第41話 『ウィリアム・ブレイク』part1 ブリコラージュの哲学と特殊な誠実から生まれる詩

 ロンドンに行って、見てみたかったもの。第一に大英博物館。あの大英博物館では、アフリカ美術に驚喜し、ケルト美術をうっとり眺め、エジプト美術のスケールに感嘆し、エルギン・マーブルと銘打たれたギリシア彫刻コレクションに頬ずりしそうになり、アッシリアの精悍に唸った。ああ、一日では足りない。第二は、ここテート・ブリテンである。このテートでは、フランシス・ベーコンにのけぞり、若いころ結構浸っていたターナーを再認識し、色々研究もしたムーアを懐かしく思いだす。だが、忘れてならないもの、それがウィリアム・ブレイクのコレクションである。建物の確か2階の奥まった所に階段があって、そこを上がると照明を落とした比較的小さな部屋がある。テートの広いフロアに比べれば隠し部屋かしらと思うような場所である。


テート・ブリテン  2017
© UEDA Nobutaka


 僕がブレイクを初めて目にしたのは、かれこれ30年も前のことだが、昨日のことのように思いだされる。東京は国立西洋美術館の特別展だった。圧倒的なイメージの洪水とファンタスティックな人物たち。しかし、詩や文章は何だろうか‥‥よく分からない。これは神話らしいが、‥‥何の神話なんだろう。つまり、感動と疑問にサンドイッチにされて、困惑したのものが、未だに消化されずに胸の真ん中にぶら下がったままになっていた。そういえば、その時のこんなカタログが我が家に色褪せずに残っていた。今にして見ても立派なカタログである。今回の夜稿百話は、この胸につかえたブレイクを腑に落とすべくあれこれの著作を集約してお送りしたいと思っている。


『ウィリアム・ブレイク展カタログ』1990 
国立西洋美術館 編集 雪山行二 喜多崎親 高橋明也



発見 !  ロセッティ稿本



野の花の歌

森をさまよっていたとき
緑の葉陰で
野の花の
歌う声がした

「私は大地の中で
静かな夜を眠り
畏れをつぶやき
喜びを覚えた

「あしたに私は出かけた
朝のごときバラの面ざしで
新しい喜びを求めて
ただ嘲りに会ったのだ」

(「ロセッティ稿本」小川二郎 訳)


 「ロセッティ稿本」は、ラファエル前派で知られるダンテ・ゲイブリエル・ロセッティが入手した、詩や絵が書き込まれたブレイクのノートブックである。ロセッティはこのノートの詩などをもとにブレイクの初期の詩について多くの解説文を書いている。彼の芸術・詩の特色を色彩と韻律に見ていたという。当時、ブレイクは一部には知られていても、その奇矯な予言書によってほとんど狂人扱いされていた。しかし、このロセッティやアルジャーノン・スウィンバーン (1837-1909) らラファエル前派の作家たちの働きによって評価されはじめることになるのである。


 日本で初めてブレイクの翻訳が紹介されたのは、1894年、大和田建樹訳による『反響の野』であったと言われる。ラフカディオ・ハーンは、1899年に東京帝国大学において「十八世紀奇人伝」と題した講義でブレイクを取りあげた。他にジョナサン・スウィフト、クリストファー・スマート、ウィリアム・クーパーらが含まれていた。その数年後の講義「ブレイク――英国最初の神秘主義者」の中で、ハーンはブレイクの詩風はホイットマンに似ているが、彼よりはるかに上質だと高く評価した。

 コールリッジ (1772-1834) は、ブレイクの神秘主義的幻想に影響を受けており、その波はブルワー=リットン (1803-1873) を経てエドガー・アラン・ポー (1809-1849) にまで及んだという。子どものような言葉でこのような深い意味を表わした詩人は他にいないし、禅僧がそうであるように答えを与えることなく問いを示す所にブレイクの特徴があるとハーンは述べた(佐藤光『柳宗悦とウィリアム・ブレイク』)。なるほどハーンらしい批評だと思う。この後、柳宗悦が雑誌「白樺」などでブレイクの本格的な紹介を開始することになるのである。


