ロシアの黄昏の時代、あの病的なまでの静寂と、土臭い田舎気質、死にゆく世紀が身を安らう最後の隠れ家、ゆっくりと這うように蠢いていった1890年代 ――
オシップ・マンデリシュタームの唯一翻訳された散文作品『時のざわめき』の冒頭にはこのように書かれていた。ここには、スターリンの暴政に対する怒りも、逮捕にたいして神経をすりえらすことも、ボロネージで飢えに苦しむことも、シベリアのラーゲリ (収容所) での悲痛な死も、何もかもなかった平和な時代の香りを湛えていた。
その時代は、さながらペテルブルク中が、極楽浄土を目指すように我も我もとパブロフスクに押し寄せた。ご婦人方の提灯袖を先頭に、その他のいっさいが、ガラス張りのパヴロフスク駅のまわりをぐるぐると駆け巡り、汽笛と発車のベルがチャイコフスキーの『1812年序曲』の愛国的不協和音と混じりあい、駅のなかは特別な匂いが立ち込めていた。公園の湿った空気、薔薇の匂い、ビュッフェの蒸気、シガーと石炭殻と香水の匂い。幼年時代の思い出はそれらの匂いによって喚起される。そこは、まさしく世界の中心だったのである。
今回は、オシップ・マンデリシュタームを新たに書き直しました。マンデリシュタームの幼心の記録であるこの『時のざわめき』を縦軸に、鈴木正美さんのマンデリシュタームの評伝『言葉の建築術』などの内容や彼の詩を交えながら前半生をご紹介します。後半生に関しては次回、奥さんのナジェージダさんの伝記をもとにご紹介する予定です。
ペテルブルクとパブロフスクの地図
ペテルブルクの優雅な幻想とユダヤのカオス
荒涼としたロシア世紀末の入り口 (とばぐち) ペテルブルクの優雅な幻想は、底知れぬ深淵に投げかけられた煌びやかなヴェール、儚い夢だった。母なる故郷でもなく、家庭でも、炉辺でもなくユダヤ風のカオスだったのである。それは石造りの家の隙間という隙間に破壊の兆しとなって忍び込んでいた。オシップ・マンデリシュタームは1891年ワルシャワで生まれた。幼年時代と青春時代をペテルブルクとその近郊のパブロフスクで過ごす。「燦然と輝く花崗岩の街」ペテルブルクのマリンスキー劇場の裏手にはユダヤ人街があった。
ペテルブルク パノラマ 1861
父親エミーリは、リトアニアの出身で、14歳で故郷を離れ、ベルリンのユダヤ律法学校で学ぶも、読みふけっていたのはスピノザやヘルダー、シラーやゲーテだった。結婚後、手袋製造と皮革仕分けのライセンスを得て、ワルシャワに移った。母親フローラは、同じくリトアニアのユダヤ系の知識階級の出身で、親戚にはプーシキンの研究者やペテルブルク音楽院のピアノの教授がいた。自身も娘時代はピアノの教師をしていたこともあったという。マンデリシュタームの音楽好きはこの辺に原因がありそうだ。
母は混じり気のない、大ロシアの文学語を話し、その語感や響きを喜ぶような人だった。父が話すのは、ドイツ系ユダヤ人の不明瞭なロシア語で、古いドイツ哲学の用語とユダヤの律法学者のシンタックスが混じりあった、尻切れトンボの奇妙な言葉であったという。この二つの言葉の奇妙な溶け合いによって彼の語感は養われることになる。
5歳ころのマンデリシュターム ?
