されていたろうし、アラビア語はそのためのコミュニケーション手段となった。イスラム教へと勧誘はするが拒絶も許容していたことは、宗教を選ぶ自由を留保していたことに繋がる。
知恵の館の誕生
750年にウマイヤ朝が倒れ、アッバース朝が成立する。非アラブ民にたいする人頭税の課税とアラブ人への年金支給が不満を招いていたことと最高指導者 (イマーム) をムハンマドの血統であるアリーに連なる聖家族とすべきだという「シーア・アリー」つまり「アリーの党」の主張が高まったことが契機となった。これが、シーア派であるが、これに対するスンナ (スン二) 派は信者の合意のもとに最高指導者は決定されるべきだと考える。
ちなみに、アリーとは、ムハンマドの父方の従弟で、ムハンマドの娘婿となった人物であり第四代カリフとなったが、ウマイヤ朝の初代カリフとなるムアーウィヤとの戦いに敗れ暗殺された。ともあれ、このシーア派の主張は、ウマイヤ家に対する反発であり、宗教的な争いというより政治的な主張だった。このアッバース朝では、アラビア人の特権が廃止され、ムスリム間の平等が確立されることになり、アラビア帝国は真にイスラム帝国となったのである。
ハールーン・アッ=ラシッド(786-809)
『千夜一夜物語』には風流君主として登場する。
イスラム文化が花開くのは、このアッバース朝の第二代カリフであるアル=マンスール (712-775) によってバクダッド (バグダード) が建造され、そこに遷都してからだと言われている。彼は歴代カリフの中で唯一弁論術で名を馳せた人物で、公文書の逓信網を拡充し、俸給で雇用したプロの官僚を用いた。知に対する欲求も人並みすぐれた人物だったという。このバクダッドに図書館が登場するのは第五代カリフ、ハールーン・アッ=ラシッドの時で、サーサーン朝ペルシア起源の言葉で「知恵の宝庫」と呼ばれた。それは王立の図書館か少なくとも国家行政による公的なものであったと推定される。
この知恵の宝庫での翻訳作業には、ユークリッドの『幾何学原論』が知られているが、サーサーン朝文化の復興という色彩が強く、イランのパフラヴィ―語からアラビア語への翻訳が重要事項となっていた。サーサーン朝ペルシアでは歴史、戦記、恋愛などの作品は王のために詩に書き直され、知恵の宝庫に収められたと言われる。後のサーマーン朝時代 (10世紀) の『シャー・ナーメ(王書)』の原型に当たるものになるんだろうか。
『シャー・ナーメ(王の書)』写本 16世紀末
アッバース朝の第七代カリフであるマームーン (マムーン/786-833) の統治期に「知恵の宝庫」は、「知恵の館」に改称された。館長はペルシアの民族主義者で、パフラヴィ―語の専門家であるサフル・イブン・ハールーンであったが、天文学者のヤフヤと3人の若いバヌー・ムーサ兄弟、やがて図書館長にもなる数学と天文学で名を馳せたアル=フワーリズミーが雇用されていた。このマームーンの時代から夥しいギリシア文献の翻訳が本格的に始まっていて、以後100年間続くことになる。10世紀の図書目録フィフリストには「マームーンが夢の中でアリストテレスと対話した」という記事が掲載されている。フィフリストについては後で改めてご紹介する。
813年にマームーンに忠誠を誓う大衆
『千年の歴史』より16世紀
知恵の館が設立される以前にビザンツから異端とされたネストリウス派などのキリスト教徒がイランの東部のグンデシャプール (ジュンディ―シャープール) の地に住んでギリシア語からアラビア語への翻訳にあたっていたという記録が残っている。この地はアテネのアカデメイアが閉鎖された後、多数の学者が移り住んだサーサーン朝ペルシアの知の中心だった所だ。この頃ペルシアは既にギリシア化されていた。
それらの人々はバグダッドの知恵の館に招聘され、ギリシア語文献の翻訳に従事するようになった。ここにはダマスカス (ダマスクス) と並ぶ付属の天体観測所が設けられてもいる。こうして知恵の館は前3世紀のアレクサンドリアの図書館以降、最も重要な知の集積地・教育機関となったのである。
館長職を務めた著名な学者としてイスラム世界だけでなくキリスト教国にもその名を轟かせた医学のフナイン・イスハーク (809-873)、アリスタルコスやユークリッドの翻訳を手掛けたキリスト教徒のクスター・ルーカー (?-913)、占星術家ムーサ・ブン・シャキールの三人の息子たち、ムハンマド、アフマド、ハサンはアルキメデスの研究で知られ、そのうちのハサンは館長にもなっている。
