第47話 ヤコブ・ベーメ『シグナトゥーラ・レールム』part2 アダムとソフィアの結婚とキリストの復活 

 ベーメが生きていた神聖ローマ帝国の時代、皇帝ルドルフ2世は1583年に首都をウィーンからプラハに移し、街は繁栄の時を謳歌した。ベーメが8歳ころのことである。だが、軍事的にはオスマントルコとの長い反目があり経済的にも疲弊していたし、宗教的には、拮抗したプロテスタントとカトリックの勢力争いが政治的な困難さを助長し、スペインで成長して熱心なカトリックであったルドルフ二世もおよそ宗教に関心を失い、政治も投げ出すような状況に追い込まれる。


16世紀頃の神聖ローマ帝国


 このあたりの事情は、R.J.W.エヴァンズ『魔術の帝国 ― ルドルフ二世とその世界 ― 』に詳しい。ルドルフ二世は宋の皇帝であった徽宗と同様、政治に投げやりな風流天子ではあったが秘められたものには目がなかった。彼の宮廷は、ルネ・ホッケが強調したように後期マニエリスム芸術の宝庫となり、それらに用いられる象徴や寓意は錬金術や穏秘学にも通じるものだった。アンドレーエの薔薇十字の思想も流れ込んでいて、アグリッパ、カルダーノ、ポルタなどの著作は、当時、広く読まれた。ルドルフ二世もポルタを再三、宮廷に呼び寄せようとしたし、一度はジョン・ディーに謁見を許している。とりわけ錬金術への情熱は、1570年から半世紀ほどの間に頂点に達したいわれ、宮廷侍医であったミヒャエル・マイヤーなどは『逃げるアタランテ』などの錬金術書を立てつづけに出版した。この頃最も大きな影響力を持っていたのはパラケルスス (1493-1541) であった。


ルドルフ二世像 ウィーン美術史美術館 
©UEDA Nobutaka

 このような帝国の状況の中では、ペシミズムとユートピア思想が混淆し、政治に対しても千年王国説や汎知学的叡智の情熱と穏秘学や魔術とを切り離すことができなくなっていく。現実に国家を魔術的宇宙論の一つの様相として捉えていたとエヴァンズは指摘する。ベーメは神秘学や錬金術思想へと接近を図るのである。パラケルスス文献最大の蒐集家はシュレジェン (シレジア) 人シュトリーガウのヨーハン・モンタヌスで、パラケルスス全集は主にシュレジェンに流布していたといわれる。ベーメが暮らしたゲルリッツもその地方に接していた。


ベーメの錬金術



 パラケルススの錬金術は、生気論的宇宙観、天上的なものと地上的なものの照応、様々な力の影響関係とその調和、それらの表れとしての徴 (シグナチュス) といった原理から導き出されていた。例えばベーメの手稿ではないかと思える『徴 (デ・シグナトゥーラ) について ―― 事物の誕生と関係について』では、こう述べられている。

「徴からは全てを読み取ることができる。何故ならその徴のうちに宿る精神が、徴の本質を成すものによって明らかにされるから、すなわち究極の根源的言葉を通じてその精神が開示されるからである。また、徴は他者のうちにある同じ精神を呼び覚ますことができる。そこで、徴は他者にとっても明らかなものとなり、こうして一つの意志、一つの精神、一つの理性となるのだ (R.J.W.エヴァンズ『魔術の帝国 』註より) 。」言うまでもなく、この徴は直観に導かれ物を介して実地にその精神的働きを探求し、検証することによって確認されるものであって、論証によるものではなかった。

 万物の第一の母である欲は七つの性質・姿に移行することは part1 で既に見た。簡単に振り返ってみたい。第一は引き込む渋さ、第二は突き抜けようとする苦さ、第三はその二つによってグルグル回る大いなる不安、ここまでは永遠の自然の闇の世界である。ここに正・反・合の第一世代が登場する。第四の姿は火だが、サルニテルの爆発によって生命の第一プリンキピウム (原理) となって闇と光の世界を分け、マテリア (物質性) の分離が行われ、身体性の起源となる。そして、永遠の心情が生まれ、死すべきものと生命あるものとが分けられる。第五は愛の欲。その自由なルスト (よろこび) と飢えに苦しむ火のルストの姿であり、それぞれ棘と渋さの性質を分け持っている。

