第90話 『王書(シャー・ナーメ)』part 1 イランの〈古事記+平家物語〉

二人の愛は刻々高まり
叡知は遠のき、熱情は近づき
こうして彼は夜が白むまでいた
幄舎から太鼓の音が響くと
ザールは月の美女に別れを告げ
縦糸と横糸がからむようにしっかと抱き
ともに目に涙をためながら
昇る朝日をののしって
「おお、世の栄光よ、もう一瞬
そんなに早く昇るには及ばない」

フィルドゥスィー『王書(シャー・ナーメ)』
ザールの巻より 黒柳恒男


『ザールが登れるように髪を
垂らすルーダーベ』
17世紀 『王書(シャー・ナーメ)』より

 僕がイスラーム文化に触れたのは、プラハの旧市庁舎の時計台を向かいのカフェーから見ながら、ちょっと粉っぽいトルココーヒーをすすったくらいのことだったが、ウィーンにしばらく住んでいたので建物に残っているイスラーム風な装飾に少しは、その名残を感じたりすることはできたかなと思っている。その頃は夜行列車でプラハまで行って、安宿に一泊して、また夜行で帰る貧乏旅行だった。未だに未消化なイスラーム文化に対する憧憬と興味は衰えていない。

 前回はアーサー王伝説とイラン北部の「草原の海」と呼ばれる地域にいたインド=イラン系語族のサルマティア族の英雄譚などとの関連もあるらしいことはご紹介したけれど、今回のイランの大叙事詩『王書 (シャー・ナーメ) 』においても、その地域の英雄譚との関連があるらしく、頗る興味をそそられた次第である。という分けで今回、めでたく (めでたいのかな?) 90回を迎える夜稿百話はイランにおける古事記+平家物語である『王書 (シャー・ナーメ) 』をご紹介します。黒柳恒男さんの素晴らしい訳となっている。

シャー・ナーメの時代

 7世紀の中葉、イラン地域においてサーサーン朝がアラブ軍のために崩壊して以来、二世紀にわたって政治的独立は失われた。ペルシア帝国の落日であった。アラブの支配下のもと9世紀前半、東北イランにターヒル朝、ついで東南地域にサッファール朝というイラン系地方王朝が起きて、次第に自主性をとりもどし、やがて中央アジアのブハーラーを都に定めたサーマーン朝(874-999)が樹立されるに及んで多年にわたるアラブ支配からの抑圧が取り除かれたのである。

 イラン人の民族感情は一気に高揚して、イラン固有の神話・伝説・歴史を編集し誇示する気運が高まっていった。ペルシア文学が花開くことになる。政治・文化両面におけるルネサンスが起こったのである。このような状況の中で一地方の地主であったフィルドゥスィー(雅号/本名は不詳)は、30年の歳月を費やしてこの『王書』を完成したといわれている。シャーは王でありナーメは文書を意味する。しかし、この詩集が完成にさしかかった10世紀の後半には栄華を誇ったサーマーン朝もトルコ系のカラハン朝やガズナ朝に蚕食され、ついには崩壊の憂き目をみている。

 神話時代、英雄時代、歴史時代から構成される叙事詩『王書(シャー・ナーメ)』は、「戦闘と饗宴の一大絵巻」、「年代順に配列された逸話の連鎖」といわれるが、その特徴はゾロアスター教的な善悪二元論とイスラーム的思想の混じった運命論にあると言われている。それは、巡る天輪、時、大空、運、星、定命という言葉で呼ばれる。フィルドゥスィー自身は、ゾロアスター教徒ではなくムスリムだったといわれている。ともあれ、その最も輝しい価値はイランに伝わる神話と伝説を集大成したこと、それと大詩人ダキーキーから影響を受けたといわれる詩のスタイルにある。ペルシア文学に与えた影響は測りしれないといわれている。


アブー・マンスール(712-775)

 『王書(シャー・ナーメ)』の翻訳者である黒柳恒男さんによれば、イラン民族固有の神話・伝説・歴史の編集はサーサーン朝時代からすでに行われていたが、現在ではほとんどが散逸し失われたという。そのうち有名なものはサーマーン朝の太守を勤めたアブ―・マンスール・アブドッ・ラッザーク(961年没)の命で編纂された『アブー・マンスールのシャー・ナーメ』と呼ばれる散文作品である。