 これらの評価は『詩的素描』や『無垢と経験の歌』などの比較的初期の詩に対するものであったことは憶えておいてほしい。ここではあの「予言書」は等閑視されているのである。ブレイクが亡くなって36年後の1863年に、アレクサンダー・ギルクリストの『ブレイク伝』がロセッティの主宰する「前ラファエル兄弟会」の援助で刊行され、ブレイク研究の嚆矢となった。その5年後にスウィンバーンの『ウィリアム・ブレイク評論』が、その後にロセッティの弟ウィリアムの編集した『ブレイク詩集』が発表され、イギリスの文学史にブレイクの名が浸透し始める。美術家としてのブレイクの名も1876年に大規模な展覧会がバーリントン美術クラブで開催されるに及んで高まり始めていた。


イエイツの勇み足



ウィリアム・ブレイク『ブレイク詩集』
無心の歌、経験の歌、天国と地獄の結婚 収載


 このような状況の中で衝撃的な『ブレイク作品集』が1893年に刊行された。ブレイクの問題の「予言書」のリトグラフが添えられた全文が刊行されたのである。そこには、エドウィン・ジョン・エリスの回想文とウィリアム・バトラー・イエイツによる解説文が掲載されていた。イエイツは15歳の時から父にブレイクの抒情詩読んで聞かされて育った。父の友人であるエリスからブレイクの予言書『エルサレム』に登場するイギリスの地名について問いかけられると、それは魔法の箱の蝶番の名だと答え、エリスを驚かせ、二人は意気投合したという。やがて、彼はブレイクのシンボル体系の独創的で情熱あふれる論文をまとめ、エリスはブレイク夫妻の伝記を書いた。それが全三巻の膨大な『ブレイク作品集』となったのである予

 イエイツはブレイク作品を説明するための秘密の体系があることを確信していたし、彼の作品にはブレイクからの借用と思われる象徴も多いと言う(並河亮/なみかわ りょう『ウィリアム・ブレイク』)。しかし、アイルランド系であるイエイツが、ブレイクもアイルランド系で、彼の思想・芸術にケルトの影響があると考えたのは、全くの勇み足であった。彼のブレイク賛歌にこのような言葉がある。「老人の熱狂をわれに与えよ。俺自身を創り直そう。‥‥真理が彼の呼び出しに応ずるまで壁を叩き続けたウィリアム・ブレイクに変身するように(並河亮 訳)。」


ブレイクの下町



ウィリアム・ブレイク』 (1757-1827)
1807 トマス・フィリップ画

 イエイツの思いとは裏腹にブレイクは、1757年、イギリス人の両親のもと冬のロンドンのソーホーにあった靴下店の二階で生まれた。スウェーデンボルグが霊的世界で最後の審判が下されたとした年である。7人兄弟の3番目だった。ブレイクが生まれた頃、彼の住んでいたブロード・ストリートは、彫版師や大工、ハープシコード製作者たちのような中産階級の人びとの住む街だった。当時、ソーホーの近くには、小劇場や音楽会の行われる場所があり、カーライル・ハウスではヨハン・クリスティアン・バッハ(1735-1782)が指揮をしていた。『ブレイク伝』の著者ピーター・アクロイドによれば、両親は靴下を商う非国教徒の小商人で、政治的には急進的な党派を支持していたという。それゆえブレイク少年は「宮廷」と「古き腐敗」に敵対する家庭で育ったと考えられる。言うなれば、生まれながらに反国教会的、反体制的立場に立っていたということである。