幼い彼の周りを取り囲んでいたのは、母なる故郷でもなく、家でもなく、炉辺でもなく、まさにユダヤ風カオスだった。ネフスキー通りのニコラーエフスカヤ街のあたりに一家は住んでいたが、その住居の隙間という隙間に破壊の兆しが忍び込み、田舎の客の帽子、本棚の隅っこのゲーテやシラーの下敷きとなっている誰にも読まれない『創世記』の先の尖った活字、黒と黄色の儀式の端切れ、至る所にそのカオスは忍び込んでいた。
セミョーン・ナドソン 運命を分かち合う民衆のアイドル
ユダヤの廃墟の上に本の隊列が始まる。父の隊列にはユダヤ律法学者のロシア史、イディッシュ語の教本、その上にライプチッヒやチューリンゲン版のドイツの文豪たちの本があった。そして、マンデリシュターム自身の蔵書にも母の蔵書にもあったプーシキン。彼が愛した文学者はプーシキンとセミョーン・ナドソン (1862-1887) だった。
ナドソンは2歳の時に父が精神病院で亡くなり、親戚の家に預けられ、肌に合わない軍学校や士官学校で学び、カスピ海連隊の中尉となったが肺結核に先行する結核瘻 (ろう) のために倒れた。かなり厳しい環境に育ったのである。退役して週刊誌の編集部で働くようになる。彼の詩は同時代の人々との間に信頼関係を築こうとする言葉に満ちていて、ある者は精神の苦痛の叫びを、ある者は半ば忘れていた感情を呼び覚まされたという。マンデリシュタームは彼の詩を「ロシア文化の謎」であり、その響きは本質的に理解されたことがないという。この24歳で亡くなったユダヤ詩人の日記と手紙はマンデリシュタームにのとって、この上ない救いとなった。
無表情で、ほとんど、無感覚ともいえる単純さと燃えるような激しさとが共存するその詩の世界に驚かされた。彼の本の全てが同じであり、時代そのものも同じであったのだ。世紀末の10年もの間、破壊の淵に至るまで世代と運命を分かち合おうと望む民衆のエリートたちのアイドルだった。その後、ロシア文学は、この己が理想とバアル神 (古代カナンで崇拝された稲妻の神) に憑りつかれた肺病やみの世代から眼をそむけたと述べている。
テニシェフ中学
ザゴロードヌイ通りの収益 (みいり) のいいアパルトマンの中庭にケンブリッジ風のいで立ちで30人ばかり少年がフットボールに興じている。マンデリシュタームが通ったテニシェフ中学の生徒たちである。実験室のガスで頭痛を起こし、鉋屑とのこぎり屑の中、よじれる鋸、ひん曲がる鉋とで地獄となる工作の時間、艱難辛苦の授業もあったらしい。在学中に同校の教師であった象徴派の詩人ヴラジミール・ギッピウスとの出会いが詩作への端緒となったという。この学校には軍人風で特権的な貴族的と言ってもいい雰囲気があった。級友たちのポートレートは、ざっとこんな感じだった。
ヴァニューシャ・コルサコフ、渾名はポーク・カツ、ぶくぶく肥った地方自治主義者。優等生のスロボジンスキー、ゴーゴリが焼き捨てた『死せる魂』の第二部から抜け出したような男、穏健な神秘主義者、正義愛好家、ドストエフスキーの恐るべき多読家、後にラジオ局の主任になった。ブルジェセツキー、貧しいポーランド小貴族の生まれ、悪態つきの名人。ナデージュジン、雑階級の出身、小役人の住居のすえた甘酸っぱい匂い、なにひとつ失うものを持たない身の快活さと気楽さ。バラッツ、熱烈な鉱物学者、寡黙なること魚の如し、話すことはただ雲母と石英。
なかなか痛烈なのだが、このように締めくくっている。そこには素晴らしい若者たち揃っていた。それは、ヴァレンティン・セローフ (1865-1911) の描く子供たちと同じ血と肉を分け合っている若者たちだった。若い苦行者たち、子供の修道院の修道僧たちが手にするノートや、筆記用具、フレスコ、ドイツ語の教本の中には大人たちの人生よりはるかに多くの高尚さと内的調和が隠されていたと。
ヴァレンティン・セローフ『子供たち』1899
沈黙 ― チュッチェフとマンデリシュターム
1910年のロシアは象徴主義の爛熟の時代を終えて衰退途上にあり、若い世代が新たな詩を模索しつつあった。未来派やアクメイストと呼ばれるグループの詩人たちである。マンデリシュタームより11歳年上の詩人で象徴派第二世代の代表的詩人であるアレクサンドル・ブローク (1880-1921) は、1920年の日記でアクメイスト達のことを「彼らは魂を冷たい沼の中に沈めた」批判したが、そのメンバーであったマンデリシュタームのことは「名人」と呼ぶのである (鈴木正美 『言葉の建築術』)。
その頃、高く評価されていた象徴派の詩人にアナファシー・フェット (1820-1892) やフョードル・チュッチェフ (1803-1873) がいた。チュッチェフは、ロシア貴族の出身で外交官だったが、象徴派の詩人たちにとっては、フランスの象徴派の詩人たちと並ぶ偉大な詩人でもあった。初期のマンデリシュタームにも彼らの影響があったと言われる。「アポロン」誌に掲載されたデビュー作『沈黙』は、チュッチェフ の同名の詩に触発されたと言われている。このような詩だった。
どうしたら心はおのれを語れるのか
どうしたら他人におまえが解るのか
おまえが何故に生きているのか 人に解るというのか
言葉にあらわされた想いは嘘なのだ
泉をかきおこせば 泡だたせる
それを糧とするのだ そして沈黙せよ
チュッチェフ『沈黙』(鈴木正美訳)
彼女はまだ誕生していなかった
彼女は音楽にして言葉、
それゆえ生命 (いのち) あるものことごとくの
毀 (やぶ) りがたい絆
海の乳房は安らかに息づいている、
けれど、狂人のように昼は輝きわたり、
海の泡の蒼白いライラックは
紺碧の容器に浮かぶ
わが唇よ 見出してあれ
原初の沈黙を、
音の結晶のような、
生れたままの無垢なる沈黙を !