フナイン・イスハークの写本 眼の挿絵
13世紀
他に、館長ではなかったが、星崇拝で知られるサービア教徒であり、メソポタミアの古代都市ハランで生まれたタービト・クッラ (824-901) がいた。彼は、アルキメデスやアポロニウスの翻訳を手がけた。ユークリッドの『幾何学原論』とプトレマイオスが天動説を説いた『アルマゲスト』の改訂を行い、いずれも12世紀にクレモナのジェラルドによってラテン語訳されているものだった。
図書目録フィフリスト
フィフリストの写本
文化が発展し、書物の数が増えれば目録が必要となるのは自然な流れだと思う。それを一冊に書き上げたのが名だたるイブン・アン=ナディーム (932?-990) だった。バグダッドに生まれ、政府の事務官だった人で、父親は書籍商であった。シリアのアレッポやイラクにあるモースルの図書館を訪れているが、ほとんどをバグダッドで過ごしている。このフィフリストという言葉はペルシア語で一覧という意味であったことから、彼が民族的にはペルシア人ではなかったかという説が有力である。
987年頃書き上げられたこの書は、約1万冊の本と2000人の著者に言及され、主題別、年代別に書かれていて、内容は、1.クルアーン、2.文法、3.ハディース、4.詩論と詩、5.神学・教義、6.法律、7.哲学・古代科学、8.伝説・寓話・魔術、9.非一神教の文献、10.錬金術の十章である。古代やイスラム期のイランの史料として重要であるだけでなく、特に、マニ教とグノーシスに関する史料として一級と言われる。邦訳は無いんじゃなかろうか。数多くの詩人、能書家の作品、学者の業績に言及しているが、書籍の紹介だけでなく、自分の意見を述べていることもあり、それらの記述は、10世紀としては驚くほどの客観性を持ち、バグダッドの文化水準の高さと当時の文化状況を知るための貴重な資料となっている。
フィフリストには、翻訳に必要な書物を持ち帰るためにローマ時代の図書館を調査したことが述べられている。ビザンツの巨大な神殿やトルコ西部のエーゲ海に臨むエフェソスにある神殿に設置された図書館である。ギリシア語文献の翻訳のための未知の書籍を求めて使節団が送られたことが窺える。また、このフィフリストの書にはアリストテレスの記述が非常に詳しく書かれていて、アリストテレス熱に沸き立った経緯が偲ばれる。しかし、著者の原田さんによれば、この時代にはギリシア語からアラビア語への翻訳は、ほぼ終了していてイスラム世界はギリシアを越えようとしていたという。
シンドバットの冒険 15世紀
知恵の館で物語が集められ、本としてまとめられて保管されていたことは既に述べたが、ナディームが図書館員だったことを窺わせる記述として以下の事柄が挙げられている。インドやペルシアの話は、館長をはじめとする一連のメンバーによって選別され編集されたこと、『千物語』、つまり『千夜一夜物語』は、まだ完結していなかったこと、それらの話がペルシアの『シャハラザード』などの影響を受けていること、『シンドバッドの冒険』の話は既に存在していたこと、性や冒険譚は図書館の本からの内容を巷でストーリーテラーが話し聞かせていたなど、ナディームが図書館内部の事情に通じている様子が見受けられるのである。
組織化される図書館
バスラの公立図書館 ハリーリー『マカーマート』
1237年画 図書館で催される文学サロンの様子
目録作り
首都に公の図書館が出来上がれば、他の都市にも図書館がつきつぎと立ち上げられる、その中には個人の所有する図書館もかなりの数にのぼった。個人図書館の中には権力者によって接収されないように喜捨 (ワクフ) として設立したものもあり、持ち主が亡くなって喜捨されるものもあった。喜捨すれば公のものであり、何人も手が出せなかったのである。こうした公立の図書館も増えていった。
このワクフの制度が目録つくりに一役買ったと言われる。イスラム法によって喜捨を受けた図書は、リスト化され登録され、これを立会人が確認した後に神の恩寵が一冊ごとに記される。目録にはタイトル、主題、書かれた書体が記され、改変を防ぐために各ページに目録のシールが貼られたという。それらは主題ごとに収納される。このためイスラムの図書館には必ずと言ってよいほど目録が存在した。しかし、このような個別の目録は、大きな図書館の統一した目録作りのためには煩雑さを増大させ、これが却って邪魔になったらしい。
