第11話 山口裕之『映画を見る歴史の天使』 メディアの進化と二つの救済

山口裕之『映画を見る歴史の天使』

山口裕之『映画を見る歴史の天使』

 最近、小学生たちとも、ちょっとした付き合いがあり、ロブロックスといったゲームの話題などにも触れるのですが‥‥ロブロックス ????? という感じなんですね。年寄りには、ついていけない。ユーザーが寄ってたかって作り、参加するオンライン・ゲームのようですよ。多種類のゲームがあって人気のそれには月間1千万人を超えるアクティブプレイヤーが群がるらしい。すごいですよね。しかし、みんな参加型のゲームなので下手な事をすると罵詈・雑言が送られて来て、送られた子はかなりヘコンだりするらしいのです。これって、メディアの進展とその危機なんでしょうか。

オンライン・ゲーミング・プラットフォーム ロブロックスのロゴ

 「どのような芸術形式の歴史にも危機的時代がある。‥‥とりわけ衰退の時代に――生じる常軌を逸した芸術表現や粗野な芸術表現は、実はもっとも豊かな、歴史の力の中心部から生まれ出るものなのである」とヴァルター・ベンヤミン (1892-1940) は『技術的複製可能性の時代における芸術作品』の中で書いている。1930年代後半のことです。ベンヤミンの言う芸術は、メディアという言葉に置き換えた方が分かりやすいかもしれない。いわゆる芸術の「創造性、天才性、永遠性の価値、神秘といった一連の伝統的価値」をも、このメディアの展開のプロセスとして包含していた。


パリ国立図書館におけるヴァルター・ベンヤミン

 僕は、その邦訳である『複製技術の時代における芸術作品』を若い頃に読んで以来なんとか理解しようと努力する中で色々な本と出会ってきましたが、今回の山口裕之さんの『映画を見る歴史の天使』は、ベンヤミン思想の疑問点を氷解させてくれる著作です。とても勉強になりました。特に現代のメディアとの繋がりを考えようとしている点で素晴らしい。

 このメディアの発展とそれに付随するオーラの衰退、身体の原初的知覚の衰退については、前回の第10話 伊藤俊治『見えることのトポロジー』ご紹介しました。今回は、メディアの発展がマクルーハンの言うような歴史的なメディア革命となり、ベンヤミンの言う救済へと繋がっていくのかに焦点が当てられます。芸術/メディアの新たな可能性を追いながら、重大な宿題を後世に残したベンヤミンの思想の根幹を探る山口裕之さんの『映画を見る歴史の天使』をおおくりしましょう。


著者 山口裕之さんについて



山口裕之 (1962-)

 山口さんは1962年のお生まれ。東京大学教養学部教養学科で「ドイツの文化と社会」を学ばれ、同大学の総合文化研究科の修士課程、並びに博士課程を修了され、博士号を取得された。大阪市立大学で教鞭を執られた後、現在は東京外国語大学・大学院国際学研究院の教授であられる。ベンヤミンを中心としたドイツ文学、メディア理論、文化理論の研究者です。

 昨年、僕の東京での展覧会にツェラン研究者の関口裕昭さんと一緒においでいただきました。なんか、豪快な感じの人でしたが、ベンヤミンの研究者という事で、恐縮しながらも僕の耳はダンボのように大きくなっていた次第です。多くのベンヤミン論に隔靴掻痒の感があった僕に本書はさわやかな蒼風をもたらしてくれた。


 著書に『ベンヤミンのアレゴリー的思考 デーモンの二義性をめぐる概念連関』、『映画に学ぶドイツ語―台詞のある風景』、本書『映画を見る歴史の天使―あるいはベンヤミンのメディアと神学』、『現代メディア哲学』があり、訳書にカール・クラウス『黒魔術による世界の没落』共訳、『ベンヤミン アンソロジー』、フローリアン・イリエス『1913―20世紀の夏の季節』、イルマ・ラクーザ『ラングザマー 世界文学でたどる旅』、『ベンヤミンメディア・芸術論集』がある。


