承久の乱で勝利した総大将北条泰時は、京を制圧した後、六波羅に留まり戦後処理に奔走していた。敗残兵の処置もその一部で、放っておけば盗賊化し治安の悪化が懸念された。そんな折、安達景盛が高山寺で山狩りを行い、敗残の軍兵を匿ったという僧を引き連れてきた。これが、明恵 (みょうえ) 上人と北条泰時との運命的な出会いとなった。明恵は建礼門院や後鳥羽上皇に帰依された高名な僧であり、泰時の伯母・北条政子とさえ繋がりがあった (『大日本史料』) と言われる。
北条泰時がどのような人物であったのか。『神皇正統記』で南朝正統論を著し、足利尊氏に徹底抗戦したことでも知られる北畠親房はこう述べている。「‥‥大方泰時心正しく政 (まつりごと) 素直にして、人を育み物におごらず、公家の御事を重くし、本所 (荘園領主) のわずらいを止めしかば、風の前に塵なくして、天の下すなわち鎮まりき。かくして年代を重ねしこと、ひとえに泰時が力とぞ申伝えぬ (一部の漢字は筆者の補足) 。」父親の義時にさえ、義時は人望に背かなかった。陪臣である義時が権限を揮ったからという理由だけでこれを討伐するのは、後鳥羽上皇に落ち度があるとさえ述べるのである (『神皇正統記』 )。
水戸光圀のもとで明の儒学者朱舜水に学んだ安積澹泊(あさか たんぱく)は、同様に後鳥羽上皇の政治責任の方に目を向けており、泰時にたいしては「精を励まし治を図り、専ら節倹を尊び、債券を免除し、飢饉に瀕した民を救済し、民のこれを思慕すること、赤子の慈母を仰ぐが如し (『大日本史賛藪』)」と述べている。著者の言葉を借りれば、ベタ褒めなのである。ちなみに、この澹泊は「水戸黄門」に登場する格さんのモデルとされている。
今回は、朝廷軍を敵に回して制圧し、朝廷から立法権を奪い、三人もの上皇を配流にした、いわば、天下の極悪人といわれても仕方のない朝敵であった北条泰時が、著者の山本七平さんのいう日本史上稀有な政治革命、世界的にも類を見ないと言われる日本的革命をどのように行ったのか、その御成敗式目 (貞永式目) の計り知れない影響とは何だったのかを探ってみたいと思っている。
筆者 山本七平さんについて
山本七平(1921-1991)とご家族
山本七平 (やまもと しちへい) さんは1921年に東京のクリスチャンの家庭に生まれた。親戚には幸徳事件の冤罪によって死刑となった大石誠之助 (1867-1911) がいる。1942年太平洋戦争のために青山学院高等商業学部を21歳で繰り上げ卒業し、陸軍士官学校へ入校、その後ルソン島の戦役に参加。マニラの捕虜収容所に収監される。このあたりの戦争体験は後の著作『私の中の日本軍』などに影響を及ぼしているし、孫子に関する著作へと繋がった。
1947年に帰国すると、聖書学を専門とする出版社である山本書店を創業する。1970年にイザヤ・ベンダサンの著作とされる『日本人とユダヤ人』を刊行したが、ジョン・ジョセフ・ローラーとミンシャ・ホーレンスキーという二人のユダヤ人と山本さんの会話の中でまとまったものを山本書店から出版したもののようである。1977年に『空気の研究』、1979年に『勤勉の哲学』、『日本の資本主義』、1982年に本書『日本的革命の哲学』、1983年に『現人神の創始者たち』など数多くの著書を出版している。
大平・中曽根各内閣で諮問機関の委員を務めるなどの活動もあり、受賞歴としては、1973年に文芸春秋読者賞、1981年に菊池寛賞、1989に文化賞などの受賞がある。1991年に癌のため亡くなっている。
承久の乱と後鳥羽院