ヨハン・クリスティアン・バッハ
トマス・ゲインズバラ 画

 8歳か10歳の頃、少年は「初めてのヴィジョン」を見た。空を見上げると一本の樹に天使が群がっていた。帰宅してそのことを話すと実直な父は嘘をついたとして殴ろうとしたが、母親のとりなしで難を逃れた。しかし、「自分の霊感を信じたい気持ちを明らかにすると父親にきびしくとがめられた」という。愛されることなく、期待もされない状況の中で彼は孤立を感じ始めるとアクロイドは言う。ブレイクの後年の手紙にこんな詩がある。

ああ 何故 私は異形の顔に生まれたのだろう。
なぜ 一族の者のように 生まれなかったのだろう。
私が目を向けると 人々は驚き
私が物を言うと 人々は傷つく
そこで受け身となった私は黙りこみ 友を全て失う

私は自分の詩を辱め 私は自分の絵を蔑む
私は自分の容貌を貶 (けな) し 自分の気性を罰する
ペンは私の恐怖 鉛筆は私の恥辱となった
あらゆる才能を私は地に埋め 私の名声は死んだ

私はあまりに低く あるいは あまりに高く評価されるのか
頭を上げていれば羨まれ 頭を下げていれば侮られる

(トマス・バッツ宛ての手紙/1803年)



修行するブレイク



 ブレイクがあまりにも束縛とか規則を嫌ったので父親は彼に学校教育を受けさせず、父親が出来うる限りの教育を行ったと知人は証言している。芸術的素質は母親によって育まれたともいう。10歳の時、両親は絵画・彫刻アカデミーに入学するための予備校と考えられていた素描学校にブレイク少年を入学させた。少年は「ロンドンの店員の抜け目なさ」に欠け、「間抜けだと言う理由でカウンターから遠い所に追いやられていた」らしい。ラファエㇽロやミケランジェロ、デューラー、ジュリオ・ロマーノらの盛期ルネサンスや北方派の画家たちに興味を持ったが、彼の若い仲間たちからは時代遅れと侮蔑されていたようだ。下の図を見ていただこう。ミケランジェロの影響は否めない。年季奉公時代の初期の作品である。後には、どちらかというと狭い意味でのマニエリスムに近づくようにも思える。この頃、既にスペンサーやミルトンを読み始めていた。


左 ミケランジェロ『聖ペテロの磔刑』部分 1545-49         
右 ブレイク 1773頃
                           
『アルビオンの岩の間のアリマタヤのヨセフ』


 王立美術学校の付属校には進学せずジェイムズ・バザイアの下で彫版師として7年間、版画家の修行をすることになった。1772年、15歳だった。絵画の師につくための謝礼は高価すぎたし、当時、彫版師は有望な職業と考えられていたからである。バザイアは「思いやりのある名匠」であったと言われる。メゾチントなどの流行の技法は追わず、正しい輪郭線や形態の正確なスケッチを心がけていた。デューラーやラファエロに憧れたブレイクの心に叶う師であった。

 先の図に述べたアリマタヤのヨセフは、キリストの遺骸をピラトから貰い受けた人として知られるが、聖杯伝説とも結び付けられていて、十字架の下でイエスの血を受けた聖杯を持ってイギリスに渡ったともされ、アーサー王伝説とも関係していた。ウエストミンスター寺院の創始者ともいわれる。ブレイクは、バザイアから彫版の仕事のためのスケッチを頼まれ、このゴシック寺院に通った。そして、魅せられたのである。ここにブレイクのゴシック美術とイギリスという国の歴史にたいする飽くなき興味の端緒が開かれる。


宗教彫刻 ウィーン美術史美術館 
2017 © Nobutaka UEDA

ブレイク 『天使に守られた墓所のキリスト』
1805年頃

『サタンの墜落』
 ヨブ記より 1805


 ブレイクの絵画作品には、よく天使やそれに類する存在たちが登場する。その飛翔する者たちのイメージはこのウエストミンスター寺院をはじめとする中世ゴシック美術からもたらされたことは、僕には疑うことができない。ラファエル以前の芸術といってもよいだろう。勿論、天使ばかりではない。悪魔やそれに類する存在達もいる。この『サタンの墜落』は下にヨブとその家族、中心にサタンと眷属たちの墜落、上部に神を中心として左右に天使が配されている。このようなイメージはブレイクの作品には非常に多い。

