自然と人体の理想美が見られる古代ギリシア芸術を賛美し、その模倣としての美術を定式化したヴィンケルマンの新古典主義美術史。そうではなく、それらが提起するものとは異なる美術史はないのか。イメージの記憶が闇の中から浮上する時間が存在し、抑圧されたものが永劫回帰の戯れとして現れる、そう言った美術史もあるのではないか。それをジョルジュ・ディディ=ユベルマンはアビ・ヴァールブルクの美術史として言挙げした。
今回の夜稿百話は、図像学の泰斗アビ・ヴァールブルクを扱っている『残存するイメージ』を取り上げる。副題が「アビ・ヴァールブルクによる美術史と幽霊たちの時間」となっている。帯に記されているこんな「言葉、狂気の淵、イメージ=時間モデル、名前のない科学、奇跡の歴史症候学、真珠とりとしての歴史家」これだけでもう普通の本じゃないのが分かる。
アビ・ヴァールブルクの来歴
著者のディディ=ユベルマンについては『時間の前で』美術史は預言の学となるで既にご紹介しておいたのでそちらをご覧いただければ思う。ここではアビ・ヴァールブルクの来歴をご紹介しておく。彼はハンブルクで銀行の取締役をつとめるユダヤ人一家に生まれる。7人兄弟の長男だった。厳格なユダヤ教に反発し、医者や弁護士になることも拒絶、ひたすら美術史家になることを主張し、13歳の年、長子権をすぐ下の弟に譲って銀行で働くかわり好きな本をいくらでも買える権利と交換する。これによって著名なヴァールブルク文庫/図書館が形成されていくのである。
1886年からボン大学で学びラオコーンの美学を発見し、翌年には〈情念定型〉についての最初の考察を行う。美術史家のカール・ユスティは古典文献学やヴィンケルマンのギリシア古典芸術へと導き、その弟子のアドルフ・ミヒャエリスによって古典考古学を学んだ。一方でヘルマン・ウーゼナーの「人類学」に関する文献学に没頭するようになる。人類学の祖といわれるエドワード・タイラーにも大きな影響を受けた。これらを契機として彼の前には哲学、民俗学、心理学、歴史学、人類学と言った分野が広がっていった。
アウグスト・シュマルゾー
(1853-1936)
1888年から1889年まで、彼はフィレンツェの美術史研究所に滞在し、ルネサンスの絵画の研究を行う。これは1892年に論文として提出される。美術史のテーマに図像学を取り入れ、今や、人文科学に科学的方法を適用しようとした。シュマルゾーはもう一人の大きな影響を与えた学者だったが、彼は、進化論、情報伝達、身振りの言語というものの役割を理解していてヴァールブルクは身体的な感情移入理論を構築する。そしてボッテイチェリの研究から医学へ、進化論、はては確率論の研究にも及んだ。それは「運動する知」だとディディ=ユベルマンは言う。
その人は、ヴァールブルク学派の祖として有名な人だが、その弟子筋には綺羅星のような学者たちが名を連ねる。エルンスト・ゴンブリッチ、 フリッツ・ザクスル、エドガー・ヴィント、エルヴィン・パノフスキー、フランセス・イエイツなどなど。しかし、意外にご本人自身の思想はあまり明らかでない。まとまった著作が残ってないうえに、生涯の締めくくりと言える時期に精神病に陥ったからであろう。ディディ=ユベルマンは、その思想を状況証拠を積み上げて事件の全貌を明らかにしようとする刑事さながらに詳述してゆく。この情熱はすごいかもしれない。
(1909-2001)
(1892-1968)
左
根源的苦痛と芸術の生産の能力
最近小学生たちの作品をよく目にすることができるようになり、大変幸運だと思っている。そこには、あらゆる造形作品に通ずるようなプロトタイプを垣間見ることができる。ヴァールブルクは、審美的な美術史に興味がない。中産階級の美意識に対する嫌悪があったと言われる。芸術はたんに趣味の問題ではなく、文化の長期持続における渦、「生」の葛藤の問題であった。まず、美よりも重要な問題があるのである。
すでにここから通常の美術史から逸脱している。生は当然死とうらはらである。死が死体を残すように、それには残存がつきものなのだが、それは幽霊のようになかば生きているのである。その幽霊は彼を苦しめることになるのであるが、このペシミズムの影響をディディ=ユベルマンは、ニーチェに見る。
