1800年にブレイクは、ロンドンからイギリスの南海岸チチェスター近効のフェルファムに転居した。ポーツマスの近くである。海辺の黄砂の上に坐っていると「光輝く粒子」が人の姿となり、「岸辺のない海」のように広がって、自然界がひとりの人間のように見えたという。あるいは、野原を歩いていると太陽がロス(part2参照)の姿になり「激しい炎に包まれ」地面に降りてくるヴィジョンを見た。
三年後、自宅の庭にいた兵士を力ずくで追い出そうとし、口論となって、小競り合いが起きた。実は庭師の手伝いだったのだが、その時、反国家的な言葉を発したとして「暴動教唆」の罪で訴えられる (『ブレイクの手紙』) 。いわゆるスコウフィールド事件である。1804年、ブレイクは無罪の判決を受けた。湿った気候が妻の健康を害し始めたのでロンドンに再び引っ越した後のことである。ブレイクを告発した兵士スコウフィールドの名は詩の中に時々登場するようになり、御気の毒ながら堕落した物質幻想を作り出した巨人の一人とされるのである。ダンテが自分の仇敵を地獄篇に登場させたのと同じだ。憎い奴らをみんな地獄に落としたのだから、さぞ痛快だったろう。この頃『ミルトン』『エルサレム』という予言書・神話が書かれ始めたのである。
今回の夜稿百話は稀代の幻視者・ウィリアム・ブレイクを三回にわたってご紹介している。この最終話では、彼のヴィジョンと絵画イメージとの関係を追ってみたい。
新進気鋭の版画師 ブレイク
1795年、38歳で『ロスの書』や『ロスの歌』を制作していた頃、ブレイクは銅板から直接彩色印刷を行う新しい実験に没頭していた。エッチング(腐食)を施したレリーフ状の銅板に色を塗り、プレス機や手の圧力で刷る。絵具には、滲み止めや糊が混ぜられ、その外観は厚塗りの斑(まだら)な質感が強調された、一種のデカルコマニーのような効果が起きる。その頃、妻のキャサリンは有能な助手となって彼を助けている。絵具は速乾性なのですばやく作業する必要があった。やがて、なめらかなエッチングされてない板に色を塗り、印刷し、筆で色を加え、ペンで輪郭と形を整えはじめた。
この方法は亡くなった最愛の弟ロバートの霊が夢枕に立って「目に見えている表面を消し去り、隠れた夢幻を顕す」と教えた「地獄の印刷法」だったという (潮江宏三『銅版画師ウィリアム・ブレイク』) 。その成果は『ヨーロッパ 一つの予言』や『ロスの歌』に表れている。その頃の代表的な作品は『ニュートン』であろう。彼は、この新しい試みが大衆に受けると信じていた。しかし、現実には、好事家や他の芸術家たちに売れ口は限定されていたと言う。増刷もしたけれど、大きな注文を受けた時以外は、この彩色印刷法には二度と戻らなかった。フラックスマンやフューズリと言った友人などから仕事の斡旋してもらい、エングレーヴィングといった伝統的な技法で他人のために制作することで生計を立てることになるのである。
エングレーヴィング・観相学・友人フューズリ
ヘンリー・フューズリ (1741-1825) はチューリッヒに生まれ、古典と詩学を学び、観相学で知られるようになるヨハン・ラヴァター (1741-1801) と仲良くなった。ラヴァターの観相学はゲーテを熱中させ、ヨーロッパ中で大流行となったのは、よく知られている。フューズリはチューリッヒの州長官の不正を暴こうとして国外退去の憂き目にあいロンドンに向かった。そこでロイヤル・アカデミーのジョシュア・レイノルズの勧めで絵を学んだ上でローマで古代美術の研究を行い、画家として成功する。ロイヤル・アカデミーを代表する画家、美術理論家、教育者となった。彼の絵画はイギリスロマン主義美術の先駆とされ、フューズリの人体造形論はその運動に多くの影響を与えたと言われる。(松下哲也『ヘンリー・フューズリの画法』)
フューズリ原画 ブレイク彫版
観相学からの影響といわれる。
『サタンあるいは地獄に落とされた魂の肖像』