 第六は響き・言葉。サルニテルの衝撃を受けて相反するスルとフルの硫黄の発生とその影響をうけた回るメルクリウスという第二世代の正・反・合が現れ、この工匠メルクリウスの性質によってエッセンス (本質・イデア) が増大していく。この合は第一・第二世代ともにロータリーエンジンのような駆動力となっている。火が燃えはじめると同時にヴェヌスの愛の欲が全てに浸透して他を求める欲を起こす。ここに、味覚、嗅覚、聴覚、視覚、他の感覚、言葉、知性、森羅万象の真の生命が始まる。光が第二の泉である第二プリンキピウムを開くのである。死の中に生命が、苦の中に愛が芽生える。


 第七の姿は体、住まい、食べ物。一から六までの全ての姿とそこから生まれる他の姿の器となる。愛と飢えとが生まれ欲するものを求めて外へと向かい、七つの姿は、それぞれ固有の飢えの性質に応じてその生命にあう体を作る。そして、分離が起こり太陽と星、全被造物、金属、石と土となるのである。これが第三プリンキピウム、物質世界である。


 上図は、硫黄スルフルの持つ二重性 (光・自由のルスト+激しく引き込む暗黒と火のエッセンス) を中心に、それらの働きによって生じる七つの惑星と七つの金属の成り立ち、及びその性質を示している。詳細は図をご覧いただきたい。ベーメにとってサルニテルの爆発によって生じるスルフルは「渋さ」と「苦さ」を受け継ぐもので、宇宙創造において極めて重要な働きをするのである。

 スル+フルは、この二重性によって回る輪であり、これがスルフルの中にメルクリウスを生じさせ、それが分裂し始めることによって身体的・物体的な本体ができ始める。スルは内なる神の中にあり、フルは自然へ向かう。サルニテル (稲妻・閃光) のショックは死と生という二方向に導いた。死という厳しい欲の憤怒とルスト (よろこび) という愛の本体性への方向である。この相反する性質が外なる自然への扉を開き、ガイスト (精神) の王国が、ガイストと物質の本体との分離へと展開する。

スル (生の方向) 光・自由のルスト(よろこび)        
フル (死の方向) 火のエッセンス、激しく引き込む暗黒・憤怒 

 自由へのマテリア (物質性) が殺されて、一旦、自由になり、憤怒から解放される。死は変容への契機とお考えいただきたい。この時、マテリアは沈下してもなお憤怒に捉えられた水になる。揮発性が抜けて液体に安定すると喩えてもよい。この水は分離し、一方は憤怒の本体から地と石に、一方は光の優しさから水になる。固体と液体の分離である。まず、不安の死をくぐり抜けて硫黄の水が誕生する。硫黄の中には油・光があって自由なルストが成長を促す。そして渋く厳しい性格から塩水が生まれ、火の熱によって塩となる。生きとし生けるものは塩と硫黄を含む。苦く棘のある引きつける性格は水から闇の本性であるを生む。土のマテリアは混合物であり、地の死によって青々とした植物を生み出す。

 永遠の火は魔的なガイストであり、死を知らない。その鋭さが永遠の自然となり、によって憤怒の性質を失うと死ぬ。それは死と言っても、苦の欲から愛の欲へと別の泉に入ることに過ぎない。火に死んで死をくぐり抜けるものは神の本体である。サルニテルの衝撃によって光からやさしさの本体を生む。やさしさはよろこびに震え、神の怒りである火の死の中に沈んで消えると、神が優しい光の内に宿る。光をもたらす第一性質は、永遠の自然の火と憤怒であり、闇の世界を開くのである。風は機織るガイストであり、スルフルの内にある外へと向かうガイストである。

 このようにしてスルフルの相反した性格は相携えて地水火風を形成し、星辰やあらゆる生きとし生けるもの形成していくことになるのである。




アダムの誕生と死



 人間アダムはルチフェルに損なわれた神の顕現運動を回復するために三つのプリンキピウムの中心に創造された。アダムはソフィアの智と一体であったために神の似姿となったし、この永遠の乙女と一体であったが故に両性具有と呼ばれた。それは王と王女の結婚だった。


