行け、哀愁の韻よ、
愛する宝を地に秘める硬い石へ。
天から答える者を呼び出すがいい。
死すべきものは、暗い地中にあるのだから。
あの女 (ひと) に告げよ、私の半生は、この恐ろしい波の上を
航海することに費やされてきたのだと。
しかし、彼女を追って、私の散らばった詩篇を集め、
一歩一歩、あの女 (ひと) のもとへ行く。
生きていた彼女のこと、死んでいる彼女のことを、いや
まだ生きていて、そして今、不死となったあの女 (ひと) のことを
世界が知り、愛するようにと。
私の死があの女 (ひと) を喜ばせる。
これからはすぐそばにいます。
あの女 (ひと) は天のもとにあり、私を自分のもとに引き寄せ、私を呼んでいるのだ。
(ソネット333) わりと機械翻訳
イタリア・ルネサンスの夜明けを告げた詩人は、かくも一途で純粋な愛を貫いた。ただ礼拝堂で見初めた高貴な人妻ラウラは、ダンテが愛したベアトリーチェのように、詩泉となり不滅の恋人、魂の伴侶となったが、聖職者であった彼にとってデモーニッシュな存在となっていった。
今回の夜稿百話はルネサンスの黎明を飾るユマニスムの父、フランチェスコ・ペトラルカを取り上げたい。何にでも、きっかけは、あるものだけれど、作曲家の権代敦彦 (ごんだい あつひこ) さんにお願いして、ペトラルカのソネット333に因んだピアノ曲『悲しみの韻 rime dolenti』を僕の展覧会の映像の音楽として使わせていただいたのが事の発端である。その映像は9月半ばにはyoutubeにUPできる予定です。とても素晴らしい曲だし植田ゆう子さんの演奏もなかなかだった。この場をお借りしてお礼を申し上げたい。
このペトラルカの詩と著作、そして彼のユマニストとしての軌跡を追うけれど、そもそもユマニスムとは何か、そして、それがどのように変質したかもご紹介する予定である。ペトラルカの著作については、近藤恒一さんの素晴らしい編集と翻訳・解説に多くを負っていることを申し述べたい。
ペトラルカの前半生
フランチェスコ・ペトラルカは1304年トスカーナのアレッツォで生まれた。父親はフィレンツェ政庁の書記であり、ダンテと同様に政争のただなかに落とし込まれ、職権乱用の罪で追放となり、当時の教皇庁があった南仏のアヴィニョンに亡命した。権謀術数が渦巻いていたのである。息子はモンペリエ大学やボローニャ大学でラテン語弁論とローマ法を学ぶ。公証人であった父の勧めがあったと思われるが、同時に幼少から親しんできたラテン語文学への傾倒はウェルギリウス、キケロを通じて深められ、彼の生涯を決定づけた。そして、1327年に決定的事件が起こる。アヴィニョンのサン・クレール修道院の礼拝堂で生涯の心の恋人であるラウラと出合った。その眼差しは彼の全身を震わせる。ユーグ・ド・サド伯爵の妻ではないかと考えられているが確証はなく、実在の人ではあったろうが研究者には幻のような存在だった。
父親を亡くした後、1330年頃から五~六歳くらい年上のジョヴァンニ・コロンナ枢機卿のもとで働くようになり、剃髪して礼拝堂付き司祭となる。三年後、慈父とも仰ぐことになる神学教授のボルゴ=サン=セポルクロからアウグスティヌスの『告白』を贈られ感銘を受けた。1341年、36歳の時パリ大学とローマ元老院から桂冠詩人の栄誉を贈られる。これにはローマの名門コロンナ家とシチリア王ロベルトの後押しがあった。こうして、ペトラルカの著作家としての名声と地位は全ヨーロッパにおいて確固としたものとなり、彼が推し進めてきた古典文芸の〈再生〉運動が認知される結果となったのである。
栄光へのノスタルジアと未来への展望 ユマニスム
