第99話 阿部賢一『イジ―・コラーシュの詩学』視覚と共に踊る言葉


阿部賢一『イジ―・コラーシュの詩学』


わたしは 聴覚のための絵画
眼のための音楽
鳥たちが戻ってくる失楽園
いたずらに捜し求め ぎこちなく踊る

わたしは唇のない口
指のない手
空のミルクを手にした灰かぶり姫
招かれざる時に生まれ うわ言をいうわたし

わたしは 生き 死せる水

(イジ―・コラーシュ『詩』/阿部賢一 訳)

 今回の夜稿百話は、いよいよ99話を迎えてラストスパートの感があるのですが、しばらく詩人を取り上げていませんでしたので、チェコの詩人であると同時にコラージュ・アートの変革者でもあったイジ―・コラーシュのご紹介をいたします。コラーシュのコラージュなんて地口のようですが、どうも目が弱くなっているのでコラーシュとコラージュの区別がなかなか難しく、困ったものだと一人で笑っております。ちょっとアブナイ。

イジ―・コラーシュとは誰


イジ―・コラーシュ (1914-2002)

●生い立ちから青年時代

 イジ―・コラーシュは1914年チェコのプロチヴィーンで生まれた。当時は、まだオーストリア・ハンガリー帝国の一部だった。父はパン屋、母は裁縫師という家庭で育つ。7歳頃クラドノ (クラドゥノ) へ引っ越した。クラドノは工業都市で部屋からは灼熱の鉄を流し込む明かりで一晩中光を放つ鉄工所の炉が見えたという。第一次大戦、その後の帝国の混乱と続き、父の仕事も手詰まりとなり、幼少期は、とりわけ暗い時期であったようでコラーシュは、その頃のことを語りたがらなかったと言う。彼はパン屋の見習いから始めて色々な職業を渡り歩いた。


19世紀末のクラドノの鉄鋼工場

 そんな若いコラーシュの心に灯をともしたのは図書館で手にした未来派のマリネッティの詩集『解放された言葉』のチェコ語版だった。たちまち本屋で*1ヤロスラフ・サイフェルト (1901-1986) の詩集を買ってシュルレアリスムの虜になった。1937年、23歳頃にはプラハのブリアン劇場のモーツァレットムでコラージュの個展を開催している。手仕事への最初の衝動だった。詩の発表よりも早かったが活動は詩作を中心としたものになっていく。キュビズムでもコラージュ (貼り絵) の技法は使われたが、やはりシュルリアリスムの作家たち、とりわけマックス・エルンストのコラージュは名高い。

 下に掲載した1942年のコラージュ作品を見る限り、ここにシュルレアリスムの影響は見当たらない。あるのは空間配置とリズムである。ともあれ、1930年代の彼にとってはシュルレアリスムの影響は免れなかった。コラーシュ自身が第二次大戦前のコラージュはシュルレアリスムの影響によって作業の際に生まれる偶然性に注目していたと述べている。解剖台の上のミシンと蝙蝠傘との偶発的な出会いという分けである。


イジ―・コラーシュ
 『ルポルタージュ』1942

 1934年に詩集『新ドン・キホーテ』、2年後には小説『赤鴉』を書いた。『赤鴉』は、とりわけ彼が自動記述の偶然性に幻惑されている作品だと著者の阿部さんは書いている。こんなコラーシュの詩才を見出したのは詩人で政治家ともなる*2フランチシェク・ハラス (1901-1949) だった。1941年のナチス・ドイツの占領下で自分が主宰する選集に彼の詩集『受洗証書』を取り上げ出版している。しかし、若いコラーシュの作品に対する批評は厳しいものだったが、*3インジフ・ハルペツキーだけが彼の詩を評価し、やがて1942年のコラーシュも参加する「グループ42」の結成へと実を結ぶことになる。

●第二次大戦後のコラーシュ

 チェコスロバキアは1948年の二月革命によって共産党の実質的独裁体制となり、ソ連のように文化的な活動に対する干渉と管理が始まった。1950年代は粛清の時代となる。人々は秘密警察に怯え粛清を恐れる。戦後すぐに共産党に入党するもすぐに離脱したコラーシュに対して秘密警察は調査への協力を要請したが拒否し『プロメテウスの肝臓』という作品を問題視され逮捕された。1952年から9ヶ月にわたって投獄された後、禁固1年の有罪判決を受けるも直後に恩赦によって釈放されている。このような環境の下でもコラーシュは詩作を行ったが、言葉や物をイメージに置き換えるコラージュという表現形態へと傾斜し始める。