ブレイクがフューズリと知り合ったのは、1788年ラヴァターの『箴言集・人間論』が刊行され、英訳をフューズリが、挿絵の一枚をブレイクが彫版したことが切っ掛けだった。フューズリは17歳年上だったが若い銅版画師の創意に感心し、ブレイクの方はパルミジャ二ーノ (1503-1540) やジュリオ・ロマーノ (1499-1546) といった16世紀ローマのマニエリストたちの情報を得ることで仲良くなり、二人は年の離れた友人と言ってよかった。観相学の手引書を通して怒り、嫉妬、熱望、恐怖など定型的な表情をブレイクもよく知るようになっていったようだ。それに、二人ともミケランジェロを崇拝していた。フューズリがブレイクに彫版を頼む時は、他の彫版師と異なり、かなり自由な解釈を許していたことは『ミケランジェロ』を描いたフューズリのデッサンとそれからブレイクが彫版したものと比べていただければ分かる。
左 フューズリのデッサンによる『ミケランジェロ』
右 フューズリのデッサンによるブレイクの銅版銅
エングレーヴィングと呼ばれるニードルで銅板を直接彫る技法によって挿絵のための多くの版をブレイクは作ってきた。彼はこの仕事をこのように述べている。「彫版は果てしのない仕事であります。‥‥わたしは彫版というものを交互に呪い且つ祝福しております。何故かと申しますと、それはこんなにも多くの時間がかかり、そして、こんなにも扱いにくいからであります。あのような美と完璧な仕上げが可能なのではありますがけれど (ウィリアム・ヘイリー宛手紙 1804年 梅津濟美 訳)。」
1805年にブレイクは、新進気鋭の出版業者ロバート・クロメックにロバート・ブレア作の『墓』の挿絵を頼まれた。原画を描き、版画にするのだったが、クロメックは当時ブレイクが手がけようとしていた白線によるレリーフエッチングを嫌って他の彫版師に任せた。こうしてブレイクの原画は、「ここちよい」「優雅な」銅版画に作りかえられた。これは、ブレイクにとって心の痛手であったことは言うまでもないことだが、クロメックは宣伝力に長けていてブレイクの名をイギリス社会に浸透させるという功績はあった。それはともあれ、ここで見ていただきたいのはフューズリとブレイクの影響関係であり、それは相互的なものだったろうと思われる。
『二人に支えられる死にゆく者の姿』
『溺れたリアンダーを抱きしめる英雄』
ブレイク原画 ロバート・ブレア 詩
『墓』魂と肉体の再会 1808
『天国と地獄の結婚』 新たな展開
『天国と地獄の結婚』は1790年から1793年にかけて書かれた。革命戦争とも呼ばれたアメリカ独立戦争は1783年にアメリカ側の勝利で終わり、1789年にはフランス革命が起こっていた。1792年にはイギリスもフランスとの戦争に突入する。その頃は、革命へのエネルギー賛歌に傾いていたことは、『アメリカ一つの予言』や『ロスの書』に見られるとおりである。1790年にはスウェーデンボリの影響から脱し、パラケルスス(1493-1541)やヤコブ・ベーメ(1575-1624)といった思想家へとブレイクは接近している。スウェーデンボリの「死後の生命」に関する予定説を救いがないとして反感を持ったようだ。
『天国と地獄の結婚』の前年に制作された『セルの書』あたりから再び新たな技法を開発していて、彼の版画作品は彩色本としてのオリジナル性の高いものとなっている。それは、銅版を凸版として使うという意外なものだった。そのことによって軽い圧力で印刷が可能となり、それを水彩による手彩色で仕上たために作品のシリーズは、かなりバライティに富んだものになる。特にテキストには特別な工夫がなされている。まず、紙に耐腐食性のニスでテキストを手書きし、銅板を熱した上に重ねてニスを転写する。それを腐食させるのだが、穏やかな硝酸を使うと文字の周囲を比較的垂直に腐食するために文字の下部まで浸食せずに文字の部分をきれいに凸にする。それに彫版されていない平らな銅板にインクを塗り、その銅板と彫版とを重ねてローラーで圧をかけ、さらに、その版と紙を重ねて刷ると下図のような文字が印刷できるのである。