目録は大きく三分類され、第一はクルアーンを中心とする宗教学、第二は宗教学をサポートする学問としての文学、言語学、歴史、第三は科学、すなわち、医学、天文学、数学であった。哲学がないのは意外だ。同じ主題の図書があれば次のように優先順位が決められた。第一はクルアーンの中の言葉を多く含もの、次は預言者の言葉が記されたハディースが引用されているもの、その次は著者の評価が高いもの、最後は真正で権威のあるものという順である。
革新する製本技術
パピルス巻子本 エジプト博物館
パピルスは巻子本に向いていて、冊子にすると強度的に問題があった。その起源はエジプトで紀元前3千年まで遡ると言われるが、前1100年頃から地中海東部に輸出されるようになり、ギリシア・ローマを通じて最も優れた書写材料だった。加工は単純で刈りとられたパルスの茎を縦にして切り広げ、さらに切り広げたもう一枚さらにもう一枚とつないで茎を槌で叩くと樹液によってくっ付いた。文献によっていくらか数値に差はあるが、縦に30~40センチ、横10~24センチに切り揃えたものを通常20枚繋いで作る。全体の長さは3メートル程度が標準で中には、もっと長いものもあったらしい。スムースで変形しやすく白くて文字が書きやすかった。
冊子 (コデックス) が作られるのは、一般にローマ時代の蝋板からと言われる。既にエジプトでパピルス製の冊子が作られていたようだが、折り曲げに弱いために使用に耐えなかった。やがて木の板に文字を刻み、それらを束ねた。木に代わって羊皮紙が使われるようになる。パーチメント、つまり、羊皮紙はアレクサンドリアに次ぐ図書館を擁した小アジア (現トルコ) にあったペルガモンに因む名で、この地で白く改良されたことから有名になった。フランス語の子牛から来たヴェラムは高級羊皮紙として知られる。
ロマネスク様式の『ギガス・コデックス写本』
別名「悪魔の聖書」
ヴェラム(子牛の皮)で制作されている。
イスラムの伝統として冊子 (コデックス) 状の本が一般的だったが、8世紀から9世紀にかけて、本製作にとって二大革命が起きる。一つは大文字から小文字主体の使用となって紙幅の量が節約できるようになったこと、そして紙の量産である。それまで紙は、輸入されたわずかな量だった。751年のタラス河畔の戦いの結果、その製法が中国からイスラム世界に伝わったことはよく知られている。アッバース朝軍に捕えられた唐の捕虜に紙職人がいたのである。サマルカンドに製紙場が建てられ、794年にはバグダッドにも出来ている。
タラス河 キルギス北西部
初期のクルアーンは羊皮紙に書かれたものだったが、紙の使用は8世紀後半のアル=マンスールの頃には既に始まっていた。現在残っているアラビア語の写本で紙に書かれたものはアッバース期の866年のものである。10世紀半ばには、イベリア半島のアンダルスにも流通するようになっている。こうして、紙が生産されることによって書写材料が大量に生まれ、本の量もそれにつれて増加したのである。
付け加えて言えば、本の製作には沢山の業者が関わっていて書家、画家、飾り師、箔押しや裁断を行う職人、そして綴じ師などが必要とされ、マームーンの時代の頃から分業制がとられるようになる。
図書館の施設
図書館に入るには長方形に立ち並んだ柱廊と廊下を通り、華麗に装飾された部屋に入る。大理石の床は夏にはむしろで、冬にはフェルトや木で覆われていたし、窓やドアはカーテンで覆われ太陽の強い光線が遮られていた。建物にはパイプを通して水が流れて泉が作られ飲み水などに使われた。写本専用の部屋もある。一冊の本を同時に多数写本する場合は、一人が読み上げ、周りの者がそれを書きとっていった。
図書館業務
図書館の利用は誰にでも開かれていて、利用者が来館すると目録と紙とインクが渡される。一冊全部写本したい場合はインクと紙は自前となるようだ。床かクッションに坐り、壁に寄りかかる。組まれた足の上か小さな木机の上に本を置いて読むが、本は床に置かないように注意された。貧乏学者は大図書館にやって来ては写本をし、販売して糊塗を凌いだという。
バグダッドの学林やモスクに併設される学校であるマドラサの図書館は毎日開いているが、一般の公立図書館は週のうち2、3日の開館で、日中にかぎられる。本は原則、持ち帰れなかったが、数時間の持ち出しは許される場合もあった。貸出の承認が得られないと、本と同等の保証金を払う必要があり、写本一日分の量のみが貸し出されたという。役所の高官など本を返却しない恐れのある場合は、もう一冊写本を作って貸し出したようだ。図書館員の仕事は現在と同等かそれより専門的だったと言われている。給料は学者の半分だった。図書館の財源は主に寄進された土地の賃料で、東方イスラムでは布業者、造幣家、羊毛の商人などが支えとなっていた。