事の起こりは、実朝の暗殺により空席となった将軍の座に宮将軍を京から送ることを後鳥羽院が留保したことと、院の寵愛する伊賀局亀菊の所領である長江・椋橋両荘の地頭の交代を執権・北条義時に迫ったことだった。地頭の任命権は幕府にとって生命線だったのである。義時は弟の時房に兵千騎を以て上洛させ、地頭交代拒否を告げる。新将軍は頼朝の外孫である九条道家の幼児三寅とすることが決定された。後鳥羽院は、この高姿勢に対抗して幕府の瓦解を画策することになる。在京の御家人や僧兵、神人、美濃から丹波にかけての兵を集めると同時に、諸国に義時追討の院宣を下した。
北条義時 (1163-1224) 承久記絵巻
これに対して長男の北条泰時は、一天ことごとく王土であり、朝廷の天ヶ下にある者は、君の御心に従うべきだとして無条件降伏を提案したという (『梅松論』)。これに対して父の義時は、「仁に損なう者これを賊といい、義を損なう者これを残という。残賊の人は、これを一夫という。一夫紂を誅するを聞けるも、未だ君を弑せるを聞かざるなり」という『孟子』を引いたというのである。殷の湯王が夏の桀王を放逐して天下を取り、周の武王が殷の紂王を同様に処した「湯武放伐論」を引いて、民心の離れた者は、君ではないと諭したのである。
ところで、後の安積澹泊(あさか たんぱく)は、この乱を引き起こした後鳥羽上皇の即位に関して、その異常さを述べている。「人君、くらいに即 (つ) くには、その始め正しくす。その始めを正すは、その終わりを正す所以なり。古より、未だ神器なくして極に登るの君はあらず (『大日本史賛藪』)。」これは安徳天皇が神器とともに西海に向かったため、後白河法皇が高倉天皇の第四子尊成親王を後鳥羽天皇として立てたことを指している。神器の継承のない即位は、当時にあっても、その後の時代にあってもショッキングな事件であったらしい。後鳥羽上皇の天皇即位が元凶だったと言うのである。
これには訳があり、南北朝いずれを正統とするかによって『大日本史』の編纂の仕方が異なってくるためである。南朝を正統とすれば、それで正統の流れは終わりとなり、北朝は偽王朝となり、足利尊氏も徳川家康も叛臣とならざるを得ない。それで神器を持ち出さざるをえなかった事情があったという。大友皇子と天武天皇との関係は、どう扱うのかも正統論を考えれば悩ましい問題だった。それを澹泊が、どう解決しようとしたのか、詳細は山本さんの『現人神の創作者たち』をお読みになるとよい。
澹泊は、続ける。上皇は、北条義時の権限を密かに取り去ろうと企み、速やかにこれを誅せんとした。有為の人ではあったが、徳教を修めることなく、時勢に疎く、邪におもねる者が錯誤に陥れ、近畿の兵を集めて、関東の精鋭を防ごうとする。これは根本を去って枝葉を伸ばそうとするものであり、胸や腹が潰えているのに出来物を除こうとするようなものであった。将に適任なく、兵に規律なく、万馬は関を犯し、後鳥羽、土御門、順徳の三院は都を落ちのびられた。古今、このような惨状は無かったと述べるのである。後鳥羽上皇には楠木正成はいなかった。
明恵上人と法界縁起の世界
安達景盛が高山寺で捕えてきた僧に対面した泰時は、驚愕して上座をその僧に譲り、恐縮して頭を垂れた。その僧はこう述べたのである。
高山寺が落人を匿ったと言うなら事実である。自分は貴賤によって人を差別することさえ沙門にあるまじきことと思っている。三途に沈んで苦しむ者を助けることが急務であり、現世のための祈祷などしたことがない。別けても、敵に追われ、殺生禁断のこの山に逃れた者をわが身への咎を恐れて追い出すなどできることではない。前生に鳩にかわって鷹の餌となり、飢えた虎に身を投げたという釈尊の慈悲に比べようもないが、隠せるものなら袖や袈裟の下にも隠してやりたい。政 (まつりごと) にさしつかえるなら即刻我が首を刎ねられよと明恵は泰時に語るのである。
