第33話 小泉八雲『日本瞥見記』part2 彼が見たものは幻想の日本だったのか


小泉八雲『日本瞥見記 下』

小泉八雲『日本瞥見記 下』
“Glimpses of Unfamiliar Japan” 平井呈一 訳


 「‥‥力強い山頂が、いま明けなんとする日の光の赤らみの中で、まるで不思議な夢幻の蓮の花の蕾のように、紅に染まっているのが見えた。その光景を見た時、皆は心打たれてひとしくおし黙った。たちまち永遠の雪は黄色から黄金へとすばやく色を変じ、太陽の光線がその山頂に達するやさらに白色に変じた。日の光は地球の曲線の上を横切り、影深い山脈の上を横切り、また星々の上も横切って来たかのようであった。というのも巨大な富士の裾野はいぜんとして見えないままであったからである。(ラフカディオ・ハーン『心』平川祐弘 訳))


(上)小泉八雲 (ラフカディオ・ハーン)
(下)友人のミッチェル・マクドナルド 1906
 小泉家の遺産管理人、ハーンの帝大講義録を出版。横浜グランドホテルの社長に就任する。



 1890年39歳の時、ハーンは日本にやって来た。少なくとも三つの要因があったといわれている。一つは、日本政府も出品していた1884年のニューオーリンズで開催された万国博覧会にハーンは取材に出かけ、その時派遣されていた服部一三と懇意になったこと。第二は、ハーンを日本に送ろうと考えたハーパー社の記者ウィリアム・パットンからチェンバレンが英訳した『古事記』を借りて読んだこと。チェンバレンとは、この頃から手紙の遣り取りが始まっている。最後は、ジュール・ベルヌにちなんで『80日間世界一周』を競った二人の女性記者の一人エリザベス・ビスランドから魔法のような日本の国のことを教えられたことである。ニューオーリンズにハーンを尋ねて来た女性はニューヨークで立派な記者になっていた。彼女に対しては好意以上の感情が湧き起っていたようだ。ただ、ハーンは自分のような容姿の男は白人女性とは結婚できないと頑なに思っていたらしい。


エリザベス・ビスランド(1861-1929)


 今回の夜稿百話は苦闘の前半生を送ったラフカディオ・ハーンが、魔法の国・日本に到着し、温かい家庭を得るも、異文化に馴染めない信条を吐露しながら家族を守っていく姿と東京帝国大学の同僚であったチェンバレンがハーンが見た日本は幻影に過ぎないと誹謗中傷を行った〈裏切り〉についてご紹介する予定です。



精霊の国へ



 古事記については、来日以前、既にかなりの知識をもっていたようで、日本の印象を描いた第一作『日本瞥見記(知られぬ日本の面影)』には、このような記述が散見されるのである。「この大庭のあたりには、セキレイがたくさんいる。この小鳥は、伊弉諾、伊弉冊の神鳥で、この二柱の神は、この鳥からはじめて愛の術を学ばれたのだと、伝説に述べてある。だから、このへんでは、どんな強欲な百性でも、この鳥だけは害を加えたり、おどしたりしない。鳥の方でも、大庭の人たちのことは少しもこわがらないし、畑にある案山子のことまで恐れない。この案山子の神は、少彦名神である。(『日本瞥見記』「八重垣神社」平井呈一 訳)


歌川国芳『日本国開闢由来記』波に乗ってオオナムチ(大国主神)の前に出現したスクナビコナ(少彦名神 右上)

案山子 坂元棚田



 横浜に着いてチェンバレン宛に教師就職の依頼の手紙を出している。その中に自分の知っていた服部一三の名を出しておいたのだが、服部は文部省の学務局長になっていて、この二人の力で松江の尋常中学校での英語教師の職が決まった。それまでは、生活費を稼ぐために在留英国人の子弟の家庭教師などをしていた。前回ご紹介したエドワード・ラロク・ティンカー著『ラフカディオ・ハーンのアメリカ時代』によると、彼はハーパー社の編集長オールデン宛に筋の通らない手紙を出して、日本に関する記事を送る話を破談にしてしまったらしい。

 「朝霧が晴れると、湖上三マイルほどのところにある美しい小島が、くっきりと姿をあらわしてくる。低い、帯のように細い島だが、そこの大きな松の木かげに、神道の社がある。‥‥その言い伝えによると、一夜、この島が、みめうるわしい、信心深い、そして、非常にふしあわせな身の上の、ひとりの美しい女の水死体をのせて、夢のように浮かび上がったのだという。土地の人たちは、これを神慮のしからしむるところと畏れ慎んで、この島を弁天に寄進し、一宇の祠を島に建てて、そのほとりに樹木を植え、祠の前には鳥居を立て、祠のまわりには奇石珍石で玉垣をめぐらして、そこにその水死の女を葬ったのである。(『日本瞥見記』「神々の国の首都」平井呈一 訳)」宍道湖に浮かぶ嫁ヶ島の光景を描写した文である。