ニーチェはこう書いている。「(意志は)苦悩するだけでなく、産出もするものである。意志は、どれほど小刻みにではあれ、たえず仮象を生み出している。‥‥世界の途方もない芸術的能力は、途方もない根源的苦痛に対応している。(『断章七』竹内孝宏・水野千依 訳)」彼にとって芸術の母胎は悲劇であった。古代ギリシアの悲劇がなおも我々に影響を与えているように、『悲劇の幼年時代は』我々の中に残存し、この存在はたえず我々を産出し、我々の現在、さらに未来をつくりあげる」という。 悲劇は「再誕生」し、我々の中の「ギリシア的本質」を残存させると。
ニーチェはいう「凄惨な深淵を欠いた美しい表面など存在しない。(断章八)」ラオコーンの蛇の暴力性、ケンタウロスの「動物的強靭さ」は、「情念定型」というヴァールブルク独自の概念に成っていくのである。しかし、それはニーチェのようにアポロン的(視覚的)なものとディオニュソス的(舞踏的)なものを対比させない。ヴァールブルクにおいては、両者は情念定型の中で一つになるのである。ブルクハルトとニーチェは記憶の波の受け手であり、異なる予言者の二つのタイプであると述べる。そして、日記の中でこう嘆く「ニーチェが人類学と民俗学のデータに精通してさえいれば (ゴンブリッチ『アビ・ヴァールブルク伝』) 」と。
ラオコーン
ブルクハルトを介して歴史概念もニーチェに負うところがあった。ニーチェにおいては、人間の身体が互いに緊張関係にある力の表現であるように歴史はそれに関わる諸力の戯れ、その生成の運動である。生と死のような両極性の闘争であった。記述され、死んだ記録としての歴史ではなく、過去がそこで生き、そこに残存するような歴史がある。ニーチェはこの歴史を「芸術的力能」と名づけた。ディディ=ユベルマンは書いている。「芸術はしたがって、ニーチェにとって、歴史学の中心=渦 ―― きわめて批評的=危機的場、非知の場になる」と。
フロイトの『快感原則の彼岸』
患者の無意識を意識化するという目標をフロイトは掲げていたが、患者が抑圧したものをことごとくは思い出せないこと、とりわけ本質的なものこそ思い出すことができないことに気づいた。患者は過去を一片として追想するのではなく、現在の体験として反復することを余儀なくされるのである。これが、反復強迫である。自我というものは、ほとんど無意識だが、抑圧されていたものが意識的な自我と前意識へと解放されることによって呼び起こされる不快を免れようとして抵抗が生まれるという。こういった基本情動と意識にまつわる事柄が、ベンヤミンやボードレールがフロイトに親しむ理由でもある。
ジークムント・フロイト(1856-1939)
反復強迫がもたらすものは、たいてい自我にとっては不快なものである。それは、絶対に思い出してはならないものを避けるための必要悪なのだ。いわば最悪の状態を回避しうる緩衝器であって、快感原則に矛盾しない不快であるという (『フロイト全集 6』「快感原則の彼岸」)。このような神経症者の転移現象は、神経症でない人々にも往々に認められるものらしい。それは、彼らや彼女たちに付きまとう宿命、デモーニッシュな性格という印象を与えるものだとフロイトは言うのである。
フロイトは書いている「患者は自らの中に抑圧されているものすべてを思い出すことができるわけではなく、多分、ほかならぬその本質的な部分を思い出すことができない。‥‥患者はむしろ、抑圧されたものを、現在において生きられている経験として反復するよう強いられるのであり、過去の断片としてそれを想起するのではない(『フロイト全集』竹内孝宏・水野千依 訳)」と。ディディ=ユベルマンは、このように云いかえる。「無意識的記憶の中では差異だけが反復される。いいかえれば反復は差異化される。」
そして、フロイトは、「‥‥患者は自分が忘れてしまったり抑圧してしまったりしたことについてはいかなる回想を持つこともなく、ただそれを行為に翻訳するだけのことしかない。忘却された事実が再び出現するのは回想の形式ではなく行為の形式においてである(『フロイト全集』竹内孝宏・水野千依 訳)」とも述べている。そう、行為だ。ヴァールブルクのいう情念定型の身振り。ヒステリー症状での回想は身体的な行為と結びつく。ヴァールブルクは、ここに自分の直面している問題を解く鍵を見つけた。それは名前のない科学だった。それで、人間のイメージもこのように快感原則の彼岸に従うなら、抑圧されたイメージが残存し、回帰してくる可能性は否定できないのである。
