他の惑星からやってきたホームラン王がいて、タケコプターに爆弾結んで飛ばしあってる ? この奇妙な惑星では入場券の他に退場券もいるのか。調査に来るなら缶コーヒーあげる‥‥‥
「世界詩のグレタ・ガルボ」とイタリア紙が報じた。確かに往年の写真からも想像できるように彼女は美人であったろうが、このスウェーデン出身の伝説的女優さんを引くのは、いささか場違いな気がする。ともあれ、彼女はエスプリの塊のように知的で軽やかだ。そのアイロニーは時に人を刺すがユーモアを忘れない。このカオティックな世界を見つめ、その暗号を解読するために静謐な部屋に籠ることを好む。そんな人なのである。今回の夜稿百話は、とっておきのポーランドの詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカをご紹介する。
‥‥‥
何が本当だったのか
かろうじて本当のように見えていたのは何だったのか
星の世界の、
そして星空の下の
入場券の他に退場券も必要なこの劇場の観客席で。
この生きている全世界についてはどうか ――
私はもうそれを他の生きている世界と
比べることはできないのだけれど。
明日の新聞は
どなんことを書くだろう。
戦争はいつ終わり
その代わりに何が来るのか。
‥‥‥
ある種の質問は
寝る前に書き留めても
目が覚めたとき
自分で読み取ることができなかった。
これはそもそも暗号ではないのかと
時に思ってしまう。
でもこれはまたいつの日か
私のもとを去っていく質問の一つ。
(シンボルスカ『瞬間』より「一覧表」沼野充義 訳)
ロシア生まれの詩人ヨシフ・ブロフツキ― (1940-1996)は「今世紀最大の詩人はポーランド語圏から生まれた」と述べたが、彼が若い頃、チュスワフ・ミウォシュの詩に魅せられ翻訳したことを思うと然 (さ) もありなんという気がする。そのミウォシュがシンボルスカのノーベル賞受賞を祝したエッセイで「ポーランド派」と呼ぶべき詩の特質があると述べている。平明な語彙と音楽性、歴史や政治に意識的だがあからさまな表現は使わないといったことのようだ。しかし、もっと広い視野に立つなら、自分たちは中欧の作家であり、そのような特質も持っていると詩人・小説家のオルガ・トカルチュクは言う。それはいったいどのようなものなのだろうか。
出生・占領・結婚
ヴィスワヴァ・シンボルスカは1923年ポーランド中部のポズナニ近郊にある小村ブニンとクールニクの間にあるプロヴェントという集落で生まれている (ブニンは1961年にクールニクに合併吸収された) 。遠藤周作、司馬遼太郎、サム・フランシスやマリア・カラスが生まれた年だ。父親は、ザモイスキ伯爵の地所管理人であったヴィンツェンティ・シンボルスキ、母アンナはオランダ出身であった。姉のナヴォヤは、家事を手広くこなし常に妹をサポートした人だったと言う。小さなころのヴィスワヴァは、父母や姉に家中の本を読んで聞かせるように命令する幸福な暴君らしかった。1924年にザモイスキ伯爵が亡くなると、一家は南部山岳地帯にあるポーランド屈指の避暑地のザコパネを経てヴィスワ川沿いにある世界遺産になっているトルンに移り、最初の2年間はそこの小学校に通った。1931年 (八歳) 、古都のクラクフに移った。
クラクフ 織物取引所と中央広場
1935年から、彼女はクラクフのウルズリーナの文法学校に通ったが、翌年の父の死と、その3年後の第二次世界大戦の勃発は、シンボルスカの幸福な子供時代の終わりを告げる。ドイツ占領下のポーランドでは、1941年まで、授業は秘密裏に行われるのみであったし、その後の勉学は不可能となった。この頃から詩を書き始める。終戦後はヤギェウォ大学でポーランド文学と社会学を学ぶが、社会主義国のマルクス主義一辺倒の社会学を学ぶことに意味を感じなかったようだ。1948年、彼女は大学を卒業することなく中退し、ポーランドの文豪アダム・ヴウォデク(1922-1986)と結婚した。彼は日刊ポーランド (Dziennik Polski) の編集に携わっていて、そこにシンボルスカの詩が初めて掲載された。1954年に二人は離婚したが、その後も二人は友人であり続けたという。
日刊ポーランド (Dziennik Polski)
ポーランドの他イギリスでも発刊された
編集・入口・離党