ペルシアの最初の王からサーサーン朝の最後の王ヤズダギルド三世に及ぶ資料の蒐集と編纂にあたらせている。957年に完成し『シャー・ナーメと名づけられた。フィルドゥスィーは自らの『王書(シャー・ナーメ)』の序文の中で名指しこそしないものの、それと分かるようにこう書いている。「‥‥彼は古き時代の探究者、過ぎし話をすべて探し求めた。諸国からその書(ナーメ)を記憶に止めていた老いた司祭たちを招き、彼らにかつての支配者、名高く輝かしい勇士たちについて尋ね‥‥ (黒柳恒男 訳)」。アブー・マンスールは、イランの太安万侶だった。

謎のフィルドゥスィー


フィルドゥスィー像
ヴィラ・ボルゲーゼ ローマ 

 フィルドゥスィーは本名すら分かっておらず、生年は1932年~1934年頃、フィルドゥスィーは雅号で、アブール・カースィムは異名だった。その生涯は、ほぼ闇の中である。生地はイラン東北の宗教都市マシュハド近郊のトゥースという村だが今は寒村だという。トルクメニスタンとの国境にもわりと近い。大宰相や顕学を生んだ土地柄であったという。彼の家はその土地の地主であった。本書『シャー・ナーメ』を執筆し始めたのは46歳という円熟期だったが、作品完成までに30年以上を費やしたと言われる。この間に財産は失われ、カズナ朝のスルタン・マフムード (在位998-1030) に大宰相アハマド・ビン・ハサンを介して作品を捧げ、恩賞に与ろうとしたが、大宰相の政敵に阻まれ僅かな恩賞しか得られなかった。確かではないがフィルドゥスィーは指導者を能力によって定めるスンニ派であったらしく、イランは今でもムハンマドの後継者を指導者とするシーア派が多数である。それも禍したらしい。

 落胆したフィルドゥスィーは、そのわずかな恩賞を人に与えてカスピ海南岸のタバリスターンの一君主のもとに身を寄せた。その後、後悔の念に駆られたスルタン・マフムードは大金を彼のもとに送ったが、それが門の中に運び入れられる刹那、彼の柩が門から出ていったという。それが事実かどうかは分からないが実際に彼の作品が報いられなかったのは真実のようで、カズナ朝は台頭するトルコ系のカラハン朝やカズナ朝に秋波を送っており、あからさまな民族意識高揚の詩を称揚できなかった。詩人は晩年を故郷で過ごし80歳を超えて亡くなっていて、1020年か1025年が没年とされている。

神話時代の王たち


黒柳恒男 『ペルシアの神話』
『王書(シャー・ナーメ)』の散文抄訳

 『王書(シャー・ナーメ)』は、神話時代、英雄時代、歴史時代から構成される叙事詩であることは既に述べたが、「列王略記」というべき神話時代は本書の九分の一ほどの紙数で比較的短く、歴史時代は表現の質において劣るといわれている。何と言っても圧巻は英雄時代なのである。こういう構成は古事記を思わせるものがある。神話時代は、ほぼピーシュダ―ド (先に創成されたものの意) 朝と名付けられた時代にあたる。この時代に関しては初代の王カユ―マルスと五代のザッハークについてご紹介する。

初代の王カユ―マルス (在位三十年)

 カユ―マルスが初代の王であり、太陽が白羊宮に入った時、世は栄光と法に満ち、一挙に若返ったという。フェニキアやバビロニア系の創造神話といわれるゾロアスター教の創世神話では牛霊と共に生れた最初の人間はガヨーマルト (カユーマルス) で、この最初の三千年期は無動、無言、無食、無神心だった。だが、次の三千年期に光明界が暗黒界のアハリマンに攻撃を受けた際に病気となり三十年間生きた後、死に、流れ出たその精液が太陽に清められ、四十年後に大黄という草として芽生え、マシュヤグという男とマシュヤーナグという女を生じさせることになっている。


豹の毛皮をまとい山中に住むカユ―マルスの宮廷
細密写本 部分 16世紀 

 カユ―マルスは『王書(シャー・ナーメ)』で三十年の短い在位だったのは、上記の神話に由来するらしい (黒柳恒男『ペルシアの神話』)。野獣も家畜も彼のもとに集い、皆が王座の前で身を屈め、祈った。彼にはスィヤーマクという息子があったが、アハリマンの息子との戦いで爪で腹を裂かれて身罷っている。