松江 宍道湖 嫁ヶ島



日本の女性 節子



 この神々の集う土地、出雲で、ハーンは一人の女性に出会う。それが小泉節子であった。縁組後、しばらくして夫は出奔してしまい、いわば出戻りの身であった。橋から身を投げてしまいたいと思いつめたときもあるという。貧窮した士族の娘が17歳年上の高給取りの外人教師の妻になったには色々の事情があっただろうことは想像に難くない。機で織った織物のサンプルが小泉八雲記念館の残されているという。この一冊は小泉節子の勤勉労苦の形見であり、ひそかに誇りとした思い出でもあると平川さんは書いている (『小泉八雲とカミガミの世界』)。今回も平川祐弘 (ひらかわ すけひろ) さんの著作から色々ご紹介したいと思っている。それは紺色の織物の布(きれ)の数々だった。ハーンは友人の西田千太郎に頼んで節子の実家で必死に機を織って働く彼女の姿を垣間見せてもらい、とても心打たれたという。西田はハーンが勤めた中学校の若き教頭だった人だ。


小泉八雲と妻・セツ

 その節子がハーンに愛情を覚えたのは子供たちに宍道湖で水に沈めては引き上げられていた子猫を彼女が貰い受けて家につれて帰った時だった。「おお可愛想の猫‥‥」と言って、ハーンはぶるぶる震えているびしょ濡れの猫をそのまま自分の懐に入れてやったのだという。「その時、私は大層感心いたしました(『思い出の記』)」と節子は書いている。マルティニーク島のサン・ピエールという町で熱病にかかったハーンは土地の女性に献身的な看護を受けて一命をとりとめ、困り果てていた彼はその島で友人となったレオポルドにタダで金を貸してもらっていた。「およそ親切な心の鼓動に安物はない、およそ親切な行為に月並みな行為があろうはずはない(『仏領西インド諸島の二年間』平川祐弘 訳)」と書いていた。

 『日本瞥見記』の中にも「舞妓」という章がある。この本の中でも僕が一番好きな所だ。ある白拍子と絵師との物語である。江戸から京都を目指した若い絵師が山中で一夜の宿を借りる。こんな夜中、男を泊めてやり、自分の寝具まで差し出す女だった。物音に目を覚まして、物陰から見た光景に絵師はすっかり驚いてしまう。灯明の火がともる仏壇の前で、見たこともないようなりっぱな白拍子の衣装を身につけた女が、舞を舞っている。その水ぎわ立った女の美しさが、この世のものならぬ、妖怪めいたものに見えた‥‥。是非この『日本瞥見記』をお読みくださればと思う。

 


異文化の中の孤立


 
 ハーンは松江に一年余り滞在の後、熊本に移った。しかし、熊本は松江と違っていた。明治10年の内戦で荒廃した荒地だったのである。平川さんはこう書いている。「なるほど来日第一年の松江時代は日本にすっかり気をとられました。身も心も古き良き日本に奪われました。しかし、第二年以降は様子が変ってきた。教える相手が中学生ではなく、旧制高校生ということもあって英語の授業内容もやや高級になり、それだけにハーンも英語の本を次々に読みだした。松江時代と違って、土地の人とはそれほどつきあわなかったことも手伝って、その余暇に読書を通して西洋を次々と再発見いたします。‥‥自分が日本人になりきれない西洋人であることを自覚していた人、『西洋への回帰』を経験しつつあった人、その当人が日本に帰化することなどあり得たのでしょうか。私はあり得たと思います (『小泉八雲とカミガミの世界』)。」


小泉八雲邸 松江

 

 三年後、熊本高校での月給200円を捨て、100円の給料の「神戸クロニクル」という英字新聞社に移った。ハーンは出雲時代の友人である西田千太郎にこう書いた。「私は決して日本人にはなりきれない、あるいは全体としての日本人から真実の同情を期待し得ない事実を、認めずにはいられなくなりました。私の孤立感は遂にもう私には耐え難くなったことを言わずにはいられません。‥‥日本人を理解できると信ずる外国人はなんと愚かでしょう。」

 しかし、ハーンは自分が完全には同化し得ないことを知りながら帰化の手続きを進めていて、西田にも色々のことを頼んでいる。それは、彼が妻子の将来のことを考えたからだと平川さんは言う。不平等条約当時の日本では、西洋人の日本妻は遺産をもらう権利がなかった。遺産は西洋人の親戚の手にわたることになっていた。ハーンは遺産を間違いなく妻子が受け取れるようにしておきたかったのである。西田への手紙の一年あまり後、ハーンは帰化してついに小泉八雲となった。1896年のことである。その頃までには『東の国より』『心』が完成し、『仏の畑の落穂』『霊の日本』『怪談』『日本―一つの解明』など1904年に54歳で亡くなるまで、10数本に及ぶ著作が毎年のように出版されている。これらの著作は英語で、欧米の読者を想定して書かれていたことは指摘しておかなければならない。



