第21話 オシップ・マンデリシュターム『時のざわめき』深淵のさ中、時は芽吹く



オシップ・マンデリシュターム 『時のざわめき』


 ロシアの黄昏の時代、あの病的なまでの静寂と、土臭い田舎気質、死にゆく世紀が身を安らう最後の隠れ家、ゆっくりと這うように蠢いていった1890年代 ――
オシップ・マンデリシュタームの唯一翻訳された散文作品『時のざわめき』の冒頭にはこのように書かれていた。ここには、スターリンの暴政に対する怒りも、逮捕にたいして神経をすりえらすことも、ボロネージで飢えに苦しむことも、シベリアのラーゲリ (収容所) での悲痛な死も、何もかもなかった平和な時代の香りを湛えていた。


オシップ・マンデリシュターム (1891-1938)


 その時代は、さながらペテルブルク中が、極楽浄土を目指すように我も我もとパブロフスクに押し寄せた。ご婦人方の提灯袖を先頭に、その他のいっさいが、ガラス張りのパヴロフスク駅のまわりをぐるぐると駆け巡り、汽笛と発車のベルがチャイコフスキーの『1812年序曲』の愛国的不協和音と混じりあい、駅のなかは特別な匂いが立ち込めていた。公園の湿った空気、薔薇の匂い、ビュッフェの蒸気、シガーと石炭殻と香水の匂い。幼年時代の思い出はそれらの匂いによって喚起される。そこは、まさしく世界の中心だったのである。


パブロフスク駅付近にあったコンサートホール アドルフ・シャルルマーニュ 画 1862


 今回は、オシップ・マンデリシュタームを新たに書き直しました。マンデリシュタームの幼心の記録であるこの『時のざわめき』を縦軸に、鈴木正美さんのマンデリシュタームの評伝『言葉の建築術』などの内容や彼の詩を交えながら前半生をご紹介します。後半生に関しては次回、奥さんのナジェージダさんの伝記をもとにご紹介する予定です。


ペテルブルクとパブロフスクの地図



ペテルブルクの優雅な幻想とユダヤのカオス



 荒涼としたロシア世紀末の入り口 (とばぐち) ペテルブルクの優雅な幻想は、底知れぬ深淵に投げかけられた煌びやかなヴェール、儚い夢だった。母なる故郷でもなく、家庭でも、炉辺でもなくユダヤ風のカオスだったのである。それは石造りの家の隙間という隙間に破壊の兆しとなって忍び込んでいた。オシップ・マンデリシュタームは1891年ワルシャワで生まれた。幼年時代と青春時代をペテルブルクとその近郊のパブロフスクで過ごす。「燦然と輝く花崗岩の街」ペテルブルクのマリンスキー劇場の裏手にはユダヤ人街があった。


ペテルブルク パノラマ 1861



 父親エミーリは、リトアニアの出身で、14歳で故郷を離れ、ベルリンのユダヤ律法学校で学ぶも、読みふけっていたのはスピノザやヘルダー、シラーやゲーテだった。結婚後、手袋製造と皮革仕分けのライセンスを得て、ワルシャワに移った。母親フローラは、同じくリトアニアのユダヤ系の知識階級の出身で、親戚にはプーシキンの研究者やペテルブルク音楽院のピアノの教授がいた。自身も娘時代はピアノの教師をしていたこともあったという。マンデリシュタームの音楽好きはこの辺に原因がありそうだ。

 母は混じり気のない、大ロシアの文学語を話し、その語感や響きを喜ぶような人だった。父が話すのは、ドイツ系ユダヤ人の不明瞭なロシア語で、古いドイツ哲学の用語とユダヤの律法学者のシンタックスが混じりあった、尻切れトンボの奇妙な言葉であったという。この二つの言葉の奇妙な溶け合いによって彼の語感は養われることになる。


5歳ころのマンデリシュターム ?