流れ去ったり逆流してきたりする記憶、フロイトにとってそれは「潜在性と理解不能な顕在化の生起との戯れ」であり、それを「生き残り/survival」と表現している。ヴァールブルクが亡くなった十年後に『モーセと一神教』の中でそう書いているとディディ=ユベルマンは指摘する。ゴンブリッチはヴァールブルクがフロイトに興味を持っていなかったと書いたが、その思想においてシンクロしていることは疑いない。
精神的危機
精神疾患が、どれくらいヴァールブルクにとって危機的だったかは、後半の精神科医オットー・ビンスワンガーとの関わりの中で語られるのである。ビンスワンガーはフロイトの高弟として知られ甥のルートヴィッヒはニーチェの治療にあたっていた。ヴァールブルクはビンスワンガーを通じてフロイトの思想を紹介されたのではないかとディディ=ユベルマンは考えている。
左 クロイツリンゲンの街並み 右 ビンスワンガーの旧療養所
キルヒナー画
ビンスワンガーによるとヴァールブルクは子供のころから不安と強迫観念や妄想の兆候があり、1918年には重度の精神病を発症した。観念は全く錯乱していて強迫的儀式やその不安から逃れることが出来ず、神経症として形成されていたものが初老期を境に一気に精神病として発展したのだと言う。午前には運動性の激しい興奮がみられるものの午後には来客と話したりハイキングに出かけることも出来た。
1922年にはビンスワンガーや他の患者のためにホピ族のインディアンの所で遭遇した通過儀礼の経験について話すつもりだと息子への手紙に書くまでになった。この講演は助手のフリッツ・ザクスルの献身的助けもあって何とかやり遂げている。ビンスワンガーはヴァールブルクが既に完治していると請け合った。
プエブロインディアンとヴァールブルク
『ケンタウロマキス/ケンタウロスの闘い』
ヘパイストス (テセウス) 神殿フリーズ
5世紀 アゴラ
『ケンタウロスの闘い』
パルテノン神殿南側メトープ 前447-前433
ヴァ―ルブルクは1895年にニューメキシコのオライビにおけるプエブロインディアンたちの生きた儀礼に接することが出来た。プエブロとはスペイン語で集落への定住を意味する。彼が追及してやまなかった「原象徴」の生きた力であり、それは同時に人間性と獣性への分裂だった。数年前に『ケンタウロスたちの戦い』を見ていたのだが、そこにはロゴスとパトス、人間的なものと動物的なものが混ざり合い、捻じれ、対立していた。彼はラオコーンにあるような化け物と格闘したのであり、この経験から教訓を引き出すには尚、30年の歳月を要した。
チリの局所的地震の振動記録 本書より
この1923年のクロイツリンゲンの講演用ノートには「地震計のイメージ」が書かれているらしい。地震計は地下の目に見えない運動を記録できる装置だ。遠くて感じられないもの、見えないものを見えるようにする。記録技術の進展による線図は感覚の領域のものを物理的なデータに置き換え可視化するのである。ヴァールブルクはこう述べている。
「1923年3月クロイツリンゲンの閉ざされた施設で、わたくしは、自分が木材の断片からつくられた地震計であるように感じております。北ドイツの肥沃な平野にオリエントから移植された植物を彷彿とさせるものです。しかもこの植物には、イタリアから来た枝が接ぎ木されている。わたくしは、受信した信号が自分の外に出ていくのに身をまかせております。(竹内孝宏・水野千依 訳)」
ムネモシュネ・アトラスとは何だったのか
渦のような「生の葛藤」としての歴史もあるということはいいとして、残存とは、何かという問題が残る。ここでは、フロイトが登場する。忘れさられた事柄なのに付き纏い離れない、おまけに身体的な極度の緊張を伴ってさえたち現れる残存するイメージとは何かという問題が。しかし、残念ながらヴァールブルクは自分が覗き込んでいた大渦にのみ込まれたのである。そこから脱出した時には自分の思想を纏める時間も力も残されてはいなかった。
ヴァールブルク著作集 別巻1
『ムネモシュネ・アトラス』
それでも、ヴァールブルクは、ムネモシュネ(記憶の女神、美の女神たちの母)の名を冠した『ムネモシュネ・アトラス』と呼ばれる一連の図像を集めた60以上のパネルを後世に残した。人類に対する素晴らしい贈りものだった。どのようなものか少しだけご紹介しよう。以下の図版群はそのパネルのごく一部にすぎない。
■ パネル46
パネル46
『アビ・ヴァールブルク伝』より