幻象が示唆するヴィジョン
ウィリアム・ウォリス (1270-1305) とエドワード一世 (1239-1307)
ブレイクはエドワード一世に対抗して戦ったスコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスの肖像を友人に頼まれた。「私にはいま彼が見える。そこに、ほらそこに。なんと高貴な表情なんだ――道具を取ってくれ。」その友人には生きているモデルが目の前にいるかのように感じられた。しかし、「ウォリスの絵は仕上げられない――エドワード一世がウォリスと私との間に立ちはだかっているんだ」とブレイクは言う。そこで友人は、エドワード一世の肖像も欲しいと言った。ブレイクは、それを描くとエドワード一世は姿を消し、ウォレスのスケッチを仕上げた。(アンソニー・ブラント『ウィリアム・ブレイクの芸術』岡崎康一 訳)
また、こんなブレイクの話が伝わっている。預言者イザヤとエゼキエルがブレイクと食事を共にした。そこでブレイクは彼らに尋ねた。神が彼らに語ったとどうして大胆にもあからさまに主張するのか、そのとき彼らは誤解され、欺瞞の原因になるとは考えなかったのかと。するとイザヤはこう答えた。私は、限りある知覚器官によっては、神もみなかったし、神の声も聞かなかった。しかし、私の五感は万物の中に無限なるものを感得したし、そのとき私は、正直な義憤の声は神の声だと確信していたし、また、この確信は今も変わらないので、結果のことは気にかけず、書いたのだったと。
そして、「東方の哲学は人間の知覚作用の原理を教えたが、知覚の根源と考えられるものが国々によって異なっていた。我々イスラエル人は所謂詩魂を以って根本とし、他をすべて枝葉のものとした。‥‥あらゆる国の人は猶太人の聖典を信じ、猶太人の神を崇めるが、これ以上の征服はあり得ないのではないか。」このイザヤの言葉はブレイクにとって忘れがたいものになり、後年のキリス教への傾斜の契機となったのではないか。(「忘れがたい幻像」土居光知 訳)」
『エゼキエルのヴィジョン』 1803-05
「理性を見る人は、自分自身だけを見ているだけだ (『著作集』岡崎康一訳) 」とブレイクは言い続けたという。何もかもが自分たちの知覚のイメージで創られていると信じるのは、哲学者や神を創造主として認めはするものの啓示を否定する理神論者の罪であるというのである。
聖テレージア (テレサ)(1515-1582)は「ヴィジョンはどうすることもできない。見ようと思っても見ることはできないし、努力して呼び出したり、消したりすることもできない」と述べた。彼女は、自然ないきいきとしたスタイルで死者のヴィジョンを書いたともいわれる。ベルリーニによる彫刻で有名な天使の槍に刺される話はこんなふうになっている。穂先が燃えている黄金の槍を手にする天使が胸元を貫き通し、それを引き抜いた。すると彼女は神の大いなる愛の激しい炎に包まれた。苦痛は、その場に蹲ってうめき声を上げるほど耐えがたかったが、それ以上に甘美であったという。
ジャン・ロレンツォ・ベルリーニ(1598-1680)
『聖テレージアの法悦』
ブレイクは、「仕事中に、愚にもつかないことを考えていると、現実のものではない、死者の亡霊がさまよう幻の国にある山や谷に連れて行かれてしまうのだ」と述べた。これは彼が彫版の仕事が遅いといわれていた原因の一つでもあるかもしれないとピーター・アクロイドはその著書『ブレイク伝』に述べている。
〈想像的なもの〉
人間の魂には無心と経験という二つの状態があるとブレイクは考えていた。これを歌ったものが『無心の歌』と『経験の歌』である。無心から経験へ、経験の状態から如何に再び無心の状態に戻るか。これが可能になれば、この二極は一致する。それを可能にするは彼の想像力が、もたらすヴィジョンだった。
