第18話 ガブリエル・タルド『模倣の法則』差異と反復のアセンブル


ガブリエル・タルド模倣の法則



 文明が、女性や農民を大きな社会集団の中に組み入れようとした。この変化によって農民がこの世から消え、子供を養う母や乳母がこの世から消えてしまう時代が来るだろう。自分のような悲観主義者は、そう予想して心を痛める。人々が社会圏の拡大を望んだのは、男性に女性が同化することや、都市生活者に農民が同化することが、社会にとって不可欠な条件だったからである。このようにタルドは述べている (本書より)。1890年のことだった。

 忘れ去られた社会学者タルド、現在完了形の社会学者デュルケームと、かつて言われた。しかし、ジル・ドゥルーズが『差異と反復』で、タルドを最後の偉大な《自然》哲学者と呼んだあたりから、俄然タルドの再評価が始まる。タルドは、「差異」が宇宙のアルファであり、オメガである (『モナド論と社会学』) と述べたのである。やがて、1999年からタルド著作集が刊行され始め、ドゥルーズの教え子だったエリック・アリエズやタルド著作集の編集者らが雑誌「マルチチュード」で、その思想を紹介し始めるやタルド・ルネサンスが到来した。そして、マウリツィオ・ラッツァラートの『発明の力 ―― 政治経済に抗するガブリエル・タルドの経済心理学』以降、経済心理学の分野で注目され、さらに人類学の分野で、ブルーノ・ラトゥールがタルドをアクターネットワーク理論の先駆として評価したのである。

 タルドは、物理界、生物界、社会界に存在するものを社会として見ようとする。「あらゆるものは社会なのである」という。その点で、ネオ・モナド論と言われることがあるけれど、御本人も形而上学と考えていたようだ。ライプニッツが提唱したモナドは、精神的な最小単位のことで唯物論におけるアトムに相当する。その形而上学の骨子は次のようなものになるだろう。三つの社会が程度の差はあれ、一つの共同体であり、社会性=模倣性に基づいているということ。その模倣は信念と欲望という作用に要約できること。これら信念と欲望は計量可能なものと考え、統計学の基礎付けに使えるのではないかと考えていたことである。

 彼は社会を構成する要素が個人ではなく、意識を持った存在が他者への作用によって起こる意識のコミュニケーションまたは変容であると考えていた。そして、社会状態とは催眠状態と同じように夢の一形式であり、「強制された夢、行動している夢である」とも言う。「暗示された観念をもっているだけなのに、それを自発的観念と信じており、このようなものがまさに、社会的人間に固有な錯覚である」というのである。


著者 ガブリエル・タルド



カブリエル・タルド(1843-1904)


 ジャン=ガブリエル・タルドは1843年フランス南西部のサルラに生れている。フォアグラやアヒルといった家禽、タバコの産地として知られている街だ。マルロー法によって往時の景観が保存されたことでも知られ、観光も盛んだ。現在では、近隣と合併してサルラ=ラ=カネダという名前になっている。



 父は軍人で後にサルラの判事を務めた人だった。タルド家は名家であり、祖先の中にはアンリ4世に仕えた司祭・歴史家・天文学者であったジャン・タルドがいたというし、母親の方も、父親がサルラの市長を務めたようなやはり名家の出だった。その母は19歳の時に25歳も年上だった夫、つまりタルドの父と結婚したが、28歳の時に寡婦となり、女手一つで一人息子を育てることになる。タルドが7歳の時のことだった。数学が好きで高等理工科の数学科へ受験することを希望したけれど19歳ころから眼の病気のため諦めざるをえなかった。一時は、本を母親に読み聞かせてもらっていたほど症状は重かったという。

 青年期には、文学青年たらんと詩人への道も夢見、その嗜みは晩年まで続き、社会学者のデュルケームから「文学者」と悪口されたりしている。また、数学者・経済学者のオーギュスタン・クールノーに耽溺し、その思想は後の著作に影響を与えたと言われる。結局、父親と同じ道を歩む決心をし、トゥールーズやパリの法科大学で学ぶも、眼病のために中断、独学するようになる。一時は神秘主義に傾斜したり自殺を考えたりしたこともあるようだ。この病は25歳ころには回復し、1869年にはサルラの判事補になることができた。その後、他の地方の裁判所を経て1875年からサルラの予審判事に就任している。


