第35話 ドナルド・キーン『文楽』part2 文楽人形の道行



『能・文楽・歌舞伎』 ドナルド・キーン



 確かに人形が生きていると錯覚させるほどの芸がある。それは多くの人たちが体験してきたことだ。その人形に生命を吹き込んできたのは人形遣いたちである。彼らは、ある時代には河原者と同一視され賤民と呼ばれ、時には神事に奉仕する者たち、信仰を呼び覚ます者たちであった。それは、やがて文楽と呼ばれる素晴らしい芸として開花したのである。


エジプト中王国のパドル人形 紀元前 23世紀~紀元前 18世紀


 ドナルド・キーンは、『文楽』の冒頭で、人間は何千年もの間、世界の至るところで自分の像を何かの形で作ってきた。それが今では人間の本能の一部を成すのではないかと思われると述べ、現在知られる最も古い人形はエジプト時代のもので、人間が神々の真似をするのが冒涜であると考えることから宗教上の儀式で神々がすることを演じるのに人形が用いられたのではないかとしている。パドル人形は第6王朝 (前 2345-前 2181) から第13王朝 (前1803–前1649 ) までの色々な墓から出土している女性を象ったものである。


鳥文斎栄之『模文画今怪談』 馬の霊である婿が娘をさらう場面 おしら様伝説より
異類婚姻譚のひとつ 馬は蚕の守り神とされる


 日本でも、祓のための人形(ひとがた)や玩具の人形は別にしても、東北のオシラサマ、山梨の天津司舞(てんづしまい)の傀儡田楽、九州の古表・古要神社の神相撲を見れば神の依代としての人形が舞ったり、相撲をとったりするのが見て取れる。人形芝居が神道の行事の一部となっていったのは事実である。やがて、神々だけでなく人間も喜ばせる余興としての性格を持つようになった。日本に伝わったとされる操り人形がどのようなものであったかは、はっきりしない。

 キーンは、このように述べる。「人形は生命がなくてもそれを人形遣いから借りて、人形遣いが望むとおりのものになることができる。それは神々の一人にも、‥‥愚かな人間にもなれて、ただ、それ自身にだけはなれないのは、人形には自分というものがないからであり、それ故にまた、人形は神聖な儀式にも、粗野な喜劇にも向いている。(吉田健一、松宮史郎 訳)」この指摘は、深い。



 人形浄瑠璃は、およそ300年ほどの歴史を持つと言われる。今日では「文楽」とも呼ばれるけれど、古くは「操り」「操り芝居」と呼ばれ、人形浄瑠璃の呼び名が一般化するのは明治以降のことである。上演する座がいくつかあった中で、この明治の初めに「文楽座」だけが残っていた時期があって「文楽」の名で呼ばれるようにもなった。物語る太夫、伴奏する三味線弾き、演ずる人形遣いの三業からなる演劇である。

 今回の夜稿百話、ドナルド・キーン『文楽』part2 浄瑠璃人形の来た道 ―― では、キーンの『文楽』を縦糸に他にいくつかの著作を横糸にして、人形浄瑠璃以前の人形操りの時代から人形浄瑠璃として展開した後世の時代をご紹介する。これは、いわば文楽人形への道行である。



人形操りの祖型



 もともと「人形操り」が、どこから来たかは諸説ある。キーワードのクグツという言葉が人形芝居を表わす語として八世紀の経文の注釈にあるのが初見のようだ。もともは莎草 (くぐ/浜菅) で編んだ籠や袋を指す言葉で「くぐつ籠 (こ) 」を省略した名称だった。莎草を求めて漂白する人々を指している。柳田国男は今のサンカとくぐつとは系統が同じだと考え、折口信夫は、くぐつ・傀儡子 (くぐつし) 同種説は信じられないが、それらの生活は不思議によく似ているという。(『民衆史の遺産 第四巻 芸能漂泊民』 谷川健一「芸能と芸能民」)


莎草 (くぐ/浜菅)