 幼い彼の周りを取り囲んでいたのは、母なる故郷でもなく、家でもなく、炉辺でもなく、まさにユダヤ風カオスだった。ネフスキー通りのニコラーエフスカヤ街のあたりに一家は住んでいたが、その住居の隙間という隙間に破壊の兆しが忍び込み、田舎の客の帽子、本棚の隅っこのゲーテやシラーの下敷きとなっている誰にも読まれない『創世記』の先の尖った活字、黒と黄色の儀式の端切れ、至る所にそのカオスは忍び込んでいた。


セミョーン・ナドソン 運命を分かち合う民衆のアイドル



 ユダヤの廃墟の上に本の隊列が始まる。父の隊列にはユダヤ律法学者のロシア史、イディッシュ語の教本、その上にライプチッヒやチューリンゲン版のドイツの文豪たちの本があった。そして、マンデリシュターム自身の蔵書にも母の蔵書にもあったプーシキン。彼が愛した文学者はプーシキンとセミョーン・ナドソン (1862-1887) だった。

 ナドソンは2歳の時に父が精神病院で亡くなり、親戚の家に預けられ、肌に合わない軍学校や士官学校で学び、カスピ海連隊の中尉となったが肺結核に先行する結核瘻 (ろう) のために倒れた。かなり厳しい環境に育ったのである。退役して週刊誌の編集部で働くようになる。彼の詩は同時代の人々との間に信頼関係を築こうとする言葉に満ちていて、ある者は精神の苦痛の叫びを、ある者は半ば忘れていた感情を呼び覚まされたという。マンデリシュタームは彼の詩を「ロシア文化の謎」であり、その響きは本質的に理解されたことがないという。この24歳で亡くなったユダヤ詩人の日記と手紙はマンデリシュタームにのとって、この上ない救いとなった。


 無表情で、ほとんど、無感覚ともいえる単純さと燃えるような激しさとが共存するその詩の世界に驚かされた。彼の本の全てが同じであり、時代そのものも同じであったのだ。世紀末の10年もの間、破壊の淵に至るまで世代と運命を分かち合おうと望む民衆のエリートたちのアイドルだった。その後、ロシア文学は、この己が理想とバアル神 (古代カナンで崇拝された稲妻の神) に憑りつかれた肺病やみの世代から眼をそむけたと述べている。


テニシェフ中学



 ザゴロードヌイ通りの収益 (みいり) のいいアパルトマンの中庭にケンブリッジ風のいで立ちで30人ばかり少年がフットボールに興じている。マンデリシュタームが通ったテニシェフ中学の生徒たちである。実験室のガスで頭痛を起こし、鉋屑とのこぎり屑の中、よじれる鋸、ひん曲がる鉋とで地獄となる工作の時間、艱難辛苦の授業もあったらしい。在学中に同校の教師であった象徴派の詩人ヴラジミール・ギッピウスとの出会いが詩作への端緒となったという。この学校には軍人風で特権的な貴族的と言ってもいい雰囲気があった。級友たちのポートレートは、ざっとこんな感じだった。

 ヴァニューシャ・コルサコフ、渾名はポーク・カツ、ぶくぶく肥った地方自治主義者。優等生のスロボジンスキー、ゴーゴリが焼き捨てた『死せる魂』の第二部から抜け出したような男、穏健な神秘主義者、正義愛好家、ドストエフスキーの恐るべき多読家、後にラジオ局の主任になった。ブルジェセツキー、貧しいポーランド小貴族の生まれ、悪態つきの名人。ナデージュジン、雑階級の出身、小役人の住居のすえた甘酸っぱい匂い、なにひとつ失うものを持たない身の快活さと気楽さ。バラッツ、熱烈な鉱物学者、寡黙なること魚の如し、話すことはただ雲母と石英。


 なかなか痛烈なのだが、このように締めくくっている。そこには素晴らしい若者たち揃っていた。それは、ヴァレンティン・セローフ (1865-1911) の描く子供たちと同じ血と肉を分け合っている若者たちだった。若い苦行者たち、子供の修道院の修道僧たちが手にするノートや、筆記用具、フレスコ、ドイツ語の教本の中には大人たちの人生よりはるかに多くの高尚さと内的調和が隠されていたと。


ヴァレンティン・セローフ『子供たち』1899



沈黙 ― チュッチェフとマンデリシュターム



 1910年のロシアは象徴主義の爛熟の時代を終えて衰退途上にあり、若い世代が新たな詩を模索しつつあった。未来派やアクメイストと呼ばれるグループの詩人たちである。マンデリシュタームより11歳年上の詩人で象徴派第二世代の代表的詩人であるアレクサンドル・ブローク (1880-1921) は、1920年の日記でアクメイスト達のことを「彼らは魂を冷たい沼の中に沈めた」批判したが、そのメンバーであったマンデリシュタームのことは「名人」と呼ぶのである (鈴木正美 『言葉の建築術』)