サルラの裁判所


 判事の仕事をしながら、著作を発表するようになり、1880年には『信念と欲求』を哲学雑誌に、1886年には学術書『比較犯罪学』、1890年『刑事哲学』、主著『模倣の法則』を世に出し、タルドの名は次第に知られるようになる。母親を一人残すことにためらっていたが、その母も亡くなると1894年に司法大臣の招聘によりパリの司法統計局長として働くようになる。並行して私立の教育機関で社会学の講義も行った。1900年にはコレージュ・ド・フランスの近代哲学講座の教授となったが、1904年には若い頃の眼病が再発するとともに健康は悪化し1904年に亡くなっている。コレージュ・ド・フランスの後任はアンリ・ベルグソンだった。



一般社会学の法則『模倣』


 一般社会学の方法は、生理学の一般法則が、絶滅種や想像上の種などあらゆる生物に適用可能なように過去・現在・未来の社会に適用される。バラバラの星々、奇妙で多彩な動植物、互いにひしめき合う社会、これらの三大領域の互いの類似性を示すのが、『模倣の法則』の目的であるという。多様な違いの中に同じを見るのだ。それが重要なのは政治やその他の諸問題の解決の糸口になるからである。それぞれの領域における普遍的反復は、物理において振動、生物において遺伝、社会において模倣だとタルドは考える。自然哲学者と呼ばれる所以である。


アントワーヌ・オーギュスタン・クールノー
(1801-1877)

 物理界、生物界、社会界のそのようなモデルの流れは、分解することによって計算可能となる。それは、青年時代、一冊の本しか読むことのできなかったタルドの精神的飢餓を救ったアントワーヌ・オーギュスタン・クールノーの著作の影響といわれる。数学的手法で経済分析を行った人だった。本書はクールノーに捧げられている。例えば、まとまりがなく、一貫性がないような歴史上の様々な事実は、それぞれのモデルの流れに分解できるのである。歴史的な事実は、それらの合流点であり、その事実は大なり小なり正確に模倣される。


模倣の伝搬


 では、模倣は社会の中では、どのように伝わっていくのだろうか。初期の原共同体は、規模が小さければ比較的平等で均質なものだったろうと想像される。その中から拡大への欲求が生まれ、やがて部族集団や教会といった組織が形成されるようになる。そして、一たび形成された共同体は組織化・階層化されていくだろう。しかし、組織化は一つの手段でしかない。有機体の組織が器官に拡大していくように社会的な存在にとっても模倣の伝搬や模倣的反復といった機能こそが動力なのである。光波や音波、動植物の種と同じように、社会的な要素も幾何級数的に模倣によって伝搬される傾向を持っている。あらゆるものが普遍性を要求し、いつの日か、どれかひとつの類型が普遍的になる事は確実であり、また、避けることができないというのである。

 模倣は意図するか否かにかかわらず伝搬する。タルドは、ある脳内のネガが別の脳内の感光銀板によって写真のように複製されることに喩えた。既に神経系には模倣しようとする傾向がある事を指摘している。無意識やミラーニューロンが発見される以前のことだ。暗示によって伝わる場合もあれば、個々の、あるいは集団における催眠状態のような意識の中で伝搬され、それが連続的に模倣される場合もある。あらゆる社会に滝のような連鎖が生じるのである。感光版がカメラ内で起こっている現象を意識するか否かは、模倣の伝搬には根本的に関わりがない。


 言語、神話、宗教、戦術、文学といった様々なジャンルで模倣があり、ある民族や国民から別のものへと伝わる過程で変化が起こる。ラテン語は、ローマ世界からスペインやガリアへと伝わる過程で、ある文字が特定の別の文字へと置き換わるという。それは起源となった言語が古代アーリア世界からゲルマン、古代ギリシア、あるいはインド世界へと伝わって行ったことに関係すると言うのである。古代では、現代が想像する以上に異国の流行に開放的であり、外部の事物への模倣も盛んであった。


