ツェランの詩は、どうしてドイツ語の外側にある異質な世界に視線を飛ばすことができたのだろう。(『カタコトのうわごと』翻訳者の門――ツェランが日本語を読む時)
ツェランの日本語訳の詩集『閾 (しきい) から閾へ』を貸した知人から彼は門構えの作家だねと多和田さんは言われた。その詩の冒頭にこんな言葉があった。
僕は聞いた、水の中には
石と波紋があると、
そして上方には言葉があって、
それが石のまわりに波紋を描かせていると。
ぼくはぼくのポプラが水の中に降りて行くのを見た、
ポプラの手が水の奥をつかもうとするのを見た、
ポプラの根が空にむかって夜をねだっているのを見た。
‥‥‥
(飯吉光夫 訳)
多和田さんは、こう書く、「『聞』という字は、門の下には耳がひとつ立っている。聞くというのは、全身を耳にして境界に立つということらしい。(『同上』)」これを読んで、僕はドキッとして心臓がドウキをウッた‥‥わざと過ぎましたね、失礼しました。しかし、これは本当です。ハイデッガーは、『ヒューマニズムについて』のなかでこう述べている。「言葉は存在の家である。言葉という住居の中に人間は住む。思惟しているもの、作詩しているものは、この住居の番人である (小磯仁訳)」と。言葉の家の閾 (しきい) に立って耳を澄ませている者が詩人なのです。そして多和田さんはツェランの詩を引用しながらこう続ける。「『ぼく』は水の中に入っていかず、閾のところに踏みとどまって、魔法の遊戯を始める。(『同上』)」
さあ、新春から多和田葉子さんの待望の新刊『パウル・ツェランと中国の天使』について書ける。こんな恭賀新年もあるんだなあ。翻訳者の関口裕昭さんが送ってくださった本だ。関口さんは、日本におけるツェラン研究の第一人者だし、多和田さんは、ご自分の著書にツェランは私が最も尊敬するドイツ語詩人とはっきり書いておられる(『エクソフォニー』)。これ以上の取り合わせはないんじゃないのかな。それに、関口さんによる「訳者エピローグ」も最高だった。
僕が彼女の作品を最初に読んだのは『献灯使』でした。東日本大震災後の歯車が逆回転したような日本社会が描かれていて、その発想の新鮮さに驚くとともに、その中に散見される言葉遊びに何か救われた印象もあった。しかし、この一見地口のように見える所作が、実は彼女の文学にとって一つの重要な鍵となっている。それが、一体何を意味するのか。本書では、全貌を現した感がある。今回は、その秘密に迫ってみたいと思います。
著者 多和田葉子さんについて
多和田葉子 (たわだ ようこ) さんは東京都のご出身。小学校に上がる前に国立市に引っ越した。建設されたばかりの団地だったという。やがて、『犬婿入り』に登場する団地のような佇まいになったのではなかろうか。国立は自分にとって架空の町のようで、東京のことは何も思い浮かばないらしい。21歳の時に早稲田大学第一文学部ロシア文学科卒業、インドに旅立ち強烈な色と匂いと熱気で石やブリキ缶などが皆生きているような錯覚に陥ったという。イタリアや旧ユーゴを通ってハンブルクに到着。青春の放浪の旅ですね。書籍の取次や輸出をしているグロッソハウス・ヴェーグナーという会社で働き始める。新たな印象が押し寄せてきて、しばらく日本語が書けなくなったという。
彼女は「美しい日本語」だの「上手な文章」など当てにならない観念で、そういう日本語が一度崩れることが必要だったし、そういう場所がドイツだったという。最初から、かなりラディカルだったのです。