アンダルスの花嫁 コルドバ
コルドバのメスキータ・モスク アブド・アッラフマーン1世により784年に建設が始められ、10世紀まで拡張が続けられた。
イスラム帝国は、アンダルス (スペイン) で756年にウマイヤ朝の系統の後ウマイヤ朝が既に成立していたが、北アフリカでシーア派のファーティマ朝が909年に起こるに及んで、それぞれの指導者が従来のアッバース朝に対抗する形でカリフを名乗るようになる。この三つの地域のカリフたちは敵対していたもののイスラム圏での人・物・金の流れにそれほどの支障はなかったようだ。これに応じて、それぞれの地域の都市で図書館を含めた文化が花開くことになり、10~11世紀はイスラム・ルネサンスと呼ぶに相応しい時代となっていくのである。ファーティマ朝が973年に首都をカイロに定め、アンダルスでは、かつて、この地の攻略を主導したムーサ・イヴン・ヌサイルが開発した都市コルドバが首都だった。
アル・アズハル・モスク (ファーティマ朝)
カイロ
ファーティマ朝のカイロには988年に図書館が新設され、蔵書は10万冊とも60万冊とも言われ、そのうち2400冊は金と銀で装飾された華麗な『クルアーン』だった。一方アンダルスのコルドバではハカム2世 (在位961-967) の時に宮殿図書館の蔵書は40万冊とも60万冊ともいわれる規模に膨らんでいた。目録だけで44巻に上り、その各卷は詩歌作品だけに20頁を割いていた。
クルアーン表紙 9世紀~10世紀 シリア
コルドバは、バグダッドやコンスタンティノープルに勝るとも劣らない繁栄を見せ始める。ラフマン2世 (在位822-852) は、優雅なファションやマナー、新たな化粧法や調理法を考案したペルシア人の音楽家ズィリヤーブを雇い、重用したが、このような才能を持つ人物が、アフリカ、エジプト、アラビア、シリア、イラク、ホラーサーン (イラン東部) といったムスリムの地から出現していた。ちなみにコルドバが知識の街ならセビリアは音楽の街だった。
カリフとなったラフマン3世 (在位929-961) とそれに続く先ほどのハカム2世の宮廷にイスラム地域から良書が集められ、同時に知識人や学者が集まってくる。宦官のバキヤが宮廷図書館を管理すると同時に、貧しい者でも教育を受けられるよう27の無償の学校を設立した。宗教に関係なく学ぶことができ、教員の給与はバキヤが負担した。13万件の家屋があり、街路沿いには、それらの家からの灯火に輝く舗装街路が数キロも続いた。多数の図書館や書店、モスク、宮殿を擁して、旅行者は感嘆し畏敬の念を抱いたと言われる。アラブの年代記者が「アンダルスの花嫁」と讃えたコルドバの絶頂期であった。トマス・アクィナス (1225頃-1274) が心酔したのがアリストテレスだったが、その最も著名な注釈を書いたイブン・ルシェド (1126‐1198/ラテン語名アヴェロエス) は、このコルドバで生まれている。
コルドバ グアダルキビール川から望む対岸のメスキータ・モスク
アンダルスは、アラブ式水車とカナート (地下用水路) による灌漑によって農地が拡大され、肥沃な土地からオリーブ、小麦、ブドウ、ヤシ、レモン、ライム、アーモンド、アプリコットなどが生産され、同時にイスラムの交易ネットワークによって、北アフリカからインディゴや小麦、エジプトから亜麻、真珠、染料に用いる蘇芳、遠くは中国やチベットの産物までもが、もたらされていた。その富が文化を支えていたのである。
11世紀に後ウマイヤ朝の滅亡後、キリスト教側のレコンキスタ (失地回復運動) が激しくなるとイスラムは次第に南部に追い詰められ、1492年のグラナダ王国の滅亡によってアンダルスの地を失う。それまで、そこには宗教に関係なく多様な民族が暮らした。とりわけユダヤ人には住みやすい地域だったのである。イベリア半島が全面的にキリスト教国化されると、イザベル1世 (在位1479-1504) とフェルナンド2世 (在位1479-1516) 両王による異端審問が過激化し、まずユダヤ人が標的にされた。打ち続くユダヤ人迫害によって、彼らは比較的自由な雰囲気を持つ都市に逃れていったが、その中に16世紀末、アムステルダムに逃げ延びたスピノザの両親もいた。やがて、ムスリムも異端審問の対象になっていく。