明恵にとっては、俗世のことは縁遠く上皇も天皇も幕府も権威というには特別ではなく、日本にさえ関心は無かったかもしれないが、釈尊こそが絶対的存在であった。泰時にとっても同様に上皇や天皇は絶対的な権威とすることはできない事情となっていた。明恵こそが、権力や政治の埒外にある絶対的な存在になるのである。そのことが、泰時にとって利害関係に翻弄されることなくと政治変革を行えた大きな理由ではなかったかと著者は述べている。
「その後、御変りございませんか。お別れをしまして後はよい便も得られないままに、ご挨拶もいたさずにおります。‥‥木や石と同じように感情を持たないからといって一切の生物と区別して考えてはなりません。まして国土とは実は『華厳経』に説く仏の十身中の最も大切な国土神に当たっており、毘盧遮那仏のお体の一部であります。‥‥それ故に『華厳経』の十仏の悟りによって島の理 (ことわり) ということを考えますならば、毘盧遮那如来といいましても、すなわち島そのものの外にどうして求められましょう。このように申しますだけで涙がでて、昔お目にかかりました折からはずいぶんと年月も経過しておりますので、海辺で遊び、島と遊んだことを思い出してはわすれることもできず、ただただ恋い慕っておりながらも、お目にかかる時がないままに過ぎて残念でございます (『高弁 (明恵) 状』平泉洸 訳)。」
華厳経にとって、世界は毘盧遮那仏 (密教では大日如来) の法身であり、限りなく広大で種々に荘厳された美しい世界であった。この広大で美しい仏の世界が、仏道によって永遠に維持されるためには、信者がその理想へ向わんとする決意(願)と、その実践(行)がなくてはならない。それが華厳の淨業だった。
上述の手紙は、紀伊国有田の白上の峰に遁世していた折、しばし遊行した苅磨島 (かるもじま) への恋文だったのである。島だけではない。蟻・螻 (けら)・ 犬・烏・田夫・野人、皆仏性を備え、甚深の法を行ずる者たちである。賤しいと思ってはならず、犬の臥したる傍でも牛馬の前でも、然るべき人に向うように合掌し、低頭して通り過ぎたと言う。これは華厳経の「淨行品」にある菩薩の功徳を得るための清淨の行であったと言ってよい。実際に、世界は毘盧遮那仏の法身であることを感得しようとしているのである。それに加えて、上人にはある種の超感覚的能力もあったようで、行法の最中に手桶の水の中に虫が落ちたようだと侍者に告げると、実際に蜂が水の面に落ちていたとか、そんな類のことが一度ならずあったという。
泰時の日本的革命
上田秋成は『雨月物語』の「白峰」で、保元の乱で讃岐に流されて身罷った崇徳上皇と西行法師との会話を書いている。上皇が、漢土には『孟子』という書物があるが、この書物を積んで運ばんとする船は必ず嵐にあって沈んだと語る。このような口賢しき教えによって末の世に神孫を奪って罪なしとする輩も出来することを八百万の神が憎んでそうしたのだというのである。この風説は明の謝肇淛 (しゃ ちょうせい) の『五雑俎』に紹介されていて、日本にこの書を携えてゆくものあらば、船すなわち覆溺するという言葉の引用であるらしい。『孟子』はタブー視されるきらいがあったということだろう。
一方で、この孟子には書経にある「天の視るは我が民の視るにしたがい、天の聴くは我が民の聴くにしたがう」が引かれていて天とは人民の意志であることが明白になっているという。日本の「人民信仰」は西洋型というより、この伝統に基づくものではないかと著者はいうのである。ちなみに孟子には井田制 (せいでんせい) と呼ばれる田地区画による相互互助的な共同耕作という農地改革の伝説的なアイデアがあったといわれ、それが後の中国に影響を与え、引いては班田収受法に繋がったとする一説もある。