 その頃、高く評価されていた象徴派の詩人にアナファシー・フェット (1820-1892) やフョードル・チュッチェフ (1803-1873) がいた。チュッチェフは、ロシア貴族の出身で外交官だったが、象徴派の詩人たちにとっては、フランスの象徴派の詩人たちと並ぶ偉大な詩人でもあった。初期のマンデリシュタームにも彼らの影響があったと言われる。「アポロン」誌に掲載されたデビュー作『沈黙』は、チュッチェフ の同名の詩に触発されたと言われている。このような詩だった。



どうしたら心はおのれを語れるのか
どうしたら他人におまえが解るのか
おまえが何故に生きているのか 人に解るというのか
言葉にあらわされた想いは嘘なのだ
泉をかきおこせば 泡だたせる
それを糧とするのだ そして沈黙せよ

チュッチェフ『沈黙』(鈴木正美訳)



彼女はまだ誕生していなかった
彼女は音楽にして言葉、
それゆえ生命 (いのち) あるものことごとくの
毀 (やぶ) りがたい絆

海の乳房は安らかに息づいている、
けれど、狂人のように昼は輝きわたり、
海の泡の蒼白いライラックは
紺碧の容器に浮かぶ

わが唇よ 見出してあれ
原初の沈黙を、
音の結晶のような、
生れたままの無垢なる沈黙を !

海の泡のままでいてくれ アフロディテよ、
言葉よ 音楽に戻れ、
心よ 心の表出を辱 (は) ずるがいい、
生命の根源とひとつに融けあったものよ !

マンデリシュターム『沈黙』(早川真理 訳)


 フェートの詩には「ああ、言葉なしに、魂だけで話すことができたら」という詩句があったし、チュッチェフの「言葉にあらわされた想いは嘘なのだ」は、とりわけよく引用され、その詩の生きた言葉は表現し得ぬものの音楽だとされた。詩の音楽性と表現され得ぬ魂は、ニーチェとワグナーに心酔したブロークの「芸術は音楽である」という言葉に集約され、『薔薇と十字架』に結実していったという。しかし、象徴派の詩は言葉の多義性が過剰になり意味不明になりつつあったのは、和歌における鴨長明の幽玄体が「有るにもあらず無きにもあらず」という朦朧体と紙一重と言うところにまで行き着くのに似ている。

 やがて、マンデリシュタームはフェートもチュッチェフも投げ捨てた。本書では、このように書かれている。フェートの病んで腫れあがったまぶたは、眠りを妨げ、チュッチェフと言えば、早期硬化症で、石灰の層のように、血管の中に身を横たえていたが、象徴派の五つか六つの言葉は、福音書の五匹の魚のように手籠の中でもがいていて、その中には創世記という大魚もいたという。1930年代前後のプーシキンやレールモントフと言った詩人たちの、そして、19世紀のゴーゴリ、トルストイ、ドストエフスキー、ツルゲーネフといった小説家たちの金の時代は終わったのである。


アクメイスト



 象徴派を投げ捨てた後、マンデリシュタームは本源に立ち戻ろうとする。一つの流れが行き詰まった時には、よくある話だ。それは、原始への郷愁と回帰となる。人間と事物との直接的な関係を回復しうるような本源への志向と言えた。これに建築的な堅牢な構造性を持たせようとしたのである。ここに音楽性と共に建築性が加わることになる。1908年に、ニコライ・グミリョフが『第六感』で、象徴派の幻視の夜の世界を真昼の輝かしい世界へと導こうとし、「第六感を生んだ肉体」への愛を取り戻そうとした。アクメイズムの開始であった。アクメとはギリシア語で絶頂、成熟、満開の花を指す言葉だ。こうして、アクメイストやマヤコフスキ―らの未来派の詩人たちが活躍する19世紀末から20世紀初頭の銀の時代がはじまるのである。

 マンデリシュタームがテニシェフ校を卒業して向かったのはパリだった。グミリョフとここで出会っている。1907年の10月から約半年ばかりソルボンヌで学び、ベルグソンの講義を聞き、ボードレールやヴェルレーヌに浸っていた。1909年にはハイデルベルグ大学で8ヶ月ほど学んでいる。これは、おそらくフランソワ・ヴィヨンの詩を研究するために古フランス語を学んでいたのではないかと思われる。1910年にはアクメイズムの機関紙となっていた「アポロン」に5篇の詩が掲載されることになった。これは、万歳だっただろう。1911年にペテルブルク大学の歴史言語学部ロマンス語科に入学してギリシア語を研究したが、革命の勃発で中退を余儀なくされる。