1988年初めてドイツ語の小説を書いた。1990年にハンブルグ市奨励賞、翌年『かかとを失くして』で群像新人文学賞を受賞し、1993年には、『犬聟入り』で芥川賞を受賞した。その後も数々の受賞に輝く。2001年、ドイツの永住権を取得、チューリッヒ大学大学院博士課程を修了しドイツ文学の博士号を取得した。2006年にベルリンに移っている。著作はドイツ語でも20冊以上出版されていて、本書『パウル・ツェランと中国の天使』もドイツ語の著作だ。2005年には、ゲーテ・インスティテュートより、ドイツ人ではない芸術家によるドイツ文化への貢献を賞するゲーテ・メダルが贈られ、2016年にはドイツで最も権威のある賞のひとつであるクライスト賞を受賞している。
パトリックとレオ=エリック・フ―
主人公は、常に左側の通りを行き、左に路を曲がるパトリック (Patrik) 。世間に聞こえた研究所に独立した研究員として定職を持っていたが、彼も詩人ツェランと同じように精神を病んだ。彼の名は、ツェランのファーストネームであるパウル (Paul) と息子エリック (Eric) の融合形かもしれないし、患者 (Patient) との音の類似もあると関口さんは注に書いている。この主人公はツェランの研究者で、自らを患者と呼ぶ。彼にとって私という言葉は牢獄であり、その牢を開ける鍵を自分は持っている。鍵穴は耳穴であるが解放には痛みを伴う。この作品でもそうだけど、多和田作品には時々、歌手が登場するのも意味がある。人が沈黙すると音楽が聞こえてくる。この女性歌手は我慢できなくなって木の上で歌うという。
パウル・ツェラン(1920-1970)
ウクライナのチェルニウツィー出身のユダヤ人詩人。両親をナチスの強制収容所で失い、彼も労働強制収容所に収監されていた。解放後パリで詩人として活躍したが、作品を盗用したとして冤罪を着せられ、無実は証明されたものの精神を病み、セーヌ川に投身自殺する。ユダヤの同胞の死を悼む詩で名高い。母の言葉であるドイツ語で詩を書いた。
もう一人の重要な登場人物は、レオ=エリック・フー。杜甫(ドゥ・フー)のフーであり Who? でもある。彼は、カフェでパトリックがツェランの詩集『糸の太陽たち』を読んでいたのが気になった。フーの祖父はパリで中国医学の開業医をしていた。ツェランが生きていた時代である。このインテリ風の男は、もしかすると北朝鮮の出身で、巨大なデータバンクと繋がった特殊なコンタクトレンズを装着しているんじゃないかとパトリックは疑う。フーの祖父は何ヶ国語も話せた人で、遺稿の中にツェランの詩についての覚書があった。こうして、パトリックとフ―の一見、カオティックな会話が始まるのだが、彼は、パトリックの精神的な危機を救う天使となるかもしれない。そのやり取りはツェランの詩の絵解きであり、多和田さん自身の新たな創造言語の開示となる。例えば、こんな感じです。
分解されるアルファベットを繋ぐ経絡
それでは、パトリック (P.) とレオ=エリック・フ― (F.) との会話を端折ってご紹介します。
P. どの母音も決まった感情を呼び起こす。ドイツ語のUは威圧的で怖い。
F. 同時にそこには信頼感がある。「きみ Du/きみ」という言葉にはUが理想的に融合している。
P. Dはどうか? Duの中の動じないDは同志にとって都合がよいか?
F. Dは多くのギザギザと輪郭を持った洞察からできている。「思い浮かべよ (Denk dir) 」という語は、ツェランがその詩集『糸の太陽たち』の最後の詩の中で4度繰り返している。 (Denk dir) に二度繰り返されるDとd、それは棘 (Dorn) と有刺鉄線 (Draht) であり、棘は痛み、有刺鉄線は自由の剝奪を意味する。六日戦争はツェランに湿原兵士を呼び起こさせた。ツェランは友人のフランツ・ヴルムに戦争の連鎖を最後まで考えたくないと手紙に書いている。彼の死後50年を経てもその戦争は終結していない。