シンボルスカは、1953年からクラクフの文芸誌「文学生活 (ジチエ・リテラッキエ) 」の編集者として働き、そのコラムで本を紹介していたようだ。1981年まで続けている。この仕事を通して彼女の回想と考察の間を行き来する文体が始まるといわれる。
鍵
鍵が突然見えなくなってしまった
どうやって家の中に入ったらよいのやら
なくしてしまった鍵
きっとだれかが見つけ出してくれる
でもそんな他人の鍵など拾ったところでほうりだすのが関の山
くず鉄の塊かなんぞのように
‥‥‥
見知らぬ他人の掌中にあっては
どんな家の扉もあけることはできまい
たとえ紛失届をだしたところで
戻ってくるのは難しい
そしていたずらに錆びついていくだけ
‥‥‥
(シンボルスカ 初期作品1955-1956より つかだ・みちこ 訳)
1948年にポーランド統一労働者党が結成され、当時、夫であったヴウォデクの影響により彼女は、そのメンバーとなっている。この頃、いくつかの詩集を出版しているが、社会主義リアリズムの濃いもので詩集『われら生き抜かん』にはスターリンの死に涙する内容の詩「この日」が収録されていた。だが、それらの詩の多くは彼女自身の手によって廃絶される(つかだ・みちこ『シンボルスカ詩集』解説)。後年、彼女は、こう語っている。「私はこれらの作品を純粋な気持ちで書きました、このことは今日若い人々にはどうしても理解されないことですが、私は彼こそが人類を救済する救世主なのだと信じていた世代に属していた。愚かで単純すぎた、というしかありませんが、誰でもこんな悪魔にとりつかれてしまうようなことってあるんじゃないでしょうか ? (つかだ・みちこ 訳)」スターリンの魔性にいまでも取り付かれているロシアの政治家もいるが、当時のポーランド人にとってナチス・ドイツと飢えから解放してくれたのはソ連だったのである。
1960年には文化・芸術省の奨学金でフランスに留学。作品がロシア語に翻訳され、ソ連やスウェーデンなどを訪問している。夫からの影響もあったといわれる社会主義リアリズムは、同時に文学界への入り口でもあったろう。しかし、彼女は1968年に統一労働者党を離党し、夫も彼女の元から去って行った。
ポーランド統一労働者党第一書記ヴワディスワフ・ゴムウカ
ポーランドの新しい自由な社会主義を呼び掛ける 1956
後に行き過ぎた自由化を弾圧し、1970年に失脚した。
歴史を説明する方法
歴史には外部の状況と内部の状況という二つの説明の仕方があると述べたのは、同じポーランドの詩人・作家であるオルガ・トカルチュクだった。シンボルスカより一世代下の作家で僕とほぼ同世代にあたる。外部の状況、経済、色々な政治的メカニズムは個人を通して経験されるものだけれど、同時に個人の傍らや上に伸び広がっていくものだという。それに対して、内部には表面の現れによって知ることのできる「仮説としての内部」が存在している。彼女はカウンセラー出身の作家なので、ここで言いたいことはよくわかる。人には内部に本人が気づいていない歴史があるのだ。文学は、そうした内部のプロセスの地震計測図ではないかという。美術史家のディディ=ユベルマンみたいなことを言う。
オルガ・トカルチュク (1962-)
モラヴィア (現チェコ) のシレジア地方にある小都市プシーボルに生まれたジークムント・フロイトが人生の大半をウィーンで過ごしたことを思い出してほしいという。彼の思想は、中欧の住人の或る知的・心理的特徴をよく表しているという。目に見えて経験される社会的・文化的世界は「地下」に広がる秩序 (生物的・祖型的・神話学的) の混沌とした表れであるという確信と予感に満ちているというのだ。彼が解釈学に傾斜していくのは現実という未完成品の暗号解読に他ならないのである。
僕には中欧の作家とは、こんなですと一括りにできる知識は無いけれど、カフカやブルーノ・シュルツ、ムジール、ハイブリッドな出自だけれどコンラッドといった作家の作品を思い出せば、そうかもしれないと思うのである。トカルチュクは、この地域では書くことが、冷静で意識的であり、世界と論争し続け、世界を注釈し続け、間断なく形を探し定めた後に破壊し、筋書を道具か何かのように使うというのである(『「中欧」の幻影は文学に映し出される』)。言い得て妙かもしれない。
抗議・連帯・宮廷道化師の娘
ヤスオ近郊の飢餓収容所
そのことを書きなさい、書きなさい
普通の紙の上に。普通のインクで
彼らは食物を与えられなかった
みんな飢えのために死んでいった みんな
何人 ?
