第44話  川原繁人 part2 『音声学者、娘とコトバの不思議に飛び込む』コトバはどう繋がるの ?



川原繁人 『音声学者、娘とコトバの不思議に飛び込む』

 音声学者の夫婦から生まれた娘の言葉、その発達過程が、どのように展開されたのかを音韻学などの観点から述べた著作です。一見、幼児の言葉の間違いと思われる言葉が、実は日本の言語の特性と関係していることが明らかにされます。日本語の言葉の繋がりの特殊なものが色々と紹介される著書、『音声学者、娘とコトバの不思議に飛び込む』

 それに、『言語学的ラップの世界』では、韻の問題が取り上げられます。日本語は韻を作りにくいと言われてきた。現代詩を七五調にすると明らかに古式臭くなり、韻を踏もうにも言葉のほとんどは母音で終わり、その母音も5つしかないために普通に作詞したら20%は韻を踏んでしまい、まず韻とは思われない。英語には少なくとも10の母音があり、母音の次に子音を繋げることができ、おまけに、母音と子音の組み合わせが無数にあり、その点で日本のラッパーは大きな制約を受けてきた。しかし、その制約は創造の母だったのです。

 メイド喫茶の「もえきゅん」文化の言語学的研究や日本のラッパー達や人気歌手とのコラボなど、言語学者で、とてもユニークな研究方法を取られていることで知られる川原繁人さんの著作を二回に分けてご紹介しています。今回の夜稿百話は、その part2 として、これら
『音声学者、娘とコトバの不思議に飛び込む』と『言語学的ラップの世界』の二冊の著書を中心にご紹介しましょう。



マ行の音 言葉の始まり



 以前の第43話「J.W.リンズラー『メタモルフォシス』」で御紹介しておきましたが、胎児は受胎後32日あたりから魚類、爬虫類、両生類、哺乳類へと相貌を変化させ、あの一億年を費やした脊椎動物の進化の歴史を再現するといいます。哺乳動物の赤ん坊は、母親の乳房からお乳を吸っていますが、あたかも内臓感覚に支配された腸管の口から皮膚を通して母親の血液を濾しとっているかのようであるといわれます。腸管の口とは人間が魚だった時代の鰓腸 (さいちょう) と呼ばれる部分で魚の口から鰓孔までの領域を言うのです (三木成夫『胎児の世界』)


魚の口

 哺乳類は、お乳を吸わなければなりません。そのため唇は閉じることができなければならない。ワニの口では、お乳は漏れ出てしまいます。今回の主人公である川原さんは娘さんの赤ちゃん言葉を言語学者の立場で追った。やはり、最初に発音されるのは両唇音の喃語 (なんご) である baバ、 maマ、 waワ 、つまり両方の唇を最初に閉じて発音する言葉であったようです。2016年に数千の言語が調査され、多くの言語が母親や胸を表す語にはmが含まれ使われていることが分かっています。それだけでなく、言語学者のヤコブソンは、どの地域の赤ちゃんの言葉も両唇音からはじまると確認している。

 2004年から始まった少女向け (多分少年も) のアニメであるプリキュアでは登場するキャラクターの名には、ほぼ半数に口唇音が含まれている
と言います 。「エヴァンゲリオン」や「女の子の名前 Top10 」といった他のジャンルでは30%に届かない。例えばプリキュアに登場する「マジカル」「ミラクル」「フローラ」などの名では、マ、ミは唇が閉じる両唇音です。「フローラ」にはマ行の音が含まれないが、フは「ウ」の前では両唇が丸まり両唇音に近くなるといいます。ともあれ、柔らかな共鳴音の基礎は両唇を閉じる音ということになるでしょう。


二ホンヤモリ

 動物や人間の音声を作るのは、かつての腸管の口の部分だった。マ行の「マ・ミ・ム・メ・モ」は唇音と呼ばれ、閉じる唇なしには発音できない。猫のミャー、羊のメェー、牛のモー、人間のマの (鳴き) 声は、唇音から来ている考えられている。唇を持たない爬虫類では口蓋音 (舌の表面が口腔上壁に近づいて発する子音) のカ行「カ・キ・ク・ケ・コ」が出てくると言います。恐竜たちの発した音はカ行の音を考えねばならないらしい (三木成夫『胎児の世界』)言葉は解剖学とも関係しています。

