第98話 鵜野祐介『子供の替え唄と戦争』戦時下の子供たちと笑い


鵜野祐介 『子どもの替え唄と戦争
―笠木透のラストメッセージ

夕焼け小焼けで

夕焼け小焼けで 日が暮れない
山のお寺の   鐘鳴らない
戦争なかなか  終わらない
烏もお家へ   帰れない

 ご存知『夕焼小焼』は野口雨情に絶賛された童話を諦め童謡の詩作に専心した中村雨紅 (うこう/1897-1972) の作詞、『赤い鳥』に参加した草川信 (1893-1948) の作曲で大正12年に発表されている。日本の歌百選に選ばれた。「山のお寺の 鐘鳴らない」のは戦時中の金属回収令によって寺の鐘まで供出されてしまったからである。戦争は、なかなか終わらず、帰れないのはカラスだけではなかった。ナイナイ尽くしだった。

 今回の夜稿百話は戦中・戦後の暗く、苦しい時期を笑いによって耐えていた子供たちの替え唄を集めた著作をご紹介したいと思っている。ドキッとするもの、ユーモアとペーソス、下ネタなど種々の傑作をご紹介したい。

本書の成立

 本書はフォークシンガーで「フィールド・フォーク」を提唱して40年以上にわたって活動してきた笠木透さんが1995年に刊行したCDブックス『昨日生まれたブタの子が 戦時中の子どものうた』を契機として教育人類学の研究者である鵜野祐介さんによって編集・著作された。それらは戦時下で少国民と呼ばれた子供たちの愛唱歌だった。こんな替え歌だ。

ぼくは軍人大きらい
今に小さくなったなら
おっ母ちゃんに抱かれて 乳のんで
オナカの中へ消えちゃうよ

 これは『僕は軍人大好きよ』の替え歌で、元の歌詞はこのようなものだ。「僕は軍人大好きよ/今に大きくなったなら/勲章つけて 剣さげて/お馬にのって/ハイドウドウ」。 沢山の替え歌があったけれど、歌っている本人は、そんな価値のあるものだと思っていなかった。記録されているものは、ほとんど無く、そんな歌を再び歌う機会もなく、それらを歌った人たちも高齢化し、後10年もすれば何もなかったことになりかねなかった。暗く、厳しい時代に、生きるための、そんな歌は歌われた。歌詞を替え、隠れた本音を載せて、世の中に対するほんの少しの抵抗だったかもしれない。

 笠木透さんは1937年、岐阜県恵那郡のお生まれ。幼稚園の頃にはB29の空襲が始まり灯火管制の中、裸電球に黒い布を掛けて、小さな灯りの下で息を詰めていた。大きくなったら、男の子は「大将」で女の子は「看護婦さん」と答えなければならなかった。違った答えを言えば「非国民」と言われた。

 教員を目指して大学へ進学すると、空軍基地の拡張問題に絡んだ砂川闘争や安保闘争などの学生運動に傾斜した。この頃、歌を巡る二つの出来事があった。一つは砂川闘争で、機動隊に押しやられて強制測量を成す術もなく見守る農民と労働者と学生から自然に歌が口ずさまれた「夕焼け小焼けの赤とんぼ‥‥」。 もう一つは、岐阜の野麦郷で地元の青年たちと打ち解けるきっかけとなった『お月さん今晩は』。「こんな寂しい田舎の村で 若い心を燃やして来たに/可愛いあの娘は おらを見捨てて/都へ行っちゃった‥‥」という歌詞だった。

 大学を出ると中津川で出版社の代理店を父親としながら、中津川労働者音楽協議会を手伝うようになる。1966年、労音の音楽会でベトナム中央歌舞団の公演が大きな刺激となった。「戦争しているのに歌を作ってる」のである。半年前に遊撃隊が作った歌だと言う。彼らの話を聞くと働いているのか、鉄砲を撃ってるのか、へたすると遊んでいるのか戦っているのかわからないような戦争をしている (それでも勝ってしまった) 。歯を食いしばった太平洋戦争も安保闘争も何だったのか ? それで笠木さんの心はフォーク・ソングに向かった。それは、生活の中から生まれた歌だからだ。