それは大きな牧場だった
牧草は一人当たり何本だった というの ?
お書き。さあ私にはわからない
歴史は、骸骨の端数は、四捨五入で切り捨て零にする
千と一人は、千ポッキリに
この最後の一人は全く過去に存在しなかったのも同然のこと
‥‥‥
口を開け、歯をガチガチとぶつけ合い
夜、空に鎌のような月がきらめく
そして夢のパンを刈り取る
黒ずんだ聖像 (イコン) から
指にはからっぽのグラスを持つ手が飛んでくる
有刺鉄線の焼き串に
人間が揺れる
口には土を含み 歌っていた ”戦争が心臓に命中してしまった”という 哀しい歌を
書きなさい ここがどんなに静かだったか って
そうね
(シンボルスカ 『塩』1962年より つかだ・みちこ 訳)
レシェク・コワコフスキ(1927-2009)
修正マルクス主義者となりソビエトマルクス主義とスターリン主義を批判し始めた哲学者レシェク・コワコフスキは、1966年に統一労働者党と大学の教職から追放される。これに対してポーランドの知識人たちはこぞって抗議の声を上げた。イギリスに亡命することになるのだが、皮肉にも彼の思想は、自主的に組織された連帯運動のバックボーンとなっていった。シンボルスカは、この頃、既に同世代の中で最も重要な詩人とみなされていたようだ。1967年からは長年のパートナーとなるコルネル・フィリポヴィッチと交際しはじめる。彼女の詩には、政治的な問題が仄めかされ、暗に揶揄され、時にはアカラサマのようにも思える。彼女の詩集は批評家や大衆の間で成功を収めはじめ、ポーランドの独立自主管理労働組合「連帯」もシンボルスカの詩を称賛した。
1981年、シンボルスカは『文学生活 (ジチエ・リテラッキエ) 』誌での編集の仕事を終えた。連帯の非合法化やストライキの抑え込み、戒厳令が布かれるなど騒然とした時期だった。その後、クラクフの雑誌『ピスモ (Pismo) 』、ヴロツワフの月刊誌『オドラ (Odra) 』に書評を掲載するようになる。ポーランド南西にある都市ヴロツワフは穏やかな反共産主義運動オレンジ・オルタナティブの発祥の地だった。1989年は政権の維持を狙う統一労働者党と連帯との円卓会議が開かれ、民主化への舵を大きく切った。そして1993年からは連帯の報道機関的な働きをしていた『日刊選挙 (ガゼタ・ヴィボルツァ/Gazeta Wyborcza) 』にも書評を掲載するようにもなる。その傍ら、パリの亡命雑誌『クルトゥラ (Kultura) 』に記事を寄せていた。
日本語にして1500~2000文字の書評はアンデルセン童話からヨーガの本にいたる、童話、回想録、歴史、実用書と広範囲に及んだようだ(つかだ・みちこ『シンボルスカ詩集』解説)。
オレンジ・オルタナティブ運動の象徴
それと共に、ポーランドの地下出版『アルカ (Arka) 』に宮廷道化師スタンチクの娘(Stańczykówna)というペンネームで記事を執筆している。このようにみてくると彼女が筋金入りの反体制詩人のような印象を持つけれど、けっしてそうではない。彼女は、彼女の心の歴史を綴ってきたに過ぎないのである。
哲とユーモアのアイロニー
彼女の詩には、時に見事なまでの哲のアイロニーが登場する。あえて、哲学的とは言わない。これは、お見事と言うほかない。そして、彼女の諷刺にはユーモアがあるのを忘れてはならない。大衆に支持されるのもうなずける。ロシアの哲学者ミハイル・バフチンが言祝ぐ真面目な茶番なのである。ユーモアのない諷刺はギスギスして居心地が悪い。
ポルノグラフィ問題への発言
最悪の淫乱は考えることに勝るものなし。
その妄想は風媒の雑草のように
デージー栽培の畦に繫茂する。
思考する人々にとって聖なるものは皆無。
大胆不敵に事物をそのものの名で名付け
分析は猥褻、総論はいかがわしげ
‥‥‥
彼らが好む果実は
禁じられた 情報の木の実
カラー写真の雑誌の桃色のヒップは二の次
ああいう無邪気ぶりも結局はポルノなのさ。
彼らが楽しむ本に写真は一枚とてなく
唯一の気晴らしは特別な二、三行の文
爪じるしの痕か、あるいは色鉛筆のマークの付いた。
‥‥‥
(シンボルスカ『橋の上の人たち』1986年より 工藤幸雄 訳)
ミハイル・バフチン(1895-1975)