 しかし、トカゲは声が出せるんでしょうか。窓を開けると、たまにドサッと落ちてきて吃驚させられるヤモリだけど、キチ キチ キチ といった鳴き声らしきものは聞いたことがあるような気がします ‥‥ 直に見たわけではありません。NHKのラジオでやっている「夏休みこども相談」に一度聞いてみようと思ったこともあるけれど、この歳で小学生の声色も出せそうにないので思いとどまっております‥‥


音の繋がり



 ソシュールは、言葉をその約束事としてのラングと発話に関するパロールに分けたことは前回もご紹介しました。後に、プラハ学派が音声におけるにパロールついての研究を音声論とし、音声におけるラングの研究を音韻論としたようです。したがって音声の発話に関する研究が音声論、音声の機能についての研究が音韻論となります。音韻学は言葉の仕組みを考える学問と言っていも良いでしょう。この音韻論を考える上で幼児の言葉の発達を追うことは、とても興味深いだけでなく重要なことのようです。本書には音の繋がりを考える時にも示唆的な内容があります。川原さんは娘さんの発話をていねいに記録し始めていた。

「あたしの『グミはねえ―」

 幼稚園の「さくらぐみ」や「ほしぐみ」は「サクラ + 組」や「星 + 組」になっていて二つの言葉が繋ぎ合わされている。繋ぎ合わされた「サクラぐみ」と「ほしぐみ」の共通要素である「ぐみ」は「形態素」と呼ばれ、それを見つける作業は形態要素分析とよばれています。これは、機械翻訳などでも前提になる共通要素の抽出です。日本語では二つの語が組み合わされるとき、「サクラくみ」ではなく「サクラぐみ」になる。「ふうふんか」「ころもえ」など、連濁と呼ばれるもので平安時代から研究されているらしく本居宣長の『古事記伝』の中でも言及があるといわれます。他にもありますが、このくらいにしておきましょう。要するに言葉の前後関係で音が変わってくる「音韻変化」と呼ばれるものです。ただし、「きつねそ」のように二番目の単語の後方の*拍のほうに濁音がある「きつねsoba」のような場合もある。
(*拍はカナ一文字分の長さ)


本居宣長 (1730-1801)

「いっぴきの次は『にぴきでしょ」

 小さな子にとって「いっぴき」の次は当然「にぴき」であって「にひき」ではない。日本語ではハ行の前に「っ」が付くと「ひ」は「ぴ」になり、「二ホン」は「ニッポン」になる。逆にパ行の前に「っ」が付いていないと「ぴ」は「ひ」に戻ります。「イペン/一篇」と「イヘン/異変」などの例が挙げられる。


 その次は「さんぴき」と思っても不思議ではないが大人には「さんびき」ですよね。この現象は中国由来の漢語や外来語とは異なる古来から日本の言葉である和語で顕著なもので、破裂音「p」「t」「k」などは濁音に変わりやすい特徴を持っている。「piki」→「biki」となる。
過去形においても同様の変化があり、現在形には「る」が過去形には「た」が使われる。「来る」は「来た」になるのは普通です。しかし、「死ぬ」は「死んだ」、つまり「*ɕinu」は「*ɕinda」になり、「ん n」の後には「da」となって濁るのですね。このように前後関係で通常とはイレギュラーな変化が起きるのです。

*「ɕ」は無声歯茎硬口蓋摩擦音の発音記号


「『ねんね』する」

 幼児語も子供の方ではなく、大人の使う子供のための幼児語もありますね。

ねんね nenne
あんよ anyo
まんま manma
おんぶ onbu

などの言葉はよく知られていますが、これらは、
子 n/母 e・子 n・子 n・母 eという順番になっている。これは、最初にリズムの型があって、それに合わせた言葉が選ばれているようです。

逆に、幼児が家族を呼ぶ時のリズムもまたこの型です。

じーじ j i i j i
ばーば b a a b a
にーに n i i n i
ねーね n e e n e

子 j・母 i・母 i・子 j・母 i という順番になっています。

大人の幼児語と幼児の家族の呼び方は以下のように比較できます。
ねんね n e n n e 子/ 母・子・子・母
ばーば b a a b a 子・母・母・子・母 
この二つは、nen/ne  baー/ba というふうに音節から考えれば同一のリズムと考えられます。このリズムが日本人は好きなのかもしれないと川原さんは言います。



