宇宙の水を湛えるカスピ海、砂漠と水の迷宮カルムイク、ツォンカパを尊崇する土地、西洋と東洋が交差する隊商の都アストラハン。キリストとマホメットと仏陀の三角形の土地、ロシアとツラン (中央アジア) とイランの結び目。このトポスを窓としてフレーブニコフは地球政府を夢み、回帰的終末のカルパ (劫) と神の時間を測る人類の時計師、ピュタゴラスとライプニッツを猟歩する数神となる。
眼のヴォルガ、
無数の瞳が彼を見つめる。無数の眼と瞳が。
そして、ラージンは
足を洗い、
頭を起こし、久しくラーをみつめていた
(『ラー、おのれの瞳に見入る‥‥』亀山郁夫 訳)
今回の夜稿百話は、東洋回帰を志向して日本語や日本の詩歌さえ学んだ詩人。強内向的で突拍子もないことをしでかすロシア・アヴァンギャルドのパルシファル、「曰く言い難い天賦の才」とパステルナークが讃え、「鉄橋と『イーゴリ軍記』のどちらが近いか見極められぬ‥アインシュタイン」とマンデリシュタームが揶揄した詩人ヴェルミール・フレーブニコフ(1885-1922)を扱った亀山郁夫さんの『甦るフレーブニコフ』ご紹介します。
著者 亀山郁夫
亀山郁夫さんは、ドストエフスキーの翻訳者・研究者として知られ、数々の賞を受賞されている人だが、ロシア・アヴァンギャルドやショスタコ―ヴッチなどの音楽家の著作もあり、代表的なロシア文学者の一人であられる。
1949年宇都宮市のお生まれ、東京外国語大学ロシア語学科・同大学大学院、東京大学人文科学研究科博士課程で学ばれた。ソ連科学アカデミー、ロシア科学アカデミーでの在外研究もおこなっておられる。天理大学、同志社大学、東京外国語大学で教鞭を執られ、東京外国語大学学長の後、名古屋大学の学長を務められている。日本ドストエフスキー協会を設立されたことでも知られる人だ。本書は世界初のフレーブニコフの評伝として画期的な著作である。
フレーブニコフの生い立ちと青春
ヴィクトル・ウラジーミロヴィチ・フレーブニコフはアストラハンの北西のステップ地帯にあるカルムイク共和国のマル・デルベトゥイという小さな集落で生まれた。ヴェルミールは後のペンネームである。父親は、その地に住むモンゴル系民族 (オイラト) であるカルムイク人の保護にあたる自然学者で、ヴォルガ自然保護区の開設にも尽力し「森の総主教」として人々に慕われたという。詩人でもあった。母親は歴史学を学び、一時期革命運動にも関わったインテリ女性でザポロジ・コサックの血を引き、ロマの血も混じっていたと言われる。二度の引っ越しの後、1898年にタタール人ゆかりのカザンへと一家は移った。エカテリーナ二世が「二十の異民族が住む」町と述べた混血の都市であった。
カルムイクやカザンといったいずれも自然の懐に抱かれた土地で野生児となって自然と睦みあった少年には厭人癖と物欲の欠如という性格がもたらされ、友人たちは彼を物思いにふける不満げな鳥に見立てた。
ヨーロッパ最東の大学であり、非ユークリッド幾何学を創始したロバチェフスキーが1846年まで学長をつとめていたことでも知られるカザン大学、その数学科に1903年入学、この時、帝政打倒と農民共同体を基盤とする社会主義運動を掲げるナロードニキの渦中にあった。二ヶ月後には拷問の末に死んだ学生のための抗議デモに参加して35名の学友とともに逮捕、一ヶ月の拘留生活を送っている。その後の2月に依願退学し、7月には自然科学科に入学し直した。この頃、ゴーリキーに宛てて作品を送っていて、激励の手紙をもらっているという。特筆すべきは、この大学にソシュールと並んで構造主義言語学創始したことで知られるヤン・ボードゥアン・ド・クルトネ (1845-1929) が教鞭を執っていたことである。