第五代 暴君ザッハーク王 (在位一千年) とファリードゥーン

 ザッハーク王 (在位一千年) は両肩に蛇が生える悪魔の傀儡であった。その蛇たちのために二人の若者の脳が餌として与えられ、その度に若者たちが犠牲となった。この治世は欺瞞と殺戮と悪徳に満ちていった。ザッハークは、ザラスシュトラ時代の宗教文学を集成した『アヴェスタ』や中世ペルシア文献では「竜ダーハカ」と呼ばれている。三つの口と六眼を持ち千の術を持つアフリマン (アラン・マイユ) が作り出した魔物とされているのである。アケメネス朝以前のイラン西方にあったアッシリアやカルディアの王に擬せられているようだ。

 王は自分が若い戦士によって牛頭の矛が頭に振り下ろされ、頭から足先まで皮を剥がれ、それを縄として手を固く縛られ、首には軛をかけられて民衆の前に引きずり出される。そこで大声で叫ぶと目が覚めた。この不吉な夢は賢明な司祭によって夢占いされ、その若者はファリードゥーンという名でやがて生まれるだろうと予言された。ファリードゥーンが生まれて間もなく、王はその父を捕え殺害すると、母は輝く牝牛ビルマーヤの牧場主に子供を預かってほしいと嘆願する。やがて危険を察知して息子と共にインドへと逃れた。王は匿われていた牧場のことを知ると乳母代わりだった牝牛ビルマーヤを殺し、ファリードゥーンの館に火を放った。16歳になった時、母は彼に父は勇者タフムーラスの流れを汲むアープティーンであり、王によって殺され、その脳が王の蛇に与えられたこと、そしてインドに逃れた経緯を語った。


ファリードゥーンに野牛の頭の矛を振り下ろされる夢を見るザッハーク
 細密写本 部分 17世紀

 或る日、ザッハーク王のもとに18人の息子の内、最後の一人まで蛇の犠牲にされそうになった鍛冶屋のカーヴェが息子の助命を嘆願に訪れ、息子は助けられたが王の宣言には同意せず、王に対して反旗を翻し、彼のもとに反乱者が集い始める。その象徴がカーヴェの旗であった。ファリードゥーンは二人の兄と反乱軍と共に進み、天使スルーシュは彼に枷を解く鍵と見えないものを見つける魔法を授けた。天を衝くほどのザッハーク王の宮殿があるエルサレムに到着すると、その頂上から破壊し始める。後宮から女たちを救い出し清めた。その中に前王シャムシードの二人の娘もいた。

 インドに逃れていたザッハーク王は自分の宮殿にとって返し黒い兜と甲冑で身を固め、宮殿の屋根から忍び込んだが、ファリードゥーンの牛頭の矛でその兜を打ち壊され、捕えられると天使スルーシュの言葉通りデマーヴァント山の深い穴の中の岩に太い釘で、その手を打ち付けられ囚われの身となった。こうしてファリードゥーンはこの世の悪を清め、父の仇を打ち、世を正して王となり500年を統治した。

英雄時代 ザールの巻

 『王書(シャー・ナーメ)』の英雄時代は、実質的に第七代のマヌーチヒル (マヌーチェフル) 王の時代に始まる。ザールとルーダーベとのラブロマンス、その息子ロスタムの誕生と活躍、ソホラーブやスィヤーウシュの悲劇、ビージャンとマニージュのロマンスなど盛りだくさんになっていて、平家物語か太平記のような様相を見せている。ここからは『王書(シャー・ナーメ)』の引用は東洋文庫版の黒柳恒男さんの格調高い訳でご紹介する。


フィルドゥスィー 黒柳恒男

『王書 (シャー・ナーメ) 』

さて、わたしは古 (いにしえ) の語り草から
不思議な話を一つ語ろう
おお、息子よ、耳を藉 (か) せ、運命が
サームにどんな戯れをしたかを視よ
サームには男の子がなくて
心は慰めを求めていた
彼の後宮に一人の美女がいて
頬は薔薇色、髪は漆黒
月の美女に男児の希望をかけていた
彼女は陽 (ひ) のような顔をし、成熟していた
ナリーマーンの子サームの胤を宿し
身重で苦しんでいた
日を経て母体から離れると、赤子は
世を照らす日輪のように美しかった
顔は陽のように立派だったが
髪はすべて白かった
‥‥