「血ぃでたー」

 もう一つ、面白いと思ったのは、日本語には基本的に「一文字分の長さで発音される単語はない」という川原さんの指摘です。「血がでた」の「が」を除くと「ちでた」とは言いにくくなり「ちぃでた」となるのです。日本語の自然な発音では、「二音節の長さ」が最小単位とおっしゃる。

子音+母音 軽音節と呼ばれる一拍で一音節です。  
以下の三つは重音節と呼ばれる一拍+特殊拍で一音節です。
子音+母音+ん
子音+母音+っ
子音+母音+ー (伸ばす音)

「はっけん」は「はっ」+「けん」で2音節となり、「ぱー」や「ろー」は二拍ですが一音節です。従って日本人が「ビルディング」を「ビル」に「リハーサル」を「リハ」のように何んでも2文字 (2拍) に縮めると言っても「パーマネント」を「パー」とは縮めないし「ローテーション」を「ロー」とは縮めません。「パー」も「ロー」も一音節だからです。しかし、「血でたー」の「ち」は「chi iー」で二音節となります。


日本のラップの歴史はあるのか



 此頃konogoro 都ニハヤル物mono 夜討youchi 強盗go-toー 謀(にせ)綸旨rinji
召人mesyudo 早馬 虚騒動sorasawagi
生頸namakubi 還俗genzoku 自由出家
俄大名niwakadaimyo 迷者mayoimono
安堵ando 恩賞onsyo 虚軍soraikusa
本領ハナル、訴訟人sosyonin 文書入タル細葛hosotsuzura
追従tsuisyo 讒人zannin 禅律僧zenritsuso 下克上gekokujyo スル成出者narizumono ‥‥‥

 二条河原落書は建武元年 (1334年) 頃に後醍醐天皇の新政に対する諷刺、エピグラムとして有名なもので冒頭の部分をご紹介した。今様の「つくし」をナゾッテいると言われるが、七五調からはずれている。みていただくと分かる通り語尾の母音はoがかなり多く、文章のリズム感を構成していることが分かります。それ以前に強いリズム感を漂わせるものは鎌倉時代に成立した戦記物です。

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響hibiki ありari。沙羅双樹syarasoujyu の花の色iro、盛者必衰jyo-shahissui の理kotowari をあらはすarawasu。おごれるogoreru hitomo 久しhisashi からず、唯(ただ)春のno 夜のno 夢のno ごとしgotoshi 。たけきtakeki 者も遂にtsuhini は ほろびぬhorobinu 、偏(ひとへ)に ni 風の前の塵にchirini 同じonaji

 平家物語の冒頭ですが、一見して語尾の oi が多いことが分かります。平家物語は平曲にのせて歌われたものであり、天台密教系の声明にまで遡るものでした。当然、音楽的な要素をもっていた。言葉の末尾や助詞を飾る音がくり返されることでリズムが生まれます。

韻とオッペケペー節

 韻とは同一もしくは類似の音声の響き合いのことであり、律は単位となる音韻の時間上の配列の規則性のことと言われます。日本語は韻を作りにくいと言われてきた。僕は日本の天才的ラッパーは川上音二郎と思っているけれど、今度は『オッぺケぺー節』を見てみましょう。


川上音二郎(1864-1911)


 権利 幸福 きらいな人に 自由湯をば飲ましたい オッペケペー オッペケペー  オッペケペッポー ppoー ペッポーポーpoー

堅いkatai 裃kamishimo 角kado とれて *マンテルズボンに人力車  意気iki な束髪ボンネツト 貴女に伸士shinshi のいでたちで うわべの飾はよけれども 政治se-ji の思想が欠乏だ 天地tenchi の真理shinri が解らない  心に自由の種を蒔け オッペケペー オッペケペッポペッポーポー 

オッペケペー オッペケペッポー ペッポーポー は、言葉を繋ぎながらの繰り返しで「オッペケペ +ッポー+ポー 」oppekepe ppoー poと似た語が繋がります。 