イジ―・コラーシュ
『真昼の太陽の下で』1959

 1960年前後からベケットらの影響もあり『われら日常の糧』などの戯曲を書き始める。そこには「演劇=コラージュ」「ポリフォニー」などのキータームが見られた。1963年以降は検閲は緩められ1968年のプラハの春をピークに文化的な活動は旺盛になっていった。ミロシュ・ホルマン (1932-) のチェコ・ヌーヴェル・ヴァーグ、作家ではミラン・クンデラ、ボフミル・フラベルらが登場し始める。しかし、その春も、その年の8月にソ連がワルシャワ機構軍を率いて介入したことによって突然冬を迎えた。コラーシュは再びコラージュの制作に傾斜していく。

 1962年にはプラハで個展を、翌63年にはロンドンで初の国外での個展を開催している。以後、ドキュメンタ、サンパウロ・ビエンナーレ、大阪万博などへの出品が続き、生活も安定したようだ。この頃、*4イジ―・パドゥルタが主宰する芸術グループ「十字路」に参画している。そのコンセプトは「技術、都市文化への傾倒」と言われる。

●コラージュの成功と亡命

 1965年には再び詩に回帰し、彼の美学的総決算と言われる詩集『取扱説明書』、『回答』及びコラージュ論である『手法の辞典』を書くことになる。しかし、またしても1968年以降再び検閲が強化され、コラージュ作品の成功とは裏腹に発刊予定だった『プロメテウスの肝臓』、『静かなる詩』などが全て破棄されてしまった。1970年には脳出血によって倒れ、命は助かったが重度の障害を抱えながら懸命のリハビリによって日常生活ができるほどに回復した。チェコ国内では忘れ去られつつあった彼は、国外においてはグッゲンハイム美術館での個展など名声を確立していた。

 1980年のポンピドー・センターからの招聘を機にフランスに亡命する。これほど自由に仕事したことはないと思うほど解放されたが、財産は没収され欠席裁判によって一年の禁固刑となった。2年後、夫人は一旦チェコに戻るが再出国が許されず1985年までチェコに留め置かれたままで、コラーシュは夫人への思いに心を砕いた。1984年にはフランス国籍を取得、やがて1989年のビロード革命によってチェコスロバキア共産党が崩壊し、チェコとスロバキアは分離することになる。1990年にチェコへの帰国を果たした。2002年、コラーシュは二度目の脳障害によってプラハの自宅で亡くなっている。

日常の言葉と言葉遊び

 第一次世界大戦前後に革命の煽りなどを受けたロシアの知識人たちはチェコにも流れこんで来ていてチェコは「ロシアのオクスフォード」と呼ばれたた。ロマン・ヤコブソンの言語学、象徴派を投げ捨てたマンデリシュタームらのアクメイズム、マヤコフスキー、マレーヴィチらのロシア未来派などロシア・アヴァンギャルドも流入していていただろう。

 一方、脱オーストリア化を目指して「ポエティスム」という前衛運動が起こり、あらゆる日常的な事象を芸術や詩に変え、イズムなどより生活態度を重視するようになる。プロレタリア芸術とは異質の「享楽的世界観」と「遊戯的な精神」が尊ばれた。この頃には運動を推進した*5カレル・タイゲが図像と言語メッセージを組み合わせる「絵画詩」を標榜していた。やがてシュルレアリスムが席巻し始める。*6ヴィーチェスラフ・ネズヴァルがその先頭に立った。このような流れの中でコラーシュは詩作を開始することになる。


 コラーシュの詩を擁護したハルペツキーは若い頃のコラーシュの詩についてこのような意味のことを述べている。コラーシュが大衆の言葉に魅了されたのは、この言葉が単なる伝達手段となるのではなく、日常言語
による言葉遊びの対象であり、言葉の構造を新たに形づくり、現実生活との関連を回復させようとしたと述べている。それが「グループ42」の美学「日常性の奇跡」である。庶民の言葉はコラージュ的なモザイクという造形的な構造がもたらされる。