ミハイル・バフチンは、生活の物質的・肉体的原理、アンビヴァレントな価値を併せ持つ変化の両極性、再生と復活のユートピア性を強調し、その中に大衆的な笑いの原理を含める(『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』)のだけれど、シンボルスカの作品の底流にも、全てではないが、そこはかとなく窺えるものではないだろうか。勿論ラブレーのようにオキャンなものではない。ラブレーの喜劇性は陽気さと不可分だった。彼女は、エスプリを際立たせる詩人であるが、宗教の厳格性、「全人類に幸福=降伏をもたらす」政治的プロパガンダや学問の抽象性を事とするお堅い文学とは距離をとっているのは明らかだった。
猫
1967年から交際していたシンボルスカの長年のパートナー、コルネル・フィリポヴィッチが1990年に亡くなった。彼の死後、シンボルスカは一時的に引きこもり、詩集『終わりと始まり』の中などでその悲しみを表現した。フィリポヴィッチは、クラフクの著名な作家で短編小説に優れた人であり、ポーランド社会党の党員でもあった。この社会党は統一労働者党とは独立した路線を維持していて1989年の民主化以降も主流ではなかったがある程度の政治的影響力を持ったといわれる。
からっぽなアパートの猫
死んでしまうなんて 猫に対してすることじゃない
空っぽなアパートにとり残された
猫はなにを始めることになるだろう
壁によじのぼり
家具に体をこすりつける
まるで何も変わっていないようだ
でも変わっている
まるで何も動かされていないようだ
でも前より広々としている
もう夜毎ランプが灯ることもない
‥‥‥
さあ いいかげんに帰ってきたら
姿をみせるしかないでしょう
猫にそんなことをしてはいけないって
あの人だってもうわかるはず
主人を出迎え、まったく嫌々ながらのように
彼のほうに進んでいくだろう
そろそろと
とても怒ったように足を動かし
始めのうちは跳ぶとも鳴こうともしないで
(シンボルスカ『終わりと始まり』1993年より 沼野充義 訳)
シンボルスカ・フィリッポヴィッチ往復書簡集
『一番素晴らしい生活を送っているのはあなたの猫よ』2016
(『瞬間』解説より)
『一番素晴らしい生活をしているのはあなたの猫よ』という二人の往復書簡集は二人の心の機微を表現していて、このタイトルは彼女が彼に送った手紙の一節であり、この後に「だって、あなたのそばにいるんだから」と続いているという (沼野充義『瞬間』解説) 。
二人が出会ったのは彼女が40代半ばで、朝早く起きて蚤の市に出かけキッチュ (通俗) なものをコレクトとするのが二人のお気に入りだったらしい。チェコ出身の作家であるミラン・クンデラ (1929-2023) によれば、キッチ (キッチュ) とは「あばたをえくぼと化する虚偽の鏡を覗きこみ、そこに映る自分の姿を見てうっとりと満足感にひたりたいという欲求」(『小説の精神』金井裕・浅野敏夫訳)のことだそうだ。なんとなく分かる気がする。社会の価値観からはうっちゃられても、その存在を見棄てられない物たちの肌触りに浸り何らかの記憶をたどること。
通俗な奇蹟 ――
それは通俗な奇蹟がいっぱい起こること。
普通の奇蹟 ――
夜の静寂(しじま)に
見えない犬どもが吠えること。
多数のうちのひとつの奇蹟 ――
軽くて小さな雲が
大きくて重い月を隠すこと。
‥‥‥
お手頃な奇蹟の筆頭は ――
牝牛がすべて牝牛であること。
‥‥‥
(『橋の上の人たち』より「奇跡の青空市」工藤幸雄 訳)
『ヴィスワヴァ・シンボルスカの引き出し』展より
彼女のキッチュのコレクション
二人は相思相愛の良きパートナーだったが、彼には家庭があり、同棲もなかったといわれる (『シンボルスカ詩集』つかだ・みちこ 解説)。不倫と言うのかどうか分からないが、大っぴらで熱愛と言うには穏やかだった。彼女は知的な人だったが、心の絆を大切にする人でもあった。前夫の死を看取ったというし、軽やかなロマンスの調べを自ら掻き消すことはなかったのである。
無に収まらないなにか
とても不思議な三つのことば
「未来」と言うと
それはもう過去になっている。
「静けさ」と言うと
静けさを壊してしまう。
「無」というと
無に収まらない何かをわたしは作り出す。
(シンボルスカ『瞬間』より 沼野充義 訳)
マルキシズムから離れると彼女の詩は、実存主義的な方向に舵を切り、詩集『橋の上の人たち』で評価を高めたが、晩年の作品は、このように言葉の限定作用を破壊しながら別の世界へと導く詩へと進化していく。優れた詩人たちには共通する傾向と言っていいかもしれない。不思議だけれど、エミリー・ディキンスンの詩のような何か東洋的で禅的ですらある世界へと誘われる。これを哲学的と考えない方がいい。〈無に収まらない何か〉とは何だろうか ?