 その傀儡 (くぐつ) は人形を指し、人形遣いを指す言葉は、傀儡子、あるいは傀儡師である。中国語の傀儡子(かいらいし)、朝鮮語の傀儡子人形(コクトゥカシ)といった言葉の他、ロマ語のクキ、あるいはククリ、トルコ語のククラ、後期ギリシア語のクークラなどあり、人形芝居が近東から中央アジアを経て中国、朝鮮から日本にきたというが、確証はない。廣瀬久也は、唐と新羅の連合軍を指揮した唐の李勣(りせき/594-669)が、高句麗を滅ぼした時、戦利品として傀儡子とからくり人形を唐に持ち帰ったという元代の『文献通考』に注目し、高句麗から奈良時代に傀儡子と人形が伝わったのではないかとしている(『人形浄瑠璃の歴史』)。ちなみに後述する大江匡房(おおえ まさふさ)のいう傀儡子に近い存在として朝鮮の楊水夫(ヤンスヨーク)があり、その記述が十世紀に遡って存在するとキーンの指摘にある。


朝鮮のコクトゥカシノルム (人形遊び)

ギリシアの人形 (前500-前400)



細男舞と八幡戎三郎



 日本で最も古いとされる人形操りは、平安末から鎌倉時代にかけて西宮で発祥したと言われる。一説には西宮の八幡戎三郎(はちまんえびすさぶろう)信仰と宇佐八幡やその傘下にある古表・古要神社の八幡信仰とが関わって操り人形の発展を催したのではないかと言う。福岡の古表神社、大分の古要神社で遣われる現存する人形は、鎌倉時代の作とされているが、より古い時代の形式を残しているのかもしれない。片足を握り、他の片足と両手を紐でひく形式になっている。


 それらの神社で人形によって行われる細男舞(さいのうまい/くわしおのまい)は、九州の海人族(あまぞく)安曇氏の祖神・安曇磯良(あづみのいそら)神話に発する。大嘗祭などの宮廷儀式の中で中央・地方の氏族たちによる寿(ほかい)歌・芸能の奏上において九州豪族の海人族たちが天皇に対する服属の誓いや寿祝として細男舞を舞ったことは想像に難くない。海人族の中央進出のよすがのように福岡の志賀島(しかのしま/志賀海)神社の磯良鞨鼓(かっこ/ばちで打つ鼓)の舞、春日大社の若宮おん祭などにその名残がみられる。それらは、人による舞である。


八幡古表神社傀儡舞


 海人族の信仰する安曇磯良神、秦氏や辛島氏と縁の深い八幡神は、渡来系の神であり、瀬戸内海を遡上して中央に接近するにつれ、操り人形も伝搬していったと見ることもできるのではないかとは廣瀬説である(『人形浄瑠璃の歴史』)。清和天皇が即位した九世紀半ばには、春日大社で大山崎の離宮八幡宮から頭と手のついた人形を迎えたことが藤原仲倫(ふじわらのなかとも/江戸中期)の『春日大宮若宮御祭礼図』下巻の記述に見える。離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社である。この地は荏胡麻(えごま)油発祥の地、日本初の製油地として名高い。おそらく、このような神社に関係した傀儡師たちもいたのかもしれない。


藤原仲倫 『春日大宮若宮御祭礼図』 下巻
早稲田大学古典籍総合データベースより




蛭子 百大夫 傀儡



西宮神社は、三年たっても足が立たなかったために海に流された蛭子神(ひるこのかみ)が祀られている。蛭子を戎(えびす)と読む説もあれば、摂津に着いて戎三郎として祀られたという説、えびすは渡来の海洋神を指すという説もある。この神社の約100メートル北にあった山上村に平安末期から既に石の道祖神である百太夫(ひゃくだゆう)が存在したといわれる。この山上村を別名、産所村といった。ここの女性たちが助産もしていたからである。

 浜松歌国(1776-1827)の『摂陽奇観』によれば、江戸の元禄時代には民家が三~四十軒あったという。江戸末期の天保に、この村が廃れて百太夫社は西宮神社の境内に移された。この山上村の辺りは、室町期に人形遣いたる傀儡子として全国をまわり、恵比須信仰を布教した神人(じにん/神社の下働き)たちの住まいとなる地域である。