愛妻はストーリーテラ―



 ハーンと節子のオシドリ夫婦ぶりは、萩原朔太郎が『小泉八雲の家庭生活』と題された一文を残していることでも知られる。仲の良い二人の成人が子供のような片言で何時間も、笑ったり戯れたりしている風景こそ、フェアリーランド的であろうと書いていた。平川さんの本『小泉八雲とカミガミの世界』から二人の手紙の遣り取りをご紹介しよう。

「小・カワイ・ママ・サマ・コンニチ・アサ・ナリタ・サマ・オマモリ・マイリマシタト・パパ・オトキチ・二・ヤリマシタ・ト・タイヘン・ヨロコヒマシタ‥‥ママ・サマ・二・ネガウ・ジュブン・ノ・カラダ・カワガル・イマ・アナタ・イソガシイ・デシヤウ・ネ・ダイク・ト・カベヤ・ト・タクサン・シゴト・デスカラ・カラダ・ダイジ・スル・オホネガウ‥‥小泉八雲」

ハーンは極度の近眼もあって漢字の学習をあきらめていて、英語直訳調のヘルン(ハーン)言葉という、このような言い方をしていた。節子は夫のためにこのヘルン言葉で話し、ヘルン言葉で書いている。

「パパサマ、アナタ、シンセツ、ママニ、マイニチ、カワイノ、テガミ、ヤリマス。ナンボ、ヨロコブ、イフ、ムズカシイ、デス。アナタ、カクノエ(絵)、オモシロイ、デスネー。‥‥ママ、セツカラ」

 ごちそうさまとしか言いようがないのだが、節子は、このような言葉でハーンのために山陰の昔話や松江の怪談を語り聞かせた。その結果があの『怪談』や多くの再話物語となったのである。優秀なストーリーテラーであり、良き秘書だった。そして、何よりもハーンにとって初めての温かな家庭のまさに母体であったのである。三男一女をもうけた。彼女の黒い目の中にギリシアの母の茶色の目の色を重ねることができたのかもしれない。節子は後年『思ひ出の記』に夫との思い出を感動的な文章で残している。ハーンは、けっして父親を許さなかった。それは、自分が父のようにけっして妻子を捨てることをしないという決意と直結したであろう。



英文学講師の小泉八雲と夏目漱石



 ハーンは1896年 に 東京帝国大学の英文学講師となる。1903年までここで勤めた。日本に帰化し「小泉八雲」と名乗ったことは先に述べた。まことに人気の高い先生であったようだ。ティンカーは part1 でご紹介した『ラフカディオ・ハーンのアメリカ時代』にこう書いている。彼の低い声は不思議な、否応なく引きつけられる魅力を発揮して、しだいにその声の及ぶ周りの人たちすべてをひきつけたという。彼の語りは流れるような調和があり、スムースで、極めてメロディアスであり、言葉はカラフルだった。人間の声帯から出るというより、デリケートな楽器から奏でられるようだったと。学生たちの残した言葉も異口同音だった。時として、見える片方の目に虫眼鏡のような一眼鏡を当てて学生たちをすばやく眺めたという。


夏目漱石(1867-1916)

 彼の後任は夏目金之助、つまり漱石であった。これは不思議な縁(えにし)と言うほかはないのだが、ハーンの去った一年半後の熊本第五高等学校に着任して四年教え、これもハーンがしばらくいたロンドンに二年留学した。ロンドン留学は気の重いものであったことはよく知られているが、南方熊楠(みなかた くまぐす)のロンドン生活と是非読み比べていただきたいと思う。熊楠は、イギリス人の侮辱的な言葉に、その男の鼻に一発お見舞いして、せっかく勤めていた大英博物館をさっさと出ていったのである。それはともかく、漱石はハーンの後任となった。彼自身、これは貧乏くじを引いたと感じていたらしい。なにせ相手は学生たちがストライキを企てようとしたほど、その留任が望まれた人だったからだ。

 これも part1でご紹介した平川祐弘さんの『小泉八雲 西洋脱出の夢』の中にハーンと漱石の怪奇な子供の話が並べて紹介されている。ハーンの話は出雲の持田の浦の話で、貧しさに6人の子を口減らしのために川に捨てた父親が、少し金回りがよくなったので、7番目の子は捨てずに育てた。その五ヶ月の赤ん坊が、ある月夜に大人の言葉つきで「オトッツアン! ワシ ヲ シマイ ニ ステサシタトキモ チョウド コンヤ ノ ヨーナ ツキヨ ダッタネ!(『日本瞥見記』「日本海に沿うて」平井呈一 訳)」と語る話であった。漱石の話は『夢十夜』の「第三夜」で、主題はこれも「子供を捨てる父」である。漱石は両親の晩年の子で歓迎されざる子であったため幼くして養子にだされ、養父母の離婚の後に実家にひきとられたというのである。背中の子供と語り合う夢だった。「御父(おとっ)さん、其の杉の根の処だったね」「うん、そうだな」と思わず答えて仕舞った。「文化五年辰年だろう」なるほど文化五年辰年らしく思われた。「お前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」