フレーブニコフにとってもロシア人にとってもショッキングな出来事が1905年に起こる。ロシア軍の運命を決した対馬沖海戦におけるバルチック艦隊の敗北である。この「対馬」の衝撃はロシア全体にスラブ民族の滅亡という暗澹たる予感を呼び起こしたと言われる。
アジア民族の創造
星の単一性へのぼくらの道は、アジアの単一性を通して、大陸の自由を通して地球の自由へといたる道だ。ぼくらはこの道を死の遂行者として行くのではなく、労働者の上着をつけた若いヴィシュヌ神として行く(亀山郁夫 訳)。
フレーブニコフは衝撃の「対馬」を流謫の神ペルーンの復讐とした。ロシア民族がキリスト教を受け入れ西欧近代を志向した結果の破綻と考えたのは、イヴァーノフ、ブロークら後期象徴主義の詩人たちと同様であったと亀山さんは述べる。異教回帰が始まるのである。この流れは文学だけに留まらず、1913年に初演されたストラヴィンスキーの『春の祭典』が、その革新的音楽とともにパリの聴衆に大きな衝撃を与えたことはよく知られている。その台本を後に内奥アジアを探検するニコライ・レーリッヒ (リョーリフ) が作曲者と共に担当していたし、同時期にストラヴィンスキーは山部赤人、源当純 (みなもとのまさずみ) 、紀貫之という三人の歌人の春の歌に『日本の三つの抒情詩』と題された作品を作曲し、アジア回帰を闡明にしている。
蓮の花はフレーブニコフにとって「インド・ロシア同盟」、「ロシアとインドと日本の三国同盟の印」であり、ロシアとアジアとの連帯と共同性の夢を託する存在だった (1915年書簡) 。ここに、エドワード・W・サイードのいう『オリエンタリズム』をみることも出来る。彼は、その中でこう述べる。シュレーゲルとノヴァーリスは、彼らの同国人に対し、またヨーロッパ一般に対して、インドを詳細に研究することを奨励した。何故なら、彼らの信ずるところでは、西洋文化における物質主義と機械論 (及び共和主義) を打破しうるものは、インド文化とその宗教であるからだった。この流れはロシアでは三四半世紀遅れていたことになる。
1908年、クリミアでロシア象徴主義の大御所ヴャチェスラフ・イヴァーノフと会い、彼の言う「全スラブ言語」をフレーブニコフは思い出した。ロシア最高のギリシア学者でありニーチェ研究の泰斗と言われた詩人だった。「詩の言語は民衆語の地下の根から生育し現代語の深層から芽ぶかねばならない」とイヴァーノフは述べている (『金羊毛』「楽しい仕事、知の楽しみについて」) 。これに反応するかのようにフレーブニコフは標準語とはかけ離れたスラブ諸語を核とした造語や方言を多用した14の実験的な詩を書いたが、その一つがこの作品である。
ありし日の陽炎のように、
かろやかな時鳥の群が
飛びかい、さざめき立つ。
影たちははげしい乱れに。
かろやかな時鳥の群よ !
その若やぐ姿は心迷わせ、
楽音のごとくに心酔わせ、
波のごとく心しみること !