P. 政治的な詩だと言うのか?
F. そう、でも文字が主人公だ。DenkとDirにあるDはどんな行為も対象なしに自発的には行えない。自分は自分の死を死ぬのか、対象を持たずに死ぬのだろうか?
P. 生きるという動詞はどうか?
F. 人は生きるためにある場所に住まなければならない。両手と犂とで重労働に従事しなければならない。Dという綴りは、手 (Hand) にも地球 (Erde) にも含まれる。このような努力の果てに何処にも居場所はなく、身体を奪い取られる。土に埋葬されることもない。この全てが思索するDを含んだ詩 (Gedicht) の中にある。
この会話でも、単語を分解し、そこから文字を抜き出して関連する語感やそこから生まれるイメージに迫ろうとしていることが分かる。ツェランの詩を本歌取りとして語感が繋げるイメージ連関があることを主張していると言っていい。六日戦争はイスラエルとアラブ側とが戦った第三次中東戦争のことで、ツェランの詩集『糸の太陽たち』の最後の詩とは、こんな詩だった。
思い浮かべよ
思い浮かべよ――
マサダの湿原兵士が
己の故郷を取り戻す、
決して消去されない方法で、
あらゆる有刺鉄線に逆らって。
思い浮かべよ――
姿もなく眼のない者たちが
お前を擾乱の最中にたやすく導く、
お前は強くなる、
強くなる。
思い浮かべよ――お前
自身の手が
再び生の中へ
傷つきながら
上ってきて、
住むことのできる土地の
欠片 (かけら) を
掴んだ。
思い浮かべよ――
それは私に近づいてきた、
名前に目覚め、手に目覚めて、
永遠に
埋葬されないものの中から。
(関口裕昭 訳『評伝 パウル・ツェラン』より)
「マサダの湿原兵士が己の故郷を取り戻す」とは、Asso (共産主義芸術家協会) のメンバーだったヴォルフガング・ラングホフ (1901-1966/ドイツの俳優及び演出家) がベルガーモーア強制収容所の体験を詠った『湿原兵士』という作品を指していて、「われらは湿原兵士/犂を担いで湿原に行く」という強制労働の様子を1933年に綴ったものだった。死海のほとりにあるマサダは73年にローマ軍に包囲され、子女を含めたユダヤ人一千人が自害した要塞の名で、故郷を取り戻すとは六日戦争でのイスラエル側の勝利を暗示している (関口裕昭『評伝 パウル・ツェラン』)。詩の最後の「名前に目覚め、手 (Hand) に目覚めて、永遠に埋葬されないものの中から」という詩句の中に地球 /大地 (Erde) が暗示されてもいる。
六日戦争(第三次中東戦争) エルサレム市街 神殿の丘入り口に向かうイスラエル軍
1921年の白リン弾の実験 戦艦アラバマに投下された写真
今度のウクライナでもロシアによって使用された。
そして、多和田さんは、フーに「白い糸を空中に飛び散らせる特殊な爆弾を思い浮かべる」と言わせることによって、この戦争で使われた爆弾 (白リン弾) と「糸の太陽たち」という詩題とを結び合わそうと考えたようだ。パトリックは、自分の心臓を戦闘用の爆弾の秒針にあわせて鼓動させたりしない、自分の器官を制御する他のシステムが必要だとしてフ―に心臓の経絡について尋ねる。フーは、主要な支脈は心臓から肺に向かい、上腕から肘へとつながり掌で終わると経絡の説明をした。心臓と手の繋がり。言葉も経穴を繋ぐ経絡のように生きて働くものだということを暗示させているのである。
明の時代の鍼灸図 手の厥陰心包経
(てのけついんしんぽうけい)
言葉と体と糸かけ曼荼羅
パトリックとレオ=エリック・フ―との会話は続いていく。パトリックが、空間が独り立ちして、私を攻撃すると言えば、フーは、君はツェランについて書こうとしているけれど繊細だから、その詩的な脅威が私生活にも反映するのだ、それは偉大な芸術の反映なのだと返す。そして、パトリックは、僕が詩について書かなくなってから詩が僕の中で書いているけれど、それは外国語のようなもので眠りと外国語について探求しなければならないと言うとフ―は眠りの中で抒情詩と関わるのは危険だ、むしろ生きた学問に取り組むべきだと返す。このようなやり取りの中でパトリックは、若くて才能のある人を救いたいとも言うフーが上空から町を眺める天使のように思えてくる。
パトリックは続ける、今でも、この地球上に死者たちが棲息している、彼らの歌が美しいわけではないかもしれないけれど聞く価値はあると言うと、フーは死んでいない君は何を歌いたいのかと尋ねる。数字を手掛かりに進むという、目、髭、歯、心臓、首、手、粒よりの胡桃類を冠詞も、所有代名詞もつけずに披露すると返事する。フーがそれらをどこで見つけたかと聞くので、パトリックは、『糸の太陽たち』の中でと答え、最初の僕の計画はバラバラになった詩人の身体部分を太陽光線の縒り糸で再び元に縫い合わせることだと答えるのである。これは多和田さんの本書における糸/意図でもあるだろう。二人は、時に声をそろえて笑うようにもなる。
ある朝、点いたばかりの友情の灯を消さないようにとフ―に逢おうとしてパトリックは中国文化研究所に電話するが、そんな者はいないという返事が返ってくる。地下鉄の駅に戻る途中で偶然、喪服のような服装のフーに出会う。彼らは、チベット料理の軽食堂に入る。そこで『糸の太陽たち』に至る重要な詩である詩集『息の転回』に収録された「どんな砂の芸術もない、どんな砂の本もない、どんなマイスターもいない」という詩に話題が移った。
どんな砂の芸術もない、どんな砂の本もない、どんなマイスターもいない
無が投擲される。いくつの
沈黙の声?