メディアの進展 画像/映像と文字と


 フランソワ・ラブレーが印刷プレス機から多量に絞り出される葡萄酒によって大衆を酔わせるのだというアイデアに夢中になってから400年後のことだった。ベンヤミンはイナゴの大群のような文字の群れが大都市の住民たちを覆っているが、今後一層その密度を増すだろうと指摘し、やがて量は質に転換し、新たな形のエクセントリックな形象としてのグラフィックな領域へと進展し、文字の表示内容を一挙に手にする瞬間が来ることを確信していた (『一方通行路』)。その兆候をマラルメの『骰子一擲 (とうしいってき) 』に見た。文字像が星座のように布置されていたのである。文字像/書体という文字の画像性が注目される。音声的な「言葉」が「文字」となった時に失われた文字の魔術性が生き延びているとすれば、文字の画像性の中だとベンヤミンは考えていた。

ステファン・マラルメ 『骰子一擲 』原稿

『骰子一擲 』最初の草稿 直筆原稿


 文字が本来の音響性を徐々に失い、前世紀の未来派、ダダ、シュルレアリスムなどのアヴァンギャルド芸術において、言葉の持っている音響性と視覚性との分離をより先鋭化する実験的な作品やパフォーマンスが行われた。それにも増して問題なのは言葉の記号性、抽象性が急速に高まっていったことだった。フッサールやバフチンが危惧していた問題だったが、これは、文字と言うメディアの特殊性とその歪みと言えた。それが、電子メディアの進展の中で音声的なものに再包含されることによって矯正され、新たな銀河系を構築できるとしたのはマーシャル・マクルーハンでしたね。声の文化/口承文化への回帰です。この言挙げはセンセーショナルだった。それ以前にも、映画という当時の新たなメディアが持つ可能性をバラージュやベンヤミンが指摘していたのは、同じ感慨を共有するものだったのです。バラージュは、ハンガリーの映画批評家・美学者で、最初の著作『視覚的人間』は、エイゼンシュタインにも影響を与えたと言われる。



二つの身体性 現実とヴァーチャル・リアリティー


 絵を描くことは外界を対象化することだった。つまり下の図で言えば異境化Ⅰである。それを呪術・魔術的段階と呼んだのはチェコの哲学者ヴィレム・フルッサーでした。絵というメディアが介在することによって、世界に包まれていた人間は世界との間に間隙を生むことになる。それゆえ、画像の肥大化が世界との関係をより希薄化させ始める。何故、画像の氾濫が人間と世界とを疎遠にするのかは、脳の機能の問題ですが、脳については、また何かの機会にご紹介しましょう。ともあれ、文字の使用は、広く伝搬させやすいというメリットがあった。それが、テクストというコードです。テクストは世界を記述するメディアでした。しかし、それは、画像 (イメージ) を説明するコードを持つメディアであったとフルッサーはいう。


ヴィレム・フルッサー(1920-1999)

画像とテクストとの相関 本書より

 文字は、形態を持つと同時に意味と言う記号コードが組み込まれて世界像をもたらしてくれる。異境化Ⅱですね。フルッサーはこれをコンセプションと呼びましたが、それが積み重なって歴史は形成されると考えられてきた。しかし、これもまた概念化が肥大することによって世界を表象する透明性を画像に続いて二重に失ったとしている。このテクスト性を超えるものとしての映画にベンヤミンは着目した。画像の断片が繋ぎ合わされ構成されていく。ヴィーコは、歴史は単線ではなく、複数の線が対位法的に展開していくものだと考えていたが、そのことはベンヤミンの歴史観にも通底するでしょう。そして、20世紀のテクノロジーは映像と声と文字を再構成するインターフェイスを作り出した。これがハイパーテクストです。

 しかしながら、コトはそう簡単なものではなかった。高度で複合的な画像メディアによって、身体性が回復されると思えたのとは裏腹に、メディアは世界を直接体験するというユートピアから逆に人々を遠ざける。そこには原初的身体性の喪失という疎外感が生じ始めた。フルッサーが「抽象ゲーム」と呼ぶものが、メディアの歴史の中で進展していく。四次元の時空世界からヴィーナスの彫刻や洞窟絵画が、そこからテクストの宇宙として叙事詩ギルガメッシュが、そして写真や映画はデジタル化され0と1とのコンピュテーションの宇宙が現れる。これは三次元+時間という世界からの次元の捨象を意味していた。つまり、技術の進歩が現実のある局面を捨てることで高まってきたのは身体性の喪失であったが、現実のイリュージョンという代替物が増大し始める。ここには相反する現象が見られるのです。