 1779年、22歳の時にバザイアの下での年季奉公を終え、彫版の仕事を開始する。併行してロイヤル・アカデミー付属の美術学校で学べることとなった。しかし、線の芸術を愛するブレイクは、形を陰翳に溶けこませるルーベンスやレンブラントらを評価する管長のモーザーと対立してしまう。権威に対する反抗と激しやすい性格は終生変わらなかった。だんだん美術学校へは足が遠ざかるが、後年まで定期的に作品は提出・発表していたようだ。徒弟時代にシェークスピアやオシアンの『セルマの歌』などに触れていたブレイクは、この頃、アグリッパの『オカルト哲学』、古代ローマの建築家ウィトルウィウスの建築術の規則などを知るようになる。


恋愛・弟の死のヴィジョン・スウェーデンボリ



 24歳の時、薄情な女性へのみじめな求愛から立ち直りかけていた彼は、バターシーにいた父方の親戚の所でキャサリン・バウチャと出会った。文学史上に残る出会いの一つと言われている。ブレイクが部屋に入った時、キャサリンはすぐに将来の夫になる人だとさとり、気を失いかけ、彼がいることに気付いたのは正気に戻ってからだった。若いころはよく諍いもしたようだが、彼女は彼を信じて疑わず、かばい、慰め、そばに大人しく坐り、時には作業を手伝い、彼が仕事をしている間、その集中した意識を乱さないようにしていられる掛け替えのない伴侶となった。


ブレイク 『キャサリン・ブレイク』 1800 
フィツウイリアム美術館


 1784年に父が亡くなり、家業は長兄のジェームズが引き継いだ。ブレイクは木製印刷機を買い、ジェイムズ・パーカーと印刷業を始めた。この頃、古ドルイド教団のビヤホールでの気楽な集まりが住まいの近くで開催されるようになる。この古代ブリトン人のドルイド教の集団へ、フリーメイソン、カバラの学生、政治的急進派たちが接近するようになり、一種の宗教的、歴史的な覚醒が起こるとアクロイドは言う。

 ブレイクが愛した10歳年下の末の弟ロバートは、兄と同じように王立美術学院の付属校で学び、実家の隣の印刷屋を手伝っていた。肺病に罹り死の床にいた弟をブレイクは、およそ一人で看病し、最後はほとんど眠らずに付き添ったと言う。1787年、ブレイクが30歳の時のことだった。その時、彼は弟の死に際して決定的なヴィジョンを見た。最後の厳粛な瞬間、弟の解き放たれた魂は、「喜びに手をたたきながら」実際の天上をとおり抜けて昇天していったという。

 身体から死者の霊魂は脱して霊界で肉体としての姿を再び獲得するとしたスウェーデンボリ(1688-1772)の著書に触れ、2年後に妻と共にスウェーデンボリ教会の総会に参加した。「精霊たちを相手に長年暮らすことが、私の定めであった」というまさに自分と同じ体験をしてきた人に傾倒していったのである。


無垢の歌・経験の歌



 この頃 (1789年)『無心の歌』、その後『経験の歌』が出版されている。『無心の歌』が人と自然に対する歓喜と充ち溢れる生命の純粋・無垢な世界を謳い上げたのに対して、『経験の歌』は、社会的不正と圧制に沈む人々の「嘆きの歌」であった。彼は、対極を鮮やかに提示するのだった。相対主義の時代と言ってよいのかもしれない。そこには、黒人の小さな子供たちや煙突掃除の幼い子供たちを歌った詩が掲載されている。同じタイトルの作品『えんとつそうじ』が両方の歌集に有るのでご紹介したい。


『えんとつそうじ』 経験の歌より


● えんとつそうじ(『無心の歌』より 土居光知 訳 )