万葉集と子供の替え歌

●万葉の替え歌

 替え歌の話だけれど、勿論子供のものではないが、万葉集にも替え歌があるようです。本歌取りではないらしい。ちょっと紹介しておきます。替え歌というからには明らかに古歌をあからさまに利用しながら、新たな言葉に言い換えたものを指すようです。『万葉集研究 第四十二集―稲岡耕二先生追悼記念―』には、いくつかの例が挙げられているけれど一つだけご紹介しておきます。

狭穂 (さほ) 河の小石踐み渡り夜干玉 (ぬばたま) の黒馬の来る夜は年にも有らぬか
千鳥鳴く佐保の河瀬の小浪止む時も無し吾が戀 (恋) ふらくは 
(大伴郎女/おおとものいらつめ)

 この大伴郎女の歌は万葉の中でも比較的新しい歌らしいけれど、第十三巻の歌ではこのように替えられているという。

阿湖の海の荒磯の上の少浪 (さざれなみ) 吾が戀 (恋) ふらくは息 (や) む時も無し

 このように元歌のかなりの語を入れ替えただけの歌が第十三巻には見られ、これは口承というより元の資料を隣に置いて、それを互いに組み合わせているように思われると指摘している。替え歌の起源は結構古いのかもしれない。

●現代の民謡

 戦時中のものも含めての子供の替え歌集も刊行されていて児童文学者の鳥越信 (しん) さんの『子供の替え歌傑作集』があるので、こちらも少し、ご紹介しておきます。替え歌の収集の起こりは奥田継夫さんの著作『ボクちゃんの戦場』で、この作品は漫画化も映画化もされている学童疎開の子どもたちの話です。その中で多くの替え歌が散りばめられていて、鳥越さん自身の少年時代の記憶と重なったことに驚いた。それに重要なのは「現代の民謡」とは、どんなものかという問いだったという。「トイレの花子くん」ではないけれど「学校怪談」が現代の民話なら現代の民謡もあるだろうということなのである。

どんぐりころころサードゴロ
サードがエラーしてレフトゴロ
レフトがエラーしてホームイン
ピッチャーイライラ怒ってる

(鳥越信『子どもの替え歌傑作集』より)

●パロディー・ミメーシス・アナロジー

 替え歌はパロディーですが、そこにはミメーシスやアナロジーが躍動している。遡れば万葉の昔から替え歌はあった。そこには、揃え、競い、合わせ、見立てといった編集術が作動していたとも言えるかもしれない。廃れたものもあれば現在まで歌い継がれているものもある。当時の世相を反映したものもあれば、為政者の交代にもかかわず生き残っているものもある。ここには意外に深いものがあるのです。

隣り合う死

 本書に戻りましょう。本書の編・著者の鵜野祐介さんによれば、この戦時下の時代に「死」のモチーフは、よく見られるという。いうまでもなく日常生活は死と隣り合わせであり、替え歌に登場するのは避けられないことだった。それも爆撃にさらされれば身近なリアルな死もあったでしょう。

何時まで続く

何時まで続く大東亜戦
三年半年食糧なく
餓死続出の銃後国民

元気な者は絶え果てて
倒れし人の頭髪を
カタミと今は別れ来ぬ

 元歌は軍歌『討匪行/とうひこう』。作詞は歌人で関東軍参謀部嘱託だった八木沼丈夫、作曲はオペラ歌手だった藤原義江であった。元の歌詞はこのようなものである。「どこまで続く 泥濘ぞ/三日二夜を 食もなく/雨降りしぶく鉄兜/‥‥既に煙草は無くなりぬ/頼むマッチも濡れはてぬ‥‥」などの満州事変の戦火の中における兵士の辛さ、苦しさ、無常感が具体的に描かれた歌詞だったため大ヒットしたというが、替え歌では銃後の人々、父や母の思いに言い換えられている。