 現在では四種類のヴァーチャル・リアリティー (VR) が考えられているという。⑴ 現実こそリアルでありメディアがもたらす像は仮象であって現実よりも劣ったものと考えられている段階。⑵ 現実を超えたハイパーリアルな視覚や聴覚が新たな技術によってもたらされるが、「現実世界」とは異なる存在モードとして捉えられている段階。⑶ ヴァーチャルな世界が現実的なものを溶解し、人間がヴァーチャルな世界へと逃避する段階。⑷ ヴァーチャルな世界と現実世界の間に全く区別がつけられなくなる段階。

 ベンヤミンのいうリアルは「ヴァーチャル」な現実感を指していると山口さんは言う。彼は、世界を常に二重写しと捉えるアレゴリカーだというのである。技術メディアはこの現実世界の内に散らばるアレゴリー的断片の再構成を技術的に達成するものとして捉えられていた。それは、目に見える世界とは別のもう一つの世界を読み取る眼差しであるという。彼にとって、メディアの重要性は、伝達の手段のうちにあるというよりも、現にそこにある世界を別の時空間のうちに再現前化し、保存・伝達することにあった。再現前化とは、置き換える/言い換える技術なのです。それは広い意味でのアレゴリーを意味する。したがってメディアの進展とは、この世界の再現前化をより精緻なものにしていくことだった。原初の身体性が回復されるのではなく、ヴァーチャルな身体性が獲得されるのです。


拡張現実 (AR) スマートフォンに提示される実際の風景映像とその情報

PlayStation VR VR装置を着けての戦闘機操縦訓練

触覚の復権 視覚優位の凋落


 1960年代にマルクーハンが主張した視覚中心の文字文化から聴覚 = 触覚文化への回帰は、おそらく接点のなかったと思われるベンヤミンの主張と軌を一にしていたことは意外だった。マクルーハンがそこに到達するにあたっては、ある問題提起が象徴的に介在していたといわれる。アイルランドの科学者ウィリアム・モリヌークスがジョン・ロックに提起した、いわゆる「モリヌークス問題」が俎上に上がる。目が不自由で触覚的な認識に頼ってきた人が、視力を回復してすぐに触覚で認識したものと視覚で新たに認識したものが同じものとして認識できるかどうかを問う問題だった。

 ロック、ライプニッツ、バークリ、コンディヤック、ディドロ、ヘルダーの細を穿った見解が紹介されるが、要点の一つは以下のヘルダーの見解だった。視覚は諸感覚の中で最も冷たい理性の側に立つ認識であり、触覚はすべての感覚の根底にあるものだとする見解です。それを敷衍すると、美学は視覚よりも「感触」のうちに打ち立てられるべきものであり、ある形や立体のもつ美しさといったものすべては、目に見える概念ではなく、感じとることのできる概念でなければならないものとなる。これは、感覚のヒエラルキーの転換と言えた。


ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー (1744-1803)
ゲーテにシュトゥルム・ウント・ドラングの文学観を吹き込んだことで知られるドイツの哲学者、文学者、詩人。
 アントン・グラフ 画

カメラ・オブスクラ (ピンホールカメラ)

 その後、ドイツの科学者ヨハネス・ミュラーやヘルマン・フォン・ヘルムホルツによって、感覚は外部刺激によってもたらされるが、その模造としての表れではなく、感覚エネルギーというある種の質や状態を各神経組織にもたらし、感覚器官の質の相違によって異なる感覚が生み出されるとされた。インプットされたものは変質してアウトプットされるという分けである。ここにいたって外部の実在する対像が感覚的に像を結ばせるのだというカメラ・オブスクラの素朴なモデルは大きく揺らいだ。アドルフ・ヒルデブラントやアロイス・リーグルらによって折衷的な見解が現れてはいるけれど、いずれにしても視覚対触覚と言う二項対立的な論であることは間違いなかった。