堅いkatai 裃 kamishimo 角 kado とれては頭韻であり、伸士 shinshi と真理 shinri 、政治 se-ji と天地 tenchi は韻を踏んでいる。このように日本語の韻は子音を無視して、母音を揃えるのが定説になっているけれど川原さんは日本語のラップを研究しているうちに考えが変わってきたという。

*マンテルズボンはフランス式の軍服のスタイルを指しマンテルは上着のことである。


ラップのルーツ




グリオ (左) と先住民の指導者 (右)
セネガル


 ラップは古くは英雄譚や伝承を歌い語る西アフリカの吟遊詩人グリオにそのルーツをもつとされる。その後、アメリカでスピリチュアル (霊歌) に根差したブルースや説教の伝統からゴスペルが生まれ、1950年頃には、ラップの原型がジョー・ヒル・ルイスの音楽に見られるといわれます。1970年代にはニューヨークのブロンクス地区の街路でアフリカ系アメリカ人を中心に開かれた音楽やダンスを伴ったパーティーを軸にストリートカルチャーが広がりを見せ、それに端を発するヒップホップ文化が成長していったのは良く知られています。

 そして、ニューヨークの DJ・クール・ハークによってレコードをスピンさせるなどしながら曲に合わせてシンプルなラップが始められるようになり、パーティーの盛り上がりを演じた。DJ がミキサーなどを使ってプレイする音楽に乗せて行ったのが初期のラップの形だと考えられている。あらかじめ用意した歌詞ではなく、即興で歌詞を作り、歌詞と韻を踏むライムの技術を競うフリースタイルもあるらしい。1980年代初頭にはディスコが衰退し始め、このラップは韻を踏んだリズミカルなスピーチによる音楽の実験から生まれてくる新しい表現形態へと移行しました。


 キング牧師 (1929-1968) 
右 マルコム X (1925-1965) 


 冒頭の言葉を繰り返すスタイルを持つ有名な演説「I Have a Dream」で知られるキング牧師やアグレッシブな語りのマルコムXといった社会運動を牽引してきた指導者のスピーチもラップに大きな影響を与えたといわれています。ラップが社会批判や体制批判の媒体となっている側面も見逃すことができない。自由民権を歌った川上音二郎もそうでしたね。ちなみにマルコム X の X はアフリカ系の人々が決して知ることのない真のアフリカの人の姓を示しているとされています。


ラッパーたちの作詞



川原繁人 『言語学的ラップの世界』


 川原さんが日本のラッパーたちの作詞を見ているうちに気づいたことは、子音も母音も一致している例は多く、韻の全体が完全に一致しておらず最後の部分だけが同じという例も多かったということです。そしてラッパーたちはよく同音異義語を使い、母音2つかあるいは子音+母音という2*拍が韻文における末尾である「韻脚」の最小単位であるということでした。次の例は韻が完全一致しているものです。

チカチカ サーキットsaakitto
出たトコ勝負 さあきっとsaakitto (DELI『チカチカサーキット』)

駅弁 3つ買って mittsukatte
何だそんなにやけに 気使って kitsukatte   (DELI『365』)


後者の例ではkiwotsukatte ではなく kitsukatte となっていて助詞ヲを省いてコトバを縮めている。韻を踏むためのそのような工夫は色々あるようで英語などもわりに使われたりしている。

ラップの歌詞で日本語と英語を取り合わせた例としてこんなものがある。
「ケッとばせ」と「Get Money」  (Mummy-D『MASTERMIND』)
kettobase と gettomane で 母音は eoae で一致している。この時Moneyは「mani-」と歌わず「mane」と歌われる。そのうえで川原さんは子音の発音の近さを指摘する。


k – tt – b – s
↕  ↕  ↕ ↕
g – tt – m – n


k ↔ g 舌を少し上げて喉の上奥の柔らかな部分の間で発音する軟口蓋音
b ↔ m  唇を一度閉じて発音する両唇音
s ↔ n  舌先を歯の付け根に近づけて発音する歯茎音

発音の仕方が近い子音は韻に近い効果を生み出すことが分かった。他人の空似という分けでもないようです。韻とは類似の音声の響き合いのことであるなら、このような近い子音同士も韻と考えてよいと言うことなのでしょう。


音の近さとは何なのか ?