昨日生まれたブタの子が

昨日生まれたブタの子が
ハチに刺されて名誉の戦死
ブタの遺骨はいつ帰る
昨日の夜の朝帰る
ブタの母ちゃん悲しかろ

昨日生まれたハチの子が
ブタにふまれて名誉の戦死
ハチの遺骨はいつ帰る
八月八日の朝帰る
ハチの母ちゃん悲しかろ

昨日召されたタコ八が
今日のいくさで名誉の戦死
タコの遺骨はいつ帰る
骨がないから帰れない
タコの母ちゃん悲しかろ

 この元歌は『湖畔の宿』。昭和15年に高峰三枝子が歌ってヒットしたが、戦時下にそぐわない歌として発売禁止となっている。こんな歌詞だった。「山のさびしい湖に/ひとり来たのも悲しい心/胸の痛みに堪えかねて/昨日の夢と焚きすてる/古い手紙のうす煙‥‥」 しかし、前線の兵士には人気があって慰問でもリクエストが多かったと言う。この替え歌は、当時の新聞に連載されて大人気だった田河水泡の『蛸の八ちゃん (1931-1937) 』にヒントを得たもののようだ。(本書より)

 ここでは死とペーソスと笑いが入り混じっている。


田河水泡『蛸の八ちゃん』国立国会図書館

 現在でもそうだけれど、小中学生にとって漫画は現実の軋轢を忘れさせる最高の娯楽の一つでしょう。或る漫画雑誌の高名な編集者は、漫画は読まれれば忘れ去られて良いものだと言う。親や学校の支配から、その時には解き放たれる。それが漫画の役割だと言うのである。当時は、今日より遥かにきつい締め付けがあったでしょう。

飢えを笑う

 飢えは人間にとって喫緊の課題の一つだが、とりわけ育ち盛りの子どもにとっては、そうであったでしょう。当然、子供たちにとって最大の関心事の一つであった。

この替え歌のテーマは大きく分けて、砂糖、饅頭、餅、てんぷら、支那料理といった「贅沢系」と芋、豆、ラッキョウ、こんにゃくなどの「日常系」に分かれるらしく、ご飯は贅沢系に分類されると言う。 (本書より)

お菓子は幾万

お菓子は幾万あるとても
すべて砂糖の製なるぞ
砂糖の製にあらずとも
中には小豆の餡もある
(ママ)羹カステラ勝ち難く
蕎麦にウドンは勝栗の
食いたい心の一徹は
茶碗に噛みつく例えあり
箸を噛み折る例えあり
などて喰わずにおかれうか
などて喰わずにおかれうか

 元歌は『敵は幾万』。作詞は山田美妙、作曲小山作之助で明治24年頃作られた。「仮想敵国、清国を討つべし」の世相を反映していた。詩の内容は「敵は幾万 ありとても/すべて烏合の勢 (せい) なるぞ/烏合の勢に あらずとも/味方に正しき 道理あり‥‥」となっている。(本書より)

 威勢のよい歌にのせて歌われるのだが、贅沢は敵であった時代に、ほんの一瞬、空いたお腹を忘れることができたのかもしれない。


ゴハンちゃん 

ゴハンちゃん ゴハンちゃん
ゴハンちゃんたら ゴハンちゃん
いっぱい御用はあるけれど
来てもくれないゴハンちゃん

 元歌は西条八十作詞、中山晋平作曲の『お母さん』。歌詞は、このようになっている。「‥‥おかあさんてば おかあさん/なんにもごようは ないけれど/なんだかよびたい おかあさん」。八十の詩は素晴らしい。

現実の多層性と子供の


河合隼雄『河合隼雄と子どもの目』

 ここで、心理学者の目から子供の心理はどのように見られているかを『河合隼雄と子どもの目』からご紹介しておきたい。

 この世の現実は、大人が思い込んでいるほど決まりきったものではなく、実に多層的で見方によって実に色々な見え方をする。子供たちの目は、そのような現実をよく身透かしているという。大人たちが躍起になって取り合っているものがゴミにすぎないことを見透かしているが、それを大人には言えない、言ったとしても笑われることになる。そういう時には、笑いはとても重要な要素だと言う。笑う時、心の中で何かが「開ける」という。