 そして、話はマクルーハンの「聴覚=触覚複合」のモデルへと移る。彼は、口承文学への傾倒から『グーテンベルクの銀河系』において聴覚を決定的な要素として位置付けたけれど、そこに触覚を無理やり紛れ込ませていると山口さんはいう。例えば、ニュートン的視覚空間は、感覚を裸にして触覚的な共感覚を生み出す感覚間の相互作用を阻害するというジョージ・バークレーの『視覚新論』を引いている(『グーテンベルクの銀河系』「第三次元の苦悩は、『リア王』の‥‥」)。文字文化に対抗するのは、この「諸感覚の相互作用」あるいは「共感覚」なのである。う~ん、ここは素晴らしい。視覚にさえ、距離や位置感覚、方向感覚といったものが介在しているのは見逃されてきた。

 世界を経験するとは、ある感覚によって経験されたメタファーを他の感覚へと置き換えることだが、特定の感覚を拡張するメディアによって、その感覚だけが肥大し、閉じた系をつくり上げると、新技術に晒される人間は、良くも悪くも強烈な反応を示すようになると山口さんは言う。そこに感覚比率の歪みが生じるからである。


 このような感覚比率の転換の行われる時代は、前メディアの衰退時代とも言えた。ベンヤミンが最初の決定的著作『ドイツ悲劇の根源』で扱ったのは、もともと音であった文字が言葉としての生き生きした原初性、名を呼ぶ力を失い抽象性の内に沈み込むことの「罪」なのである。こうした受難としての歴史がバロックの世界解釈の関心であるとベンヤミンは考えていた。



唯物論と集団的身体 メディアとしての集団的知覚と革命


 前から気になっていたことではあるけれど、ベンヤミンが「形而上学的唯物論」と呼ぶ伝統的なマルクス主義と神学 (後に述べる) との関係でどう整合性が得られるのかは、かなり謎な部分だった。友人のアドルノでさえ、ベンヤミンの主張する「人間学的唯物論」というべきものに、ついていけないと漏らしている。ドイツのメディア学者・ベンヤミン研究者のノルベルト・ボルツによれば、通常の唯物論が芸術に対する論拠を欠くことから、それを「美的欠陥」として不完全なものだとベンヤミンは考えていたという。彼は文化的領域にしか興味を持たないマルクス主義者だとハンナ・アーレントの指摘もある。

 19世紀において、個人が反省的意識を先鋭化するのに対して集団的意識は益々深い眠りに落ちていくと彼は考えていた(『パサージュ論』)。第一次大戦後のドイツの混乱からナチズムの台頭は集団的な眠りというべきものをベンヤミンに強く印象付けていただろう。この高度資本主義の時代は、彼にとって現実感のない夢の時代に他ならなかった。その夢から目覚めることは、シュルレアリストたちの言うような現実と非現実と言う二項対立から脱して超現実と言う世界に目覚めることだったのである。これは無意識に沈み込むことではなく、ありきたりの日常的な現実の物の中に見抜きがたいものを認識することだった。アリの眼目線なのである。彼の著作『シュルレアリスム』における結論とは、「技術」が集団的身体を可能にするという事だったという。


 高度資本主義時代の世俗的なイメージ空間は、この技術によって身体とイメージ空間が深く浸透しあい、その結果、集団的・身体的刺激があらゆる緊張へと連なって革命へと発展する。その時、はじめて現実は『共産主義宣言』が要求するレベルになるとベンヤミンは考えていた。ブレヒトと共に歴史的発展の上に、ある種のユートピアが生まれる可能性もあることを『複製技術時代の芸術』においては想定していたと言っていい。映画は良くも悪くも大衆に及ぼす影響は大きかった。観衆はスクリーンに向かって一つの共同体、一つの集団的身体となりうる。リーフェンシュタールのナチス喧伝の例を挙げるまでもないだろう。昨今ではSNSだろうか。
面白いのは、ベンヤミンがチャップリンやミッキーマウスの映画を文明に随伴する抑圧された大衆の心理状態を破壊し、意識を爆発させる笑いの治癒効果を持っていると評価していることだった