(「連雀がすみ‥‥」1908 亀山郁夫 訳)
お気に入りの造語である「時間/время」と鳥の「ウソ/снегирь」の語尾とを合成した「時鳥/времяирь」、シベリア方言の「陽炎」、アルハンゲリスク (ロシア北西の白海に面する地方) 方言の「心迷い」が使われている。そこにはスラブ諸語がざわめき立つ多声的な空間が立ち上がると亀山さんは言う。同時期、『処女神』、『アスパールフ』などの物語詩、劇詩を書いているが、いずれも韻律的な手法の破壊的な快感に酔いしれていたと言う。
クリミアを後にしたフレーブニコフは、同年ペテルブルク大学に籍を置くと共にイヴァーノフにヴェルミールのペンネームを貰い、彼のアパートでの「塔」の集いにおいて様々な象徴派の詩人たちと交わった。マンデリシュタームがアフマートヴァに出会ったのもこの集いだった。しかし、野生の彼にとって都会は暗く、「編んだ籠に挟まった柳の生きた枝」のように思えるのだった。この頃、動物園でラクダの大人しい表情に仏典を読み、虎の顔にマホメットの戒律を見出した。幼少の種である信仰の一つの石が人類を仏教とイスラム教という二つの流れに分かち動物界の不断の軸である虎と砂漠の舟を生みだしたのだという奇妙な跳躍を発想する。
1911年授業料未納につきペテルブルク大学を除籍、アストラハンを含む放浪の旅に出た。放浪癖はこの後も続く。フレーブニコフの青春はヨーロッパ的な価値観への懐疑と東洋回帰、スラブの滅亡の予感に彩られ、スラブ古語や方言といった民衆文化と共に原始志向へと傾斜していった。
ロシア・アヴァンギャルドの黎明
20世紀初頭のロシアには、フォーヴィズムやキュビズム、それにシェーンベルクやヴェーベルンの音楽といった西欧モダニズムが流入した。欄外の『ロシア・アヴァンギャルド』でも紹介しておいたが、この語は当時の作家やジャーナリストたちは一度も使ったことのない言葉であって後付けと言ってよいものだった。
フレーブニコフより一年早くウラルの鉱山技師の家に生まれ印象派風の絵を描き、新聞『春』の編集主幹だったワシリー・カメンスキー (1884-1961)、ウクライナのヘルソンに生まれで、やはり印象派風の絵を描き新聞『郷土』に書評や寄稿を続けた同年代のアレクセイ・クルチョーヌイフ (1886-1968)、そして、フレーブニコフやクルチョーヌイフらより少し若いが彼らと同じく画家を志し、学生運動に加わって逮捕される経験を持っていたグルジアのクタイシ近郊に生まれたウラジミール・マヤコフスキー (1893-1930)、彼らを核とするペテルブルクのグループはギレア派と呼ばれ、後により広がりを見せて未来派を名乗る。
その後、続々と新たなグループが誕生し百花繚乱を呈した。詩人イーゴリ・セヴェリャーニンが立ち上げ新たな哲学を標榜する「自我未来派」、ボリス・パステルナークらが参加した「遠心分離機」、マレーヴィチやアレクサンドラ・エクステルらが参加したキュビズムとイタリア未来派を総合した「立体未来派」などである。そして、グミーリョフ、マンデリシュターム、アフマートヴァらによって象徴主義の曖昧な表現に反発し明確で具体的な表現を主張するアクメイズムが立ち上げられる。
1910年四月、文集『裁判官の生贄』第一号が発刊されロシア未来派は船出した。フレーブニコフ、カメンスキー、ブリューク兄弟、グローらが寄稿したが、周囲の憎しみと嘲笑のおかげで自分たちが新たな種族であると確認できたと言う。イタリアの未来派が過去への決別と近代機械文明の称揚を旗印としたのに対して、同じく過去への決別を挙げても異教や民衆文化への関心に裏打ちされた原始志向を持つ点で、ロシア未来派は、その背景を異にしていたし、そもそも戦争賛美はなかった。その二年後、フレーブニコフ、カメンスキー、クルチョーヌイフ、マヤコフスキーを中心とするギレア派は『社会の趣味への平手打ち』を刊行し、既存の言語への嫌悪と自由な造語による語彙の増大をそのマニフェストに謳った。
これら未来派の詩人たちと照応するアヴァンギャルドの画家たちがいた。彼らは多様な展開を見せることになるが、簡単に列挙しておく。
「ロバの尾尻」グループ、後に立体未来派に参加
・ミハイル・ラリオーノフ (1881-1964)
・その妻ナタリア・ゴンチャローワ (1881-1962)