海の泡のままでいてくれ アフロディテよ、
言葉よ 音楽に戻れ、
心よ 心の表出を辱 (は) ずるがいい、
生命の根源とひとつに融けあったものよ !
マンデリシュターム『沈黙』(早川真理 訳)
フェートの詩には「ああ、言葉なしに、魂だけで話すことができたら」という詩句があったし、チュッチェフの「言葉にあらわされた想いは嘘なのだ」は、とりわけよく引用され、その詩の生きた言葉は表現し得ぬものの音楽だとされた。詩の音楽性と表現され得ぬ魂は、ニーチェとワグナーに心酔したブロークの「芸術は音楽である」という言葉に集約され、『薔薇と十字架』に結実していったという。しかし、象徴派の詩は言葉の多義性が過剰になり意味不明になりつつあったのは、和歌における鴨長明の幽玄体が「有るにもあらず無きにもあらず」という朦朧体と紙一重と言うところにまで行き着くのに似ている。
やがて、マンデリシュタームはフェートもチュッチェフも投げ捨てた。本書では、このように書かれている。フェートの病んで腫れあがったまぶたは、眠りを妨げ、チュッチェフと言えば、早期硬化症で、石灰の層のように、血管の中に身を横たえていたが、象徴派の五つか六つの言葉は、福音書の五匹の魚のように手籠の中でもがいていて、その中には創世記という大魚もいたという。1930年代前後のプーシキンやレールモントフと言った詩人たちの、そして、19世紀のゴーゴリ、トルストイ、ドストエフスキー、ツルゲーネフといった小説家たちの金の時代は終わったのである。
アクメイスト
象徴派を投げ捨てた後、マンデリシュタームは本源に立ち戻ろうとする。一つの流れが行き詰まった時には、よくある話だ。それは、原始への郷愁と回帰となる。人間と事物との直接的な関係を回復しうるような本源への志向と言えた。これに建築的な堅牢な構造性を持たせようとしたのである。ここに音楽性と共に建築性が加わることになる。1908年に、ニコライ・グミリョフが『第六感』で、象徴派の幻視の夜の世界を真昼の輝かしい世界へと導こうとし、「第六感を生んだ肉体」への愛を取り戻そうとした。アクメイズムの開始であった。アクメとはギリシア語で絶頂、成熟、満開の花を指す言葉だ。こうして、アクメイストやマヤコフスキ―らの未来派の詩人たちが活躍する19世紀末から20世紀初頭の銀の時代がはじまるのである。
(1884-1967)
(1886-1973)
(1889-1966)
アクメイストたち これにマンデリシュタームが加わる。
マンデリシュタームがテニシェフ校を卒業して向かったのはパリだった。グミリョフとここで出会っている。1907年の10月から約半年ばかりソルボンヌで学び、ベルグソンの講義を聞き、ボードレールやヴェルレーヌに浸っていた。1909年にはハイデルベルグ大学で8ヶ月ほど学んでいる。これは、おそらくフランソワ・ヴィヨンの詩を研究するために古フランス語を学んでいたのではないかと思われる。1910年にはアクメイズムの機関紙となっていた「アポロン」に5篇の詩が掲載されることになった。これは、万歳だっただろう。1911年にペテルブルク大学の歴史言語学部ロマンス語科に入学してギリシア語を研究したが、革命の勃発で中退を余儀なくされる。
ヴャチェスラフ・イヴァーノフ(1866-1949)
この時期、もう一つ出会いがあった。ヴャチェスラフ・イヴァーノフが主催する文学サークル「塔」にアフマートヴァがいたのである。この頃アフマートヴァは、グミリョフの二度にわたる自殺未遂に耐えかねたのか、しぶしぶ彼のプロポーズを受け入れて妻になっていた。この「塔」のイヴァーノフは、ベルリンでローマ法を学んだ人だが、ニーチェやヘルダ―の哲学やノヴァーリスなどの文学にも造詣が深かったし、ロシア象徴主義の第二世代の理論的指導者であり、同時に詩人、随筆家、批評家でもあった。革命後、ローマに亡命し、フィレンツェ大学などでスラヴ学を教えたという。
実質的にアクメイズムはグミリョフ、アフマートヴァ、マンデリシュタームの三人による僅かな時間続いた青春同盟といってよかった。それは、グミリョフが1921年に反革命的陰謀罪で銃殺されたことによって事実上終わったのである。マンデリシュタームは、アクメイズムを一貫して自分の文学理念と考えていたが、その後展開された詩とその言葉を巡る理解は、むしろ彼が一貫して斥けて来た未来派のフレーブニコフに繋がっていることが否定できないと訳者の安井さんはいう 。「何故、言葉とそれが意味する物質を同一視する必要があろう」と彼は問い、「生きた言葉」は自由に「愛しい肉体を選ぶのだ」としている。フレーブニコフが「意味を超えた」詩を唱えたようにマンデリシュタームは、その詩を「言葉の魔性崇拝」として表現せずにはおられなかったというのである (安井郁子『時のざわめき』解説)。