チェンバレンと幻想の日本




平川祐弘『破られた友情 
ハーンとチェバレンの日本理解』 
鷗外や藤村、雨森らを扱った「日本回帰の軌跡」を収録。

 
 ここからは平川さんの『破られた友情』からチェンバレンのハーンに対する非難とその経緯を考えてみたい。ハーンの描いた日本は果たして幻想であったのか、なかったのか。東京帝国大学の同僚で、親しい友人でもあったバジル・ホール・チェンバレン(1850-1935)は、ジュネーヴに引退後の最晩年、「ハーンは神々の国を発見し、彼の『知られぬ日本の面影(日本瞥見記)』は日本を手放しで絶賛したが、その日本なるものは、実は彼が自分は見たと勝手に思いこんだところの日本にしか過ぎない」と『日本事物誌』の第六版のために新たに書き加えたのである。
1934年、亡くなる前年のことだった。第五版までは、「ハーンは誰よりも深く日本を愛するがゆえに、今日の日本を誰よりも深く理解し、また他のいかなる著述家にもまして、読者に日本をより深く理解させる」と書いていた。手の平をかえすような辛辣な言葉を残したのである。

 実は、この主張にはハーン自身の言葉に裏付けられている部分がある。太田雄三さんは「チェンバレン試論」の中で、ハーンがチェンバレンに宛て、西洋を感じることの喜びと西洋の偉大さを讃える言葉を書いていること、『日本瞥見記(知られぬ日本の面影)』が日本についてよく知らなかった時代に書かれたもので全部間違いではなかったかというハーン自身の反省の言葉があることを指摘している(『世界の中のラフカディオ・ハーン』)。チェンバレンは、ハーンの描く世界が部分においては大変優れているが、体系化しうる視点がないとして彼の近視の片目をあげつらった。




相反していく日本と八雲




 しかし、作家なら自分の書いたものが全てダメだと思うことはよくある。僕などは自分の絵が全くクズ同然に思うことは、しばしばだし、また、正直言ってその逆の場合もある。ハーン自身の性格にアンビバレントな要素が多々あったことは事実のようだ。それにハーンの書き方自体が部分を寄せ集めて書くような執筆の仕方であったから、元来体系化しようとする意志はなかったろう。ついでに言えば、遠くを見る時、ハーンは筒型の望遠鏡でしげしげと眺めて観察していた。チェンバレンは日本語にも堪能な優れた英国人の研究者であったが、感覚的に優れた学者ではない。なにせ『源氏物語』の良さをアーサー・ウェーリーの英訳が出るまで全く気付いていなかった。紫式部の文章を、退屈な点では、17世紀フランスの長たらしいド・スキュデリーにも劣らないと書いていたようである。ハーンは日本語にあまり理解がなかったし、英文学史を教えはしても自分が学者だという意識はなかったであろう。思うに、チェンバレンは作家と学者という立場の決定的な違いを際立たせたかったのではないだろうか。しかし、それは彼にもよく分かっていたことで、いまさら強調したのは何故かということになる。


ラフカディオ・ハーン
Glimpses of unfamiliar Japan 1895
日本瞥見記知られぬ日本の面影)』

 

 チェンバレンの批判はこのようなものだった。「ハーンの愛した日本は今日の西洋化した俗悪な日本ではあり得なかった。彼が愛した日本は西洋化の汚れを知らぬ古代のまま日本、純粋なる日本であったが、そんな完璧な姿の日本は彼の空想以外には存するすべもなかった。日本政府もハーン同様に失望した。というのは日本政府がこの外人を雇ったのは、西洋の世論が日本の近代化の努力を好意的に評価してくれるよう、ハーンが文筆をもって宣伝してくれるだろうと信じたからである。ところがそれとは反対に、ハーンは日本の近代的な変革を罵ってやまなかった。彼が急死した時、事態はこのようなものだったのである。」

 ここには嘘と真実がないまぜにされている。ハーンが日本の近代化を惜しんで昔日の日本を描こうとしたけれど、少なくとも松江にはそのような世界がまだ豊かにあった。ハーンは日本を宣伝しようとはしたが、確かに西洋に発信したかったのは西洋世界にはない日本の精神性であった。だが、彼が東京帝国大学に招かれたのは、平川さんによれば、当時の文学部長、外山正一によって彼の英文の素晴らしさと海外での人気が認められたからである。招聘前に、すでに『日本瞥見記(知られぬ日本の面影)』は海外で出版されていた。解雇の理由は海外で学んだ日本人に帝大で教授させたいという大学側の意向があったからである。それが漱石だった。ハーンは翌年早稲田大学に移っている。


松江市 塩見縄手

 