 ここにみられるものは、日常の形象が渦のような弁証法的な奇妙な展開 (それはアレゴリカルな展開と呼べるものでもあるのだけれど) によって新たなイメージを生み出し、それが政治的な起爆剤となりうることを意味していた。その新たなイメージをもたらす技術とは、「弁証法的光学」、つまり映画という 当時の新しいメディアと考えられていたのである。ともあれ、ここでは、メディアの進展があらたな魔術 = 救済をもたらす可能性が述べられているのである。



ベンヤミンの神学 秘められたメシアニズム


 ベンヤミンの思想において神学とかメシアニズムと呼ばれるものが決定的な要素となっているのは周知の事実となっている。しかし、明らかに直接的な言い方ではなく「世俗の内に生き長らえさせるように」記述してきたと先ほどのベンヤミンとメディア研究者のノルベルト・ボルツは述べているという。史的唯物論の下に身を潜ませる神学。ベンヤミンは、神学を「小さくて醜く、そうでなくとも人目に姿をさらすことができない」ものと述べているが、この座敷童のような存在が、世間の神学の受け取り方だと考えているのであって、ベンヤミン自身がそう考えているわけではなかったようだ。ユダヤ神秘主義の研究者のショーレムはベンヤミンのことを「世俗的なものに追いやられた神学者」と呼び、アドルノは、その思想を「救済のための神学の世俗化」と呼んだ。しかし、現在では、意外にも焦点が当てられているプロテスタントの弁証法神学だという。

 石器時代の洞窟壁画から映画に至るまでの芸術作品におけるオーラ (アウラ) の衰退は、世俗化のプロセスと考えられた。しかし、オーラに見られるような魔術的・宗教的特質である原初的な力は世俗のうちにも生き長らえているとベンヤミンは考えていた。そのかすかな魔術的な力を読み取り、あらたな形で解き放たれるように働きかけることが彼の秘められたメシアニズムと言ってよかった。同様に言語も堕落してはいても原初的な神の言葉へと、つまり低次な段階から高次の段階へと「翻訳」することが可能だと考えていたようだ。多和田葉子さんが、このような言語の翻訳に興味を持ったことは第七話『パウル・ツェランと中国の天使』で以前ご紹介した。

 新聞や映画のような新たなメディアが大衆を巻き込む政治的な力を持つことに期待する一方で、編集というプロセスによって実現されるモンタージュが、アレゴリー的思考の体現としてべンヤミンには決定的な意味を持っていた。本来無関係なショットを繋ぎ合わせるような非有機的な作業は、オーラを喪失した新しい様式の芸術 (メディア) と考えられるのだが、そこに肯定的な意味を見いだしたのは、とりもなおさず、このアレゴリー的思考の体現という意味合いが大きかったのである。仮想的な身体性の高まりに対応する形で、かつての魔術性の減退とは異なる新たな魔術性が増大していくのではないかとベンヤミンは考えていた (『写真小史』)。 ここには、メディアが新たな政治機能となって、この世界内部において救済へと向かう方向性が語られる。一方で、ベンヤミンの中には異次元の救済と言うべきものがあった。

 それは、奇妙な弁証法、つまり静止状態の弁証法と呼ばれるもので、時間を微分することで得られるような「認識可能性のいま」と言うべきものだった。刹那滅の瞬間に凝固する時間のイメージと言われる。それは「永遠化する記憶」であり、エルンスト・ブロッホのいう「想起」であり、ジョルジョ・アガンべンのいう「短い時間」だった。これに対して空間は連続的である。弁証法は対極的な契機が時間の中で止揚されるものであるが、べンヤミンの場合は異なる次元の内に現れると考える。映画で言えば、映像の断絶の中で起こるショックであり、それをブレヒト的な演劇で考えれば、「身振り」ということになり、モードで示せば「パサージュ論」となる。

 身振りは、演技の時間の中での停止であり、物神としての商品はモードの中の停止と言えまいか。こういった身振りや商品と言った些細な出来事や事物のアレゴリー的形象が弁証法的な渦の中から星座的な布置として現れ、見える時、この静止した時間のうちに凝固された救済は可能になると彼は考えていたのではないだろうか。そのアレゴリー性を喚起するものが新たなメディアであるという分けなのでしょう。時間の一瞬一瞬はメシアがそこを通過するかもしれない門であり、空間的にはアレゴリー的形象が閾や門という事になる。この弁証法的展開の真の基盤がどこにあるかは、次回のディディ=ユベルマンの著作『時間の前で』でご紹介する予定です。