叡智の鏡ソフィア (上部の✡の中のS) に神的存在が
誕生した時の「深み/Byss」の中に生まれた
「奈落/Abyss」の偉大な神秘最下段現世界

アンドレアス・フレーエ 画 1764



 天国でアダムが創られた時、天上のメルクリウスがアダムを導き、その生命と知性は神の本体性の油の内に輝き、天使に近かった。しかし、悪魔が蛇の本質と性質を使って、サトゥルヌスの全てを支配する冷たい毒を油の光の中に入れ、闇が生じることによって、アダムは神の光の内に死んだ。アダムは、水のメリクリウスを欲したが、それには死に至る毒を含んでいたし、ルチフェルは火の性質を欲して、その強さと力によって反逆の心を生むことになる。神のやさしさの本体性である油は両者から去った。


 「女の末が蛇の頭を踏みつぶす」と神が言われたが、蛇が咬むのは神の怒りを表している。女の末とは愛の火であり、それが再び目覚めれば怒りを貫いて輝き、憤怒を無にして神の喜びに変え、死んだ魂は蘇り、高貴な石を手にする。賢者の石のプロセスもまた同様であるとベーメはいう。



イエス・キリストと賢者の石



 闇の泉である死による不安の苦は、生命の内に輝く光の泉に変換されなければならない。こうして人間は再び生命あるものとなり、ティンクトゥール (霊液) に染め上げられ、キリストに包まれる。

 ユングは『パラケルスス論』の中でこう書いている。錬金術は太古からアルカナ(秘儀)哲学として生き続けた。その中心は「ヘルメス」ないし「メルクリウス」であり、水銀と宇宙霊としての二重の意味を持っていた。錬金術の作業は、本質的には「プリマ・マテリア(第一質料)」、すなわちカオスをアクティブなものとパッシブなもの、すなわち魂と体に分離することであった。その分離の後で、両者は人格化された姿で「結合」もしくは「化学の結婚」の中で再び合一される。この「結合」は、「聖なる結婚」として太陽と月との祭儀的な「床入りの儀」として寓意的に表現された。この合一から「英知の子」もしくは「賢者の子」が生み出される。これが変容したメルクリウスであり、完全無欠な状態を示すために両性具有として描かれてきたという。



 ベーメもまた、こう述べた。天上に閉じ込められ、力を失い死んでいるメルクリウスをメルクリウス自身の (永遠の) 洗礼で洗礼し、メルクリウスの神の水・地の水を手にしなければならない。神のメルクリウスは自らの中に活動と飢えを引き起こす力を受けいれると神の本体が注ぎ込まれてよろこびの国が生まれる。こうならなければ地のメルクリウスにも神的な水は与えられないと言うのである。

 そして、こう続ける。「キリストは、その奇跡すべてを古いアダムを通じてあらわしたが故に、古い人間、新しい人間両方を神の大いなる怒りの中に投げ入れ、古いアダムを死なしめ、風に曝し、十字架にかけ雨ざらしにし、おろして、墓に入れ、腐らしめよ。そのとき、キリストは死からよみがえり、姿をあらわすが、その姿を見る者は、信仰ある者のみ (南原実訳 )。」

 ユングもまたこのように述べる。カオス=混沌塊は、ニグレド(黒化)に照応する。それは意識と無意識の衝突であり、それによる混乱である。錬金術の作業はまさに暗黒への降下、ないしは無意識への下降とともに始まる死と再誕の「腐敗」運動である。




キリストによるアダムの復活



 錬金術書はこう言う。原物質 (第一質料) だけでは同類のものが結合しているのみで何も生み出すことができない。王は水底で魂の抜け殻 (エクスアニミス) となっている。この時、隔絶された水底という無意識の深みから王の叫び声が聞こえる。意識はこの叫びに応じなければならない。それは、「穴の中への降下」という儀式、あるいは「夜の航海」という冒険行となる。その目的は生の再興、死の克服と復活である。王と王女、金と銀、水と火、水銀と硫黄、などなどの対立物が結びあわされる。「対立物の結合」は、坩堝やレトルトの中の化学の結婚でもある。肉体を意味する父王は若返り、「王の息子」の姿に変る。変容が起こるのである (C.G.ユング『心理学と錬金術Ⅱ』)

 「第一のアダムは倒れて、神の世界の力を失い、眠りに落ちた。死の死のうちに死んだのである。第二のアダムは、死の死のなかに入り、死の死を自分のなか、アダムの人間性のなかにとらえ、死に対する死となり、生命を死から救い出して、永遠の自由へと導き、神の全能のうちに、第一のアダムの本体となって立ち上がった (南原 実 訳) 」とベーメは言う。この第二のアダムこそイエス・キリストに他ならない。神のガイストがキリストの人間性を通して、アダムを死から救い出したのであり、ここにアダムは復活する。これがキリストの死の内に死に、キリストのうちに蘇って生きると言う意味なのである。