・カジミール・マレーヴィチ (1879-1935)
その他に
・ダヴィド・ブルリューク (1882-1967/未来派・青騎士に参加)
・パーヴェル・フィローノフ (1883-1941/分析主義を主張)
・ウラジミール・タトリン (1885-1953/バウハウス的な構成主義を掲げる)
20世紀初頭のロシア・アヴァンギャルド華やかな時期、これら詩人と画家たちの蜜月が続いていたのである。
1913
絵画化する言葉
フレーブニコフ『自画像』1909 本書より
1912年の初め、フレーブニコフは象徴派に対抗するマニフェスト『ぼくらは言葉の処女が望みだ‥‥』に次のような有名な1文を掲載した。「僕らは言葉が絵画の後から大胆に歩み出すことを願っているのだ。」それはノヴァーリスのように音楽を理想とした象徴派に対してキュビズムを中心とした新たな絵画の方法論と詩の方法論を擦り合わせようとする宣言でもあった。ギレア派の面々は、いずれも画家としての技量を持っていて、絵画の平面構成の方法論をもとに質感=触覚性を破裂音や摩擦音といった「音の手触り」というべきものに見立てた。
マヤコフスキーは、色彩、線、平面は絵画における概念であり、言葉の特徴、その音韻的側面、神話、シンボルは詩における概念である (『最近のロシア詩について』) 」といった具合で、詩と絵画のアナロジーを強調している。D.ブリュークは『ロシア音韻学の絵画的要素』の中で、子音は色彩を担い、母音は時間・空間・平面を代替とする観念と考えられたと述べている。 ランボーの詩『母音』ほど闡明ではなかったにしても、フレーブニコフでは子音と色彩の関係化を試み、『ボベオビと唇は歌われ 1908-1909』を書いた。子音と色彩とがメシアンやカンディンスキーのように共感覚に裏打ちされたものかどうかは分からない。
ボベオビと唇は歌われ
ヴェエオミと視線は歌われ
ピエエオと眉は歌われ
リエエエイと貌は歌われ
(亀山郁夫 訳)
ボベオビの б (べ) は明るい赤なので唇、ヴェエオミの B (ヴェ) は青で視線、ピエエオ/пиээo の пи (ピ) の中の п (ぺ) は黒で眉という具合になっている。
プリミティブな原言語にまで遡ろうとするフレーブニコフの語源論には音素に関係する二つの柱があるといわれる。
・最初の「音-文字」が単語の全体を支配し、残りの子音全体に指令する。
・共通の子音に始まる単語は、同じ共通の概念によって結合される。
彼の考える子音の持つイメージについては構造言語学者であるコステツキーの要約があるが、とりあえず、B (ヴェ)、Л (エル)、Ч (チェ) の三つについてご紹介する。
B (ヴェ)小さなものによる大なるものへの浸透。減算法。不動の点の周囲を弧に沿って上下する波動。例(狼/волк 烏/ворона 泥棒/вор)
Л (エル) 高さを犠牲にしても広さ、幅の増大。直線運動この直線を横断する平面運動への点運動の移行。例 (水溜まり/лужа 愛/Любовь)
Ч (チェ) 殻。他の物体によって満たされる任意物体の空間(杯/чашка 頭蓋骨/череп カヌー/челн)
B、X、Ч は、それぞれ記号化されていて以下のようなアイコンになっている。これは、スラブ語の発音からイメージされる「音のぼろきれ/後述」の形と言うべきものである。
これらに加えて、彼の詩の世界には時間・空間の一体化といった四次元的世界像があり、視覚的にはキュビズム、思想的には P.D.ウスペンスキーの『ターシャム・オルガヌム』やロバチェフスキーらの非ユークリッド幾何学の影響があり、後にはアインシュタインの相対性理論の影響が加わる。こうして詩人と画家の蜜月によって協働作品が生み出されていった。特にフレーブニコフが絶賛した作品としてフィローノフのイラスト入り詩集『世界繁茂の賛歌』がある。分析主義による絵画構成は方法的にも精神的にもフレーブニコフの詩作と共通するものがあったようだ。
パーヴェル・フィローノフ 『世界的開花』
言葉の解体と融溶
ほんとにほそーい筋すけた
ぴんぴか金文字はばたかせ
キリギリスはおなかの籠に
水草、葦草いっぱいつめこむ。
ぴょん、ぴょん、ぴょん ! 四十雀がぴしゃんと打った。
おお、白鳥驚よ。
ぱっと照らせ !