母さんが死んだ時私はまだ幼かったが、
父さんが私を売ってしまった 私の舌がまだ、
煤 (すす) そうじ煤そうじとさけぶこともできぬのに。
だから煤はらいになり煤にまみれて眠るのが私のうん。

なかまのトム デイカァ、 羊の背の巻毛のような
髪をそりおとされたとき泣いていたので
私がいってやった、トム気にかけるなよ、
坊主頭になれぁ煤がついていてもお前の髪はよごれまい

トムは静かになったがその晩のことである、
眠っていて大変な夢を見たんだと
‥‥

白い裸の身で、煤袋などみんな捨ててしまい、
雲に乗り 風吹く空であそんだ。
そしてみ使いがトムにいうには よい子になれば
神さまがお父さまになってくだされ、喜びのつきる日はないと。

トムは夢からさめ 私らは暗いうちに起き
煤ぶくろと煤はけを持って仕事に出かけた。
寒い朝だったがトムはうれしそうで寒がらなかった。
みんなが自分への義務をつくすなら何も心配はいらない。



● えんとつそうじ(『経験の歌』より 土居光知 訳 )

雪の町に 小さい黒いかたまりが
「そうじ そうじ」と憐れな声をはりあげて通る。
「おまい 父さんはないか ? 母さんもないか ? 」
「父さん母さんは教会へお祈りにいっているよ。

私 (あたい) は原っぱにいても元気で、
雪のふるなかでも笑っているので、
私 (あたい) に死の着物を着せ
悲しみの歌をうたうようにしこんだよ。

それでも 元気で 踊ったり うたったりするので、
ひどいめにあわせているとは誰も思わず、
私達 (あたいたち) のみじめさから天国をつくる
神様 坊様 王様をあがめにゆくのさ。」

 当時、煙突そうじの子供たちは、およそ4歳から7歳くらいの間に売られた。平均18センチ四方に満たない通風孔を登らなければならなかった。窒息して死ぬものやススによるガンや体の変形に苦しむものも多く、社会的には乞食・浮浪者と同等の扱いだったという。『無心の歌』では、子どもたちの心の無垢が、それも自らにとって破壊的な無知の無垢が描かれており、『経験の歌』では組織的に虐げられた彼らの境遇が、死すべき肉体から逃れることのできない人間の境遇とに重ねあわされているとアクロイドは述べている。彼は、常に虐げられている人々の救済を願わずにはいられなかった人だったし、政治や宗教にもそれを求めた。


T.S.エリオット批評する


トーマス・スターンズ・エリオット(1888-1965)

トーマス・スターンズ・エリオット(1888-1965)


 T.S.エリオットはブレイクについて、彼の作品にみられるある特殊性に関してこう述べた。ホメロス、アイスキュロス、ダンテ、ヴィヨンの詩に散見され、シェークスピアでは深く隠されているのは、ある特殊な誠実である。誠実であることに勇気のない私たちには、それが何か恐ろしいものに感じられる。或る時代、あるいは、或る傾向が不健全であることを示している凡て病的なもの、異常なもの、偏ったものにはこの性格がない。それが存在するは、対象を集約するためのある非常な努力によって、人間の魂の本質的な疾患ないし力を表現することに成功している場合だけであるという。そして、誠実であることを邪魔するものがなかったとしても、裸な人間がさらされる危険があったともいうのである。


●ロンドン(『経験の歌』より 土居光知 訳 )
‥‥
えんとつそうじの少年の呼び声が
黒ずみわたる寺院をものすごくし、
不幸な兵士のためいきが
王宮の壁を血のようにしたたる。 

それにもまして真夜中の街に 私は聞く、
うらわかい淫売婦ののろいが
乳飲み児の涙をからし、
結婚の柩 (ひつぎ) 車に疫病をふりかけるのを。

これが裸のままの見識で、次が裸のままの観察だとエリオットは言う。

● つちくれと小石(『経験の歌』より 土居光知 訳 )