ここで、クリスチャンであった山本さんは『申命記・サムエル記』を引く。孟子には天の意志は人民の意志であり、民心は民の人望がない方からある方へと移るという発想はあるけれど、人民が政治体制を選択するという発想はなかったという。しかし、イスラエルでは、士師 (しし/英雄指導者) による統治、王政、祭祀共和制と政治体制が変わっていて、旧約聖書では、単純に「民の声は神の声」ではないという。サムエルは、王とは人民の搾取者だとして民に王政への再考を促したが民は聞き入れなかった。しかし、列王記下22章に至って、神殿修理の際に律法の書が発見され、「神の言葉」とその「契約」に基づく、いわば憲法順守の如き政治体制が敷かれることになる。それは人類最初の「西欧型革命」ではなかったかというのである。
日本には体制の外にある絶対的な存在との契約によって政治体制が根本的に変わるということもなかったし、中国のように「天意=人心論」によって体制は変えずに支配者を放伐して取って代わる、いわば革命なき革命もなかった。
保元・平治の乱は朝廷内の内乱に武士が関与したに過ぎなかったが、承久の乱は武士団と朝廷とが正面衝突し、武士団が勝利した最初の戦いだった。天皇討伐などということは、自らの足元を掘り返すがごとき文化的崩壊を招きかねなかったし、頼朝のような武家の棟梁でもなく、一介の成り上がり豪族の北条にとってよほど切羽詰まった末のことだった。上皇自ら兵を率いて京を出ることがあれば、即刻降伏を覚悟せよ義時は泰時に命じていたという。泰時が、わずか18騎で鎌倉を出た後、御家人たちは続々と続き21日目には入京を果たした。結果、三上皇は配流され、新たに後堀河天皇が擁立されるという新時代を画する大事件となった。
それまでの支配者は廃され、新たな支配者にとって代わられ、あらたな法整備がなされた。新たな政治が行われたが、それは公家側にとってさえ満足なものだったのである。足利尊氏や直義の政治では、こうはいかなかった。しかし、新たに天皇を迎えた点では、完全な革命とは言えない。それは「半西洋型革命」というべきものだったと山本さんは言うのである。それでは、誰もが激賞した泰時の政治手腕とはどのようなものだったのだろうか。
貞永式目とあるべきよう
律令という中国経由の継受法は荘園の増加によって機能しなくなり、寺社や公家の荘園も御家人が在地領主になり、地頭の任命されるに及んでその権限を巡る紛争が増加していた。泰時たち幕府は、「いまある秩序」を認めて「道理の推すところ」を貞永式目の根幹に据えることになる。そこに込められた内容は「心の実法に実ある」振る舞いといった内的規範が外的規範となるように自然な振る舞いに人民を導くことだった。まず、律令の条文など田舎で知る者は無きに等しいため、改めて、かねての御成敗や慣例に従い、身分の高下を論ぜず、偏りなく裁定がなされるよう法整備を行ったこと、それを簡素な名前である式目 (目録) として書き記したという。実際に武家の法と民間の慣習法が取り入れられたと考えてよい。評定衆十三名の議決によって、いわば勝手に公布したのである。
こうして緊急に必要な式目五十一ヶ条が制定され、必要に応じて追加法が定められた。この中世法は、誰にも参酌できる法として世間に広まり、法規範としてだけでなく秩序意識、倫理規定のようなものになっていくのである。徳川家光・家綱の時代にあたる慶安には絵入り式目が出版されるようになり、やがて寺子屋の教科書にもなっていった。それは、正にタルドの模倣の法則を思わせる。
貞永式目で面白いと思うのは、所領の相続権についての十ヶ条の規定で、親は子の能力を見定めて譲り状を渡し、幕府がそれを追認する形になる。しかし、所領を経営せず、親を扶養せず、鎌倉への奉公も無視するようであれば、親は「悔い還 (がえ) し」として譲り状を破棄し、他の者に譲り与えることができるとしている。それに、女性にも相続権が与えられた。未婚の場合は「悔い還し」を認め、既婚の場合は認めなかったが、結婚しても親への扶養義務を果たせば相続できたのである。相続の権利は、あくまでもその人間の行為によって保障され、あるいは消滅したと言える。そのうえ未亡人が養子を得てこれに相続させることもできた。これは中国、韓国、アラブ、ヨーロッパでは有り得ないことであったらしい。父系性血縁集団では妻は他の血縁集団の一員であり、妻への相続は他家の血縁集団に財産を分与することになるからである。