 本書では、このような色々な例が紹介されているので、それらをお読みいただくとしてラッパーは、どうして二つの言葉が「似ている」と分かるのかという疑問は起きますよね。結論として「人間は音の知覚的近似性について詳細な知識を持っている」という最近の研究結果に一致するのだというのです。これには幼児の学習過程と脳の総合的な機能の研究が必要です。

 言葉とコトバが響き合う韻によってそれらの関係にリズムが生まれるのは周知の事実ですが、韻を踏むことで言葉の近さ、発音上の面影を見ると言っても良い部分もあるかもしれません。それは爬虫類や両生類、人間になる前の哺乳類だった人類が発していた音のなごりの可能性です。そして、それとは別の問題としてソシュールが晩年に追及していたアナグラムや火星語などと称された異言の問題があります。これらは言葉がコトバを生むといった感がある。これは、とても面白い問題だと思いますが、これらのことについては次回ご紹介しましょう。





夜稿百話

川原繁人の著作 一部

『「あ」は「い」より大きい ! ? 』

前回 part1 でご紹介した著作。この著作では音声学についてのご紹介となった。




『なぜ、おかしのの名前はパピプペポが多いのか ? 』

NHKのラジオでやっている「夏休みこども相談」のことは本文でふれましたが、そんな子供たちの質問に答える形の著書になっていて、これも 『音声学者、娘とコトバの不思議に飛び込む』の姉妹編として、なかなか面白い内容になっています。こちらもお勧めです。




参考図書

三木成夫『胎児の世界』

これは名著である。生命進化の謎を解く自然哲学と言っていい。三木さんは生命の特質の一つは波動であるという。細胞波は個であり、脳波は集団である。平滑筋を持つ臓器は収縮を繰り返し、心臓も鰓呼吸も不眠不休の律動を繰り返す。睡眠と覚醒の波、魚の回遊と鳥の渡りといった地球規模の往復運動。生を象徴する波は水から来ているのは疑いない。その特質は渦であり、螺旋運動である。植物も螺旋に成長し、内臓の管も口と肛門の間で左巻き、右巻きと捻転する。地球のマグマの渦巻き、土星の渦巻きリングからDNAの螺旋から原子核の周囲の電子のスピンまで。





岩井眞實『伝統演劇の破壊者 川上音二郎』

音二郎が13歳の時、母が亡くなる。芸事にうつつを抜かす父から引き離すために母の遺言に従って博多を出奔した。東京まで無銭旅行し職業斡旋所を訪ねて働き口を紹介してもらうが何処にも雇ってもらえず、芝の増上寺でお供え物を失敬しているうちに僧に見つかり半年ばかり小僧をして過ごしていた。そのうちに、犬を連れて散歩していた福沢諭吉に出会い、慶応義塾で雑用しながら学問をする学僕にしてもらう。しかし、門限破りの学生から賄賂を貰ったり、辞書などをくすねて質屋で換金し、諭吉から到底人間になれる代物ではないと言われて退校となる。安月給で東京裁判所の給仕になったが上司の牛肉の佃煮をくすねて退職となった。東京を去り、一旦博多にもどって新規募集に応じて巡査となる。満17歳だった。これは、日本演劇史の研究の元祖といわれる井原青々園の記述だが、ほとんど音二郎からの聞き書きだから始末が悪いと著者の岩井さんは述べている。当時の巡査は官費で勉強できたらしく、ふしぎにも自由民権運動の壮士たちには巡査出身の者が多かったという。音二郎もまた壮士として名を上げることになる。

明治16年には自由童子と名乗って京都周辺で立憲政党の (正式の党員か疑わしい) 演説遣いとして講演を行うようになるが、どうも先輩の演説を真似ていたようで、あのオッペケペー節も彼のオリジナルではなく落語家桂藤兵衛が始めて京阪に広まったものを拝借しているらしい。良いように言えば、アレンジの妙である。しかし、全国的に政談を行うことが禁止されるようになると、彼は落語家に転身していった。変わり身の早さも一級だった。ともあれ、このように音二郎の波乱万丈の生涯が展開されていく。



参考画像

川上貞奴 (かわかみ さだやっこ/1871-1946)

才色兼備の日本一の芸妓といわれた人で、音二郎と結婚し、共に海外公演などを行ったことは良く知られている。





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