採掘

未熟児の門
そして窓の年老いた魔女は
夜にお辞儀する

切り抜かれた瞳
下手な音楽家の苦難がにじむ唇
光はトランプに没頭している

恐怖を仕舞う袋はない
風は疲弊し
鳥たちは太っている

苦痛はごまかされ
尻にしかれた動き
木片には荷物のみ
ーーー痩せぎすなほどの

(阿部賢一 訳)

悪と真正詩

 コラーシュは強制収容所の証言に向かい合った時、文学の大多数はたわいないものに思えたと言う。彼が思い出したのは、「最大の奇跡は、人間がどこまで低俗になりうるのかということだった」と述べたホイットマンの詩節だった。そこで思い当たったのは記録というテクストである。告知、調書、要望書、契約書、証明書‥‥。これらもまた、明白なものたちだった。そして強制収容所の記録を残し、それを保持し続けた人たちを助けたいと願うようになる。1954~1956年に、『黒い竪琴』と題されて、その一部が書かれる。それは「真正詩」と彼に名づけられた。その一つの冒頭のあたりをご紹介しておく。

 マリエ・ノウスコヴァーという女性のドキュメントで、カフカの恋人として知られるチェコのジャーナリストであるミレナ・イェセンカー (1896-1944) が収容されていたドイツのラーヴェンスブリュック収容所での記録をコラーシュは詩にしている。

それから二十九日間にわたる強制移送
二〇センチ×三〇センチの窓がある 三重の鉄条網が張られた車両で
六月二十二日 ラーヴェンスブリュックに到着
収容所が機能しはじめて二十二日目のこと
病院 調理場 洗濯場 仕立て屋 洗い物干し倉庫といった
十六棟の建物があった
高さ五メートルの電気網が収容所を取り囲み
壁の向こうには 泥 そして湖

たえず腹を空かしていたドイツ人妊婦は
他の人の分け前からパンをすこしずつちぎっていた
すると彼女は牢屋に入れられ
鞭で打たれ 朝に発見された時には
唾を吐きかけられ 地面で凍っていた

(阿部賢一 訳)

 ここにあるのは底知れない人間の堕落というべきものの記録である。彼もまた、記憶の世紀の申し子の一人になる。

コンクリート・ポエトリー

 1950年代から1960年代にかけてヨーロッパでは「コンクリート・アート」が展開された。言葉の意味よりも視覚的効果を表現しようとするものであり、古くからあるものだが、戦後の1950年代から60年代にかけて一つのピークを形づくった。「ヴィジュアル・ポエトリー」と同じ意味と言っていい。チェコのそれは、コラーシュの『静かなる詩』とラジスラフ・ノヴァーク(1925-1999)の『ジャクソン・ポロックへのオマージュ』によって開始される。

 その作品は、マラルメの『骰子一擲 (とうしいってき) 』を思い出させるけれど、マリネッティの『解放された言葉』にもアポリネールの「カリグラム (図形詩) 」にも通じるものだった。このような実験詩は奇跡の時代と言われたチェコの1960年代を象徴する文化だと言う。しかし、1960年代末にはプラハの春も突然冬になり文字の姿やその組版に関わるタイポグラフィーといった制作はコラージュの制作へと重心を移していった。

 星座的なヴィジュアル・ポエトリーもあり、それらをどのように読むかは読者に任せられている。そういう意味では読者の参加が要請される作品といえる。一方で、コラーシュには混沌としたヴィジュアル・ポエトリーの作品もある。人類の大半が文盲であるという統計を知って愕然とした彼は、文盲の人や精神障害を持つ人々のための画像としてのみ捉えられる作品も生み出しているのだ。


イジ―・コラーシュ
『静かなる詩』1959-1961「盲目の人が書いた文字」
本書より

 コラーシュの作品には対立があり、それに彼は惹きつけられる。こう述べている。「芸術においては、それが私的であるか、あるいは公的であるか、政治的であるか、あるいは詩的であるか、美しいか、あるいは醜いか、日常的であるか、不条理であるか、裸のままか、あるいは象徴的かということが問題ではなく、私的なことと公的なこと、政治と詩、美しさと醜さ、日常と不条理、裸と象徴が、美と死、歴史と自然、幻想と現実、夢と回想を分かつことができないのを知っている人たちに、わたしは魅了されたのだ。(阿部賢一 訳)」

 「エリオットの詩『荒地』以来、詩は1センチも進歩していない」というコラーシュの1957年の一文が自分を「明白な詩の道」へと導いたという。この頃、彼は言語の意味に関して失望し詩を断念していた。