 


西宮神社 末社 百太夫神社 


南は住吉、西は広田、これらの地は客に寵愛されることを祈る地である。殊に百太夫に関わり、道祖神(さえのかみ)の別の名でもある。人毎にこれを削り作れば数は百千に及ぶ。能く人の心を蕩(とろか)すと平安末期の大江匡房(おおえ まさふさ/1041-1111)は『遊女記』に書いている。

 広田には天照大神の荒御霊(あらみたま)を祀る広田神社がある。そのすぐ近くにある西宮神社は、もともとこの神社の摂社だった。遊女たちが百太夫の像を作って、その広田神社に奉納したが、その数が百・千に達したと言う。同じく、大江匡房は、『傀儡子記/くぐつき』に人形遣いである傀儡子が、蒙古の遊牧民のように家畜とともに移動する民であり、男は狩猟をし、田楽や雑技のような曲芸をし、女は化粧し、歌舞をよくし、時には春をひさぐロマたちであったと記している。

 一説には古い時代の百太夫はこけし風の木製の人形で、遊女や傀儡子が自分の住まいにそれを安置していたのではないかというし、折口信夫は傀儡の持ち歩いた人形はもともと旅に携帯できる小さなもので、そうした霊物をいれるための容器が莎草 (くぐ) で編んだ「くぐつ籠 (こ) 」ではなかったかという (『民衆史の遺産 第四巻 芸能漂泊民 谷川健一「芸能と芸能民」) 。なるほど、細男舞が演じられる古表神社、古要神社で遣われる現存する人形は小型である。


 「‥‥或は木人を舞はせて桃梗(とうこう)を闘はす。生ける人の態を能くすること、殆に魚竜曼蜒(えん)の戯に近し (大江匡房傀儡子記』)。」

木偶 (でく) を舞わせ、魔よけの人形に相撲を取らせ、手品や幻術のごとく生きた人のように見せたというのである。交通の要所にあたる美濃、三河、近江の集団が勢力を持ち、播州、但馬がこれに次いだ。西海は振るわなかった。高名な傀儡女(くぐつめ)は歌唱の達人で、今様、催馬楽、田歌、神歌、風俗などの多くの歌を歌ったという。傀儡女の歌は天下一だと匡房は書いている。また、寛仁4年(1020年)、作者13歳から起筆される更級日記では、足柄山の傀儡女の唱歌が「声すべて似るものなく、そらに澄上りて、めでたくうたを歌う」と感慨を込めて書き記されている。

 日本の十一世紀が文学の面で多くの傑作を残したにもかかわらず傀儡師たちの人形芝居は、その頃の文献には姿を現わさない。クグツという名は、文献に出てきてもその中の男はどこかに定住はしたが納税の義務が免除されたとか、昔のように猟をすることもあるとか、人夫になって人に雇われたとか、女は純然たる娼婦で街道筋の娼家に住むとかいった内容になっている。やがてクグツは娼婦だけを意味する言葉となる。この頃、人形芝居が続けられていたかどうかは定かではないとドナルド・キーンは、いささか当惑ぎみに述べている。


人形操りの揺籃期 中世から近世へ




中国の糸操り人形 福建美術館


 人形操りが再び文献に登場するのは室町期頃になってからである。マリオネットのように糸で操る人形が日本に入ったのは十四世紀頃との指摘がある。五山僧・令淬(れいさい/?-1365)に『傀儡』という詩があるという。十五世紀には将軍足利義満の中国趣味によって多くの操り人形が請来され、日本の職人を刺激して糸や水力で動く精巧な人形も現われる。十六世紀には、1.8メートル四方の城の中で二千の兵隊人形がせめぎあうといったものまで登場しているし、イエズス会の宣教師たちが「出エジプト記」などを糸操りの人形で見せたことも記録に残されていた。しかし、こういった新たな刺激は長続きせず、後世、日本の操り人形に与えた影響としては、目、口、手などが人形内部から糸で操作されるようになることだった。