ヴャチェスラフ・イヴァーノフ(1866-1949)


 この時期、もう一つ出会いがあった。ヴャチェスラフ・イヴァーノフが主催する文学サークル「塔」にアフマートヴァがいたのである。この頃アフマートヴァは、グミリョフの二度にわたる自殺未遂に耐えかねたのか、しぶしぶ彼のプロポーズを受け入れて妻になっていた。この「塔」のイヴァーノフは、ベルリンでローマ法を学んだ人だが、ニーチェやヘルダ―の哲学やノヴァーリスなどの文学にも造詣が深かったし、ロシア象徴主義の第二世代の理論的指導者であり、同時に詩人、随筆家、批評家でもあった。革命後、ローマに亡命し、フィレンツェ大学などでスラヴ学を教えたという。

 実質的にアクメイズムはグミリョフ、アフマートヴァ、マンデリシュタームの三人による僅かな時間続いた青春同盟といってよかった。それは、グミリョフが1921年に反革命的陰謀罪で銃殺されたことによって事実上終わったのである。マンデリシュタームは、アクメイズムを一貫して自分の文学理念と考えていたが、その後展開された詩とその言葉を巡る理解は、むしろ彼が一貫して斥けて来た未来派のフレーブニコフに繋がっていることが否定できないと訳者の安井さんはいう 。「何故、言葉とそれが意味する物質を同一視する必要があろう」と彼は問い、「生きた言葉」は自由に「愛しい肉体を選ぶのだ」としている。フレーブニコフが「意味を超えた」詩を唱えたようにマンデリシュタームは、その詩を「言葉の魔性崇拝」として表現せずにはおられなかったというのである (安井郁子『時のざわめき』解説)


1914年の集合写真   左からマンデリシュターム、コルネイ・チュコフスキー (ペテルブルク生まれの詩人、小説家)、ベネディクト・リフシッツ (未来派の詩人)、ユーリ・アネンコフ (マレーヴィッチなどに影響を受けた画家)



言葉の魔性 フランソワ・ヴィヨン



 マンデリシュタームが1913年にアポロン誌に発表した『フランソワ・ヴィヨン』は、同年の『対話者について』、『ユイスマン・パリ・スケッチ』に続く三作目の評論だった。『対話者について』は、パウル・ツェランがブレーメン賞受賞講演で引用した有名な「投瓶通信」の内容が記されている。20世紀初頭、ロシアではヴィヨン・ブームがあったらしく、その詩が翻訳され、グミリョフもマヤコフスキーもヴィヨンに言及していた。



ヴァレリーは『ヴィヨンとヴェルレーヌ』で、この二人の名を結びつけることは容易で当然なことだとしている。このことをロシアで初めて指摘したのはマンデリシュタームであるらしい。その詩に「抒情的両性具有」と「犯罪の力学」を見たというのである(鈴木正美 『言葉の建築術』)。こんな詩がある。

紅顔の美少年よ、君たちの帽子を飾る
一番綺麗な薔薇の花を 抜き取られるぞ。

フランソワ・ヴィヨン『大遺言詩集』「不良少年訓戒歌」

 マンデリシュタームは、ヴィヨンの『遺言集』の魅力は、互いに洗いあう波の如くに揺れるリズムにあり、変幻する万華鏡のようだと述べる。それは、いつも内容に厳密に照応し、手品師のように句をまたいで曲芸を行うと述べているのだ (『文学の問題』) 。そして先ほど述べた評論『フランソワ・ヴィヨン』の中では、このように書いている。フランス詩の19世紀は、民俗学的な宝庫であるゴシックからその力を引き出した。けん玉のように気まぐれで、宗教詩のように緩慢であったりする遺言集のすばらしいリズム構成は建築家の技巧としてのゴシック力学の祝典ではないのかと。ここに、音楽性と建築性のハーモニーは言葉の魔性へと繋がっていくのである。



時代の深い裂け目と苦悩の時代



 『時のざわめき』が書かれたのは、著者が革命と市民戦争の混乱に揺れるクリミア、コーカサス、ハリコフ (ハルキウ)、キエフ (キーウ) などを遍歴してペテルブルク (ペトログラード) に帰還した後の1920年代のことだった。かつての帝政ロシアの首都は、チフスと飢えに苦しむ石の都に化そうとしていた。