詩への回答

 1960年代の始め、街角で出会ったサイフェルトからの問いかけに始まる会話が収録されている。

「今、何をしている ? 」
「オブジェの詩を考えています。石ころの詩も」
「石ころになるまでに、どんな傷を受け、何度蹴られたか、わかっているのか ? 奇跡として眺めることができるまでに、何度、衝突しているのか知っているのか ? 」
(阿部賢一 訳)


 人間と事物との直接的な関係を回復し、これに建築的で堅牢な構造性を持たせようとしたマンデリシュタームやアフマートヴァのアクメイズムとパラレルな詩学がコラーシュにはある。ただ、この「オブジェの詩」や「石ころの詩」はヴィジュアル・ポエトリーやコラージュの作品を単に指しているのかもしれない。ともあれ、1960年代以降に彼は再び詩に回帰し、その頃書かれた、詩集『取扱い説明書』は読者に呼びかける。詩のための「取扱説明書」だという。「何々してごらん」という呼びかけや命令形の詩句が明確に表現されている。



手ぶらで
誰も知り合いのいない
町へ
でかけ
三日を過ごしてごらん
お腹が空いたら
パンをくれるよう頼んでごらん
のどが乾いたら

水をくれるように頼んでごらん
‥‥
(阿部賢一 訳)

 一旦、言語から石のような「モノ」に彼は関わり合った。しかし、あたかも人生が「モノ」であるかのように、ある局面で捉え、切り傷や擦り傷といった身体の証言からその運命を明らかにしたいと言う。そこにあるのは運命の偶然を象徴する皺だったかもしれない。


イジ―・コラーシュ『自画像』1971

 1965年には詩学のマニフェスト『おそらくなにか、おそらくなにも』において自身の詩学を表明した。その頃には言語的素養や階級によらない誰にでもわかる詩を標榜し始める。ここには都市の具体的な光景とそのモノをカタログ化する明白な言葉がある。


夜に‥‥‥耳を傾けるがよい

迷子の波 自殺者の波 犯罪者の波
残り物 乳児 魔法 木々 四肢 家具の波
束 死骸 枝 衣類 遺産 靴 鍋 花束の波
昔の旗の波 廃れた器具の波 
紙 藁 折れた木々 墓場 排泄物 工場 家の材料の波
涙の波
わたしたちの波
わたしが愛する人の波

(阿部賢一 訳)

コラージュ 詩の画像解釈

 ルイ・アラゴンはコラーシュの様子をこのように伝えている。「1968年、プラハでは来る週もくる週も、イジ―・コラーシュが鋏と糊を手にしている。‥‥文法の一例、芸術と呼ばれるこの文法の一例を試みるための時間と空間を人間から引き離す非常に繊細な作業を、イジ―・コラーシュとともに実践してみることができるなら、してみるがいい (阿部賢一 訳)。」

 コラーシュのコラージュ作品に対する考え方は、テーマに沿った何枚かの写真を同じ画面に貼り付ける画像解釈とコンフロンタージュと呼ばれる手法があるが、まず前者の例を挙げておきたい。

 コラーシュが言語テクストと画像の間の芸術的な関係を意識し始めたのは1949年に遡る。例としてフランチシェク・ハラスの詩『秋』と絵画、ブリューゲルやフェルメールなどの絵画作品の対応が挙げられている (『手法の辞典』の「解釈」より)。そのような作品のコピーをコラージュ作品にしているが、一つの作品だけを友人に残して後は全て廃棄されたようだ。コラーシュは、このような解釈がリスクを伴うことは十分理解していた。詩の持つイメージへのオートマチックな連想と言っていいものだが、あらぬ方向へと意味が拡張されてしまうことの懸念だったろう。ただ、最近、詩を絵画化している僕にはとても新鮮な感覚を覚える。


 唯一残っている画像解釈の作品は『そして石は蘇生しはじめた』の詩句に対応する画像が張り付けられているもので、以下はその作品の後半部分である。詩句を画像と共にご紹介する。

‥‥
1 また主は石たちに語りかけた
2 己の場所に戻りなさい、もどりなさい !
3 我らを哀れみ給え、主よ 哀れみを、
  哀れみ給え、石は嘆願した。
4 戻りなさい、主は主張する、
  もう一度戻りなさい、最後に、
  もし今‥‥‥主よ、主よ、