信念と欲求 干渉と障害 波と波紋


 発明や模倣は、社会行為にあって本質的なものである。その伝搬を催すものが信念と欲求という動力エンジンであるという。その内には、常に一つの観念や意志、判断や企図があるが、同時に信念と欲求が一定量表現されている。信念と欲求は、発明や模倣の実体であり、力であって、心理学的 (タルドには個人の心理と社会の心理との区別がある) な量でもある。それぞれの言語における各言葉、宗教の祈り、国家の行政、法典の条文、道徳の義務、産業における労働、芸術の技法などの本質といえる。

 この信念と欲求の干渉は模倣の極めて重要な社会的要素となる。歴史という揺れ動く波の中にあるのは欲求の量と信念の量の足し算と引き算である。互いに足し合わされたり、中和したりする。電話とカメラとムビーとネットを一挙に手にできる魔法のタブレットなら誰でも欲しい。沙穂ちゃんや聖菜ちゃんが持っていれば、ひななちゃんだって欲しいと思う。その欲求は、持っていれば便利に違いないという信念に変わる。使いこなせるかどうかは別の問題だった。


 ふいに提示された観念・アイデアが欲求を加速させ、信念が欲求を実現可能だと鼓舞するのは誰しも経験があるんじゃないのかな。幻想へ向かう情熱、情熱に向かう幻想というものがあり、自身の優越性に関する過信やニーチェの嫌った人間中心主義的な偏見が生み出す幻想、そして野心や貧欲、名誉心といったものから来る情熱もある。宗教的狂信、革命のプロパガンダは模倣のインフレーションとさえ言える。


 心理的で社会的な遭遇や干渉が起こるためには、一方が、他方の障害となるか、互いに「原理と結果」あるいは「肯定と否定」の関係にならなければならない。互いの支援や矛盾がない場合、模倣は起こらないが、互いに支援し確証する場合、新しい発見につながる場合があり、欲求と信念の力が増大していく。カセットテープを使っていたウォークマンはデジタルの時代になれば、それに対して否定的になり、違った形態になるが、移動しながら聞けるという点に関しては従来のものを肯定しているというわけです。



 一方で、このような干渉が文明の衰退を引き起こすこともありうる。無数の発明・発見がつくりだした欲求と観念によって、社会類型、つまり文明の特徴が、特定の国や時代における集団の中に何らかの形で再生産されることはある。しかし、それも新たな発明によって純粋な文明の特徴が変質し、ひいては解体してしまう場合もあるのだ。あらゆる発明が堆積可能なのではなく、多くの発明は置換可能なものである。波の運動が様々な遭遇や干渉といった契機によって多様な波紋を形成するのに似ている。それは、仮初めの役割を仮面を付け替えて演じるブルーノ・シュルツの小説における登場人物たちに似ているともいえる。仮面とは置き換えであり、この場合、広い意味の寓意となる。


イノヴェーションと原初的モデル


 きらめきのような原初的ないくつかの重要な発見や発明が人類の才能を覚醒させ、人間精神の根底にある欲求を次々と呼び覚ましてきた。それを否定する人はいない。発見や発明が模倣によって広がると、それに追随者たちの発見や発明が接ぎ木され、彼らの相次ぐ発見が交換される。進歩とは集合的思考なのである。このきらめきと模倣による伝搬こそが社会を形成する真の原因、不可欠な条件だとタルドは考える。


 それらのイノヴェーションの模倣の流れは、心理学的要素に分解することができる。すべての発明・発見は、どれも複合体であって、様々な創意の系統樹と言える。そのような発明・発見のうち、時代の提起した問題に対して最良のものや有用なものだけが生き残るのは事実だが、いかなる欲求に対しても、その回答は、あいまいな翻訳であり、常に不確定であり、したがって多くの解決策があり得る。ともあれ、そのような問題が、どのような理由で、誰に、いつ、どのようにして提起され、複数回答の内から何故それが取り上げられたのか、このようなことが「問題」なのである。ヴァールブルクが、イメージの人類学ともいうべきイコロノジーで行ったことは、まさにそのことだった。

 乗り越えがたい地域的・社会的分断があるにもかかわらず多くの民族に社会的類似があるのは数々の回答の内、最もフィットしたものが残り、他のものは淘汰されたと言うより、「現在では忘れ去られた、ひとつの原初的モデルがあった」という見方をタルドは支持する。イコノロジーにおける「情念定型」に喩える事が出来るかもしれない。


アビ・ヴァールブルク(1886-1929)