抽牽(ちゅうけん)する者(は)、即ち主人公
地水合成して、火風に随う。
一曲の勾欄(こうらん)、曲終って後、
本然の大地、忽(たちま)ち空(くう)と為る。

(一休宗純『傀儡/かいらい』)


 一休は、傀儡(くぐつ)の芝居を見てこんな詩を詠っている。人形の糸を引く者が主人公であり、地水からなる粗雑なものが火風のような精妙なものに従うのに似ている。人形の立ち位置となる手すりがいわば、大地であったが、曲が終われば忽ち空虚となるといった意味だろうか。それで、水上勉はこう述べた。

「案外、この世は、すべて、一曲の人形芝居かもしれぬ。うらで糸をひき、操る者がいて、人も風も、火もうごく。操るものは主人公である。その主人公をとっつかまえねばならぬ。いや、その主人公こそ、求めつづける正伝の正体なのだ。狂雲もまた狂風に舞っている」(『一休文芸私抄』)


一休宗純(1394-1481) 墨斎() 没倫紹等(賛)
15世紀 東京国立博物館


 十四世紀は、南北朝の時代であり、兵火によって寺社の多くが廃れていった。西宮神社も例外でなく、神人たちは門前町で酒造りに流れた。酒造りの技量を持たない傀儡師たちは途方にくれ、往来の自由になった淡路島に移って行く者もあった。廣瀬久也によれば、『道薫坊(どうくんぼう)伝記』に記されている百太夫と名乗る傀儡師が淡路の広田にやって来たのは、このような経緯ではなかったかとしている。ただ、どの時代かは、はっきりしない。西隣の三原村へ移り、一子・重太夫を儲けた。百太夫没後、その子は源之丞と称して百姓に百太夫の技を教えたという。

 この源之丞の上村家には『道薫坊伝記』が伝わっていて、このような話になっている。西宮で戎三郎神を祀っていた道薫坊の死後、祀る者がいなくなると海は荒れ、漁は不作となり、多くの災いが人々に降りかかるようになる。百太夫が、このことを帝に伝えると、道薫坊の人形を作るよう勅命を受ける。そっくりな人形を仕上げると戎神に奉納した。すると、風雨は治まり豊漁が続いた。百太夫は人形操りをしながら諸国を回り、やがて淡路に落ち着き、淡路人形座の元祖となったのである。



 16世紀後半、戦国の乱世も猖獗を極めようとする頃、西宮神社の神人たちが人形を携えて恵比須信仰を広めるために戎舁(えびすかき)として全国を廻りはじめる。経典を入れる箱を首から吊るして、それを台として木偶(でこ)の操り芸を演じた。戎舁は恵比須神をかたどった人形を舞わす門付け芸を行う者を指すが、1555年には四人の戎舁が宮中で能を人形芝居で演じて人気を得た。正親町(おおぎまち)天皇の御代である。その後、度々宮中に召されるようになり、人形芝居を叡覧に供するようになった。

 人形芝居が江戸時代に入って人形浄瑠璃として本格化する前の揺籃期は、この16世紀、つまり室町後期・安土桃山時代にかけてである。催馬楽、今様、白拍子、田楽、猿楽、小歌などもそうだけれど民間の芸能をこのように宮中が吸収し、ソフィスティケートされる契機を作っていった役割は日本文化にとって極めて重要だったと言える。


正親町天皇1517-1593



 南あわじ市にある事代主神社の歳の市における淡路人形座による恵比須舞いの様子で、戎舁の芸を垣間見ることができる。それは年の瀬や正月を彩るおめでたい芸だった。





人形浄瑠璃の黄金時代



 三味線の原型は十六世紀に琉球から伝わった。十七世紀初頭には、京都で戎舁が浄瑠璃の物語に合わせて芝居をやったことで、非常な成功を得た。それが、人形操りと浄瑠璃とのカップリングの最初ではないかと言われる。こうして、人形、三味線、浄瑠璃の三業が揃う環境が整い始める。最初、京都で盛んになり、江戸、大阪と盛んになっていった。