おっしゃっていることの意味がお分かりですか、
石は嘆いた、哀れみを。しかし最後のものは
すでに頭を後ろに振っていた‥‥‥

(阿部賢一 訳)  


イジ―・コラーシュ
詩の画像解釈」の唯一残されたコラージュ作品
 部分 本書より

アビ・ヴァールブルクの『ムネモシュネ』を彷彿とさせるが、ヴァールブルクの場合は言語によるイメージではなく歴史の中に埋もれた「身ぶり」に力点がある。

 以下は、それぞれの画像の解説である。


1 『主の石像』チェコのロマネスク様式の彫刻
「また主は石たちに語りかけた」に対応する

2 ミケランジェロ『創世記における大洪水
本書では『最後の審判』と記述されている。
己の場所に戻りなさい、戻りなさい ! 」に対応する。

3 ホロコーストの犠牲者たちの写真 
「我らを哀れみ給え、主よ 哀れみを、
哀れみ給え、石は嘆願した。」に対応する。


4 キュビズムの彫刻家
 リプシッツ(1891-1973)の作品
戻りなさい、主は主張する、もう一度
戻りなさい最後にもし今‥‥」
に対応する

コンフロンタージュ

 コラーシュの考える1952年以降のコラージュの構成原理のもう一つはコンフロンタージュと呼ばれる。それは「複数のイメージの衝突」である。下の作品ではデューラーの『自画像』の中にフェルメールの『窓辺で手紙を読む女』が組み込まれている。その構成の仕方はマグリットの『白紙委任状』を思い出させるが、画面をある幅に縦に裁断したもの同士を交互に並べるような手法である。コラーシュはこう述べている。「なにか衝突すること。どこであろうと、どんな時であろうと、なにであろうとも――それがわたしというものだとわたしは自分に言い聞かせていた。本当に何か衝突する時、それは単に音階にすぎない。それからなにかをつくりださなければならない。さあ ! (阿部賢一 訳)


イジ―・コラーシュ『デューラー』 本書より

 彼のコラージュの主要原理は、先の「言語と画像との関係を追う『詩の画像解釈』」と、この「画像同士の衝突としての『コンフロンタージュ』」であるようだ。こんな詩もある。

ソネット

読んだことのない
小説を手にとってごらん
背表紙をはがし
ページを外してごらん
そして できるかぎりページを入れ替えてごらん
この混乱した状態で
本を読んでごらん
そして 内容を
十四行にまとめてごらん

(阿部賢一 訳)

 これに加えて立体のコラージュを加えることができる。麻紐と剃刀の刃、胸像と平面構成的な色彩分割、ここにも異質なものの対立と葛藤がある。

刻まれる人生の皺

 コラーシュの生涯を振り返る時、詩とコラージュはあざなえる縄のように絡み合い、その詩は視覚と共に踊る言葉だったと言える。それ以上に印象的なのは彼のキャリアである。コラーシュは、かつて、こう詩のタイトルを付けた。「いつか、ありとあらゆるものから詩をつくれることができるようになる」と。

 「わたしは、これまでいくつの職を経てきたであろうか ? 七歳でパン屋の見習いをはじめ、お金をかせぐために果物を収穫し、キャベツ踏みを手伝い、テニスボールを拾い、指物を習い、インディアンの物語や推理小説を書き、失業者となり、建設現場の作業員、編集者、給仕、怠け者、下水工、小間使いとなり、畑や森での作業をし、荷車を引き、指物細工をし、トラックの助手、ブルドーザーで日雇い労働をし、セメントを塗り、大工仕事、警備員、ウェイター、作家、看護士、青年活動家、肉屋、床屋、編集部の手伝いをし、新聞売り、弁士となり、週刊誌をつくったり、出版社の編集部で働いたりしていた。そして今、わたしは、詩を書いている。 (阿部賢一 訳)

 このような経歴の中で彼は、人々と出会い、それぞれの現場で物に遭遇することによって、その人生に喜びと傷という皺を刻み続けた。コラーシュは言う。

 「喜びは悲しみを持ち、あらゆる対立物はなにか共通するものを持っている。わたしたちは、世界との絶え間ない葛藤において生きている (阿部賢一 訳) 。」

著者について

 最後になって恐縮だが、筆者の阿部賢一さんのご紹介をしておく。阿部さんは1972年東京のお生まれ、東京外語大学を卒業された後、チェコのカレル大学、パリ第Ⅳ大学スラヴ研究科で学ばれる。東京外国語大学博士課程を修了、文学博士号を取得されている。武蔵大学や立教大学、東京大学などで教鞭を執られ、専門は中東欧文学、比較文学、翻訳研究とある。パトリク・オウジェドニークの『エウロペアナ』の翻訳で日本翻訳大賞、自身の著書『翻訳とパラテクスト』で読売文学賞を受賞されている。日本スラヴ学研究会、表象文化論学会に所属され、芸術選奨推薦委員でもあられる。