ユマニスムとは、言語、とりわけ古典の文芸によって「高尚な学芸」に通じ、人間の真正な可能性を実現することを意味している。それは、後の時代に、いわゆるヒューマニズムに変貌していくことになる。当時、ユマニストが目にするローマは、既に栄光の面影はなく、その文学、遺跡共に劣化の一途をたどっていた。フランチェスコ・ペトラルカやそれに続くロレンツォ・ヴァッラ (1407-1457) たちはラテン語の写本を読み、テキストを改訂し、文献学を築き上げる。優れた手稿を発見し散文の一行の正しい読みに専念した。
ラテン語の習熟は、個人、家庭、社会を問わず芸術、教育、規律が人々を導き、秩序と啓発をもたらすと考えられていた。この頃、既にスコラ学は内輪の謎めいた言葉によって現実から乖離し、扱う諸問題は眉唾なものでしかないと考えられがちだった。ユマニストたちと一致する所は少なからずあったが、やはり特殊な学術的なパラダイムに過ぎなかったと言うことはできる。弁舌は平明で濁りなく、適切な言葉遣いによって、それぞれの命題は「純粋かつ鮮明」に表出されなければならず、とりわけ実効性のあるものでなければならなかった。
レオン・バッティスタ・アルベルティ像
ロレンツォ・バルトリーニ作
アルベルティの設計したサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂 フィレンツェ
ギリシア・ラテンの古代文化への新たな洞察が人々に紹介されはじめる。古代の文化を取り戻して文章や文体を正すことは世界を正すことでもあった。ユマニストの中で最も傑出した人の一人といわれた建築家のレオン・ヴァティスタ・アルベルティ (1404-1472) は1435年、その『絵画論』の中で、絵画の構成は各々の平面と対象物が互いに連動し厳密な規範と正確な「比率」のもとに全体的効果が発揮されなければならないと初めて説いた。そこにはルネサンスの重要な概念である「均整と調和」が求められていた。中世においては考えられない発想だった。しかし、これは修辞学が築いてきた伝統を絵画の構図論に適用したものだったという (フランシスコ・リコ『ユマニスムの夢』) 。
名声への渇望とキケロの手紙
ローヌ川とアヴィニョン (サン・ベネゼ) 橋 アヴィニョン
時間は少し前に遡る。1336年ペトラルカはアヴィニョンを発ってローマへ向かった。初めて見る「廃墟と化した都」に在るものは古代のローマを構成する一つ一つの歴史的な刻印であり文献から慣れ親しんだものたちを再確認できた。行けば失望すると思っていた。「ところが現実は、言うも不思議なことに、何物も減じさせず、すべて増大させました。まことに、私が考えていたよりも、ローマはさらに偉大であり、その遺跡も更に巨大です。(『親近書簡集』近藤恒一 訳)」
ローマから帰るとペトラルカはアヴィニョンの東にあるヴォークリューズに隠遁してしまう。巨大な泉から発するゾルグ川沿いにある閑静で美しい谷あいの街である。彼にとってアヴィニョンは雑踏・喧噪・退廃・策謀といった嫌悪の街となっていた。教皇庁そのものが腐敗していたのである。「わが前に立ち戻っては、あざけるようにさまざまな恐怖で私をみたすラウラ」から、そして肉欲をそそる愛人からも逃れるためだったが、この隠遁の中にもラウラへの恋情と名誉欲を断ち切ることはできなかった。ちなみに月桂冠/ラウレアの語は愛するラウラと語源を同じくしていた。
左 ゾルグの泉 右 ゾルグ川の風景
孤独な生活の中で彼は著作に打ち込み、史書として『著名人伝』と『アフリカ』を書き上げる。ラテン語による叙事詩『アフリカ』は第二次ポエニ戦争の英雄スキピオ・大アフリカヌスを主人公としている。次の一節はハンニバルの弟マゴがカルタゴに帰還する途中、ローマ軍に襲われて敗れ、負傷した末期の言葉を思って描いた。
ああ、強運の果てはかくも遠く至福もあえなく消えゆく !