 1614年、後陽成院は、『阿弥陀胸割』を戎舁に演じさせている。大阪冬の陣の始まる年である。それに、『浄瑠璃物語』を人形芝居ですることを発案したともいわれている。その御子の後水尾天皇も人形芝居を庇護した。こうした経緯もあって人形芝居は、まず京都から発展し始める。ついで江戸で人気を得た。坂田金時の子、金平(きんぴら)を扱った勇壮な金平浄瑠璃が当たった。この頃には、江戸随一といわれた小平太という人形遣いが現れている。林羅山(1583-1657)は、観劇記を書いて人形が生きているとしか思えなかったという感想を残した。しかし、1657年、明暦の大火によって江戸の大半が灰になるという大惨事が起こる。主な太夫たちが上方に移ったことから大阪と人形浄瑠璃が結びつくのである。これ以後、江戸では歌舞伎が流行し始める。


竹田出雲  (?-1747)  『国文学名家肖像図』


二世瀬川如皐『牟芸古雅志』より 曽根崎心中
中央右端から左向きに三味線弾き、太夫竹本筑後掾、竹本頼母ツレ語る、

人形遣いは辰松八郎兵衛と書かれている。 
倉田喜弘『文楽の歴史』より転載


 1648年、竹本義太夫(1651-1741)が大阪道頓堀に竹本座を創設する。徳川家光の時代である。その最初の出し物は近松門左衛門の『世継曽我』だった。本格的な人形浄瑠璃のはじまりである。ここからは文楽と呼ばせていただきたい。1703年には『曽根崎心中』が決定的な成功を収め、新たに座本となった竹田出雲 (?-1747) と組んで本座の地位をゆるぎないものにした。二世瀬川如皐(せがわじょこう/1775-1833)の随筆『牟芸古雅志(むぎこがし)』に当時の様子を思い起こさせる図が掲載されている。その頃は、人形は、まだ手突込み式の一人遣いで、太夫は既に舞台の表に出ていたことが分かる。この頃、竹本座から独立した竹本采女(うねめ)は、豊竹若太夫を名乗って豊竹座を立ち上げ対抗した。竹・豊時代が始まったのである。



 1690年代には人形の手が動かせるようになった。1727年には目や口を開けたり閉じたり出来るようになり、指を動かすことも可能になる。1733年には指の第一関節だけが別に操作できるようになった。1734年には三人の人形遣いが一体の人形を操る方法が生まれ、文楽以外では見ることのできない微妙な動きを表現できる端緒となったのである。人形の頭・顔と胴、右手を動かす主(おも)遣い、左手を動かす左手遣い、足を動かす足遣いである。三人もの人形遣いが舞台に登場することについて、ドナルド・キーンは日本の聴衆でなければ受け入れ難いかもしれない負担を想像力に課することになったと述べているが、近松が亡くなった1724年から1780年までが文楽は全盛期を迎える。歌舞伎の人気もそれには及ばなかったのである。


三人がかりの人形 
今の人形浄瑠璃で使われるサイズよりも小さい。
倉田喜弘『文楽の歴史』より


 そのような工夫がなされ今日のような文楽が見られるようになったわけだが、良質な浄瑠璃作者がいなくなり、火災による芝居小屋の焼失や座本の度重なる死などによって豊竹、竹本両座ともに十八世紀の終わりには道頓堀から姿を消した。とりわけ人形遣いは、零落の憂き目をみるようになり、文楽は地方へ散って行った。その後、文楽を復興させたのは淡路の人形芝居の太夫・植村文楽軒(1751-1810)であった。1805年に大阪新地で人形興行を始めている。淡路は江戸時代に入っても蜂須賀家の歴代藩主の庇護もあって多くの座が存在した。植村の姓は淡路人形座の座本である上村源之丞の姓に由来するという説もある。六年後、二世の時に、大阪稲荷神社(現在の難波神社)の境内で文楽軒一座の名で興業をはじめた。1872年(明治5年)に文楽座を名乗るに及んで人形浄瑠璃の総称となったのである。