「愛は欲をみたそうとせず、
おのれのことは気にかけず、
他のものに安らかさを与え、
地獄の絶望のなかに天国を作る。」

かく小さな土くれは歌った
牛の蹄に踏まれながら、
しかし小川の小石は
それにふさわしい歌をつぶやいた。

「愛はただ欲をとげようとし
他をおのれが楽しみの犠牲とする、
よろこびは他のものの安らかさをうばい、
天国をふみにじって地獄をつくる。」

 しかし、裸のままの哲学と詩との結婚、つまり『天国と地獄の結婚』は上手くは、いかなかったとエリオットは言う。ブレイクは芸術家に許されている以上に自分の哲学を重視し、それが彼を変わり者にし、作品の形式にそれ程注意を払わないものにさせたというのである。彼の哲学は、器用な人間が、家の中のありあわせの材料で拵えた家具か何かを見たときのような尊敬の念をいだかせはする。だが、彼にはダンテのように神話、神学、哲学の枠が与えられていなかった。それがあれば、より詩に専心できただろうと。それで自分で作らなければならなかった。『天国と地獄の結婚』は、そうした哲学から生まれたのだと。はたして、そうであろうか。


ブレイク『天国地獄の結婚』 1790

 ブレイクの思想が、アグリッパやスウェーデンボリらの神秘主義、ドルイド、カバラ、フリーメイソン、それに加えてヤコブ・ベーメやパラケルススらの思想から構成されているのは、良く知られている。なるほどブリコラージュであったかもしれない。だが、問題はそれらを貫く糸はブレイクにとって何であったのかということではないだろうか。それを理解することなくブレイクの神話・予言書を概観することは不可能なのではないだろうか。次回 part2 はブレイクの未完の作品である『四人のゾア』を中心に、この糸を手繰ってみたいと思っている。





夜稿百話

ブレイクの著作 一部


愛の神の眠っている土堤に
私は身を横たえた
じめじめした葦の間に
泣きつづける声が聞こえた

そこで私は荒れ果てた野にゆき
そこに咲く薊と茨のところに行った
するとそれらは語った、どういうふうにあざむかれ
追い出され、純潔を強いられたかを

『ロセッティ稿本Ⅱ』(小川二郎 訳)

著者の小川二郎 (1904-1981) さんは広島大学の名誉教授であられた。戦時中、空襲で死ぬか、飢えで倒れるしかないと覚悟を決めた時、生死の問題を真剣に考えた。その時、遺書のつもりで敵性言語である英語で書かれたブレイクの「無心と経験の歌研究」を二週間で書き上げたという。昭和二十年のことである。その後、広島に原爆が落ち、街は壊滅した。そして、27年後に再びブレイクを取り上げたのが本書である。

この「ロセッティ稿本」はブレイクのノートブックであり、ダンテ・ガブリエル・ロセッティが手に入れたのでこの名がある。ブレイクの思考法は現実に即し、表現法はメタファーを用いて象徴的だという。ブレイクは失恋もし、生活苦も嘗め、背信にも激怒し、世の陰険をも呪った。この経験もノートブックに書いていた。しかし、私的な抒情に陥らず普遍化したのだと小川さんは述べている。ブレイクには深い信仰があり、生命を害する者を王であれ、僧侶であれ、痛烈に罵倒した。逆に生命を謳歌する娼婦を賛美さえした。王といい、僧侶といい、娼婦といい、全て生命を害する者、あるいは生かす者の象徴として取り上げたと小川さんは述べている。この本から二つ詩をご紹介する。名訳と言える。