日本の心



 それなら実際にハーンの書いた文章が客観的なものであったか、なかったか。つまり、フィクション過多だったのかノンフィクションに近いものだったのかが問われることになるだろう。元々、ハーパー社がハーンを日本に派遣する決め手としたのは、島の風俗や民俗学的記述の豊富なマルティニーク島でのルポタージュに発揮された能力を買ったからだと言われる。そして、こんなハーンの手紙が残っている。「私は物語を勝手に拵えることはしません。私は物語を日本人の生活から拾います――新聞に出たそうしたものから材料を拾うのです。」この手紙からは新聞記者として活躍していたハーンの信条のようなものが読み取れる。この手紙は西田千太郎とともに終生の親友であった雨森信成(あめのもり のぶしげ)に宛てたもので、熊本時代に友人の少ない中で雨森にこのような手紙を書いているのである。「しかし、いまの私は学内政治の大好きな心の狭い書記に使われる下男みたいな立場です。ひどく孤立してしまったものだから、また英国人たちの間に戻りたくなりました。もちろん在日英国人には彼等一流の偏見やしきたりやがあることは承知していますが‥‥」一週27時間授業という重労働もあってハーンは熊本を離れ日刊英字新聞社の神戸クロニクルに移った。

 そして、こうも書いている。「貴君にはもちろんお解りのことと思いますが、神道の社が外国人にどんな印象を与えるかという感じを西洋人読者に伝えることは難しいことです。しかし、その第一の難点にもまして難しい第二の難点がある。それは日本人が神社にお詣りしてどんな感じを受けるかということを伝えることです。」ハーンが『日本瞥見記(知られぬ日本の面影)』を書いている時には極めて肯定的な観点から日本を見ていた、その裏をかえせば、西洋にたいして否定的であったということなのである。

 我々日本人がその作品を読んだ時、それらの内容が民俗学的な正確さを持って取材されていて、日本人にとって違和感がないものであり、日本の心を理解しようとする姿勢に貫かれていたことがよく分かる。いまだにハーンの文章が我々の心を打つ大きな要因になっているのである。彼が、日本の庶民の中にあって、その心を心として書いてみたいと考えていたことがよく分かる。観点に偏りはあるかもしれないが、フィクションと呼ぶべきものではけっしてないであろう。



チェンバレンの焦燥



 

 ワーグナーの娘エヴァと結婚しドイツ皇帝ヴィルヘルム2世にも気にいられていた弟、ヒューストン・チェンバレン (1855-1927) が第一次大戦の時、敵国のドイツに帰化し、反英活動を起こしてイギリスの反逆者となったことで、イギリスからスイスの自分宛の手紙も当局から検閲される事態が起こっている。それに弟の著書『十九世紀の基礎』は現代西洋の文明を築き上げたのはアーリア人種でその代表はドイツ人であると吹き上げたのである。これは後に不穏な影響力を持つことになる。兄のチェンバレンは、かなり肩身の狭い思いを強いられようになった。いい気持ちはしていなかっただろう。

 そして、この1930年代、日本は満州事変によって露骨に大陸進出を目指し、日独防共協定が成立しようとしていた。もうハーンの描いた優しい日本ではなかったし、チェンバレンが懐かしむことのできる日本でもなかった。まだ、多くの友人や佐々木信綱らの教え子たちは日本にいる。その頃、ハーンの著作はフランスを中心に絶大な人気があった。ここからは、僕の推測になるのだけれど、チェンバレンは反日キャンペーンを行うのは心が痛かった。自分とハーンとの違いを暗に示した上で、ハーンのイメージと同時に、ハーンが描き出した日本の良きイメージを貶めたかったのではなかったろうか。 

 なるほど、彼が描いた日本は、急速に近代化されていた当時にあっては過去の日本に属していたかもしれない。しかし、それが幻想だというなら、歴史はすべて幻想になってしまう。彼の見た日本が幻想だったと断定することにはたして意味があったのだろうか。そして、チェンバレンのハーン批判の言葉「ハーンの一生は夢の連続で、それは悪夢に終わった。彼は、情熱のおもむくままに日本に帰化して、小泉八雲と名乗った。しかし、彼は夢から醒めると、間違ったことをしでかしたと悟った。」この言葉に平川さんは義憤を感じたようだ。これは事実無根である。少なくとも、一つだけ確実に幻想でないものがあった。家庭である。日本の女性によって心温まる「家庭」が初めてもたらされたのである。それはハーンにとって生涯で唯一の家庭と呼べるものであった。これが悪夢であり得るはずはなかったからである。



フェノロサのチェンバレン批判



アーネスト・フランシスコ・フェノロサ
(1853-1908)1890


 岡倉天心を教えたアメリカ人、アーネスト・フェノロサは、ハーンとチェンバレン二人の違いをこのように評した。「『日本事物誌』は事実の羅列に過ぎぬ点でハーンの著述とはまさに正反対の場所に位置する。‥‥東洋の生活とそれらの持つあらゆる高度な意味合いに対して冷笑的、無感覚、盲目的であり、異国の水準に対するイギリス人批評に洩れず、底意地が悪く自意識が強い。もし平俗的で分析的な眼に映ずるもののみが真実であるとすれば、詩は悉く虚言となるだろう。ハーンは夢想家であり、取るに足らぬ人生の些事をも愛し、かつ空想を馳せる人である。ハーンの感受性は絶妙なる音楽を楽しむ人のそれであり、その表現も絶妙なる音楽の如く微妙である。彼は霊的な事実を溶解し、沈殿せる実用性のみを見出す頭脳が、すでに生ける頭脳にあらざることに気づいているのだ。(山口静一『フェノロサ』下巻)」チェンバレンのハーン批判はものの見事に成功した。だが、幻想が悪夢に終わったのは日本の方だったのである。日本の評価とともにハーンの海外での評判も地に落ちた。