エミリー・ディキンスン(1830-1866)
シンボルスカは、どんな生でも不死の瞬間がちょっとだけあると書く。死は何時だって一瞬遅れてやって来ると言うのである (『死について誇張せずに』) 。生でもなく死でもない不死の瞬間、無に収まらない何かとは、きっと、その対概念である有ではあるまい。現実と呼ばれる虚偽の鏡を覗きこみ、そこに映る自分の姿を見てうっとりと満足感にひたりたいと思いながら一瞬真実を垣間見てしまう。詩人の性 (さが) とはそのようなものかもしれないのである。先ほどのトカルチュクは、小説『プラヴィエクとその他の時代』の中でこうのべている。「‥‥外側をおおう見かけに騙されないために目を閉じるならば、もしあなたが、疑りぶかい人間であろうとするならば、物の、本当の姿を見ることができる。それは一瞬のことかもしれないが (小椋彩 訳)。」
橋の上の人々
歌川広重『名所江戸百景』より「大はし あたけ の夕立」
隅田川沿いの安宅に架かる大橋の夕立を描いた。
いまの私がこの私だとは理解しがたい偶然だという彼女は、ご先祖さまは別の生き物だったかもしれず、自然の洋服だんすには、蜘蛛の衣装、鸚鵡の衣装、野鼠の衣装とたくさんの衣装があり、自分が選んだわけではないのに何故自分は人間の衣装なのかと問う。自分は、今の自分ではなく、はるかに個性のない誰かであったかもしれない。でも、運命はこれまでのところ私にやさしかったし、幸せな瞬間の数々の思い出を与えてくれたと詩に書く (シンボルスカ『瞬間』より「ひしめき合う世界」) 。
これが最晩年の詩であり、それらを通じて彼女の晩年の境涯を知ることができる。生の混沌をシニカルな眼差しで俯瞰し警告する詩人、瞬間をマッピングする詩人、あらゆる不完全で滑稽な情報を多くの欠点や弱さを併せ持つ人間の実像と共に救い上げる詩人、才気煥発な教養人、道化や茶番を好む皮肉屋、神話や民話の破壊者、時に深く時に控えめに死をみつめる詩人。彼女の詩にたいする形容は結構広範囲にわたっていて、本文では僅かの作品しかご紹介できなかったけれど、これらの形容は肯首していただけるのではないだろうか。
中欧の作家の特徴とされる傾向を彼女も持っている。冷静で意識的であり、世界と論争し、注釈し続け、間断なく形を探し定めた後に破壊し、筋書を道具扱いしてきた。彼女の見続けてきた奇妙な惑星とそこに住む奇妙な人々は橋の上で夕立に会い、フリーズしている。画家広重は時間を躓かせ倒してしまったのである (シンボルスカ『橋の上の人たち』より「橋の上の人たち」) 。ゴッホをも凍結させた歌川広重の作品。この橋の上の人々の駆け足を見つめ自らをその姿に重ねる人は、行き着く先のない駆け足が終わりのないものだと思い上がるだろう。しかし、この凍結は、そのままの現実なのだと述べ、一度定めた形を破壊する。
李白も芭蕉も過ぎゆく時を謳った。彼女もまた自分が橋の上の通行人であることを知っていた。その橋を通ることは、何らか偶然である。あるいは、私という橋、ポーランドという橋、中欧という橋、世界という橋、その上を通り過ぎる出来事が偶然という通行人であるのかもしれない。彼女の詩の世界が多面体に見えるのは、そのためだ。これらの出来事とは何なのか。その凍結の瞬間に何かが垣間見られる。彼女はその暗号を解こうと煩悶しただろう。同時に、その橋には時にやさしい運命が割り当てられ、数々の幸せな瞬間さえもがもたらされた。彼女の内面は真に豊かに広がって行ったのである。その静謐な内面を脅かすことは、ノーベル文学賞のメダルでさえ不可能だったのである。
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