科学・哲学者であるガストン・バシュラールは、想像力とはイメージを形成する能力ではなく、知覚によって提供される基本的イメージから解放し、それを歪形することによってイメージを変化させ、変える能力だとして、こう述べている。 「イメージの変化、イメージの思いがけない結合がなければ、想像力はなく、想像するという行動はない。もしも眼前にある或るイメージがそこにないイメージを考えさせなければ、もしもきっかけとなる或るイメージが逃れていくおびただしいイメージを、イメージの爆発を、決定しなければ想像力はない (『空と夢』宇佐美英治 訳) 。」これは、脳における記憶と知覚の関係から考えると全くの正解なのである。
そして、こう続ける。或るイメージの価値は〈想像的なもの〉の後光のひろがりによって測られ、そのため想像力は本質的に開かれたもの、逃れやすいものとなる。人間の心象にとって想像力とは開示の経験であり、新しさの経験である。そして、「ブレイクが明言しているとおり『 想像力は状態ではなく人間の生存 (existence) そのものである 』。」(同上) ここは、井筒俊彦さんの「在る」に響き合う。
ガストン・バシュラール (1884-1962)
ノヴァーリスが聴覚的人間だといわれるのに対してブレイクは徹底的に目の人だといわれる。彼がヴィジョンを見るのは物理的世界の背後を「見通せる」からである。こう述べる「夢想あるいは想像力とは、永久に、真に、普遍に存在するものの表現である。寓話や寓意は記憶の女神たちが作る。想像力はインスピレーションの女神たちに取り囲まれている (『著作集』岡崎康一訳) 。」これはブレイクにとって永遠の原理であり、夢想の実体と言ってよかった。バシュラールの言う〈想像的なもの〉とは、〈インスピレーションの女神たち〉なのである。
キリスト教への傾斜
『天国と地獄の結婚』における「悪魔の言葉」にはこうある。
すべての聖書及び聖典は次の謬見の源となった。
1.人間は二つの真実な存在の基本をもつ、その一つは肉、他は霊。
2.力は悪で肉体から生じ、理性は善で霊からのみ生じる。
3.この力に従うと神はいつまでも人間に苦悩を課する。
しかし、これに対立する次の見方も真実である。
(1)人間は霊から分離した肉体を持たぬ、肉体とは五官によって認められる霊の部分であって、現代における霊の主要な門口である。
(2)力のみが生命であり、肉体から生ずる。理性は力の限界、あるいは埒である。
(3)力はとこしえの歓びである。
(土居光知 訳)
こんな内容は常識的な教会道徳からすれば、あまりに非常識なものであった。例えば、性などに現われる力(エネルギー)を賛美するものと映ったことは間違いないだろう。ブレイクは、よくアンチノミアン(道徳律廃棄論者)たちに結び付けられる。極めて晦渋なストーリー展開を見せる予言書の内容とあいまって、このようなプロパガンダが彼に狂人というレッテルを貼ることになるのは想像に難くない。しかし、こういった教会に「対立する見解」が、カバラやグノーシス、ベーメやパラケルスス、新プラトン主義、ゾロアスター教などの文献に既に存在していたことも確かなのである。
ヤコブ・ベーメの著作にも強い関心持っていた。英訳されたベーメの著作には「汝がアブラナの種の一粒と同じくらい、小さな、ごく小さな円を想像するなら神の御心はまったく完全にその中にある。そして、汝が、神の中に生まれるのなら、汝の中に(汝の生命の円の中に)分裂していない神のすべての心があるのだ」という言葉が在ることをピーター・アクロイドは『ブレイク伝』で指摘している。この言葉はブレイクの「一粒の砂に世界をみ、一輪の野の花に天上界をみる」という言葉に通じる。