7月蜂起 1917年 ペトログラード/ペテルブルク

 
 マンデリシュタームの作品をドイツ語に翻訳したパウル・ツェランは、その詩集の後書きにこのような意味のことを書いている。マンデリシュタームにとって、詩とは、言葉を超えて到達できる形姿と真実を捉え、自身の固有の時間と世界時間、すなわち心臓の鼓動と宇宙の一周期との関係を問い続ける場所のことであると。(関口裕昭『パウル・ツェランとユダヤの傷』)

 本書において、マンデリシュタームが願ったのは、時代の跡を辿り、時のざわめきとその芽吹きを辿ることだった。彼は、過去を紐解き、顔をしかめ、家族代々の記録に熱中し、抒情詩的なつれづれの思い出を書き連ねる。しかし、雑階級の人間には記憶は無用であり、自己の読書歴をのべるだけで事足りると自嘲する。赤い炎症―革命は、羊たちが水飲み場にでかけ、家庭的に温和しく、自らの渇きを癒した時代を羨んでいる。革命にとって、他人の手から何かを受け取るという不安は特徴的であり、それは実存の源に近寄ることを恐れ、尻込みするのだという。自分と時代の間には、時のざわめきに充たされた深淵、深い裂け目が口を開けているというのである。それは、スターリンの暗い時代への幕開けを予告していた。


夜稿百話

マンデリシュターム 著作


『石』
評論『対話者について』収載

1913年に自費出版された第一詩集。当初のタイトルは「貝殻」であったが、アクメイズムから転じた彼は、タイトルを硬質な建築材のイメージである「石」に変更していて、それをチュッチェフの詩『プロブレム』にある「転げ落ちる石」から取っている。石とは、すなわち「言葉」であるとマンデリシュターム自身がエッセイの中で書いていた (本書「解説」)。これらの詩には、ある種、異質な感覚があると言われていて、ハイデルベルクで哲学を学びギリシア的なものに心酔していたマンデリシュタームの特質が滲み出ているせいなのかもしれない。ちなみにロシア語の石 (Kamen’) は、アクメ (Akme) のアナグラムになっている(関口裕昭 『パウル・ツェランとユダヤの傷』)という。


『トリスチア』

この詩集は1922年に著者の監修なしに『トリスチア』というタイトルでドイツで刊行されたが、翌年、ロシアで『石』以降の作品、43篇が収録され『第二詩集』として出版された。当初の題名、トリスチアは、風紀を壊乱したとして皇帝アウグストゥスにより黒海に面した港町トミスに配流された時の心情を詠ったオィディウスの『トリスチア/悲歌』から取られようだ。マンデリシュタームの詩の冒頭はこんな感じだった。

TRISTIA (悲しみの歌) 第一連

髪を振り乱した夜の訴求につつまれて
わたしは別離学を修めた。
牡牛はのろのろと咀嚼し、そして待機の時は―
都の夜の警備の最後の時間はながびく、
わたしはあの雄鶏の啼く夜の儀式を尊ぶ、
そのとき、旅の悲嘆の重荷を持ちあげ、泣き腫らした眼は彼方の空を見やり、
女の鳴き声は詩歌女神 (ムーサ) らの歌声とまざりあっていた。

関連図書


鈴木正美 『言葉の建築術』
本文をご覧ください。

ナジェージダ・マンデリシュターム
『流刑の詩人 マンデリシュターム』

マンデリシュターム夫人による夫の回想録。逮捕の日から死に至るまでのマンデリシュタームの運命を克明に語るドキュメントである。原題は『見捨てられた希み』であり「希み」はロシア語で「ナジェージダ」つまり、夫人の名に重ねられている。

『大人になるまで読みたい15歳の海外の詩 2 私と世界』
劉妙容、ダンテからロベール・デスノスまでの100篇ほどの作品が名訳で収録されている。マンデリシュターム『やさしさにまさるやさしさの』収載。



『アフマートヴァ詩集』

アンナ・アフマートヴァ(1889-1966)
現ウクライナのオデッサ近郊で生まれている。父親は海軍技師だったが、ペテルブルクに移住後、離婚している。その厳格な父に育てられた。娘の作品はをデカダンに染まった詩だとして、作者名として、その姓を使うことを嫌ったため、彼女はタタールの伝説の王女の名前でもある曾祖母の姓であるアフマートヴァをペンネームにした。グミリョフと離婚後、再婚したが破局する。共産党中央委員会から言論弾圧を受け、長らく沈黙を強いられたがスターリンの死後、あらたな詩集が刊行できるようになり、次第に国際的に評価されるようになっていった。