アビ・ヴァールブルク(1886-1929)



 衣服が発明されると、体を衣服で覆っていることが当たり前になると、そうなっていないことが不自然になり羞恥心が生まれる。衣服を身に着けたいと言う欲求は、それが社会的欲求である限り衣服の発見に由来している。発明というものは、社会的必要性の結果ではなく、原因である。それを言い過ぎとは思わないとタルドは言う。大衆が、ある方向に欲求を向けるのは、それ以前の発明の結果であり、それは連鎖していく。「あらゆる社会や文明の起源には単純だが実際には、なかなか生じることのなかった様々なインスピレーションがあった。それは、発見の喜びのための発見、人間に内在する創造的想像力が成し遂げた偶然的発見である。」これこそが「原初的なモデル」なのである。

 模倣についても発明と同様なことが言える。習慣や流行だけの模倣ではなく、熟慮の末の模倣もあり、人々が選択した思想や行動も模倣と言える。模倣もまた、互いに支えあって連鎖をなし、それを遡って行けば自己生成的な模倣と呼ぶべき原始的な心理状態に近づくのである。模倣にも「原初的モデル」があるというのである。


差異と反復


 事物の根底にあるのは、異質性、つまり差異である。差異がなければ、それを覆い隠している同質性も存在しない。世界はカオティックで膨大な集合体であり、その中では、あらゆる同一性は部分における類似に過ぎない。こうした類似は、最初は個々のイノヴェーションが自らを反復し、あるいは強制的に反復された同化の結果である。例えば改宗運動の熱気が人々を同化した後に出現した専制政治は、人民の使役とそのヒエラルキーを強制した。

 ルイ14世という絶対君主が存在していなければ人民主権が発想される契機はなかったのである。その下では無数の人々が押しつぶされるが、その人々も未来のための大革新の苗床となる。社会的催眠状態にとって、偉大な権力や能力持った存在が放つ威信の力は強力であり、それは崇拝に早変わりし、それによる隷属の模倣も個人的、かつ合理的なものになっていくという。しかし、人民は、かつての主人の欲求を模倣するようになる。法制上の発見や発明は、国民主権の思想を発展させ、国王主権に取って代わるための手段となるのである。それは権威者を模倣したいという欲求でもあり、国王のように奉仕されたいという欲求でもある。それは潜在的ではあっても極めて強力なものであったことが分かる。このように奉仕されたいという根本的欲求は、差異を生み出しながら反復されるのである。 


 自然は、その法則による反復、数百年ごとの周期という荘厳な装置を使って多種多様な変異、絵画のようなめくるめく幻想、気まぐれな刺繡を展開するという。しかし、それらは、自然という荘厳な装置の支配が制御し得ない喧騒に満ちた諸要素の独自性という唯一の源泉から生まれたとタルドはいうのである。同様に、社会を構成するいわば、微粒子は伝統、習俗、教育、思想といった様々な傾向を多様に伝搬し、互いの階層関係と相互援助によって国民を形成する。ここに作用しているものも差異化の法則である。事物は同質のものになっていくのであるが、内的で根源的な多様性は、いかなる規則性や画一性をも超えて事物の美しい表層に躍り出ると言うのである。

 このような差異と反復の関係は理解の難しい部分がある。ドゥルーズの例をご紹介しておこう。嬰児の私、幼児の私、少年の私、青年の私、壮年の私、老年の私はそれぞれが異なっている。それを私という同一性で括ることには無理があるのである。しかし、まったく同じものの繰り返しが注視されることはない。差異のあるものの反復によって同一性の幻想が生まれる、あるいは、それぞれが部分的にしか同一性を含まないと言っていい。反復されるのは差異だけなのである。



差異と反復のアセンブルとアリの眼目線



 本書から少し離れて、タルドが大きな影響を与えた思想家たちのタルド賛歌をご紹介しましょう。


 ジル・ドゥルーズは、その主著『差異と反復』の中で、差異と反復による適合が徐々に完成されてゆくが、それを創始するための秘密の努力が、自然と精神の中にあることを発見し、それを一つの新しい弁証法に仕上たのはタルドの偉大な功績であると述べる。そして、無際限な増殖や成長を諦めた生命が、有性生殖といった新たな反復を獲得して、それに順応していくように反復は対立を通して新たな差異を生み出し、その新たな反復的な流れが高次の反復を生み出す基盤となる。そのような順応を成し遂げていくのである。だから、この弁証法とは一般的な差異から特異な差異への移行としての反復であるとドゥルーズは言うのである。ドゥルーズは、そこに新たなライプニッツを見出していた。