この頃、彼は精緻を極めた神秘的、存在論体系を作っていたという。それはT.S.エリオットにブリコラージュの哲学と指摘され、イエイツの想像力を否応なく掻き立てた。その体系の構造性が予言書に展開されていったのは part2 でご紹介しておいた。ちなみに、ブレイクに大きな影響を受け、マクルーハンの友人でもあった文芸評論家ノースロップ・フライはブリコラージュの手法は詩人の一典型でありダンテとの違いは彼がより広く容認されていると言うことであり、エリオット自身との違いは、ほとんどないと述べている (『大いなる体系』) 。
『世界の創造者としてのキリスト』
ブレイクは、晩年に、評価していたホメロスの詩を聖書から盗み、かつ、これを逆用した異教の詩であると批判し、ヴェルギリウスらを含めてギリシアとローマはバビロンとエジプトのようにあらゆる芸術の破壊者であったとし、好戦的な国家はけっして芸術を創りえないと述べている。それでもオウィディウスの『変身物語』やアプレイウス『黄金の驢馬』には、真の幻想があると評価したし、神話もギリシア・ローマの古典神話よりドルイドや北欧神話を好んだ。しかし、重要なことは、彼にとってギリシア・ローマの芸術はヘブライの原型の模写であり、本当の詩 (夢想) は聖書の中にのみ見いだされ、旧約の預言者たちこそ聖なるインスピレーションの媒体だと考えていたことだった。『ヴァラ/四人のゾアたち』以来、彼の心を占めたのはキリスト教だった。
ブレイクの晩年
1809年、52歳の時、ブレイクは「フレスコ画展、ウィリアム・ブレイクの詩的で歴史的試み」と題した展覧会を兄の靴下店で開いた。彼の関心事は中世美術、あるいはゴシックの新しい形態についてであったという。この個展では、チョーサーの『カンタベリー物語』をテーマにした「チョーサーの巡礼」がメインになっていたが、訪れる人は稀で、絵は一枚も売れなかった。ここでブレイクは、登場する人物たちは個人の不完全な表象ではなく、それぞれの階層の代表者として表象したのだと断言する。人間生活の様々な特徴についてのあらゆる時代の夢想が詩人の心の中に現れるのは想像の永遠の原理によってであると述べている。
『チョーサーのカンタベリー巡礼者』銅版画によるカンタベリー物語 部分
だが、批評は相変わらず辛辣で、「アンチ・ジャコバン」誌には「病的な空想力が生み出した作品」と書かれたという。ブレイクへの攻撃は「狂気」という宣伝の形で行われていった。「エグザミナー」誌の批評はこうであった。「攻撃性がないので監禁を免れている不幸な狂人。」ブレイクは疎外感を感じはじめていた。「狂気」というレッテル、売れない作品、芸術家仲間からの疎遠、上流階級や中流階級の趣味に対する嫌悪、画一化や標準化といった機械化が進む時代の流れへの反感。しかし、作品は「あのみなぎる霊性と強烈なフォルム」を再び確認させる徒弟時代のウエストミンスター寺院での経験に照らされていたアクロイドは述べている(『ブレイク伝』)。
貧困にあえぐ晩年のブレイクを支援したのは、若い画家のジョン・リネル(1792-1882)だった。作品を購入してくれそうな人物の斡旋から金銭的な援助まで惜しまなかったが、彼の最大の功績はブレイクに『ヨブ』の水彩画を版画にすることを提案し、資金を工面してくれたこと、そして、ダンテの『神曲』の連作を依頼したことだろう。ブレイクはそのためにイタリア語を学び原著を読んだという。70歳になろうとしていた。ダンテの『神曲』の挿絵は色彩の美しさと明るさで極めて印象的な作品となっている。まさに晩年を飾る傑作となったのである。そして、人生の最後の数ヶ月に聖書の彩飾本の制作を開始した。この頃、ターナー(1775-1851)は『青白い馬に乗った死』を描いていたし、スペインでは、フランシス・デ・ゴヤ(1746-1828)が陰鬱な黒い絵のシリーズを描いていた。
神曲「天国編」より 1824-27
『聖ペテロ、聖ヤコフ゛、ダンテ、ベアトリーチェ』