しかし、泰時は法が全てだと思っていなかった。鎌倉中期の仏教説話集である沙石集には泰時のこのようなエピソード紹介されている。貧乏な父親が所領を売ってしまい、鎌倉に奉公する兄が買い戻し父に知行させたが、それを弟に譲ってしまい兄は所領が無くなってしまう。父の遺領をめぐって兄弟の相論になるのだが、式目上は所領権についての親権は動かすことができない。泰時は兄を気の毒に思い、自分の屋敷に住まわせ、結婚して幸せに暮らすことになるのだが、大きな欠所が生じたので、これをその兄に与えたという美談である。法を曲げることなく、この不合理を正した泰時は「万人の父母たり」と称えられるのである。
明恵は泰時に、人の病と同じく、その病根を知って薬を処方すれば癒すことができることは政においても同様である。ただ賞罰による対処だけでは人の心は邪 (よこしま) になるだけで、ねじけ乱れ恥をも知らず、前を治めれば後ろより乱れ、内を宥めれば外からは恨まれる。世の乱れる根源は欲にあり、欲心は一切、万般の禍いとなる。まず、この欲心を失くせば天下は自ずから治まるだろうと語ったという (『上人伝記』)。政治を行う者が執務において無欲であれば、その徳に誘われ、その用に恥じて、国家の万人は自然と欲心が薄くなり、少欲知足ならば天下は安く治まるだろうと語ったのである。
隈もなく澄める心の輝けば 我が光とや月思ふらむ (明恵)
泰時の無欲についても数々のエピソードがある。泰時は長男といえど庶子であったし、父の義時が譲り状のないまま急死した後、相続権については伯母の政子の尽力で得られた。天下の後見たるを泰時には相応の相続をと考えてのことだった。しかし、父義時は弟たちを寵愛していたのだからと言って泰時は多くを弟たちに分け与えたという。
また、寛喜の大飢饉の時、泰時は全国の富者から自分が保証人となって米を借り、来年平作になれば元金のみを返還するという条件で地方の餓死しかかっている者たちに貸し与えた。利息は自分が負担するための借用書も手許に置いた。しかし、結局資力のない者には返済を免除したために莫大な借金を抱えることになる。そのため泰時の生活は夜には燈火もなく、昼は食事を抜き、酒宴遊覧なく、この費用を補ったという。心ある者で落涙しない者はなかった。泰時亡き後、人倫は衰えたと言われ、上人の教えの如く「一人正しければ万人随える事は明らか(『明恵上人伝』)」だったというのである。
明恵上人はこう述べたという。『我に一つの名言あり、我は後生資 (たすか) らんとは申さず、只現世にあるべき様にて有らんと申すなり。聖業の中にも行ずべきように行じ、振る舞うべきように振舞えとこそ説きおかれたれ。現世にはとてもかくてもあれ、後生計 (ばかり) 資 (たすか) れと説かれたる聖教は無きなり。仏も戒を破った我を見て、何の益かあると説き給へり。仍 (よっ) て阿留辺幾夜宇和 (あるべきようは) という七文字を持つべし。』
泰時は、晩年、子弟や幕府の吏員の教育と制度を完備し、吏員たちの職務規定を完成させるために尽力を惜しまなかった。60歳で亡くなるが、不思議に彼の彫像もなく書蹟すら残っていないという。それが何となく日本的革命家たる泰時に相応しい気がすると著者は締めくくるのである。
こと繁き世の習いこそ懶 (ものう) けれ 花の散るらん春も知られず(泰時)
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