阿部賢一 著作 一部

阿部賢一『カレル・タイゲ』

本書は1900年生まれのチェコのシュルレアリストであるカレル・タイゲの評伝である。
第一次大戦後の新たな社会秩序を反映してプラハのクジェメンツォヴァ通りのギムナジウムに通っていた生徒を中心に「芸術家連盟デヴィエトスィル」が1920年に結成された。左翼的なプロレタリア・アートを標榜する。その理論的中心にタイゲがいた。彼らが目指すのは人間の幸せと新たな生活環境を求める「明日の芸術」だった。芸術社会学であり、生の意味を目指す「ポエティスム」だった。そこには詩と絵画の融合がある。言葉とコラージュやフォトモンタージュとの結婚は建築へと波及していった。タイゲとル・コルビジェとの建築論争は、その一端である。
そして、1930年頃、ネズヴァルのもとにブルトンの『ナジャ』の翻訳が届いた。その頃にはフロイトやユングの心理学と相まってエロスのエネルギーがポエジーを豊かにし、調和させると考えるようになる。ブルトンが弁証法的唯物論を肯定したことで彼らは社会主義リアリズムとシュルリアリスムとの融合を目指した。詩人の*6ネズヴァルと同じ道を歩もうとする。それは、現実と空想、意識と夢、認識と感覚という対立を統合しようとするものだった。夢の中に源泉を持つポエジーは常に神話を形成する力であるというタイゲは唯物論的な現実主義を基盤としていた。それはチェコ・シュルレアリスムに共通していて「昼のシュルレアリスム」と呼ばれる所以であった。しかし、1938年以降、プラハのシュルレアリストたちは四散し、ナチスの保護領となった今、身を潜める他は無かった。戦前にはプラハにブルトンらを迎えるほどの盛り上がりを見せていたシュルレアリスムだが、第二次大戦後は1947年の「シュルレアリスム国際展」は開催されたもののシュルレアリスムは終焉を迎えていた。タイゲはプラハにおける唯一のシュルレアリストとして孤立する。共産主義体制下ではタイゲに限らずアヴァンギャルドの運動は地下に沈まざるを得なかった。その中で1951年にタイゲは亡くなったのである。




阿部賢一 『翻訳とパラテクスト』

民族の言葉は文化資本である。その言語資本の異なる蓄積を持つ言語間の翻訳はどのようになされるのか ? これが本書のテーマの一つである。三部構成は以下のラインナップとなっている。
第Ⅰ部はハプスブルク帝国の言語であるドイツ語からチェゴ語への翻訳。(ヨゼフ・ユングマン)
第Ⅱ部は20世紀前半、チェコ系とドイツ系の住民たちの対立の激化の中でカフカを代表とするユダヤ系の翻訳家たちの活動。(パウル・アイスナー/パヴェル・アイスネル)
第Ⅲ部は20世紀後半の冷戦下における東欧の文学を西側諸国の言葉にどのようにして翻訳したのか。そして、ビロード革命後の作品受容についてである。 (ミラン・クンデラ)
それに加えて献辞、序文、後書き、注などを表す「パラテクスト」についても大きな柱になっている。それは、「‥‥テキストのより正しい受容とより妥当な読みのために働きかける特権的な場である」というのである。
クンデラについて少しご紹介しておこう。1975年にフランスに亡命した彼は、チェコでの出版の道が断たれ、わずかの例外を除いて翻訳を通してしか作品を発表できなくなる。『存在の耐えられない軽さ』は44の言語 (2021年現在) に翻訳されている。それで彼は翻訳をチェックする作家となっていったと言う。チェコ解放後は、チェコ語版に解説を書き、フランス語で書いた著作がチェコ語に翻訳されると言う複雑なプロセスを経ている。ちょっと面白いのは叙事詩を説明する時の「ファブラ」という仕組みである。ゲーテの言うように「世界を表明」し、「客観的現実を征服」するためには、時系列や因果律を廃して二つの異なる世界観を衝突させる。そこに「新時代の神話」を表現したいという。この辺はコラーシュの考え方に通じるものがある。共産主義と自由主義が衝突したチェコという国家の実情を反映しているのかもしれない。