 河合さんは『飛ぶ教室』に連載されていた長新太さんの「人間物語」の中の「チョキチョキ男の巻」が人間の恐ろしさを痛感させると言う。チョキチョキ男は、ころんだ拍子に自分の首をちょん切ってしまう。ところが自分の首を小脇にかかえて「ハハハ」と笑って、チョキチョキとはさみを振り回して歩いていく。作品の背後にある身体性、何か不可解なもの、途方もなく大きいもの、おかしなものの存在を感じさせると言う。これは、実は子供達が「世界」を見て体感していることにつながっているというのである。

 子供は意外に死の近くで生きている。「なぜ死ぬの」「死んだらどうなるの」という疑問は3~4歳頃にも見られる例もあり、それに対して「心配しなくてもいい」と泣きながらその子を抱きしめる母もあれば、「死んだら終わりや」と決然と答える母もあることを紹介している。それらは「生と死」にまつわる、ある種の深い対話になりうるという。思春期は性の衝動が動き始める変身のための「さなぎの時代」である。その一歩手前はいわば毛虫としての老境の時代であり、子供の存在はある種の完成感と早晩それは破壊されると言う不安な予感に満ちる。その完成を守るために自殺する子もあるというのである。死と性は複雑な問題を孕んでいる。


下ネタは人気

 「性」を体制に対する反抗する武器と考える向きもあるかもしれないが、これも一瞬、雁字搦めの眼の前の世界とは別の世界を開く扉だったのかもしれません。青年たちにも『青い山脈』の替え歌といった定番もあったようだ。もっとも、こう言った歌が歌われるのは戦時中に限ったことではないかもしれないけれど。

銭湯に

銭湯にお船を うかばせて
行ってみたいな 女湯へ
女湯は広いな 大きいな
湯気がぼうぼう 立ちのぼる
湯気がぼうぼう 立ちのぼり
どれが娘やら ばばあやら
銭湯にお船を うかばせて
行ってみたいな 女湯へ

 元歌は昭和16年に林柳波作詞、井上武士作曲で作られた国民学校一年生用の教材だった。一年生用であったため戦時色が無く、現在でも歌い継がれている。元の歌詞は「ウミハ ヒロイナ 大キイナ/ツキガノボルシ、ヒガシズム‥‥」。(本書より)


 銭湯の湯舟を海に見たてているのは壮快だった。


金玉は

金玉は金といえども光なく
玉といえども丸くなく
日陰においても色黒し
えらくもないのにひげはやし
縫い目あってもほころびはなし
チョイナチョイナ !

 元歌不明、解説なし。
仲間や年下の者たちと集まった時の密やかな楽しみだったでしょう。

戦争はキライ

 多くの大人は偽 (にせ) の絶対者に依存し、頼りないものだと知りながら自分を上手くごまかして生きていたりする。子供たちには、お見通しだったかもしれない。

負けて来るぞと勇ましく

負けて来るぞと勇ましく
誓って国を出たからは
手柄なんぞは知るものか
退却ラッパ聞くたびに
どんどん逃げ出す勇ましさ

勝って来るぞと勇ましく
誓って国を出たからは
手柄たてずに支那料理
進軍ラッパ聞くたびに
まぶたに浮かぶ支那料理

 元歌は、昭和12年の薮内喜一郎作詞、古関裕而作曲で、新聞社の「進軍の歌」の公募で入選した作品。「勝って来るぞと 勇ましく/誓って故郷 (くに) を 出たからは/手柄たてずに 死なりょうか/進軍ラッパ聞くたびに/瞼にうかぶ 旗の波/‥‥夢に出て来た 父上に/死んで還れと 励まされ/さめて睨むは 敵の空」の歌詞は戦場での実感を滲ませて大ヒットした。出征兵士を送る際によく歌われた歌で、沿道で日の丸の小旗が振られ、駅に着くと「〇〇君、万歳」を三唱されたことはよく知られている。

 第一連は反対語で言い換える典型で「勝→負」「手柄たてずに 死なりょうか → 手柄なんぞは 知るものか」「進軍ラッパ → 退却ラッパ」と言い換えられている。第二連は、歌詞の或る行を一つの単語に固定するもので、当時の子どもたちには「死なりょうか」が「支那料理」に聞こえたそうで、聞き間違いから出来た歌詞でもあると言う。(本書より)