高みにありて興ずるはおごれる者の狂態‥‥
(清水憲男 訳)
死を前にした人の嘆きは異教徒には似合わず、キリスト教徒にこそ相応しいのだという激情まじりの誹謗に対して、ペトラルカはこのように答えたと言う「ここでキリスト教徒云々と言って何になるというのだ。これは人間として、すべての人に共通なものではないのか。いよいよという時が来た時、苦しみと嘆き、それと改悛において何があるというのだ ? (フランシスコ・リコ『ユマニスムの夢』清水憲男 訳)」
マルクス・トゥッリウス・キケロ(前106-前43)
桂冠詩人となったペトラルカは1345年、パルマに永住しようとするがミラノとマントヴァの軍隊に包囲され、危険を冒して脱出しヴェロナに逃れた。その大聖堂の書庫で偶然キケロの書簡集を発見し狂喜することとなる。そこには著名な弁論家や道徳的哲学者の姿はなく、個々の政治において戸惑い懊悩する哀れなほどの姿があったが、ペトラルカにとっては一個の人間としてより身近な存在となった。これを契機に彼はキケロをはじめセネカやクインティリアヌスといった故人たちへの書簡を書き始める。夥しい古典作品の散逸や亡失に痛恨の思いを抱いていたペトラルカは生涯、古典の収集と復元に尽力するのだが、何よりも目指すものは古典文化の再生であった。
精神的危機とアウグスティヌス
三歳違いの同志と言うべき弟は恋人の死によって修道院に入り回心を闡明にする。翻ってペトラルカには二人目の私生児フランチェスカが生まれていた。息子のジョヴァンニと同一の生母かどうかも分かっていない。聖職者でありながら二度までも〈罪の子〉の父となった罪の深さに慄くのだった。この精神的危機を契機に1343年頃か1347年頃にアウグスティヌスとの対話篇『わが秘密』が書かれることになる。第一巻では一般的な人間の不幸や罪、救いについて、第二巻ではキリスト教の七つの大罪と野心について、第三巻では、とりわけ名誉欲が俎上にあがる。少し、ご紹介する。
フランチェスコ ‥‥彼女の心は地上の煩悩を知らず、気高い願望に燃えており、その容貌には神的な美しさが火をみるよりあきらかに輝き出ています。その生きざまは、完全に清廉の見本です。彼女の声音も目のかがやきも、滅ぶべきものらしいところが少しもなく、歩みぶりも人間のものとは思われません。‥‥
アウグスティヌス ああ、おろかな ! こうしてきみは十六年目になるまで、いつわりの愉楽によって心に情念の炎をやしなってきたではないか。‥‥きみは不幸にも、自分の禍いをよろこんでいるのだ ! だが、きみが身をほろぼすほど好きなその目が最後の日にとじられるとき、死によって変わりはてた彼女のすがた、青ざめたその体をながめたなら、きみは自分の不死なる魂を、はかないあわれな肉体の奴隷にしていたことを恥ずかしくなろうし、いま根気よく次々にでっち上げている賛辞を思い出して赤面することだろう。
(『わが秘密』第二巻 二 「愛と名誉欲」 近藤恒一 訳)
ここにあるのは自己批判と悔恨であり、キリスト教を基盤にした徳目への回心であったことは確かなようだ。それは、古典文芸から導き出される道徳性とキリスト教のそれとの融合を目指していて、後にエラスムスによって大きく花開くものとなる。
コーラ革命・ペスト・ボッカッチョ
コーラ・ディ・リエンツォ (1313-1354)