同胞らに

私たちは永遠に忘れ果てた
荒ぶる都に閉じ込められて
湖や草原や町や
大いなる故郷の暁を

流血の園で昼も夜も
襲ってくる無慈悲な倦怠‥‥
だれも私たちを助けようとしなかったのは
私たちが祖国に留まり

羽ばたく自由でなく
己が都市を愛し
その宮殿や火や水を
自分のために残したからだった

別の時代がすぐそこまで迫り
はや死の風が胸を凍らせる
けれど聖なるピョートルの都市は私たちの
知らぬまに記念碑となるだろう
(木下晴世 訳)

フランソワ・ヴィヨン『遺言詩集』

『フランソワ・ヴィヨン』(1431?-1463以降)
ルートヴィッヒ・ルルマン 版画 18世紀後半~19世紀前半

1431年に生まれたヴィヨンは、一説にはフランス中部のブウルボンネに領地を持つ貴族モンゴルビエ家の血縁ではないかという。生まれた2~3年後に父を亡くし、叔父のメートゥル・グィオーム・ヴィヨンに育てられた。パリ大学の文学部に学び、文学士となる。1455年に、サンブノワ教会の境内で、喧嘩の末、司教のフィリップ・シェルモアを殺害し、パリを逐電した。その翌年、国王からの赦免状二通を得ている。この頃、『形見分けの歌』が書かれた。当時「コキイユの一党」と呼ばれた盗賊団との関わりを指摘している人もいるが、その1456年の降誕祭の夜、仲間と共にパリのナヴァール学寮に盗みに入り、大枚五百金をせしめて高跳びする。
その後、5年間フランス西部から中部を放浪した。オルレアン司教チボー・ドーシニーにマン・シュル・ロアールの牢屋に監禁されたが、1461年には放免になり、パリに戻った。この頃、『遺言の歌』を書いた。二年後の1463年に、悪友ロバン・ドジスと仲間二人で弁護士のフランソワ・ファルブウルの事務所を通りがかり、事務所の書生をからかった。あげくに乱闘となり、ドジスがファルブウルに傷を負わせた。ドジスともう一人は逃げたがヴィヨンと他の一人は捕まり、前科もたっぷりあって死刑判決と沙汰がおりたが、傷つけたのは自分じゃないと最高裁に控訴した。バラッド形式のヴィヨンの嘆願である『法廷礼讃の詩』というのが残っている。結果、パリから10年間の所払いの刑となったが、その後の足取りは杳(よう)として知れない。


関口裕昭 『パウル・ツェランとユダヤの傷』

関口裕昭 『パウル・ツェランとユダヤの傷』

マンデリシュタームの詩をドイツ語に翻訳したパウル・ツェランは、1960年にに北ドイツ放送局のマンデリシュタームに関するラジオ番組のためのシナリオを書いている。その中で、マンデリシュタームは、ナロードニキの流れを組む社会革命党左派に近く、革命は彼にとって「他者の到来、下位のものの反乱、被造物の蜂起」といったロシア思想特有の千年至福説への傾斜が見られるとしている。ナロードニキとは、1860年代から70年代にロシアで活動した社会運動家の総称で、農民の啓蒙と革命運動への組織化により帝政を打倒し、自由な農村共同体を基礎にした新社会建設を目指したとされている。下位のものの反乱は、この文脈から理解できよう。
1938年に撮影されたパウル・ツェラン

パウル・ツェラン(1920-1970)

20世紀を代表する詩人の一人。両親をナチスの強制収容所で亡くし、自身も労働収容所に収監されていた。解放後、パリで活躍した。ドイツ語で詩を書くホロコーストの詩人として知られる。

参考図版



アレクサンドル・プーシキン(1799-1837)

ロシア貴族の家庭に生まれ、学習院時代には、既にその文才が知られることとなった。次第にその作品は政治色を帯びるようになり、外務省の官吏だった彼は南ロシアに左遷される。長編詩『ルスラーンとリュドミーラ』小説『エヴゲニー・オネーギン』『スペードの女王』『大尉の娘』などの作品がある。ロシアの国民的詩人と言われている。