十七。
あなたの問い――あなたの答え。
あなたの歌、それは何を知っているのか?
ゆきのなかふかく、(Tief im Schnee)
きのなかく、(Iefimee)
きーいーく。(Iーiーe)
(関口裕昭 訳『翼ある夜 ツェランとキーファー』より)
ここで、フーは最後の「Iーiーe」について解説し始めた。それは、日本語の「いいえ」なのだと。関口さんによれば、ツェランは俳句に興味を持ち、蔵書に俳句のアンソロジーもあったという。フーの解説によれば、ツェランの精神病を治療した一人にウクライナ出身のフェルデンクライスがいて、彼は川石酒造之介 (かわいし みきのすけ) に柔道を習っていた。そこからフェルデンクライス・メソッドが開発された(「無意識に行っている体の動きや感覚に注意を向けて観察し、少しずつ新しい動きを試すことで、選択肢を増やし感覚能力を高めて、より効率の良い動き方を選ぶ方法 (フェルデンクライス・ジャパンより)」。)フーは、それをパリに住むマサという女性から聞いたという。彼女は糸かけ曼荼羅についても語ってくれる。それは、ルドルフ・シュタイナーが素数を学ばせるためにシュタイナー学校での教材として取り入れたものだけれど、この「糸の太陽」は日本でも鬱病にたいする治療に使われているというのだ。ツェランがその治療を受けた訳ではない。しかし、精霊たちは、いつも色彩豊かな多言語の糸を私たちの頭上に張り渡していて、私たちは、生得的なある姿勢を決して直すことができないように彼らの行動を制御できないとフーは語るのである。
話の後、フーはパトリックにパリ行の航空券のEチケットのコピーを渡す。それはパトリックがパリの学会へ行く途中事故にあうことになった飛行機のチケットだった。犠牲者の17人の内の一人にパトリックも含まれていることを報ずる新聞が、彼の机の上に置いてあったのを彼はフーに会う前に読んでいた。こうして小説は、またしても主人公が風にさらわれたかのように、あっけにとられた読者を残して不思議に終わることになる。
しかし、今回は関口さんが、多和田さんの許可を得てパトリックが学会に出席するというプロローグを創作しておられる。とても面白いから、この関口小説も是非ご覧になってみてほしい。ともあれ、この『パウル・ツェランと中国の天使』は、ツェランの詩に関するある程度の知識があれば、たまらない小説だけれど、それがないと深くは理解され得ないかもしれない。関口さんのツェランの評伝などと併せてお読みになるとよい。そういう意味では「ツェラン文学×多和田文学=読者の創造」という定式になっていて関口小説もその答えの一つになっているということなのである。
本書のカヴァーにある糸かけ曼荼羅 吉川あい子さんの制作
エクソフォニー/言語の鎖を解きほぐす
外来語の翻訳漢字である日本語の「解説」という言葉を「ときあかす」にすると「とき」は「時」にもなれ「朱鷺」になれるし、「あかす」は「明かす」にすれば、別の語感とイメージに変貌させられるが限界があると多和田さんはいう。中国語を見聞きすると別の「ずれ」を感じたという。「めまい」のことを「眼花繚乱」というらしい。これなどは、脳内に閃光が走るような新鮮さを感じさせ、慣習的に単語を自動的に縛っていた鎖が切れて快い笑いさえも生まれるという。(『エクソフォニー』「北京―移り住む文字たち」)。
90年代を代表する文学とは作者が母国語以外の言語で書いた作品だろうと彼女は言う。「母語の外にでること=エクソフォニー」である。それは、新しいシンフォニーに耳をかたむけることだった。オペラ・演劇、高瀬アキさんとの朗読パフォーマンス、多言語や訛りを取り混ぜる演劇集団「らせん館」などと彼女の関わりを窺わせるのだ。それはともかく、文学とは「言語の可能性とぎりぎりまで向かい合う事であり、そうすることによって記憶の痕跡がたくさん活性化され、古い層である母語が今使っている言語をデフォルメするかもしれない 」と彼女は言う。自分は多言語の集積なのだと (『エクソフォニー』「ハンブルク」)。それは、脳の働きの問題として考えることができるけれど、そこに言葉遊び、地口や言葉のインバージョン、言い換え、組み換えといった言葉の脱構築が闊歩しはじめる。