 ラトゥールは自らのANT理論(Actor- Network-Theory)の先駆としてタルドを位置づけ、『社会的なものを組み直す』では、「ガブリエル・タルド ―― もう一つの社会理論の先駆者」という章を設けてタルドを言祝いでいる。その他に、ラトゥールには、ミシェル・セールの「準客体‐準主体」という概念からの影響も強かった。前に述べたようにタルドは社会を構成する要素を個人ではなく、モナドとして意識を持った存在が他者への作用によって起こる意識のコミュニケーションまたは変容であると考えているのであるから、それを情報の交換とその作用と考えるなら関係性だけを問題にすればよかったのである。


ミシェル・セール(1930-2019)


 これは、主体vs客体といったコチコチの二項対立ではなく主体のようでもあり客体のようでもあるものたちの関係性と考えるとセールの「準客体‐準主体」に重なる。物事には隙間があり、そこから見ず知らずの者が顔を出すこともあると言ったら表現が砕けすぎだろうか。タルド流に言えば、存在という概念は不毛であり、そこには発展という意味が含まれていない、あるいは全てのものは複合体であるということになる。

 ミクロなものは、共約不可能な幾多の存在によって出来ていて、その存在たちによって自らの一面であるウワベを貸し与えて、一時的な全体を作り上げているとラトゥールはタルド説を引いている。そのような幾多の存在であるモナドとウワベとの関係はタルドの歴史を巡る次の一説を読んでいただくと分かりやすい。

 ガリア・ローマ人の歴史ならカエサルの征服について述べれば終わりである。次のような細かな事柄が紹介されなければ、激しく変動する社会が備えている並外れた規則性を理解できない。ラテン語の語彙、ローマにおける儀式、軍事演習、職業、慣習、任務、方法が、ローマからピレネー、そしてライン地方まで暫時伝えられ、それらの文化が旧来の観念やケルトの慣習に対して激しい抵抗を生み出し、そこに住む人々の手や口、心を奪って、カエサルとローマの熱狂的な模倣者にしたこと。さらに、ローマの言葉における単語や文法、宗教儀式の手順、軍隊の訓練法、寺院、バシリカ会堂、円形闘技場、水道などの建築物、学校で教えられたベルギリウスやホラティウスなどの詩、職人から徒弟へ、教師から生徒へ忠実に際限なく伝えられた産業・芸術的な技法、そういったものまで説明されなければ変動期の社会の規則性を正確に理解できない。

まあ、社会を構成する種々のアクターたちの、アリの眼目線のネットワークとは、このようなものかもしれない。ANT理論ですから。


恐るべき問題


 「いずれ我々は、みな均一の鋳型に流し込まれ、誰の価値も等しくなるだろう。そのような時代には、どの国民の力もその国の人口に数学的に比例するようになるのは明らかである(本書より)。」
それは戦争の勝敗が
その国の人口に左右されるということであるとタルドはいう。現代をあらゆる過去から区別するもの、それは列強の国際政治が、昔のように一つか二つの大陸といった地域ではなく地球全体に拡大したことである。そして、タルドの末裔であるマウリツィオ・ラッツァラートとドゥルーズの弟子エリック・アリエズは、『戦争と資本』の中で、国家の安全保障を脅かす要因は敵国の一国家の軍事力ではなく「資源の領有、市場の獲得、資本のコントロール、貿易制裁といった経済的要因」であり、これら非軍事的武器の与えるダメージは軍事武器と等しいものになると或る軍事関係者のインタヴューを引用している。一国のレベル、さらには地球規模で不安を生み出させる最も有効な手段は金融なのである。ここから導き出された戦争が今、ウクライナで行われている。

 一つの国家が全世界を統一すれば、そこでは戦争は起こらないということはあり得ない。愛国主義的高慢や怨恨、国民的偏見、集団利害に関する無分別で狭量な思考、歴史的記憶と言ったものが絶えず増大していく。永遠で普遍的な平和という幻影は、目の前に輝きながら、常に遠のいていく。それでもタルドは、この理想が一時的に達成されることは信じてよいと言うのである。