人形操りの修行



 キーンは、太夫、三味線弾き、人形遣いは一体であるが、太夫は常に文楽界の知識階級と見做されていたという。彼らは浄瑠璃の研究を常にしていなければならないからである。三味線弾きは、キーンに言わせればオペラの指揮者に似ていて、太夫も三味線弾きの指示には従わざるを得ず、その弾き方に力が入っていなければ人形遣いも満足に人形が操れないと言われる。しかし、人形遣いとその技術は、長い間冷遇されてきたという。その理由の一つに太夫や三味線弾きに関する文献は残ってはいても人形遣いには、そういったものがないことを挙げている。それは体で覚えるものだからだ。弟子たちは、ただ見て覚えろ言われるだけなのである。

 太夫は、その声になるのに20年かかるといわれている。人形遣いの修行はもっと長くて、足遣いの修行に10年、左手遣いに15年、それからようやく主遣いになれる。好運に恵まれ、才があれば早くから左手遣い、主遣いになれるが、運が悪ければ足遣いで終わる人形遣いもいるという。気の遠くなるような修行が待っているのだ。どのような修行なのか。キーンのコメントには、人形遣いに対してかなり冷たいものがあるが、おそらく彼らの修行の内容について多くは知らなかったのではないかと思える。言葉で伝えられないことを知るには、想像を可能にしうるような何らかの体験が必要だろう。「間合い」とか「あうんの呼吸」といっても私たち日本人にも理解できない言葉になりつつある。主(おも)遣いのむずかしさの例を一つ挙げておこう。


 文楽には人形の手の先にその視線を合わせるという決まりがある。主遣いは、基本的に人形を後ろから見ているのでその目線の方向は把握しづらい。憶測で手と目線を合わせなければならない。合わなければ、自分の左手で首を動かすか、人形の右手の位置をなおすかして修正しなければならないのである。それを鏡の前で訓練する。人形の左手は、左手遣いが扱うので今は考えない。ゆったりした場面では修正もきくが、早い場面で目線と手をピタッと合わせるのは、かなり難しい。それで、三世桐竹勘十郎さんは、その勘を鍛えるために風呂で、左手で直線状にお湯の出るシャワーを遠く持ち、目をつむって、右手の位置をあちこち変えても指先にお湯が一発で当たるように訓練したという(『一日に一字学べば…』)。このようなことを言葉で伝えようとしても弟子たちにとっては全然助けにはならない。


ひとみ座 文楽公演 バルセロナ 1975


 このような訓練によって人形は生きているかのように振るまい舞えるようになるのである。人形遣いの腕が良ければ良いほど人形が自力で動いているという印象を与える。「人形遣いは人形に宿る力を信じて、人形への畏れをもって日々舞台に立つ」と勘十郎さんはいう。人形を操るとは言わない。「人形が存分に動けるように技を磨き、人形を人形足らしめるのが、私たちの仕事」だというのである。人形と人形遣いは一体となっていく。しかし、‥‥ もしかして‥‥ 完全に一体になりきることが出来るのかもしれないのだ。

 人形遣いは自分がしていることを舞台で言葉に表現できないし、観衆からは忘れられることが望ましい。ある意味、無名な存在として考えられていたのかもしれない。それゆえにこそ人形を動かす主遣いが素顔で舞台に登場することが求められた。そのようにバランスがとられたと見ることもできるのではないだろうか。自分というものがない人形に生命を吹き込むのは、人形遣いである。その者に無名が求められるとしたら、人形とは何であり、人形遣いとは何者であるのか。その境を見極めることは難しい。操る主人公は、誰か ? 地水合成して、ただ、火風に随う者であるかもしれないのである。






夜稿百話

キーンの著作 一部

『日本文学のなかへ』から「日本への開眼」

日本の外でキーンは20年間近松を独占してきたという。『国性爺合戦』が博士論文だった。その話の概略はこういうものだった。

一段目
所は明の宮廷、妃の精華の皇太子の誕生を待ち詫びる中、韃靼の王は精華をわがものにと望んだ。しかし、栴檀皇女が承諾しない。皇帝は官女に梅と桜の花を持たせて戦わせ、梅が勝ったら承諾するようにと命ずる。梅が散るなか李蹈天の裏切りよって韃靼が攻め込んで来る。皇帝は討たれるが、忠臣呉三桂は、死んだ精華の腹を裂いて死んだ自分の息子と生きている王子を取り換える。栴檀皇女は小舟に乗って逃れた。