バジル・ホール・チェンバレン
『日本事物誌』
 第五版 1905 



かつての微笑


 
 ここで翻(ひるがえ)って思うのは、何をもって幻想というのか我々自身にも問うてみなければならない問題かもしれないということなのだ。ハーンは「日本人の微笑」という章の中でこのように述べている。「しかし、日本の若い世代の諸君は、今のところ過去の日本を軽蔑している風があるけれども、かならずいつの日にかは自国の過去を、ちょうどわれわれ西洋人が古代ギリシアの文明を回顧するように、回顧する時がくるであろう。簡素な娯しみを楽しむ能力のあることを忘れたこと、人生の純粋な喜びに対する感性を失ったこと、昔ながらの自然との美しい神のような親しみを忘れたこと、それを反映している今は滅びたすばらしい芸術を忘れたこと、―― この忘却をいつかは哀惜する日がくるであろう。昔の日本が、今よりもどんなに輝かしい、どんなに美しい世界に見えたかを日本はおもいだすであろう。古風な忍耐や自己犠牲、むかしの礼節、古い信仰のもつ深い人間的な詩情、―― 日本は嘆き悔やむものがたくさんあるだろう。日本はこれから多くのものを見て驚くだろうが、同時に残念に思うことも多かろう。おそらくそのなかで、日本が驚くのは古い神々の顔であろう。なぜなら、その微笑はかつては自分の微笑だったのだから。(『日本瞥見記』平井呈一 訳)


ハーンが愛した鼻欠け地蔵 熊本市



夜稿百話

小泉八雲の著作 一部

『骨董・怪談』

ハーンが英語で描いた怪談の総計は、50話に及ぶ。『骨董』に9話、『怪談』に14話、『日本雑録』に6話、『影』に6話、『日本の霊』に5話、『日本瞥見記』に2話、『天の河縁起』に2話、他である。

興味深いのは、訳者の平川祐弘さんが、後書きにあたる『論稿 小泉八雲の怪談の位置』にこう書かいていることだ。ハーンが幼い頃の父の里であるアイルランドでの思い出について、同じくアイルランド出身のウィリアム・バトラー・イエイツに手紙を出している。

ウィリアム・バトラー・イエイツ(1865-1939)

「‥‥コンノート出の乳母がいて私に民話や怪談を話してくれました。そうです。私はアイルランドの事物を愛してしかるべき人間です。そして、事実愛しています(平川祐弘 訳)。」

15歳年下のイエイツの世界に共感し、東大の講義でも取り上げているようだ。平川さんはハーンの日本とイエイツのアイルランドを結んだのは霊的コネクションであると述べている。そして、こう書いている。「世の中にはこの世の人でなくあの世の人を通して結ばれる絆というものもまた存在するのである。」ケルトの血の結びつきとも言えるのかもしれないが、互いにghostly なものに対する興味は普通ではなかった。イエイツは後に、フェノロサ・パウンド訳の夢幻能を翻案したりするようになる。

妻の節子が『怪談』のもとになる幽霊譚を話して聞かせたことは、よく知られている。彼女の話が佳境に入ると、ハーンは目が鋭くなり、顔色が変わり、話が終わってようやくホットして、とても面白いと言う。『幽霊滝』のお勝さんの話で「アラッ、血が」という言葉を何度も繰り返させた。どんなふうに言うのか、その声は、履物の音は、その夜はどんなでしたかと。自分はこう思うが、君はどうかと二人は相談する。二人の様子を外から見たら。全く発狂者のようだっただろうと節子は言う。