1914年の集合写真 左からマンデリシュターム、コルネイ・チュコフスキー (ペテルブルク生まれの詩人、小説家)、ベネディクト・リフシッツ (未来派の詩人)、ユーリ・アネンコフ (マレーヴィッチなどに影響を受けた画家)
言葉の魔性 フランソワ・ヴィヨン
マンデリシュタームが1913年にアポロン誌に発表した『フランソワ・ヴィヨン』は、同年の『対話者について』、『ユイスマン・パリ・スケッチ』に続く三作目の評論だった。『対話者について』は、パウル・ツェランがブレーメン賞受賞講演で引用した有名な「投瓶通信」の内容が記されている。20世紀初頭、ロシアではヴィヨン・ブームがあったらしく、その詩が翻訳され、グミリョフもマヤコフスキーもヴィヨンに言及していた。
『フランソワ・ヴィヨン』
ルートヴィッヒ・ルルマン 画
ヴァレリーは『ヴィヨンとヴェルレーヌ』で、この二人の名を結びつけることは容易で当然なことだとしている。このことをロシアで初めて指摘したのはマンデリシュタームであるらしい。その詩に「抒情的両性具有」と「犯罪の力学」を見たというのである(鈴木正美 『言葉の建築術』)。こんな詩がある。
紅顔の美少年よ、君たちの帽子を飾る
一番綺麗な薔薇の花を 抜き取られるぞ。
フランソワ・ヴィヨン『大遺言詩集』「不良少年訓戒歌」
マンデリシュタームは、ヴィヨンの『遺言集』の魅力は、互いに洗いあう波の如くに揺れるリズムにあり、変幻する万華鏡のようだと述べる。それは、いつも内容に厳密に照応し、手品師のように句をまたいで曲芸を行うと述べているのだ (『文学の問題』) 。そして先ほど述べた評論『フランソワ・ヴィヨン』の中では、このように書いている。フランス詩の19世紀は、民俗学的な宝庫であるゴシックからその力を引き出した。けん玉のように気まぐれで、宗教詩のように緩慢であったりする遺言集のすばらしいリズム構成は建築家の技巧としてのゴシック力学の祝典ではないのかと。ここに、音楽性と建築性のハーモニーは言葉の魔性へと繋がっていくのである。
時代の深い裂け目と苦悩の時代
『時のざわめき』が書かれたのは、著者が革命と市民戦争の混乱に揺れるクリミア、コーカサス、ハリコフ (ハルキウ)、キエフ (キーウ) などを遍歴してペテルブルク (ペトログラード) に帰還した後の1920年代のことだった。かつての帝政ロシアの首都は、チフスと飢えに苦しむ石の都に化そうとしていた。
7月蜂起 1917年 ペトログラード/ペテルブルク
マンデリシュタームの作品をドイツ語に翻訳したパウル・ツェランは、その詩集の後書きにこのような意味のことを書いている。マンデリシュタームにとって、詩とは、言葉を超えて到達できる形姿と真実を捉え、自身の固有の時間と世界時間、すなわち心臓の鼓動と宇宙の一周期との関係を問い続ける場所のことであると。(関口裕昭『パウル・ツェランとユダヤの傷』)。
本書において、マンデリシュタームが願ったのは、時代の跡を辿り、時のざわめきとその芽吹きを辿ることだった。彼は、過去を紐解き、顔をしかめ、家族代々の記録に熱中し、抒情詩的なつれづれの思い出を書き連ねる。しかし、雑階級の人間には記憶は無用であり、自己の読書歴をのべるだけで事足りると自嘲する。赤い炎症―革命は、羊たちが水飲み場にでかけ、家庭的に温和しく、自らの渇きを癒した時代を羨んでいる。革命にとって、他人の手から何かを受け取るという不安は特徴的であり、それは実存の源に近寄ることを恐れ、尻込みするのだという。自分と時代の間には、時のざわめきに充たされた深淵、深い裂け目が口を開けているというのである。それは、スターリンの暗い時代への幕開けを予告していた。
コメント
植田先生の知的好奇心の旺盛さにはいつも驚嘆しております。その守備範囲の広さにもまた。
豊田様 いつもお読みいただいてありがとうございます。しばらくは、詩の関係を書こうかと思っています。ブロークが早く図書館で借りれるといいのですが。しばらくお待ちくださいね。