歴史の天使 没落への突入と異次元的超越


 ベンヤミンの友人であったショーレムはこう書いていた。「救済は‥‥決して世界内的諸発展の結果ではない。救済はむしろ、歴史の中への超越の突入――その中で歴史そのものが没落する突入であり、この没落の中で確かに変化するものなのである。(『ユダヤ主義の本質』)」外部からの超越的な力によって世界が破局を迎えた時、救済が起こるという。ハルマゲドン後の救済というイメージはベンヤミンのそれと通底しているかのように見える。

 しかし、山口さんは、ベンヤミンは超越が、この目に見える世俗の内にではなく、精神的な不可知の内在的領域で起こると考えているという。そこにキリスト教神学との類似を見た。それは『ドイツ悲劇の根源』にある基盤だったからである。カール・バルトの「弁証法神学」がクローズアップされる。

 バルトのいう世界は、神との一致から脱落したために救済を必要としている人間と時間と事物の世界であり、この既知の世界に別の未知の世界、つまり父の世界が交差することによって、そこに根源における創造と終焉における救済が全く異質な次元に起こるというのです。これは、悟りに近いものと考えて良いかもしれない。

 「ベンヤミンにとってアレゴリーとは、本来的に『神の世界』の領域にあるものが、この『歴史』のうちに姿を現すときの形式である」と山口さんは述べている。つまり、超越的な世界がこの世界の内に一瞬顕現する。その瞬間は、かつて、それが存在した時代のコレスポンダンス (万物照応) が想起される日付になっているという。ベンヤミンのアレゴリー的形象は、時間の流れる歴史の世界の中に置かれたものであると同時に無時間的な根源を指し示す。その瞬間が空間化される「静止状態」なのである。このアレゴリー的断片が超越の欠片 (かけら) という分けである。

 こうしてみると、ベンヤミンは、死の天使から見た世界の終焉=破局的歴史の中で、そこからの救済を二重の方法で考えていたことになる。一つは、新たなメディアを媒介に唯物史観的な現実世界の望ましい進展といったポジティブな意味での救済であり、もう一つは、閃光がひらめくようなプロテスタント的内的異次元の救済である。この二者を繋ぐものはアレゴリー的世界観から止揚される世界の救済ということになるのだろうか。アンガス・フレッチャーの言うようにアレゴリーは、ふたつの敵対する対等性を強調し、闘争と前進という二つの基本形に回帰する傾向があるらしいのだが‥‥(『アレゴリー』)あるいは、内的救済の広がりが、やがて社会的な救済に繋がると考えていたのかどうかは分からない。

 「サイバーパンク」のはしりであったウィリアム・ギブスンやヴァーナー・ヴィンジの小説にあるような脳とヴァーチャルの仮想情報が直接結びつくようなあり方が有ろうとはベンヤミンの時代には思いも及ばなかった。それは、新たな魔術の出現と言ってもいいものになるでしょう。しかし、アレゴリカー的思考を可能にすると考えられたメディアがそのような究極の進化を遂げた時、ベンヤミンの言う二番目の救済は成就するのだろうか。それは何とも言えない。何故なら彼の救済は人間を夢の状態から別次元へと目覚めさせる転移であり、それは意識的なものだったからである。そうなら、仮想現実とも現実ともつかない状態からの次元突破をどうするのか、そこに魔術的・宗教的超越を求めることが可能なのだろうか。


 ここで『歴史の概念について』で描写されるクレーの『新しい天使』が思い出される。天使が見ているのは、人間が幸福を求めながら瓦礫の山を積みあげ、それが天まで届こうとする進歩と言う名の出来事が連鎖する嵐だった。その天使が、映画といわず、ヴァーチャル・リアリティーの勃興する現在の世界を見つめているのです。それをどう思っているのかは計り知ることができない。

パウル・クレー『新たな天使』1920

パウル・クレー『新しい天使』1920



夜稿百話
山口裕之 著作  (一部をご紹介)