『心』
「停車場にて」「日本文明の真髄」「門づけ」「旅日記から」「阿弥陀の比丘尼」他10篇

この緒編は日本の内面生活を扱っているため『心』とタイトルされている。感動的なものは、やはり「停車場にて」だろか。
押し込み強盗が福岡で逮捕され、熊本に護送中に警察官を刺して逃亡した。4年後、熊本の刑事が福岡の監獄を訪れた際、服役者の中に警察官を殺害した者の顔を発見し、熊本に護送した。その顔が脳裏に焼き付いていたのである。駅では多くの人々が集まっていたが、巡査に押されて改札口を通って犯人が出て来た時、護送の巡査がある女性の名を呼んだ。子供をおぶったその女性は殺人犯と面と向かった。母親は子供に向かってこう語った。「坊や、こいつが四年前に坊やのお父さんを殺した男だ。坊やはそのとき生まれていなかった。お母さんのお腹のなかだったんだ。いま坊やを可愛がってくれるお父さんが坊やにいないのは、この男の仕業なのだよ。この男を見てご覧 ――」「よく見てご覧、坊や ! 恐がるんじゃない。辛いかもしれないが、これは坊やの務めだ。見てご覧 ! 」子供は目を見開いたまますすり泣きはじめた。
その時私 (ハーン) は、犯人の顔がゆがむのを見た。いきなりひざまずくと地べたに顔をこすりつけ、それと同時に呻くように叫んだ。「御免な ! 御免な ! 坊や、許してくれ ! 俺がやっちまったのは ―― 憎くてしたことじゃない、ただもうおっかなくて、逃げたい一心でやっちまった。悪かった、本当に俺は悪かった。何とも言えねえほどの悪いことを坊やにしちまった。だがいまはその罪滅ぼしに俺は死にます。死にたい、喜んで死ぬ !  だからな坊や、どうぞ堪忍しておくれ ! 許しておくれ」巡査は、わななく罪人を引っ立てた。すると突然集まった群集の中から啜り泣きが洩れ始めた。そして、私は、けっして生涯見ることもないだろうものを見た。その警察官の目に涙が浮かんでいたのである。




小泉八雲全集第八巻 
恒文社 1964年刊

『仏の畑の落穂』『異国風物と回想』『回想』収録

ハーンの仏教関係の著作を集めている。彼が仏教に関心を持ち始めたのはニューオーリンズ時代と言われているが、インド哲学と言うより仏教説話や寓話に興味の中心があったようだ。東洋思想、とりわけ浩瀚な仏教思想にある種の統一性をもたらしたのはハーバート・スペンサーの『第一原理』を熟読してからである。スペンサーは適者生存という言葉によって社会進化論を唱えた人だが、進化とは、分化と統合とが継続する中で、一貫性のない不明瞭な同質性が一貫性のある明瞭な多様性へと変化することであると述べて、ある種、分化するエンテレケイアを思わせる進化論となっている。霊的なものの進化についてハーンに影響を与えた。

ハーバート・スペンサー(1820-1903)


『仏の畑の落穂』には比較的詳細な涅槃論があるし、ちょっと驚いたが平田篤胤が伝えた『勝五郎再生記聞』を簡略にした内容の『勝五郎再生記』がある。これは、勝五郎が自分はもとは程久保村(現日野市程久保)の須崎藤蔵という子どもで、6歳の時に疱瘡で亡くなったという過去生とあの世に行ってから生まれ変わるまでのことを語った話である。ハーンは『椿節聚記』という本から訳したとしている。

それから、もう一つ。『仏の畑の落穂』に収録された『生神』を御紹介しておきます。

神社や社を shrine や temple と訳しても西洋人には伝わらず a spirit chamber (御魂屋) a ghost-house (幽霊屋敷) a haunted room (魂のおわす部屋) と呼ぶ方が、紙の御幣以外飾られるもののない永遠の薄明の中にあるあの空っぽの空間の特徴を伝えることが出来るのではないか。そして、自らが神になりすます。神となれば、自分はエーテルか磁気のような振動であって、どんな狭いところにも住めないはずはなく、姿を現したい時には、元の姿で現れることが出来、どんな物体もすり抜け、トンボの背に乗ってスイスイ飛び回ることもできる。こうして神道の神のイメージを巧みに紹介するのである。そして、老若男女が自分にお参りにくるときの様子とは、それぞれどのようなものであるのか。ハーンのこの解説は、現代の私たち日本人にも真に当を得た説得力のあるもののように思われる。

ずば抜けて偉大な人、特別な苦労・辛酸を舐めねばならなかった人、そんな人の魂を慰めるために神として祀った場合もあることが紹介され、話は、生神様と呼ばれる特別な存在に移っていく。津波から人々を救った浜口五兵衛の逸話が紹介される。東日本大震災の際にはよく引用された話である。その年の収穫にあたる自らの稲塚に火をつけて村人を高台の自分の屋敷に引き付け、津波から救った人の話だった。




『天の川幻想』
小泉八雲「天の川縁起」「蟲の研究・蚊」「日本お伽話」小泉節子「思い出の記」収載

「天の川縁起」から「究極の問題」

かなり以前の記憶が蘇る。舗道も、切石の堆積も、鉄柵も、目に見えるものはすべてみな夢幻なのだ。ある無限の霊気が様々に顕現したものにほかならないという感情。この経験は、ハーバート・スペンサーの『総合哲学』を学んだことから生じたと言う。そのシリーズの最初の著作『第一原理』を何ヶ月もかけて学んだ。十分咀嚼するために一日に一節を理解することに努めたという。そこにあるのは、「究極の問題」つまり、「いかにして」「なにゆえ」「いずこから」「いずこへ」という問題だった。