コラーシュのコラージュ作品
コラーシュ 関連作家

*1ヤロスラフ・サイフェルト (1901-1986 ノーベル文学賞作家)
1920年代にはカレル・タイゲらと前衛芸術集団「デヴィエトスィル」を立ちあげてチェコスロバキアの前衛芸術を推進した。彼の第2作目の詩集『電信電波の波に乗って』は、タイポグラフィーと詩を組み合わせたポエティスムの代表的な作品といわれている。1921年にはチェコ共産党に入党するが、ボリシェヴィキ的な傾向に抗議する声明を発表したためチェコ共産党を除名されている。第二次大戦後は幼少期や愛国的なモチーフを詩作し『マミンカ』などの名作を残した。1984年にノーベル文学賞を受賞している。


*2フランチシェク・ハラス (1901-1949)
チェコの詩人、翻訳家、政治家。出版社オルビス、若い詩人のためのプルヴニー・クニーシュカなどの編集長を務めた。活動的な共産主義者として知られチェコスロバキア共産党に属し暫定国民議会議員も務めている。


*3インジフ・ハルペツキー(1910-1990)

チェコの批評家、美術史家、エッセイスト、翻訳家。戦前のチェコスロバキアでは左翼知識人に属していて1942年に結成された「グループ42」の理論家として活動する。戦後は季刊雑誌の編集長、視覚芸術家連合の芸術評議会の書記などを務めたが、共産党クーデター後は「衰退芸術」支持者とされて出版の機会を失い海外で匿名によって出版を始めた。住宅・衣服文化研究所の理論部門長をするようになって海外の展覧会に赴くことができるようになり1964年には国際美術批評家協会の会員になっている。


*4イジ―・パドゥルタ (1929-1978)

彼のキャリアは1957年にミロスラフ・ラマチと共にチェコ戦前の前衛芸術を紹介した『チェコ近代美術の創始者たち』展に始まると言っていい。チェコの美術理論家、美術評論家、編集者、キュレーターである。多彩な語学力を活かして海外の芸術、とりわけ抽象芸術を紹介して大きな影響を及ぼした。1964年にグループ「十字路」の設立者の一人となり出版活動を通じてチェコスロバキアに新しい感性をもたらしたとされる。


右 *5カレル・タイゲ (1900-1951)

チェコのモダニズム芸術家、作家、批評家。1920年代のデヴィエトスィル (蕗) 運動から1930年代かけての芸術運動の推進者として知られる。とりわけ、デヴィエトスィル主催の展覧会やイベントにはブルトンをはじめとするシュルレアリスト、コルビュジエ、パウル・クレー、ウラジミール・マヤコフスキーらが招聘されている。バウハウスとの関係もあり、マルクス主義と機能主義を基本とした活動を支持していた。

*6ヴィーチェスラフ・ネズヴァル
(1900-1958)
チェコスロバキアの詩人、作家、翻訳家。
作曲家オシュ・ヤナーチェクに師事した音楽家でもあるが、チェコスロバキアの前衛集団「デヴィエトスィル」のメンバーとして知られる。そのメンバーにはインジフ・シュティルスキー、ヤロスラフ・サイフェルト、カレル・タイゲらの他にプラハ学派の創設者である言語学者のロマン・ヤコブソンがいた。また、ネズヴァルは、主にカレル・タイゲが理論化した「デヴィエチル」の方向性を示す「ポエティスム」の創始者でもあるといわれる。ドイツによる占領下でレジスタンス運動に参加し、解放後は情報省の映画部門の責任者をしていた。







参考画像


プロチヴィーンとクラドノ

プロチヴィーン マサリコヴォ広場


クラドノのマリア柱 1741

パヴェル市長広場 クラドノ




ギョーム・アポリネール『エッフェル塔』カリグラム (図形詩) の例




グレテ・シュテルン『幻想のない愛』1951 フォトモンタージュ
シュルレアリスム風の合成写真

コラージュとは、基本的に貼り絵の事だが、合成写真によるフォトモンタージュや立体のコラージュも含まれるようになる。



ミケランジェロ『創世記における大洪水』





コメント