ヨーロッパがアラビア語によるギリシア文献を手にいれるための窓口としたのは、シチリア、北イタリア、そしてスペインだったのだが、これがイスラムのスペイン、つまりアンダルスの辿った経緯だったのである。
知の統合と再発見
イアン・F・マクニーリ―&ライザ・ウルヴァートン
『知はいかにして「再発明」されたか』
イアン・F・マクニーリ―とライザ・ウルヴァートンは『知はいかにして「再発明」されたか』の中でこう述べている。
イスラム教そのものが学問共同体と考えてよかったが、その中で知を支えてきたのはウラマー (法学者や神学者などの知識層を指す) と呼ばれる学者集団である。彼らは、国家や宗教的なエリートではなく、多くは裕福な地方の出身者で学識のある信心深い人物だった。中国の士大夫層に匹敵した。これに対して、ヨーロッパは貴族的なエリートに最初に仕えたのは学者ではなく騎士であり、ウラマーに相当する階層は無かったという。ちなみに、アメリカに支援を受けたパフラヴィー朝を打倒し、イラン革命を主導したホメイニー師もウラマーだった。
イスラムにおける新たな学問的解釈には、誤りなく説明され、記録された過去の文書に依拠している真実の知恵であることを示すことが必要とされる。これはアレクサンドリアで確立された学問の伝統といってよいものだったろう。文書を照合して翻訳するためには、その様な態度がとられてきたのである。それは、統合と再発見への窓口であり続けた。知識とは苦労して勝ち得るものだったのである。
イブン・スィーナ (アウィケンナ/980-1037)
ホセイン・べフザード(1894-1968)画 イラン
エジプトやメソポタミアの資料から錬金術/化学が、ヒンドゥーの数学から代数学がもたらされ、天文学はプトレマイオスの天動説を地動説に変える一歩手前まで到達していた。イブン・スィーナ (ラテン語名アウィケンナ/980-1037) を頂点とする医学においては麻酔や鎮痛剤を用いての手術や感染症や癌の摘出に関する知識さえあったと言われる。こうした知の継承には、モスク付属の学校であるマドラサなどで、できるだけ対面によって親密な人間関係が形作られることが望ましいとされてきた。こうした学問の伝統は、宗教と法律、そして文書と口承の統合においてユダヤ教に匹敵するものだったという。
著者たちは、東方教会、カトリック、プロテスタントと分裂し、けっして和解することのなかったヨーロッパがイスラム圏のような一つの文化圏になるためには、イデオロギーの違いを超えた新たな制度が必要だったという。それが文字の共和国であったというのである。キケロが理想とした文字の共和国、それは、人文主義と言いかえてよいものだった。
イスラム文化の黄昏
イブン=ハルドゥーン『歴史序説』3
森本公誠 訳
歴史家のアーノルド・トインビーやジョージ・サートンが、アラブの天才、マキャベリやヴィーコ、コントの先駆者と呼んだイブン=ハルドゥーン (1332-1406) は、1377年に『歴史序説』を完成させた。チュニスに生まれた人だ。そこにはこのように書かれていた。「やがてマグレブ (北西アフリカ) とスペインで文明の息吹は止み、学問は文明の減退につれて衰退した。その結果、学問活動はそこでは消滅して、ただわずかな痕跡だけが散り散りにになった人々のあいだに見られ、それも正統派イスラム学者の統制下に置かれているときだけになった (『歴史序説』3 第6章 森本公誠 訳)。」
1258年にフラグの率いるモンゴル軍によってバクダッドは陥落し、アッバース朝は滅びる。しかし、モンゴルは知識・情報を中心にイスラム文化を吸収しようとした。チンギス・ハンの孫にあたり、フラグの兄である第4代モンゴル帝国皇帝モンケ・ハン (在位1251-1259) は、ユークリッドの幾何学によく通じていたと言われ、首都のカラコルムやサマルカンド、イラン北部のダブリーズなどは文化の中心地となった。
バクダードの戦い 15世紀画
そして、ハルドゥーンは続ける。イラク=アジャミー (イラン高原西部) や東のマーワランナフル (ウズベキスタン、タジキスタンとカザフスタンの一部) では、叡智の学問がまだ相当なレベル維持されている。‥‥一方でローマの国とそれに接する地中海北岸地域のヨーロッパ・キリスト教国では哲学が大流行していて、そこでは体系的な内容の哲学が教えられており、それらを知ろうとする多くの人々がいると書き残した。文化の風はヨーロッパへと風向きを変えたのである。
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