夜稿百話

ガブリエル・タルドの著作


『社会法則/モナド論と社会学』

現象の反復・対立・順応という三つの社会法則が解説され、タルドの社会学的モナド論が述べられている。『模倣の法則』よりは、まとめられているだけ読みやすいかもしれない。
タルドは、死とは「非‐生」であると言う。生命とは、モナドに課せられた苦しい時間であり、少数の者は、かつて追われた王座に帰り着きたいと望むだろう。その独自性と完全な孤立へと戻らされたモナドたちは、苦も無く身体能力を手放し、永遠の中で神的状態を満喫するだろう。そうして、あらゆる悪や欲望から(愛からとは言わない)解放され、永遠の善を握りしめる。これで、生についても欲望の浄化という理由が与えられると言い、このような仮説を許してもらえるだろうかと述べるのである。

『世論と群衆』

19世紀末は公衆の時代であった。劇場や集会の公衆は、群集に他ならないと言う。広い地域で同じような新聞を読む新聞公衆とは異なるというのである。コミュニケーション源に引き付けられる耳目という点では同じ特性を持っている。しかし、無限に拡大できるという面で後者には質的な違いがある。現代は群集の時代ではなく、公衆の時代だとしたのである。タルドの公衆には意見の送り手の機能、討論のプロセス、自律性が欠けていると言う批判もある。タルドは討論と意見交換は区別すべきだと言う。討論が衰えるのは、次々に新しい情報が入ってくると古い論争の種が失われると同時に論争の快感と言った小児的な争いが減少するからだと言うのである。

関連図書


『タルド』中倉智徳

タルドの社会理論と経済心理学に関する著書。タルドの社会学は「調和的統治術」であることを「信念と欲望」「模倣の法則と発明」「結合を増大させる間-心理学に伴う社会論理学」「反復・対立・適応」の4項目を用いて説明し、後半は「間-心理学」によって基礎づけられた「富の理論」を解説する。著者が断っているようにネオ・モナド論の思想的立場から切り離して社会学と経済心理学に的がしぼられる。分かりやすく解説されている。

マイケル・ハート+アントニオ・ネグリ『アセンブリ』

マルチチュードとは、著者たちのいうネットワーク化されたグローバル権力である《帝国》に対抗するグローバル民主主義を志向する多様な集合主体を指している。党などの中央集権的な組織に指導された労働者階級や人民といった均質な概念とは区別される。物質的財、コミュニケーションや関係性、生の在り方といったものを含んだ種々の社会的生産物の担い手といった包括概念であって、「様々な特異な差異から成る多数多様性を指示するとともに、そのように常に多数多様でありながらも共同で活動することのできるグローバル民主主義の構成主体を指し示す開かれた概念である(水嶋一憲「訳者あとがき」)」とされている。
タルドのいう公衆をさらに変革する概念となっている。

また、アセンブリとは、従来のトップ・ダウン型の組織原理やリーダーのいない自然発生的で水平主義的な組織を同時に回避するような、これまでとは異なる《集会》の可能性を志向しながら協調して政治的に行動する力を目指す集合形成 (アセンブリ) のことを指している。

アントニオ・ネグリ (1933-)

イタリアのマルクス主義社会学者、哲学者、政治活動家。1970年代に学校・工場・街頭などでの自治権の獲得を目指す左翼運動であるアウトノミア運動の中心人物だった。1979年テロ容疑で逮捕・投獄され、フランスに亡命。1997年に自主的に帰国し、再収監されるも2003年に釈放。著書にハートとの共著である『帝国』『マルチチュード』『コモンウェルス』があり、単著に『スピノザと私たち』『野生のアノーマリー』などがある。


マイケル・ハート (1960-)