フィルドゥスィー『王書(シャー・ナーメ)』
ザールの巻より 黒柳恒男

 このようにして勇者ザールは生まれたが、父のサームは白髪の息子を蔑み、世間体を憚って子を山に捨てた。眼から血の涙を流す幼児を神秘の鳥スィームルグがエルブルズ山の巣に運び、軟らかな獲物の血で彼を育て、話し方を教え、古の叡智を授けた。一方、父サームは運命の懲らしめの夢を見、祭司たちに罪のない子を捨てたことを詰られると神に祈りながらザールを探し当てた。スィームルグは別れの時が来たことを悟り、ザールに自分の羽を一枚渡すと困難の時にはこれを燃やせ、そうすれば危機を免れようと告げる。


スィームルグに育てられるザール 細密写本 部分 16世紀

 父サームの領土を譲り受けたザールはインドを訪れ、サームに帰順していたカーブルの王メヘラーブに会った。その娘ルーダーベの噂を聞き、心ときめかせる。彼女もまた、称賛のいや増すザールへ思いを募らせた。彼女の待女たちはザールとの仲を取り持ち、二人は冒頭の詩でご紹介したように結ばれることとなる。

 しかし、父サームの君主マヌーチヒル (マヌーチェフル) 王は、ザールとルーダーベとの関係を知り、誤解も手伝ってサームにメヘラーブ討伐を命じた。これに対してザールは父に嘆願してマヌーチヒル王への説得に向う。王は名高い司祭たちにザールの叡智を次々に試させた。

「わたしは十二本の糸杉が
みずみずしく堂々と生えているのを見た
それぞれ三十本の枝が伸び
ペルシアで増減しないものは何か」

「おお、気高い者よ
俊足の貴重な二頭の馬がいる
一頭は瀝青 (タール) のようで
一頭は白い玻璃 (はり) のように輝く
二頭が全速力で駆けても
互いに追いつけぬものは何か」

「王の御前を
通り過ぎる三十騎がいる
見れば一騎少ないようだが
数えればまさに三十騎、これは何か」

‥‥

ザールはすべての問いに答えた

「まず、それぞれ三十の枝をもつ
十二本の高い木についていえば
それは一年の十二の新月のこと
あらたな王が新たな玉座につかれると同じ
三十日で月の推移はおわり
かくして時の運 (めぐ) りがある

さて、そなたが述べた二頭の馬
火の神 (アーザル・グシャスプ) さながらに閃き
白馬と黒馬が互いに
烈しく追いかけるとは
過行く夜と昼のこと
天輪の息吹が数えられる
両者は互いに追いつけず
犬に追われる獲物のように駆ける

三番目に尋ねた三十騎
王の御前を通り過ぎ
三十騎の中で一騎欠けても
数えてみれば三十騎とは
新月の相はそのようなものと知れ
創造主がそのように命じたもうた
月の蝕を述べたにすぎず
ある夜ときどき月相が見えなくなる
‥‥

フィルドゥスィー『王書(シャー・ナーメ)』
ザールの巻より 黒柳恒男 訳


 かくして、ザールは王の信頼を得て月の美女ルーダーベとの婚約もなり、二人はめでたく婚礼の儀となった。やがて気高い糸杉たるルーダーベは懐妊した。しかし、まるで石か鉄が詰め込まれたように重く腹は膨れ、ハナズオウ色の頬はサフラン色に黄変し、気を失った。ザールの頬は涙にぬれ、後宮の待女たちも髪をむしり、被りものを取って泣き叫ぶ。この時、ザールはスィームルグの羽を取り出すと香炉にかざした。

 こうしてザールの子・ロスタムの章は始まります。次回 part2 はロスタムの冒険と武勇のご紹介となります。お楽しみに。




夜稿百話
シャー・ナーメの図書

黒柳恒男 『ペルシアの神話「王書シャー・ナーメより」』

本書はペルシア神話と『王書 (シャー・ナーメ) 』における関連やカユ―マルス王からガルーシャープル王の事績、鍛冶屋カーヴェ、ザールとロスタムといった勇者たちの紹介がなされている。ここでは神話時代などの残りの王たちを簡単にご紹介しておく。