プーシキンの草稿 絵もなかなか上手だ。


ヴァレンティン・セローフ (1865-1911)  自画像
この時代のロシアの主要な肖像画家の一人。作曲家アレクサンドル・セローフの息子で、イリヤ・レーピンやパヴェル・チスチャコフのもとで学んでいる。


アレクサンドル・ブローク(1880-1921)

ペテルブルクに生まれたロシア象徴派第二世代を代表する詩人。高名な化学者であるドミトリ・メンデレーエフの娘と結婚し、処女詩集「うるわしの淑女」を捧げた。ロシア革命に最初は好意的だったが、やがて幻滅したといわれる。赤軍兵士を十二人の使徒にみたてた詩『十二』や13世紀南仏の騎士の愛と武勲を描いた詩劇『薔薇と十字架』などの作品がある。

アナファシー・フェット (1820-1892)

職業軍人としてクリミア戦争などに従軍しているが、1853年頃からツルゲーネフらと雑誌『同時代人』に参画、レフ・トルストイらとも親交を持った。ロシア象徴派の第一世代を代表する詩人の一人。

セルゲイ・ゴロデツキー(1884-1967)
象徴派の詩人として出発した後、アクメイズムに参加、グミリョフの「詩人ギルド」に加わる。「新しい農民の詩人」エセーニンやクリューエフらを支持したことでも知られる。革命後は労働者の連帯を詠い、翻訳家としても活動した。

ミハイル・ゼンケビッチ(1886-1973)
サラトフの農村地方の教師の両親のもとに生まれ、ベルリンなどで学んだ後、ペテルブルクに移りアクメイスト・サークルに加わった。多様な職業に就きながら、ユゴーなどの翻訳を手掛ける一方、アメリカの詩人たちの翻訳も行っている。

ウラジミール・ナルブト(1888-1938)
ウクライナ生まれの詩人。ペテルブルクで数学、言語、歴史学を学んだ。第一詩集を発刊後、アクメイスト・サークルに加わる。第二詩集『ハレルヤ』は官憲からポルノと宣告されたため、アビニシアとソマリアに一時逃れた。1917年に左翼の社会主義革命運動に参加し、2月革命後ボルシェヴィキに加わっている。


ニコライ・グミリョフ (1886-1921)

グミリョフのアクメイズム宣言とも言える1908年の詩『第六感』最終連をご紹介します。

こうして幾世紀と過ぎていく もうすぐですか 主よ ?
第六感のための器官を生んで
自然と芸術のメスのもと
ぼくらの魂が叫び 肉体が萎えていくのは
(鈴木正美 訳)


ウラジミール・マヤコフスキー(1893-1930)

グルジア生まれのロシア未来派の詩人。1906年モスクワに移る。文学に浸り、ボリシェヴィキ (レーニンが率いたロシア社会民主労働党が分裂して形成された左派で、1917年の民主革命である二月革命後に社会主義革命とプロレタリア独裁を主張した) に加わる。モスクワ美術学校で学び未来派に加わった。ソビエト成立後、芸術左翼戦線を結成し、ロシア・アヴァンギャルドを牽引するとともにスターリンを批判した。1930年に36歳で自殺している。

『悲しみ』

徒に絶望した風が
非人間的に吹きつけた。
黒ずんでいく血の数滴が
屋根で冷えて固まった。
すると夜のなか寡婦になった月が
孤独を楽しみに出て来た。
(小笠原豊樹訳)


ヴェルミール・フレーブニコフ(1885-1922)

カスピ海北西のカルムイクで生まれ、カザン大学で数学や動植物学を学ぶ。日露戦争を契機に日本語を独学している。ペテルブルク大学に学ぶも中退。この頃から造語や「超意味言語」を用い、実験的な作品を発表して未来派の詩人として頭角を現しはじめた。ほとんどを放浪生活に費やしたが,1921年にペルシア出兵に参加したが発疹チフスにかかり、モスクワ帰還後に亡くなっている。

コメント

  1. 豊田和司 より:

    植田先生の知的好奇心の旺盛さにはいつも驚嘆しております。その守備範囲の広さにもまた。

    • uedaformal uedaformal より:

      豊田様 いつもお読みいただいてありがとうございます。しばらくは、詩の関係を書こうかと思っています。ブロークが早く図書館で借りれるといいのですが。しばらくお待ちくださいね。