朕思わず屁をたれた

朕思わず屁をたれた
汝 臣民くさかろう
鼻をつまんで退避せよ
ギョメイギョジ
プス~ン
ただいま電波を食われて故障しました
日本中飢えているのでこまります
(ママ)れではこれでほうそうはおわりますさようなら
イヌあっチケー

 これは元が歌ではなく教育勅語であるという。替え歌ではなく替え言葉と言うべきものらしい。ヴァリエーションもいくつかある。かつて、尋常/国民小学校では、宮中の四大節、つまり元旦、神武天皇が即位した紀元節 (2月11日)、天皇誕生日である天長節、明治天皇の誕生日の明治節 (11月3日) に行われた行事で、子供たちは一張羅を着て登校し、講堂で教育勅語を聞いていた。教育勅語は黒い大きな盆に載った細長い箱から白手袋をした校長が取り出し読み上げる。子供たちは上体をやや前傾姿勢にし頭を垂れた。一切沈黙、寒い日でも鼻をすすってはならなかった。(本書より)

 それほど神聖視された勅語をコケにしているのだから侮れない子どもたちである。大人に知られたらどんな目に合わされるかは知っていただろう。彼らは、彼らなりに大人の愚かさを知っていた。

替え歌は二重の名を持つ

 CDブックス『昨日生まれたブタの子が 戦時中の子どものうた』を刊行した笠木さんはこう述べている。「ぼくらは、あの暗黒の時代に、これらの替え歌を歌うことで、自分をはげまし、心を癒していたのです。戦時中の替え歌など、低俗で下品で、単純で軟弱で、こんなものは芸術ではない、とおっしゃる人もいるでしょう。でも、あの時代、ぼくらにとってこれがうたであり、これが芸術だったのです。ほかに何があったのだろう。」

 ひるがえって、パレスチナのガザやウクライナ、アフリカ諸国、ミャンマーなどでの戦闘のさなかに子供たちはどうしているのだろうかと思う。なかなか戦いが収束しないのは気がかりではある。

 今回の夜稿百話は、死、飢え、性、権威への反抗 (反戦) をテーマとしたと思える子供達の替え歌をご紹介したけれど、替え歌の主旋律はやはり笑いではないかと思う。その刹那、別な世界の扉が開かれる。ミハイル・バフチンの言うように「笑いは世界を再生させる」のである。替え歌は「この世界」と「あちらの世界」という二重の名を持っている。


著者につて

 最後になって恐縮だが、著者の鵜野祐介さんについてご紹介しておく。鵜野さんは1961年、岡山のお生まれで、教育人類学者として伝承児童文学の研究をされてきた。京都大学教育学研究科、同大学院教育学研究科を終了され博士課程を単位取得満期退学された。ご卒業後エディンバラ大学人文社会科学研究科で博士号を取得され、梅花女子大学、立命館大学などで教鞭を執られている。『文化の伝承と創造3 子どもの替え唄と戦争』で第45回日本児童文学学会特別賞受賞された。子守唄・わらべうた学会の代表、日本スコッランド協会理事、マザーグース学会理事などを務められている。

 著書に『うたとかたりの人間学 いのちのバトン』、『世界子守唄紀行 子守唄の原像をたずねて』、『センス・オブ・ワンダーといのちのレッスン』などがある。



夜稿百話

関連図書

『山口昌男・漫画論集 のらくろはわれらの同時代人』

山口昌男と言えば、あの山口昌男さんかと思うが、稀代の民俗学者である。漫画論があるので驚いた。「のらくろ」から始まって島田啓三さんの「冒険ダン吉」、手塚治虫、水木しげる、白土三平、杉浦日向子、萩尾望都などといった作家たちの漫画論が収載されている。