『みどり児のかなしみ』

母はうめき、父は涙を流した
危険な世界に私はとび込んだのだ
頼りなく、裸で、大声でわめきながら
雲間に隠れた悪鬼のように

父の手の中であばれ
襁褓 (むつき/おしめ) がいやでさからい
束縛されて疲れて
母の胸でむずがるのがいち番よいと考えた

そんなにあばれても無駄で
むずがっても得はないと分かると
いろんな手管やまどわしをめぐらして
わたしはへつらいほほえみ始めた

で、来る日も来る日もへつらって
庭をさまよえるまでに大きくなった
来る夜も来る夜もほほえんで
ただよろこびを求めておった

そうして眼の前に私は見た
匍 (は) いしげる葡萄の蔓に葡萄の房が光るのを
また彼方には私に向けて
花をさしむけているテンニンカを

しかし尊い面ざしをして
尊い本を手にした僧が
葡萄や花をこぼした者の
頭の上に呪詛を吐きかけた

私は夜その僧を見た
僧は私の輝くテンニンカを抱きしめた
私は昼その僧を見た
僧は私の葡萄の蔓の下に身を横たえていた

昼間は蛇のように
私の葡萄の樹の下に僧は身を横たえていた
夜の間は蛇のように
私の輝くテンニンカを僧は抱いていた

そこで私は彼を打ったのだ
すると彼の凝血がテンニンカの根を染めた
しかし青春の時はすぎ
白髪が私の上にある

(小川二郎 訳)

テンニンカの花 東南アジア原産のフトモモ科の常緑宿物





ブレイク全著作 梅津濟美 (うめつ なるみ) 訳

ブレイクの全著作が翻訳されている労作である。感謝の他はない。特に『ユリゼン第一の書』『ヨーロッパ一つの予言』『四人のゾアたち』『ロスの歌』『アハニアの書』などの予言の書が網羅されているのは有難い。訳はいささか生硬なきらいはあるが、正確な訳に徹しておられるように思われる。安価に、しかも、新品のような古書を送って下さった大学堂書店さんにもこの場をお借りして感謝したい。


『こだまする原っぱ』

お日さまがのぼる、
そして空を仕合せにする。
たのしい鐘たちが鳴って、
春よ よく来たねっていう。
空のひばりとつぐみ、
やぶの小鳥たちが、
もっと声高くまわりで歌う、
鐘たちの朗らかな音に合わせて。
その時ぼくらの遊びも見られるよ、
こだまする原っぱに。

ジョンじいさんは白い髪して
苦労なんか笑い飛ばす、
かしわの下に腰かけて、
年寄りたちにまじって、
その人たちはぼくらの遊びを見て笑う、
ああだったよ ああだったよ たのしみは、
わしらみんなが女の子も男の子も、
わしらの若かったころに見られた時も、
こだまする原っぱに。

とうとう小さなものたちは疲れて
もうはしゃぐことができない
お日さまはかたむく、
そしてぼくらの遊びもおしまいだ、
母さんたちのひざのまわりで、おおぜいの小さなきょうだいたちは、
巣の中の小鳥のように、
お休みの用意ができている。
そして遊びはもうみられない、
くらくなっていく原っぱに。

『無垢の歌』より 梅津濟美 訳






『ブレイク詩集』土居光知 訳

『ブレイク詩集』土居光知 訳

とても良い訳なのでお薦めしたい。その中でも『無心の歌』から印象的な詩を一つ掲載しておきます。

『黒んぼの子供』

かあさんがアフリカのあら野で私を生んだ、
色は黒いが、しかし、たましいは白い、
英国の子供は天のみ使いのように白い、
私は黒くて くらやみの子のようだ。

母さんが私に教えて下さった。
朝のすずしい時木陰にすわり、
私を膝にのせ くちづけし、
東をゆびさし 言われるよう、――

坊やごらん てんとう様のおのぼりを、
神様があそこにいらっしゃる、光と暖かさを
わけて下され、花や木やけものや人が
朝には慰めを、昼にはよろこびを授けられる。

私らがこの世にあるのは暫しのあいだ、
それは愛の光に耐えるようにならんがため。
そして日やけした顔 この黒いからだ
それらは日陰になる雲や森のしげみのよう。

たましいが愛の熱さに耐えられるようになれば
雲は消え失せ 神様のお声がかかる、
「森の蔭から出ておいで、かわいい坊や、
金色のてんとのまわりで仔羊のように喜べよ。」