この問題は、意識とは何か。それは死後も存続するのか否かという問題に繋がっていく。意識と〈目に見えぬもの〉との関係は自分たちの推測を超える。しかし、一つの示唆が与えられた。意識は無限のエネルギーの現れと見なすべきであり、意識の構成要素は死によって分離しても永劫無限な〈生命の源〉へもどっていくだろうと気づかせられるとハーンは言う。意識は宇宙のエーテルに属するかもしれないというスペンサーの仮説に深く思いをはせると言うのである。 宇宙は果てしない空間であり、〈測り知られざるもの〉であり無限の〈可能性〉の恐怖を呼び覚ます。自我の消滅は最大の恐怖であるというのは本当のことだろうかと問う。無限の渦巻きの中で自分が永遠に存続していくという考えは口で言えないほどの戦慄を引き起こすものではないか。私たちが〈絶対なるもの〉と一つの存在で、その底知れぬ深淵の中でおののき震えるおぼろげな点だという強い期待は、意識が頭脳の崩壊と共に消滅すると考えざるを得ないと思っている人々にとって唯一の慰めとなり得ると述べるのである。







関連図書

平川祐弘『小泉八雲とカミガミの世界』

ハーンが思想的に大きな影響を受けた人にハーバート・スペンサーがいることは『仏の畑の落穂』で既に述べましたが、もう一人、フランスの歴史学者フュステル・ド・クーランジュがいることが本書で紹介されています。特に古代ギリシアやローマの歴史を扱った『古代都市』はハーンを喜ばせた。

フュステル・ド・クーランジュ (1830-1889)

ギリシアやローマの古代人は死後霊魂は別世界に行くのではなく、人の近くに留まって暮らすと考えていた。草葉の蔭にいるのである。遺体をきちんと埋葬し、子孫の手で供物を捧げることで死者の魂は生者に対して恩恵を施すが、怠れば怨霊となってさまよい疫病や災害をもたらすとされた。それに竈の火は信仰の対象であり、けっして絶やしてはならず「家の宗教」の中心となる。先祖崇拝を維持するために男系社会であり、家の存続が最優先されるために子の産むことのない妻は離縁の対象になる。これは、まるで日本の親族制度を説明しているようなものだとハーンは考えていたという。

1893年にはチェンバレンに宛て「私は今二回目を読んで古代インド=アーリア人種の家族、家の崇拝、信仰と日本のそれらとの不可思議な平行現象を研究しています。ある事柄ではその平行現象は驚くべきです。」彼の母の国のギリシアの古代と彼の妻の国日本とが信仰の類似性を見せ、似た霊魂観と家族制度を持っていたのである。これを驚かないはずはなかった。ハーンは多神教から一神教へと向かうことが進化とは考えておらず、一神教から多神教へ、そして不可知論に進むと考えていたと平川さんは指摘している。フュステル・ド・クーランジュが古代地中海社会を分析・記述したように日本を分析・記述してみようとした。それが『日本 ―― 一つの解明』なのです。





平川祐弘『破られた友情 ハーンとチェバレンの日本理解』

鷗外や藤村、雨森らを扱った「日本回帰の軌跡」を収録。ハーンに関する内容の骨子は本文に述べています。



参考図書

ウィリアム・バトラー・イエイツ『ケルトの薄明』

イエイツが、ケルトの地で自分の足で、耳で聞いた、あるいは自身が体験した妖精や超自然の生き物の話をまとめた著作。ケルト文学の泰斗、井村君江さんが訳している。イエイツはこう書いた。

「実際のところ、民俗芸能は、古くは貴族階級のものと考えられていた。というのは民俗芸能が、卑しいものや偽りのものに対するのと同様に、束の間のものや、些細なもの、単に賢いだけや、きれいなものだけのものを、確かに拒んでいるからであり、またその世代の最も単純で最も忘れ難い思いの中に集約されるものだからである。それは偉大な芸術がすべて根を張る土壌なのだ。炉端で物語られ、道端で謡われ、横木に刻み込まれていようと、その時が来れば、一つの心が調和を与え、形造った芸術の評価は、速やかに広がっていくものなのである。」



平田篤胤『仙境異聞・勝五郎再生記聞』

平田篤胤が実地に取材した幽冥界を経めぐった仙童寅吉と生まれ変わりの体験を語る勝五郎の話をまとめた著作。篤胤は末尾にこう述べている。

すべて、世の中に色々と聞こえてくる奇しき事どもには、信じるべきものもあり、そうすべきでないものもある。信じるべきでないものを信じるのは尋常の人であり、信じるべきを信じようとしない者は漢心 (かなごころ) に感化された人である。ともに深慮のない者たちであると言える。そうであるなら、こうした話を そんな人たちに乱 (みだ) りに語るべきではないと思うのだけれど、どうにも黙っていられないのであると。




参考画像 松江八重垣神社


八重垣神社 拝殿 松江市

素戔嗚尊と櫛稲田姫を主祭神とする。



鏡の池
櫛稲田姫命が、スサノオノミコトに勧められ、この社でヤマタノオロチから身を隠している間、鏡代わりに姿を映したと伝えられる池で、良縁占い(銭占い)が行われる。


板絵著色神像 本殿板壁画  3面
制作年は13世紀頃ではないかと推定される。


本殿板壁画



本殿板壁画




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