左からバルトロメオ・デッラ・ガッタ 『モーセの死と遺言』15世紀 部分
ラファエロ『ボルゴの火災』16世紀 部分
ギルランダイオ『聖母マリアの聖エリザベト訪問』15世紀 部分
『ムネモシュネ・アトラス』 パネル 46より
左から ボッティチェリ『キリストの試練』 15世紀 部分
ビアージョ・ディ・アントニオ 他『紅海を渡るモーセ』15世紀 部分
ギルランダイオ『洗礼者ヨハネの誕生』15世紀 部分
ここでは、ローマ時代のニンフの姿(この場合身振りの方にウェイトがある)が後世どのように差異化されて反復されていったかがわかる。壺を運び、子供や荷物、最後は軽やかに果物を運ぶ姿へと変相する。髪を解き、衣装をたなびかせながら軽やかに歩むニンフは造形芸術に現れるだけでなく古代の祝祭に登場する人物たちの生きた姿であり、「異教的な生の化身」だと言う。
彼は芸術作品の中に、あそこにもここにもニンフの姿を見た。時にそれは不吉なサロメであり、ホロフェルネスの首を運ぶユディットであった。そこには彼にとって重要な要素となる両義性がある。彼は、その情念定型の中で夢物語と悪夢との両極を味わうことになるのである (『ホロフェルネスの首を侍女に渡すユディット、左のテントの中で首を切られたホロフェルネス』 参考図版参照)。 このような意味のことを述べている。
ニンフは私の蝶であり、再び、それを捕まえようとしたかったが、私の知的素養がそれを妨げた。自分はプラトンの国に生を享けた者であり、諸イデアを眺めることが好きで乙女が近づいてきたときには一緒に舞い上がりたいと思うけれど、「私にはただ、それを見て過去を振り返り、さなぎの中で蝶がどのように変化してゆくのかを楽しむことしか許されていないのである (『アビ・ヴァールブルク伝』鈴木杜幾子 訳)。」 僕は、これが彼の精神を分裂させた原因かもしれないと思うのである。
■パネル58
パネル58
『ムネモシュネ・アトラス』より
パネル 58 全てアルブレヒト・デューラー作品
左から 『1484年の惑星配列図のもとに描かれた梅毒患者』
『アーチ型のホールに二人の天使がいる聖家族』
『ソル・ユスティアエ』
パネル 58 全てアルブレヒト・デューラー作品 左から
『海の怪物』(参考図版) 『七つの燭台の幻』(参考図版) 『メレンコリアⅠ』
パネル 58
左 デューラー『ヨハネス・クレべルガーの肖像』
中 サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ聖堂 回廊
右 デューラー『横たわる裸婦』1501
このパネルにあるのはルネサンス期に甦ってくる異教の神々と占星術だ。ソル・ユスティアエ (正義の神) のような異教的な神々とキリストとのシンクレティズム、惑星配列図と共に描かれた梅毒患者の図などの占星術的イメージ、クレベルガーのメダイヨン風の肖像画の左上には獅子宮の記号が見られる。そして、メレンコリアⅠや横たわる裸婦に見られるメランコリックな土星的イメージである。
グラディーヴァ (歩く女)
ギリシア彫刻のローマ時代の模刻
ディディ=ユベルマンは書いている。「たしかに、ヴァ―ルブルクは、単純な感嘆といった静止状態の中でイメージを考察したのではなかった。イメージがその優美さを現前させるのは、それと認められた身振り(ニンフの軽い反身になった歩調)の瞬間においてである。しかし、いましがた見たように、イメージは過去の記憶に苦しんでもいる。身ぶりは、ほんのわずかなりともデッサンされただけのことで ―― また、ほんの少し強調されたり置き換えられたりする、つまり不気味なものと化すだけのことで――『時間の奥底から』無意識的記憶を浮上させる。視覚的イメージに対する感嘆は、ヴァ―ルブルクの場合、時間の渦流に対する根源的な不安のようなものを喚起する。(竹内孝宏・水野千依 訳)」
ここで、思い出していただきたいのはフロイトがこのように述べたことだ。患者は自分が忘れてしまったり抑圧してしまったりしたことについてはいかなる回想を持つこともなく、ただそれを行為に翻訳するだけのことしかない。忘却された事実が再び出現するのは回想の形式ではなく行為の形式においてであると。ルネサンス期のデューラーのような作家が遠い過去の異教の神々や占星術的イメージと繋がっていたことは分かる。しかし、軽やかなニンフの足取りが何故不安のようなものを喚起するのか、そこにヴァールクの最大の謎がある。