二段目
舞台は平戸に移り、和藤内 (国性爺) と妻の小睦 (むつ) が栴檀皇女を救う。和藤内はかつて明の役人で忠臣であった鄭芝龍が日本に潜伏し老一官と名乗っていた人物の息子だった。和藤内 は明の復興のために父母と共に中国に渡る。鄭芝龍には中国に残した妻との間に錦祥女という娘がいた。娘は、韃靼の将軍、甘輝 (かんき) の妻であり、和藤内らは、甘輝に協力を求めるため、甘輝の館である獅子ヶ城へ向かった。和藤内親子は千里ヶ竹に迷い込み、虎と遭遇するも母が伊勢神宮の札を掲げて虎を退治することができる。

三段目
和藤内、鄭芝龍とその妻の三人は獅子ヶ城にたどり着く。錦祥女は、鄭芝龍が父であることを確める。彼女は甘輝が味方しそうなら白粉を、そうでなければ紅粉を堀に流すという。城に戻った甘輝は、裏切っては、韃靼の王に忠誠を誓った者の義が立たない。味方になるためには、錦祥女を殺すしかないと答える。縛られていた和藤内の母親は錦祥女と甘輝の袖を銜えて止めようとした。錦祥女は紅を流すが、それは自害して流した彼女の血であった。母も後を追って自害し、その情に心を打たれた甘輝は韃靼へ反旗を決心し、和藤内に「延平王国性爺鄭成功」の名を与えた。

四段目
小睦は栴檀皇女とともに平戸から中国(浙江省)の松江に渡る。この頃、呉三桂は匿った皇子と山中で暮らしていたが、九仙山で白髪の二人の翁が碁を打つ姿を幻視する。老翁は、和藤内=国性爺が明の再興を賭けて戦を行う様子を碁盤の上に映じてみせる。そこに鄭芝龍、小睦、栴檀皇女が訪ねてくるのである。韃靼の敵兵に攻められるが、雲の掛橋の計略によって難を逃れた。

五段目
和藤内、甘輝、呉三桂が竜馬ヶ原で再会し、そこに鄭芝龍が韃靼を攻めに南京城に向かったという一報が入る。一同は鄭芝龍の後を追い、南京城を攻め、ついに韃靼を倒して、皇子を位につけるのである。

和藤内のモデルは、実在した鄭成功だが、明の再興を果たせなかった史実は、真逆に歪められている。明の再興というテーマは、おそらく近松 (1653-1725) が、鄭成功によって日本に派遣され、水戸光圀らに大きな刺激を与えた朱舜水 (しゅ しゅんすい/1600-1682) の来日に影響された結果ではないだろうか。


歌川国芳 遇躬八芸 樓門夜雨

「南無三! 紅が流れた!」大見得を切る国性爺(七代目松本幸四郎)三段目「獅子ヶ城紅流しの場」

キーンは、こう述べる。和藤内が皇女を平戸で助けた後の話は鴫と蛤の寓話だったし、竹林の中で和藤内が虎と戦う際に伊勢大神のお札で虎がヘナヘナとなり、甘輝館でも白か紅の粉を流すと言いながら錦祥女は自害して血を流す。こういった展開は、真面目な悲劇のストーリーとは言い難く、訳しているうちに嫌になり、18世紀によくもこんな芝居が書けたものだとさえ思った。しかし、翻訳を終えてみると不思議と面白く、近松の傑作集の中でも、これが一番面白いという人が多かったという。成功の秘密は、近松が人形の機能を知り尽くしていたからだが、最大の魅力は、宮廷から戦場へ、海岸から竹林へと目まぐるしく変わる場面転換のはやさにある。だから、文学として読む時、『国性爺合戦』は速く読むことによって、その面白さに引き込まれるというのである。