ピーシュダ―ド朝
●第二代 スィヤーマクの息子であるフーシャング (在位40年) は祖父が集めた野獣、家畜、鳥、妖精で構成された軍の助けを受けながら悪魔を追い詰め、その首を切り落とした。鉄を作り、灌漑を行い小麦の収穫を指導し、火の祭りの創始者としても知られる。
●第三代 悪魔縛りのタフムーラス王(在位30年)、家畜を育てウールから織物を作り、鍛冶の術を発展させた。
●第四代 ジャムシード王(在位700年) は都市や宮殿を建て、武器を作り、衣服を発展させ、薬や治療を進化させ、祭司、戦士、農民、職人というカーストを定めた。しかし、統治の300年が過ぎ、王の心には慢心が生まれ、神の栄光は去った。彼は悪魔にそそのかされて父王殺しに加担した。アラブのザッハーク王によって王座を奪われ、100年の潜伏の後、シナの海岸で捕らえられ、鋸で二つに切り裂かれた。
●第六代 ファリードゥーン王 (在位500年) 、彼には腹違いの三人の息子があった。上の二人はジャムシード王の娘シャハルナーズを母とするサルムとトゥールであり、一番下は同じくジャムシード王の娘アルナワーズを母とするイーラジだった。サルムにルーム (小アジア) の国を、トゥールにトゥラーン (トルコと中国) を 、イーラジにイランを分割統治させ王冠をさずけることになるが、兄たちに嫉妬され殺害されてしまう。これがイランとトゥラーンとの復習と抗争劇の発端となる。イラン人とトルコ人、善神と悪神の対立という通奏低音が響き始める。
●第七代 マヌーチェフル王 (在位120年) 、イーラジの愛する待女は娘を宿していた。とり残されたファリードゥーン王は自分の甥であるパシャングをこの孫娘の夫に選びマヌーチェフルが生まれる。彼は二人の伯父を倒して父の仇を討つ。
ここからは英雄譚が『王書』の内容を占め、王に関する記述は乏しくなる。

●第八代 ノウザル (在位七年) 、不正のこの王は敵方に殺され、ファリードゥーン王の血統をひくザブが見出される。●第九代 ザブ (在位五年) ●第十代 ガルシャースプ (在位九年) をもってピーシュダ―ド朝は終わりを迎える。

カヤーニー朝 これ以降、王はシャーではなくカイという名称で一時期呼ばれるようになる。歴代10名の王は以下の通りである。
●カイ・クバート (在位百年) 、●カイ・カーウース (在位150年) 、●カイ・ホスロー (在位60年) 彼らの時代が英雄たちの活躍する『王書』でのクライマックスとなる。●カイ・ルフラープス (在位120年) 、●グシュタープス (在位120年) 、●バフマン (在位99年) 、●フマーイ (在位32年) 、●ダーラ―プ (在位12年) 、ここから実在の王となり●ダーラ― (ダリウス/在位14年) 、イスカンダル (アレクサンダー/在位14年) となっている。



岡田恵美子編訳『ペルシアの四つの物語』

●フィルドゥスィー『王書 ―― サームの子ザールの誕生』
●ニザーミー『ホスローとシーリーン』
●ニザーミー『ライラとマジュヌーン』
●ニザーミー『七王妃物語』
収載