ウィリアム・ロー『ドイツの神智学者ヤコブ・
ベーメンの深淵なプリンキピアについて』1763
本書より転載

上段の左からMは光の国に住むミカエル、Sは智の乙女ソフィア、Uもまた光の国に住まうウリエル、その下に第二プリンキピウム、太陽を中心とした7惑星、そしてアダムである。アダムは闇の世界から逃れ、十字架 (キリスト) と重ねられている。

 罪に枯れた人間の枝は、イエスにより生命の力と樹液を与えられ、自らの父アダムの心臓と力となったキリストの幹に人性の枝葉を広げ、実を結んで神を褒め称えることとなる。こうして自身の内に天国が開かれ、父なる神の特性はすべて自身において神の似姿としてあらわれる。それは、半陰陽というべきメルクリウスの毒性に犯された人間性をキリストが神の永遠性と処女性である天上の血によって染め、人間の我性は滅び無心の生命へと蘇へらせる。それは、メルクリウス的、マルス的、サトゥルヌス的な闇に押し込む渋さのマトリックスに染まった意志と欲が錬金術のヴェヌスの血の中で死に、死の中へと向かい、共に一つの愛、一つの意志によみがえることを意味した。王と王妃の結婚と王の息子の誕生である。

 ベーメはこう述べている。「同好の士のよく心得るべきは、キリストのたどった道と錬金術の実験において行われることは、同じ一つのプロセスであるということである。すなわちキリストは、人生のなかの死の憤怒に打ち克ち、みずから人となって父の怒りを愛に変えた。錬金術師の意志もまた同じである。すなわち、おそろしい地を天となし、毒のメルクリウスを愛に変える (南原実訳 ) 。」




自然の光とベーメの世界



 ベーメが無学で、その著述が、タドタドしく、文法の間違いなどを指摘する翻訳者もいる。はたして、そうばかりと言えるだろうか。『シグナトゥーラ・レールム』を読むと「四散する真のミクロコスモスをもった、湧き出で、駆り立て、形成し混合する諸力を持った強力な春」とノヴァーリスが言祝いだ意味がよく分かる。「死の死の内に死んで」「罪に枯れた人間の枝」というような表現は詩的でさえある。そこには物質性と霊性とがどのように手を携えたかが語られるが、人間が意識を持つ前の暗い闇の世界から立ち上がる自己を認識したいという欲は無底の神の意志とパラレルな世界でもあるのかもしれない。

 これは、科学ではない。広い意味での自然哲学なのである。『シグナトゥーラ・レールム』において、彼を導いたものはパラケルススが自然の光から得た錬金術による概念だった。徴を開くには概念が必要だった。自然の光は無心の鏡に自然の姿を科学とは異なる姿で映してくれる。「全ての内なるものは外なるものにおいて知られる」というパラケルススのテーゼはこの自然の光というものの性質をよく示している。いかなる果実も一つの徴であり、その中に隠された秘密を保っている。ここからゲーテの自然哲学までは、そう遠くない。



夜稿百話
ベーメの著作 一部

『無底と根底』
「六つの神智学的要点」「神の観想」「恩寵の選び」収載

「初めに言あり、言は神と共にあり、言は神なりき。この言は初めに神とともに在り、すべての物は、これに由りて成り、できたもののうち、一つとしてこれに由らないものはなかった。」
この短い記述のうちに、一切の存在の内に神と自然の顕示の根底が含まれてるとベーメは述べる。「初めに」とは根底に向かう無底の意志の永遠の始まりである。根底とは神が把捉し得たものであり、意志は神の本質である根底の中心へと自己を捉え、自己を力へと導き、霊となって、その力から外へ出る。ここまでは第一プリンキピウムから第二プリンキピウムまでの概略をのべている。そこで、霊において自己を諸力の感覚性へと象る。たった一つの力の中に含まれているこれらの諸力は言の根本状態と言える。神の唯一の意志は、全てが隠れている内にある唯一の力の中で自己を捉えてその力を通して自己を観想の中へと吐き出す。そして、この知恵、もしくは観想は永遠の心情の始まりであり、自分自身の眺めである。それがすなわち「言は初めに神と共にあった。言は神自身であった」という意味であったと言う。(「恩寵の選び」)