のらくろ論である「のらくろはわれらの同時代人」は戦前に「のらくろ」を読む時は、いつも借りて読んでいたという回想から始まる。のらくろのような高級漫画に育てられた世代が野蛮な戦争に巻き込まれたのは皮肉な運命であり、それはラジカルなナンセンス漫画の最初で、最後の頂点であるとブチ上げている。
当の作者である田河水泡さんは、このような意味のことをおっしゃっている。子供は犬が好きだし、兵隊ごっこが好きなので犬に兵隊ごっこをさせようと思った。当時の自分は、まだ若く社会の不公平に不満があった。だから、のらくろは貧乏のどん底で宿無しの状態から始めた。親も兄弟も家もない、利口じゃないし良いことをしようとしてもしかられる。しかし、自分はちっとも悲観していないようなキャラクターにしたという。ドジな踏んづけられ屋だった。最初から不運なやせこけたチビでオッチョコチョイ、スローモーで臆病、ただ、楽天的で向う気は強いのである。その彼が色々なヘマを重ねながらも連載されるうちに猛犬連隊で昇進していく姿に子供たちは拍手を送ったのである。



田河水泡『のらくろ放浪記』

鵜野祐介『子どもの替え歌と戦争』には「のらくろ」の替え歌がこのように紹介されている。

黒いからだに (のらくろのうた)

黒いからだに大きな眼
陽気に元気に生き生きと
少年倶楽部の「のらくろ」は
いつも皆を笑わせる

もとは宿なしのら犬も
今では猛犬聯 (れん) 隊で
音に聞こえた人気者
笑いの手柄数知れず

いくさに出ればその度に
働きぶりもめざましく
どんどんふえる首の星
末は大将元帥か

僕等は「のらくろ」大好きよ
笑いの砲弾爆弾で
日本国中ニコニコと
「のらくろ」万歳万々歳

元歌は日清戦争の海戦での旗艦松島における忠勇美談を佐々木信綱が10連の詩『勇敢なる水兵』として明治28年に発表したもので、軍歌として奥好義 (おく よしいさ) が曲をつけていて当時の小学生ならみんな知っていたという。この替え歌は、のらくろが掲載されていた「少年倶楽部」に掲載されたものである。

戦後の「のらくろ」の話が『のらくろ放浪記』なのだが、猛犬連隊は解散し、連隊長のブルさんはブル商事の社長に、万年大尉のモールさんは政治家に、バクダンは不動産屋になった。戦友たちは着々と新たな職業を得ていった。のらくろと部下だったデカは転々と仕事を変えて社会を放浪していたが旅館の番頭として働けることになる。だが、またしても職を変えることになるのである。



河合隼雄『こどもの宇宙』

無限の広がりの宇宙の中に子供達も、大人たちも、家庭も、社会もある。しかし、子供たちの中にも、大人たちの中にも宇宙はある。大人たちは子供の小ささに惑わされて、その宇宙があることに気づかない。河合さんが長年の治療活動の中で聞いたのは子供たちがその宇宙を圧殺されるときの悲痛な叫びだった。本書は子どもたちの詩や児童文学を通して子供の宇宙はどのようなものであるかを教えようとしてくれている。1章 子どもと家族、2章 子どもと秘密、3章 子どもと動物、4章 子どもと時空、5章 子どもと老人、6章 子どもと死、7章 子どもと異性というラインナップになっている。第1章から少しご紹介する。

ほし

おほしさんが
一つでた
とうちゃんが
かえってくるで

原ひろし (当時2歳)

ここには二歳の子どもと父親とが交信しあっている様子が微笑ましく詩に託されている。しかし、家族の関係は必ずしも良好でない場合もある。一つ屋根の下で憎み合い、恨みあうことも稀ではない。人間は心の成熟を遂げるためには憎しみ、怒り、悲しみといったネガティブな感情を体験することが必要なのではないか。そのような事がらを体験しながら関係の切れない関係として家族は大きな意味を持つと言う。