(『キリギリス』1908-09 亀山郁夫 訳)
言語学者のヤコブソンの指摘もある『キリギリス』の詩なのだけれど、「羽/крыло」を語根として動詞化した「はばたかせ」、「白鳥/лебедь」と「奇跡/Чудо」を合成した「白鳥驚」といった造語があり、他の詩における例としては「チンギスはねろ」、「ツァラトゥストれ」などといった固有名詞に語尾接続によって他の品詞に置き換える手法があり、フレーブニコフのお家芸であったといわれる。
これに加えて、回文、例えば「Madam I`m Adam」のような左右対称形の音列を持つ文も登場する。円環的な音の構造が陶酔的なリズムを形作って音楽的になるけれど意味は弱められていくことになる。それが作り出す詩句は、「意識下の私によって理知の天上に投げ出され、それを未来の光が映し出した (『家路』1919)」ものだと言う 。回文に限らないかもしれないが、詩句は「未来の光」によって照らし出されるものなのである。
言葉は音のぼろきれのようなものである。その寄せ集めである人形が子供にとって生きた本当の人間として振る舞うように同一言語を話す人間たちには、この人形遊びが可能なのである。子音と母音は、この人形遊びの弦であり、それを自由な秩序で選ぶなら、それは如何なる言語にも属さないし、補足し難いが、それでも存在しているあるものを語っているとフレーブニコフは言う。
こやまい。あかろし。くもかかるくろやみ。
あまひと、ほしひと、あかひと、くもの、
ロシア語の韻律が分からない僕には、この日本語の訳だけでは良さは分からないが、明らかに言葉の合成から成るこれらの詩句が「全スラブ語」というユートピア理念の実践の過程で生まれたことは確認しておかなければならない。
1913年はロシア未来派の絶頂期であり、奇蹟の年とよばれることになる。その1912年から13年にかけてフレーブニコフは「世界言語」の創造へと羽を広げた。エスペラントよりも、ライプニッツの結合術に大きな影響を受けたとも言われる。スラブ語を自由に融け合わせた「自織語」、アルファベット文字 (音) の恣意的な組み合わせという「超理性語/ザーウミ」といった手段によって形成される言葉は約二万語に達していた。しかし、マヤコフスキ―やクルチョーヌイフ以外には全く関心が示されなかったし、言語学者のヤコブソンの研究によるまで理解の手掛かりさえなかったのである。
言葉の音と意味とは繋がりがあると述べたのはプラトンの『クラテュロス』の中でのクラテュロスの主張だったが、同様にフレーブニコフも言語は自然の模倣だと考えていた。ヤコブソンに語音の最小単位である音素の多様な繫がりを気づかせることになる「音のぼろきれ」は意味の遊戯である人形遊びと繋がりがある。その繋がりを感じながらも「自織語」や「超理性語/ザーウミ」といった造語によって別次元の繋がりを模索しようとしている。
左 ロマン・ヤコブソン、リンダ・ウォー 他
『言語芸術 言語記号 言語の時間』
右 『丸山圭三郎著作集Ⅴ 人と思想』
さて、このようなフレーブニコフの言語観から思い出されるのは、日本のソシュール研究の第一人者であった丸山圭三郎さんが、ソシュールのアナグラム研究から導き出した識閾下における言語形成能力である。言葉の入れ替えを行うアナグラムや自織語のような音素の組み合わせ言語は論理の埒外にあり、そこでの音声や文字の要素はテクストの文脈の中で音律を奏で、パラグラム (文章における一つのアイデア) は、科学におけるような無矛盾、真理の確立、言葉による表現と事実の同一化をコトとするモノローグではなく、それらを侵犯する対話となる。
そこに、テーマとなる語や音素が作品の中に広範囲に蒔かれることによって別のテクスト性を生み出すといった問題を提起したのはロマン・ヤコブソンであり、例として挙げたのはフレーブニコフの『キリギリス』だったのである。その特質は、イヴァーノフがいみじくも指摘したように「音素にはじまる、詩的言語の個々の要素の意味とテクスト全体の意味を特に重視する点」だったと言える。この母音・子音・その他の音素の散種の問題は、ラカンの「言葉として構造化されている無意識」やクリステヴァの「間テクスト性」を生み出す源の一つとなった。テクストは不断に他のテクストと共に自己増殖するというのである (第45話 ソシュールの「アナグラム」とヤコブソンの「音素から詩へ」コトバの深層構造) 。
次回、亀山郁夫『甦るフレーブニコフ』part2 は、いよいよ「時間の法則」の発見、兵役とロシア革命から内戦までのフレーブニコフを御紹介する予定です。
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