参考図書

R.J.W.エヴァンズ『魔術の帝国 ― ルドルフ二世とその世界 ― 』

後期マニエリスムの精華がこのプラハの王宮にあったことは夙に知られている。マニエリスムは、それ自体、万物照応やミクロコスモスといった魔術的宇宙の反映であった。当時、芸術そのものが魔術と考えられていたとエヴァンズは述べる。しかし、マニエリスムは外見と真実性 (イデア) との対立によって分裂する。真なる叡智世界は内なる素描、詩的洞察、霊的な知覚、そして意識的な学知によってさえ捉えうるとされたのに対して、感覚で得るものは不確かで秩序と調和を欠いているとされたからである。奇想が独り歩きし始め、手の込んだ均整の破壊、グロテスクな人物、誇張や歪みを好む傾向といった現実からの乖離が見られるようになる。

マニエリスムとバロックの関係は、はるかに込み入っているという。ある面ではこの二つの運動は共通点があり、或る意味で相互依存的でさえあると言う。しかし、マニエリスムにはバロックの感情のリズムやダイナミックな統一感が見られない。そして、マニエリスムは、ある点でルネサンスからバロック的要素を取り去ったものだとも言う。マニエリスムは情熱の息吹きを取り去り、動きを儀式化する。それは、当時の文化的動向の一連の現象であって、修辞法と文学上の技巧表現にみられるような抒情短詩 (マドリガル) の本来静的な形式が波乱を内包してしまい、牧歌物語が感情そっちのけで些事にこだわるのと同様であった。要するに実際の関連性がないのに「驚くべきもの」を導入してしまう傾向だと言うのである。




種村季弘『パラケルススの世界』

パラケルススは後年、こう書いている。「私は生まれつき細やかな糸で紡がれているような人となりではない。お蚕ぐるみの綺麗事で何かをものにするなど、私の国のやり方ではない‥‥私の国の人間はまた、いちじくや蜜酒や白パンで育てられるのではなく、チーズと牛乳と燕麦パンで育ったのだ。これで繊細な人間ができるわけはない。それにまた、子どもの頃に受けたものが一生の間その人につきまとうのである。‥‥樅の実の中で人となったわれわれは、頑固で物わかりが悪いのだ」と。ちなみにオーストリアのアルプスよりの町インスブルックには、魔術師としてのパラケルススの名が伝説の中に生きている。そこでは、グリム童話の壜の中の魔霊のように樅の実に閉じ込められた悪魔を解放して、その報酬に黄金製造薬と万病に効く霊薬を手に入れるしたたかな魔術師なのである。



C.G.ユング 『パラケルスス論』

パラケルスス以前から、「賢者の子」はキリストになぞらえられてきた。彼の影響を受けた16世紀の錬金術師たちにとっては明確な形をとっている。しかし、彼は、この影響について無自覚、無邪気だったとユングは言う。「人間の自然な光」とか「人間の内なるアストルム」とかいうものにキケンな感じはなかったため、同時代人にしろ、それ以前の著者にしろ、この「賢者の子」がキリストと肩を並べることの意味は自覚されなかった。キリストにおいては神が自ら人間となった。しかし、賢者の子は人間の意図と技術によって元素から抽出され、錬金術師の「作業」によってつくりだされる。キリストの場合、人間の救済という奇蹟は神によって為されるのに対して、賢者の子の場合は人間の精神によって為される。それは、人間が創造者の立場に取って代わることを意味する。錬金術とは自然科学時代の黎明なのだとユングは強調する。
この時代には科学精神というダイモニオンが自然と自然のエネルギーとを前代未聞の果敢さで人間のために役立てようとしていた。この錬金術の精神からゲーテはファウストを、ニーチェは超人を創造する。ここには今日の世界に働きかけている様々な要因の根がある。しかし、それによって魂が高められたかは別の問題だと締めくくっている。

メルクリウスの霊

龍の姿に変身したメルクリウス。四位一体性の中の四番目のものが、同時に全ての本体である。上部は左から月、太陽、月と太陽が合体した牡牛であり、牡牛座はヴェヌスの座と言われる。(ナザーリ『金属変性の三つの夢』『パラケルスス論』より転載)






参考画像

フレスコを持つ錬金術師 16世紀



ハインリヒ・ノリウス『錬金術の作業からの二重のイメージ』1617

王と王妃の結婚



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