『日本を寿ぐ』九つの講演

Ⅰ「日本文化の国際性」「文化の衝突」「国際化時代における京都文化の役割」

Ⅱ「松浦武四郎を読んで」「明治の日本人は世界をどう見ていたか」「明治天皇と日本文化」

Ⅲ「日本の短詩型文学の魅力」「啄木を語る――啄木の現代性」「わが愛する鏡花」

収載

「日本の短詩型文学の魅力」が興味深かったので、少しご紹介しておく。

俳句は海外でもよく作られる。子供には十四行の定型抒情詩のようなソネットは作れないけれど、俳句なら分けて書いても三行にしかならないからである。子供が詩を作ることは教育的な意味が大きい。
海外での俳句の鑑賞の歴史は百年に及ぶけれど俳句に近い詩として優れたものはエズラ・パウンド (1885-1972) によるものである。万葉集には長歌もあるが、日本の詩歌は概して短く、連歌は数人で行うことが多い。
欧米や中国の詩歌では韻を踏むという特徴がある。韻があることが詩であることの特徴となるが、日本人は韻を踏むこと避けてきた。日本語は、五つしかない母音で全部終わり、普通に作詩したら20%は韻を踏んでしまうという。逆に明治になって韻を踏む詩がつくられると、多くは滑稽なものになったというのである。
それに日本語には西洋の詩歌の特徴のような強いリズムや強弱がないため日本人はリズムとしての強弱を使うことができない。
日本人の奇数好みは五・七・五に表れるが、明治に新体詩になってもその影響があり、藤村の詩には、そのことがはっきりと出ている。

まだあげ初めし 前髪の
林檎のもとに 見えしとき
前にさしたる 花櫛の
花ある君と 思ひけり

しかし、この詩には日本の詩歌の特徴である「暗示」がないという。外国人は俳句や短歌は真似ても学ぶことの少ない藤村の詩を真似しない。
アメリカの詩人であるW.S.マーウィンは、暗示を求めた優れた詩を残しているが、蕪村の素晴らしい英訳も残している。正岡子規は暗示を否定して蕪村の写実を称賛したが、その音の美しさに気づいていないという。

春の海 ひねもす のたりのたり哉 (かな)

この「のたりのたり」だけで春の海がイメージさえできる。それは、他の優れた俳句についても言えることだった。

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

芭蕉の句は「しずかさや いぃわにる せみのこえ」であり「い、い、い、い、‥‥」はちょうど蝉の声であるとキーンはのべている。




参考図書

『民衆史の遺産 第四巻 芸能漂泊民』
 
谷川健一「芸能と芸能民」
渡邊昭五「中世近世放浪芸の系譜」
瀧川政次郎「諸国宿駅のクグツ」
大江匡房「遊女記」大曾根章介校注
大江匡房「傀儡記」大曾根章介校注
盛田嘉徳「中世選民と雑芸能の研究」
水本正人「宿神思想と被差別部落」
村上紀夫「万歳考」
小沢昭一「ものがたり 芸能と社会」
北川央「神と旅する太夫さん」

小沢昭一さんの「ものがたり 芸能と社会 (抄) 」は、韓国でのムーダンの経験、巫女の祖としてのアメノウズメ命や海彦・山彦の神話における争いに負けた山彦のコミカルな所作などが語られ、俳優・芸能者の女性性が語られ、話は河原者へと移り、テキヤ・香具師・大道芸に至って花ざかりとなるなど、やはり面白い。


倉田喜弘『文楽の歴史』
文楽の歴史を丁寧に説明していただいている。内容については、pat1 及び part2 の本文でご紹介している。



広瀬久也『人形浄瑠璃の歴史』

古代から現代までの人形操りの歴史を扱っている。いささか荒っぽいが古代の人形操りの紹介は興味深い。内容については本文を参照してください。




桐竹勘十郎『一日に一字学べば…』

「一日に一字学べば…」は『菅原伝授手習鑑』の「寺入りの段」にある台詞。内容については本文を参照してください。





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