地口や言葉遊びの面白さを教えてくれたのは、まど・みちおさんの詩や、その影響を受けた谷川俊太郎さんの『どきん』などだが、「ナンセンス詩人のことばのゆりかご」と形容されたクリスティアン・モルゲンシュテルンも思い出され、引いてはフランソワ・ヴィヨンまで遡れば行き過ぎだろうか。多和田さんにもそんな詩集がある。或る詩の一部をご紹介します。地下って言いますが、以下の詩にミスプリはありません。
多和田葉子 詩集『シュタイネ』
「ウーバーン (地下鉄か)」
乗ってください、美って
ドアです それは
しまんまりましてから
ごっとん走り出しまする
車内に
片手が
落ちている
雪の結晶を編みこまれ
捨てられた毛糸の手
一生家に戻ることなく
次の駅はブンデスプラッツです
環状線にお乗り換えできます
雨人間たちは水平視線のまま
乗り混んできて
濡れた靴底が
紺色の手を踏む ふむ ふむ
電車とホームの間に地獄があります
によって気をつけてください、*ビッテ、美って
‥‥
*ビッテ (bitte) はドイツ語で、「どうぞ」、あるいは、「おねがいします」、「今どう言いましたか」などの意味がある。
拡散する言葉と原言語
多和田さんはツェランの詩を読めば読むほど日本語の中を覗き込んでいるような気がするという。未来から原書にむかって投げかける翻訳者のまなざしを感じ取っているかのようだと。ツェランが日本語をよく知っていた訳ではないかもしれない。それは、ツェランが未知の言語を読み込む能力があったからに違いないと言うのである。その作品は読むたびに通り抜けていく門であると。関口さんの「訳者解説」には、ツェランと多和田さんとの邂逅のより詳しい説明があるのでそれをお読みになるとよい。
ヨーロッパの詩は音中心だと言われる。しかし、ツェランの詩は映像的な発想がしばしば見られるとも多和田さんは言う。映像と言葉の音とが未分化な共感覚のような世界もありうるのか? 彼の言う「詩人はたった一つの言語でしか詩は書けない」という時の「一つの言語」とは、ベンヤミンが翻訳論で述べているところの、翻訳という作業の中で多くの言語が互いに手をとりあって向かっていく一つの言語というべきものに近いのではないかというのである。だから、多和田さんは、複数の言語で書く作家だけに興味があるわけではないという、母語の外に出ていなくても、そのものの中に複数言語を作り出すことで「外」でもなく「中」でもない言葉が生まれるというのである(『エクソフォニー』)。
井筒俊彦 (1914-1993)
30以上の言語を話す語学の天才と言われた言語学者、イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者。エラノス会議のメンバーだった。
どうも、ここまで来ると僕は井筒俊彦さんの言語阿頼耶識仮説と彼が呼ぶもの(「密教体系 第12巻 密教と文化」より「意味分節の理論と空海」)を連想してしまう。言葉の異次元バーコードと僕が名付けたものだ。多和田さんの鋭敏な耳は、元々多言語の、そして難民の押し寄せるヨーロッパで、多様な言葉の音に触れ、音と意味のズレが多層レイヤーになっていくのを感じていたことは間違いない。井筒さんは、言葉には、実際に使われている多様な言語の本源に一つの言葉と言えるようなものがあるのではないかという。本当の詩とは、そのような言語を垣間見せるものではないのかと。
多和田さんの言葉遊びが単なる冗談ではないということが分かっていただけたのではないだろうか。彼女の作り出す言葉は、拡張へと解放へと益々進んでいくことだろう。そこに経絡を発見できるかどうかは、読者の創造性にゆだねられている。閾 (しきい) のところに踏みとどまって、魔法の遊戯を始めなければならないのは読者なのである。ここには新たな文学の方向性が示されているのかもしれないのだ。そうなら、彼女の文学の展開からは目が離せない。
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