胆石のような症状や下痢、発熱、理由の分からない発作に襲われるようになり、次第に弱っていったが、永遠の想像力は共に在った。死に対する不安はあったが、あれほど酷い仕打ちを受けたこの世を去ることは幸せであったのだろう。最期は、息を漏らすように穏やかに息を引き取った。1827年のことである。70歳だった。その場に立ち会った人によれば、清らかな天使のような旅立ちであったという。
柳宗悦のブレイク
柳宗悦全集 第四巻 1981年刊
「ヰリアム・ブレーク」収録
日本にブレイクの本格的紹介を行ったのは柳宗悦 (やなぎ むねよし) である。柳宗悦らの民芸運動とラスキンやモリスの英国アーツ・アンド・クラフツ運動と比較する時、民芸に際立つのは心を無にすると言う宗教性にあると佐藤光(さとう ひかり)はいう(『柳宗悦とウィリアム・ブレイク』)。ブレイクは、「自己滅却」というキーコンセプトのもと、キリスト教をイエスの「ゆるしの宗教」へと解釈し直し相互寛容の思想を打ち立てた。「対立なくして進歩なし」という対立の原理と「生きとし生ける者すべて神性である」という「肯定的世界観」は、バナード・リーチの来日と共に柳の思想に大きな影響を与え、それは民芸にも及んだと言うのである。
柳 宗悦 (1889-1961)
この西回りの「肯定の思想」は、柳の中で大乗仏教という東回りの「肯定の思想」と合流した。少なくとも20代の柳にはそう思えたのである。ここで、柳が25歳頃、精魂込めて綴った『ヰリアム・ブレーク』からいささかご紹介して終わりたいと思っている。この『ヰリアム・ブレーク』は、彼の伝記・思想・芸術のかなり詳しい紹介からなっていて原文を含めたブレイクの文章の引用も極めて多い。心酔している様子がよく伝わる。
わずか4歳で神の姿を目の前に見てから(アクロイドの『ブレイク伝』では8歳頃、天使を見たのが最初とある)、再び神の声を耳にしてこの世を去るまで彼の70年の生涯は殆ど幻像(ヴィジョン)に充たされていた。彼にとって凡ては驚愕と奇蹟に充ちていて、啓示に襲われれば、その内にいつも永遠相を見出していたと柳は述べている。そして、ブレイクの手紙にあるこの言葉を引用した。
「私は此の詩を精霊から直接の命令で書いた。しかも、どういうことを書くかという予期なしに12行または20行、30行を一時に書き下すこともあった。私の意志に反して書くことすらあった。従って書くために費やされた時間というものは存在していない。(文章の推敲にはかなり時間を費やしている) 」そして、「‥‥幻像はこの世に存在しないと言う者があるならそれは謬見である。自分にとって、この世界は幻像と想像とからなる一個の連続体である。」彼の空間とはこのようなものであり、時間とは以下のようなものであった。「自分は過去、現在、未来が同時に自分の前に存在することを知っている。」「自分は上下六千年の間を歩いている、彼等の現象は凡て自分と共にある。」
ウィリアム・ブレイク 『自画像』1826
そして、柳はこう述べた。凡ての芸術、凡ての宗教がその高調に達する時、彼等は自ずから預言の権威を帯びてくると。悪はひとつの状態でしかないという「救済」の宗教観、宗教は一つであり、その源は詩的創造力であるという内発性と芸術の優位、すべての人の内に神はあるという強烈なメッセージ、そして「自己を無にする」という東洋的ともいうべき姿勢に、柳はブレイクのテンペラメントの卓越性を感じ、六千年のヴィジョンを猟歩したその思想に帰依するほかなかったのである。
‥‥
深い真夜中の学びに励む時刻に
書くようにとこの手に神が命じた時
彼は私に語った 私の書くすべては 地上で
私が愛するすべてのものの禍となるであろうと
‥‥
ウィリアム・ブレイク
『手帳からの詩と断片』1800-1803頃
(梅津濟美/うめつ なるみ 訳)
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