ベバリイ・クリアリー『ラモーナとおかあさん』は両親の態度とは関係なく自分が家族の中で憎まれていると感じてしまう女の子の物語である。子どもの成長過程では、ある程度必然性を持ったものだと言う。
ラモーナは姉と両親との4人家族で両親の愛情を受けて育った。ある日、パーティーで、ラモーナは年下の子のお守役を台所でさせられる。その子は、誰かから「おかあさん子ね」といわれ、その母親も「この子がいなかったら、とてもやっていけませんわ」という言葉を聞いてしまう。どうして、誰も自分の子ことをおかあさん子って言ってくれないんだろう。ラモーナは疎外感を感じるようになる。彼女は自分が一人前であることを証明したがるようになると特大歯磨きのチューブを全て絞り出すというやってみたかったこと実行に移す。ある日、お気に入りのパジャマの上に普段着を着て登校したラモーナは暑くなって、それを脱ぎ学校に忘れて帰ってしまう。そのことをきっかけに家族騒動が持ち上がり彼女は家出を宣言してしまうのである。案に相違して母は、家出を勧めるかのようにスーツケースに荷物をいっぱいに詰め込み始める。焦ったラモーナだったが、母が自分に対してどれほど優しかったかを思い出して一件落着するのである。


『日本平和論体系15』
もう一つの反戦譜
旧一高における非戦の歌・落書き
不敬。反戦反軍の記録

本書は子どもたちではなく20歳前後の青年たちの反戦歌や落書きといったものを集めている。冒頭のみをご紹介しておく。

御国のためとはいうものの
人も嫌がる軍隊に
出て行くこの身の憐れさよ
可愛い彼女と泣き別れ

行く先きゃ対馬の鶏知 (けち) の浦
要塞重砲連隊で
いやな二年兵に殴られて
泣く泣く送る日の長さ

海山遠く隔てれば
面会人とて更になし
着いた手紙の嬉しさよ
可愛い彼女の筆の跡

昭和13年に長﨑県の路上で菓子屋の徒弟であった21歳の青年が、こんな歌を歌いながら歩いていたところを逮捕されたという報告が特高に上がっている。厳罰が課せられると同時に歌の作者を究明し、その流行が広がることのないように取り締まりが始まった。だが、同じ歌が地域によって少しずつ言葉を替えて全国的に歌われていたことが判明する。ちょうど日中戦争がはじまった頃のことである。山梨県下でも取り調べを受けていて、その中の一人は習志野騎兵連隊にいた時に覚えたという。甲府でも同様な件があった。こういった形の反軍歌謡は各地の師団、連隊、中隊などに応じた形で歌詞が替えられ秘かに兵営内の兵士に歌われ、歌い継がれていった。こうした反戦・反軍の意志は戦争の初めから落書きや個人的発言を通じて示されていて、それを特高や警察が反戦策動を取り締まるという形で同時進行していく。その中には反戦通信、不敬、不穏落書き、流言蜚語といったものまで取り締まりの対象になっていた。特高月報に挙げられている件数は月に少ない時で十数件、多い時では四~五十例に及んだという。左翼分子の仕業として結び付けられることが多かったが、多くは一般市民の正直な声だったと言われる。本書には満州事変勃発後約1年間の行商人、木こり、農夫、バス運転手、旅役者、工員、畳職人といった庶民を中心とした人々の発言が収載されている。いずれも起訴や罰金を受けた者たちである。盧溝橋事件から一年後の昭和13年に大阪毎日新聞京都支局にこんな投稿が寄せられている。全文をご紹介する。
「戦争をして何の利益があるんだ。国民は日一日と飢餓線上に近づきつつある。ただいたずらに軍需工業関係者のみ、不当な利益を得さしめ、我々平和産業に従事せる者の生活を政府は知らんのか。それとも、我々平和産業に従事せる者を犠牲にしてまで武力を振るい、侵略がしたいのか。国民を殺してまで軍部将校連中は空虚な名誉がほしいのか。戦線に立つ軍人にしても将校は職業だ。人殺しが商売なのだ。別に戦争をしなくても、生活の保障をされているのに何を好んで戦争をするんだ。兵卒が可哀想だ。強制的に前線に立たされ、一時的の英雄にまつり上げられ、それにはあまりに犠牲が大きすぎる。 また、愛国公債が何だ。一ぺんの紙くずじゃないか。買う馬鹿があるか。また何が八十億公債だ。食うや食わずで入ってくる金もなくて、何が貯蓄だ。あまりに政府は国民を馬鹿にしている。政府はこの際支那問題が今回の事変に至ったまでの外交の失敗を、よろしく国民に謝するを可とす。」






コメント