『現代メディア哲学』
ベンヤミン複製技術論を援用しながら、とりわけ、メディアの政治性やハイパーテクストにかなりのページを割いている。その方面に関心のある人にはお勧めの著書。

山口裕之 翻訳書 (一部)


イルマ・ラクーザ『ラングザマー 世界文学でたどる旅』
多言語を操り世界中を旅する著者が読書のゆっくりで豊かな時間を語る著書。ラングザマーはドイツ語の「ゆっくり」の比較級。

フローリアン・イリエス『1913―20世紀の夏の季節』
1913年の1月から12月までのそれぞれの月のアヴァンギャルド芸術や文学のメルクマールを人・場所を横断して記述する。微視的な歴史がモンタージュされるようなテイストを持つ作品。お薦めです。


アスタ・ニールセン (1881-1972)1915 デンマーク、ドイツの映画界における人気女優。

「当時、最も有名な出版社社長だったザムエル・フィッシャーもまた、アスタ・ニールセンが大衆の心をつかむさまを目にして、驚嘆の思いを強めていた。彼は映画のうちに未来のメディアを見てとり、自分の出版社の著名な作家たちを説き伏せて、将来、映画の脚本も書いてくれるようにと働きかけていた。」

フローリアン・イリエス『1913―20世紀の夏の季節』より

関連図書


ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』「写真小史」収載
ステファン・マラルメ全集Ⅰ

マラルメ全集Ⅰ 詩・イジチュール
マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』

マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』
本文をご参照ください。
ヴィレム・フルッサー『テクノコードの誕生』

ヴィレム・フルッサー『テクノコードの誕生』
本文をご参照ください。

アンガス・フレッチャー『アレゴリー』

アレゴリーの嵐とでも呼ぶべき著作。フレッチャーが純粋のアレゴリーと呼ぶシェークスピアの詩『不死鳥と山鳩』を挙げておきます。

本質が破壊された[appalled]ので
自己は元の自己と違ってしまった
単一の性質のもつ二重の名は
二つとも一つと呼べなかった。
「理性」はそれ自体破壊されたが
離れている二つのものが一つになるの見た
両方とも自分でなくなり
成分がよく調整されたので

この時「理性」は叫んだ――この調和した一つのものは
何という真のつがいだろう!
成分がそういうふうに結合して残るなら
愛には理性があり理性には何もない。
(西脇順三郎 訳)

バラージュ・ベーラ『視覚的人間』

「今や映画は、文化を根底から転換させようとしている。何百万人もの人間が毎晩映画館に座って言葉の助けを借りることなく人間のあらゆる種類の運命、性格、感情、情緒を眼を通して体験している。‥‥全人類は今日すでに何度も忘れ去られた表情や身振りによる言語を再び習得しようとしている。‥‥人間は再び眼に見えるものとなる。(『視覚的人間』より)」

ヨーエ・マイ監督『愛の悲劇』1921
(『視覚的人間』より)

バラージュの『視覚的人間』に紹介されているグリフィス監督のサイレント映画『イントレランス』の場面。1916

ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』

大学教員の資格取得を目的に書かれた著作で、アレントは「資格審査に関係した紳士方が、後に、この仕事を一言も理解できなかったと語っているとすれば、それは掛け値なしの本音と受け取ってよかろう」と述べた筋金入りの著作。

「寓意においては歴史の死相が凝固した原風景として見るものの目の前に広がっている。‥‥人間存在そのものの本来の姿ばかりでなく、一個人の歴史性が、自然のこの最も荒廃せる姿の内に、意味深長な謎として現れているのである。これが、寓意的見方、歴史を世界の受難史としてみるバロック的世界解釈の核心である。(同書より)」
ヴァルター・ベンヤミン『歴史の概念について』

ヴァルター・ベンヤミン『歴史の概念について』
歴史の天使が登場する未完の草稿。大部の評注が掲載されている。

柿木伸行『ヴァルター・ベンヤミンー闇を歩く批評』
危機の時代を生きた思想家ベンヤミンの言語・芸術・歴史に関わる思想の展開を追う著作。

多木浩二『ベンヤミン 「複製技術時代の芸術作品」精読』
『複製技術時代の芸術作品』について分かりやすく解説されている好著、お薦めしたい。

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