アメリカ合衆国の哲学者、比較文学者とあるが、ドゥルーズの研究者だった。ネグリとの共著の他『ドゥルーズの哲学』がある。



エリック・アリエズ+マウリツィオ・ラッツァラート『戦争と資本』

タイトルは「戦争と平和」ではなくて「戦争と資本」である。何故だろう。戦争と信用こそ、資本主義における戦略的武器であり続けていると筆者たちは言う。ミッシェル・フーコーはコレージュ・ド・フランスの最初の講義(1970~1971)で、通貨制度は、商業や取引、金儲けを理由として説明できないと述べた。これが、聴講者にとって驚天動地だったのか、青天の霹靂だったのかは分からない。少なくとも本書の著者たちにとって新たな啓示となったであろう。富と権力の等価性を保証・維持する手段としての出自を持つ通貨は、やがて植民地化と内戦を催す手段となる。本書は、軍隊と戦争が、政治的な権力組織と資本の経済サイクルを統合する構成要素であることを明らかにしようとする。それは「資本の戦争政策としての経済学」なのである。

エリック・アリエズは、1957年生まれの哲学者。ジル・ドゥルーズに師事した。パリ第八大学教授、及びキングストン大学 (ロンドン) 客員教授を務めている。国際的に広く知られたドゥルーズ学者と言われている。ウィーン美術アカデミーで教鞭を執ったこともあり『マティスの思想』といった著書もあるようだ。彼もまた、『タルド著作集』の編集者の一人である。邦訳のある著書に『ブックマップ 現代フランス哲学――フーコー、ドゥルーズ、デリダを継ぐ活成層』がある。

ラッツァラートについては、「参考画像」に後述。


ドゥルーズ+ガタリ 『千のプラトー』

本書にもタルド賛歌というべき箇所があり、その思想的特徴が的確に纏められている。長らく忘れ去られていたタルドの著作は、アメリカの社会学、とりわけミクロ社会学の影響によって今日的意義を獲得したとし、デュルケームが特権的研究対象にしたのは、共振する超コード化された大規模な集団表象であったのに対し、タルドは細部の世界、無限小の世界を問題にすると言う。信念と欲望という量子を刻まれた模倣は流れや波動であって、その分子状の領域では、流れを個人に割り当てることも集団的なシニフィアンによってこれを超コード化することもできないと述べている。

参考画像


アントワーヌ・オーギュスタン・クールノー (1801-1877)

数理経済学の祖といわれる。1838年、『富の理論の数学的原理に関する研究』で経済分析に対する数学的な公式や記号の応用を行い、後世に影響を与えた。

エミール・デュルケーム(1858-1917)

コントの実証主義的社会学を総合的社会学に発展させたことで知られる社会学者。社会学を道徳科学として位置付けた。

アンリ・ベルグソン (1859-1941)

分割が不可能な意識の流れとしての「持続」と生命の進化を推し進める「エラン・ヴィタール/生の飛躍」の哲学者として知られる。

マウリツィオ・ラッツァラート(1955-)

マウリツィオ・ラッツァラートは、1955年イタリア生まれ。パリで活動してきた社会学者。1970年代にイタリアを中心に起こったアウトノミア運動に参加している。パリに亡命し、非物質的労働、労働者の分裂、社会運動の研究を行い、非常勤芸能従事者 (フランス政府の保険によって守られた芸能者) 、不安定生活者などの活動に参加した。アントニオ・ネグリらと政治思想誌『マルチチュード』の編集長を務めている。また、ガブリエル・タルド研究の第一人者で『タルド著作集』の編集者の一人である。著書に『出来事のポリティックス』『<借金人間>製造工場』『資本はすべての人間を嫌悪する』がある。

『タルド』の著者、中倉智徳さんによれば、労働は再生産であり「発明」こそ真の生産であると言うタルドの言葉は、現代の資本主義によって捕獲される人間の力は「発明の力能」であるというラッツァラートの説に呼応しているとし、ラッツァラートは、タルドのいう模倣と発明、脳の協働を自らの「労働の分業」とに対比して論じているという。タルドは労働の分業を労働連帯とよぶべきだとしていて、休息と社交性を満たす労働が産業化によって失われ、それを取り戻すことが課題であり、労働の単純化と欲望の増大が同時に起こっていることは異常だと考えていた。


ミシェル・セール(1930-2019)

セールは、フランスの百科全書派的科学哲学者。彼は、物事を進展させる突然の閃きをもたらすものは冷静さと注意力、わずかな物音にも反応する耳だと語っている(『ミシェル・セールの百科全書的な旅』Youtube)。彼は身体で文章を書き、川と自然に住む思想家だった。

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