左 ガラガラ蛇との蛇儀礼 プエブロインディアンによる 本書より
右 マイナデス (喚きたてる者たち/ディオニュソスの女性信奉者) の踊り
本書より
生贄の動物を握って踊り狂うマイナデス
ネオ・アッティカの大理石レリーフ 前5世紀後半
『ヒステリー発作の前駆症状』
ポール・リシェ 1881 本書より
彼に大きな衝撃を与えたプエブロインディアンの蛇儀礼における体験が鍵になるのではないかと僕は思っている。その儀礼には天と〈大地=人間〉とを媒介するガラガラ蛇の役割があった。人間に代わって天に雨の恵みを乞う役割を果たすのである。それはヴァールブルクに長い人類史的な体験の中で人間が徐々に忘却していったものとの邂逅と思ってもみなかったものを想起させた。
古代ギリシアのディオニュソス崇拝の女性たち、すなわちマイナデスが髪飾りに生きた蛇を巻き付け狂気のように踊る姿を描いた造形物を思い出させたのである。遠いかつての儀式は、生贄によって人間の内なる獣性と自然の中に在る獣性との繋がりの再契約であり、その二つの再融合の儀式ではなかったろうか。彼女たちの手には蛇や生贄の動物たちが握られていた。しかし、プエブロインディアンの蛇儀礼はマイナデスのものより、より浄化された儀礼となっていた。蛇との関係は物神崇拝から純粋な救済宗教へと変化していく過程にあるという。
近代合理の人間にとって抑圧された記憶であり、ヴァールブルクにとっては、〈見る〉という行為の中で発現してしまうために起こる不安な感情の喚起なのではないか。ニーチェの言う生の葛藤、フロイトの言う抑圧されたものの生きられた中で強いられる反復。だから、ここで問題になるのは〈身振り〉なのである。身体性、それは人間の理性とは違う次元にある別のシステムであり理性よりも古い歴史を持つものなのだから。
マイナデスの一連の動きはニンフたちのそれと重なったのである。そこにある身振りは歴史的なスパンの中で両義的イメージにまで展開される身振りの多重レイヤーだった。
ヴァールブルクの遠心力
カール・ランブレヒト(1856-1915)
ドイツの歴史学者カール・ランプレヒトは歴史研究の中で文化史と経済史、とりわけ心理学の領域を重視し、政治史と個人史を二の次にした歴史学者で国家や事件といった歴史の兆候よりもその周期性を重視した。ヘーゲルの歴史体系を心理学領域に置き換えたとゴンブリッチは述べている (『アビ・ヴァールブルク伝』)。ディディ=ユベルマンはヴァールブルクの直接的な師は、このランブレヒトではないかと言う。ゲオルク・ジンメルやマルク・ブロックが歴史学にある種の心理学的な視点を導入することを余儀なくされたのと同じだと言うのだ。
ランプレヒトは人類の文明の発展段階をその心理学的な精神的傾向に応じて、いくつかに分け、その第一段階を「象徴的」と名づけた。こう述べている。
「身ぶりや、適切な身体の姿勢や、言語の音楽的扱いをともなわぬ詩というものもない。詩的かつ音楽的形態をとり得ぬような儀式も存在しない。言語的モチーフや、音楽や、身体的表出のなんらかの反映をもたぬ視覚芸術はない‥‥世界の本質は観念や思想ではなく直接的印象によって形づくられていた‥‥心理学的に解釈されるべき人生の諸問題がこの時代どのようなものであったにせよ、それらは概念としてとりだされてはいなかったし、さまざまな定理に覆われてもいなかった。それらはむしろ、その直接性のままに再現され、その意味はそれらを象徴形態として形づくることのできる心理的能力によって把握されたのである‥‥このように直接的本能と思想とは当時まだ一致していて、精神生活と文化の全体はいまだ象徴的な性格を有していたのである (『現代歴史科学』鈴木杜幾子 訳)。
まるでアールブリュットに対する定義のようだが、この象徴形態が人類の記憶の基層のなかへと残存し埋もれていった時、それを取り戻すことは症候となり、それを概念化することは〈名前のない科学〉となるのである。歴史の渦の中で人間によってイメージは新たに作られると同時に背後霊のように現われる。それは、何よりも芸術が自己と外界との関係を自覚的に創造しようとする人類にとって基本的な業 (わざ) であり、そのことによって自己と世界との繋がり形成していたからである。
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