この中から『ホスローとシーリーン』の大ロマンスの粗筋をご紹介する。テーマは「廻る天輪」つまり「すれ違い」である。

カスピ海の西、アルメニアに夫君を失いながら公正に国を治め、季節ごとに館を変える女王がいた。彼女の係累はシーリーン (甘美) という名の月をも凌ぐ美しさを寿ぐ姪ひとりだけだった。彼女の美しいうなじを見て鹿は嘆き涙をこぼし、その羚羊 (かもしか) の目を見ては如何なる男子も気を失うにちがいなかったが、誰一人、この無垢な薔薇を抱いたことはなく、誰一人彼女の姿を見た者はなかった。その魅力が語られるにつれ、ペルシアの王子ホスローの心はかき乱された。その側近シャープ―ルは王子の煩悶をみて心にかけ、王子からシーリーンへの橋渡しを頼まれることになる。アルメニアを向かったシャープ―ルはシーリーンの待女たちが現れる場所に粋を凝らしたホスローの肖像画を掛けておいた。シーリーンは、その姿に魅せられたが、待女達は、その絵を引き裂いて悪魔が隠してしまったと告げた。シャープ―ルは拝火教僧の身なりをした絵師の姿でシーリーンの前に現れホスローについて語るのだった。ホスローがシーリーンに恋焦がれていることを密よりも甘味な言葉で語ればシーリーンも百度も気を失わんばかりだった。シャープ―ルは王子から預かった指輪をシーリーンに渡しながら宮廷のシャブディーズという名馬に乗れば待女たちの馬を振り切ることが出来、そのままアルメニアを出てホスローの狩場まで進めば、その思いは通じるでしょうと語った。しかし、この時、国王の嫉妬を受けたホスローに聖なる司祭は出国するよう催すのだった。駿馬を遊星のように昼夜駆けさせたシーリーンは天国のような牧場に着くと泉に身を浸した。白銀の体はあたかも銀栗鼠の毛皮の上に白貂 (しろてん) が転がるようだった。馬を駆ってアルメニアへと向かっていたホスローが目にしたのは輝く泉に浸る月だったのである。

水浴びをするシーリーンに出会うホスロー 細密写本 部分 16世紀

シーリーンは、その若者の姿にもしやと思ったがホスローはルビー色の服を着ていると知らされていたので、風のように舞い立つとペルシアの都マダーインに着いた。後宮に入りシャープ―ルにもらった指輪を見せると後宮の側女 (そばめ) たちは丁重にもてなしたが心の中は嫉妬の炎が燃え立っていた。やがてシーリーンはホスローがアルメニアに向かったことを知り、やはりあの人がと気づいた。側女たちは気候の最悪の場所に御殿として城塞を作らせて彼女を住まわせた。それによって彼女の心は鍛えられ芯の強い女性へと育っていく。一方、女王の宮殿に匿われていたホスローは父王の崩御を知りペルシアに帰国する。しかし、シーリーンはアルメニアに戻っていた。政権を安定させたホスローだったが政敵バハラームによって孤立させられ王座を降り、都を出て狩りに憂さをはらすようになる。そこでシーリーンと出合うのである。

狩場で出会うホスローとシーリーン
細密写本 部分 17世紀

女王はシーリーンにパンより先に竈に入るような真似をしてはならないと諭す。シーリーンを求めるホスローによろめきながらも彼女は王位の奪還を迫るのだった。彼はビサンチン皇帝の援助を得てバハラームを破り王位に返り咲いたが皇帝の娘マルヤムを娶ることになる。それでも、シーリーンへの思いは増すばかりだった。彼女の方もホスローと共にアルメニアを出なかったことを深く後悔する。それを見た女王は位をシーリーンに譲るのだった。善政を敷いたシーリーンもついにホスロヘーの思いゆえに王座を譲り、かつての城塞に住まいを移した。ホスローはシャープ―ルにシーリーンを呼び寄せるように命じるが彼女のプライドは、その申し出を拒絶する。后マルヤムはホスローに自分以外を愛さないことを誓わせていたが、時ならずして亡くなる。ホスローはシーリーンとの正規の結婚を承諾し、二人はついに結ばれることになる。

ホスローを襲う刺客 細密写本 部分 17~18世紀

死んだマルヤムとの間にはシールゥエという邪悪な息子がいた。彼はシーリーンに露骨に眼を向け、ホスローを嫌い、ついに幽閉する。王は黄金の鎖を結ぶ足をシーリーンの白銀の脚の上にのせて互いに愛おしみながら語る。そして、二人ともが眠りについた時、暗殺者が王の胸を匕首で貫き命の灯を吹き消した。葬儀の日、シーリーンは宝石を身に着けマスカラを着け、花嫁の如く身を飾り、酔えるがごとく柩の後ろで踊った。稜廟に入ると居並ぶ人の前で墓の扉を閉め、王の胸の傷口に唇を押し当て、己が胸の王の傷口と同じ個所に匕首を突き立てて、王の骸を抱き唇に唇を重ね、肩に肩を寄せて果てた。




関連画像


ファリードゥーンの牛頭の矛でその兜を打ち壊されるザッハーク王
細密写本 部分 16世紀



ファリードゥーンによってデマーヴァント山の岩に囚われの身となるザッハーク王 細密写本 部分 16世紀



ザール (右下) と共に帰還するサーム (左下) 細密写本 部分 16世紀






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