こう母さんは言って私にくちづけした、
そしてこう私は英国の子供にいう。――
私が黒い雲から あなたが白い雲から抜け出 (い) で
神様のてんとのまわりで仔羊のように喜ぶとき、

私らのお父さまの膝に 喜んでよりかかる時、
その熱さに耐えられるまで あなたの庇 (かば) いとなり、
あなたの傍に立ち あなたの白い髪をなで、
あなたも私もかわりなく、あなたも私を愛するであろうと。





関連図書

ピーター・アクロイド『ブレイク伝』 池田雅之 監訳 蜂巣泉 他訳

ピーター・アクロイド『ブレイク伝』 池田雅之 監訳 蜂巣泉 他訳

今のところ僕の知っている限り、邦訳されたブレイクの唯一の伝記である。かなり詳しい事跡が紹介されているが、ブレイクのヴィジョンに関する掲載が少ないのが惜しまれる。




『エリオット全集 第四巻』
「ウィリアム・ブレイク」収載

エリオットの批評は、かなり辛口なのが分かる。本文のブレイクに関する批評は、本書から引用させていただいたが、誉めているようでもあり、けなしているようでもある。ポーに至っては、かなり厳しいものがあるのは意外だった。




並河亮(なみかわ りょう)『ウィリアム・ブレイク』

この『ウィリアム・ブレイク』は、ブレイクの生涯、詩、預言の書などの比較的詳しい紹介のほか、アグリッパやスウェーデンボリ、ヤコブ・ベーメの神秘主義やパラケルスス思想などの広範な内容がバランスよくまとめられている。

こんな紹介もある。

少年ブレイクが、ウエストミンスター寺院に通う途中にテムズ河の岸に見た奴隷船。やがて、アジア、アフリカの白人支配は終わりを告げ、アフリカ諸国民自身による国家が誕生するだろうと予測した。それは後年、彼の西欧文明の没落の宣言へと発展していくのである。そして、ロンドンの街の空に初めて気球が上がった時、人々の歓呼をよそに、殺戮兵器への転用とそれによる想像を超える惨禍の到来を予感した彼は、思わず身震いした。この直感は2世紀の後に広島・長崎の空に現実のものとなった。こうして、ブレイクの研究の相貌は、第二次大戦後、一変することになるのである。






参考画像

『アリマタヤの聖ヨセフ』サンジャン教会 の 聖墳墓 フランス

アリマタヤのヨセフは、ピラトに願ってイエスの遺体を引き取った義人として知られる。十字架のもとでイエスの血を受けた聖杯を持ってイギリスに渡ったとする伝説があり、また別の伝承では、このヨセフと少年のイエスがブリテン島の西南にあるコーンウォールの錫鉱山を訪れ、錫の抽出と製錬の方法を坑夫たちに教えたと伝えられる。




エマニュエル・スウェーデンボリ(1688-1772)



ダンテ・ガブリエル・ロセッティ『ベアトリスの死』

モデルはジェーン・モリスと思われる。彼女はロセッティのミューズであったが、ロセッティにはエリザベスという妻があったため、彼の弟子のウィリアム・モリスと結婚する。しかしジェーンとロセッティは深い愛情で結ばれており、彼にとっては素晴らしい霊感であると同時に深刻な苦悩の源であり続けた。

ロセッティの妻のエリザベスもまたラファエル前派の作家たちのモデルであり、彼女自身も画家としての創作活動を行っていた。ロセッティの両親の反対から長らく結婚できなかったが、ようやく結婚したものの、健康を既に害しており、長女を死産、夫とジェーンとの関係など、心痛のために自殺したと言われる。ミレーの描いた『オフェーリア』は彼女がモデルである。

ジョン・エヴァレット・ミレー『オフェーリア』1851




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