1347年、かねてからの知人であり、ローマ政庁で書記官をしていたコーラ・ディ・リエンツォが共和主義への情熱と理想を掲げ、計画通りローマで新政権を樹立し軍隊を掌握して護民官を名乗るという大事件が起きる。いわゆるコーラ革命である。それは、ローマ貴族を直接標的とするものでペトラルカはコロンナ家との繋がりも顧みず革命を支持したが、教皇庁も次第に誇大妄想化するコーラに引退を命じる。一時はプラハに逃れたが再びローマに戻ると捕えられ虐殺された。
この年、シチリアと南フランスに上陸したペストが、翌年にはイタリアからフランス、スペイン、イギリスへと拡散して猖獗を極め、その大流行が51年まで続いた。ヨーロッパの人口は激減する。1348年には最愛の人ラウラがペストで亡くなり主家のジョバンニ・コロンナも既に亡くなった。ペトラルカはこう書いている。
「ああ、何故にこの苦しみか。運命の暴威は私をどこへ押し流すのか。私の眼に、世界はいまや終末へといそぎ。『時』がすさまじい勢いで遁走してゆく。そして私の周りには、死にゆく老若のおびただしい群れ。世界のどこにもわが身をよせる安全な泊りの港は見いだせぬ。(『自己自身への書簡』近藤恒一 訳)」
ジョヴァンニ・ボッカッチョ(1313-1375)
ボッカッチョが『デカメロン』を執筆し始めるのはこの頃である。やがて9歳年上のペトラルカへの至純の思いが敬愛の文通に至らしめる。ボッカッチョはペトラルカの邸に何度も滞在し、彼が去るとペトラルカは心の一部が抜け去ったように感じたと言う。ペトラルカにダンテの作品を紹介したのはボッカッチョであった。ペトラルカは自分がダンテを憎悪しているなどデッチアゲだとして、こうボッカッチョ宛に書いている。
「まず第一に、わたしが少年期の初めに一度会っただけの人物に対し、憎悪を抱く理由などまったくありません。彼は、私の祖父や父とともに生活した人で、祖父よりは年少、父よりは年長ですが、父と一緒に同じ日に、同じ内乱の嵐によって祖国から追放されました。そのような境涯にあって辛苦を共にする人たちの間ではしばしば大きな友情が結ばれるものですが、この二人の間でも大いに友情が生まれました。しかも彼らは似た運命にあるばかりか、研究や天分の面でも極めて似ていました。(『ジョヴァンニ・ダ・チェルダルドに羨望者たちの誹謗にたいする弁明として』近藤恒一 訳)」
悲運のどん底にあったペトラルカと既にその文才を認められつつあったボッカッチョとの友情は終生続いた。ボッカッチョはペトラルカ弁護の作品『弁明』を書き、年上の友の健康を気遣いながら『デカメロン』を贈っている。彼が亡くなったのはペトラルカがこの世を去った翌年のことだった。それにペトラルカがユマニスム運動の後継者として嘱望していたのは世俗的な面において、このボッカッチョ、宗教面ではルイージ・マルシリだったと言われている。
ペトラルカの後半生
40代も半ばを過ぎたペトラルカのもとにはフィレンツェ共和国から、フランス宮廷やナポリ宮廷、それにマントヴァのゴンザガ家、さらにミラノのヴィスコンティ家からも秋波が送られていた。1353年の春、彼はヴォークリューズを発って母国イタリアに向かった。安定した地を求めた彼が落ち着いたのはイタリアで最も強大な都市国家ミラノだったが、詩人の挙動は本人の思惑とは別に意外なほど政治的影響力を持っていた。ミラノはフィレンツェの宿敵だったのである。平和の裡に研究したいと望むなら好むと好まざるとによって政治にも関わらざるを得なかったのである。しかし、彼には迫りくる時間との戦いがあった。ギリシア・ローマの古典文学と宗教文学の寸暇を惜しんだ研究は、その統合がなし遂げられなければならなかった。
1367年にはユマニスム宣言といわれる『無知について』を執筆している。ヴェネチア滞在中の桂冠詩人を尋ねた四人のアリストテレス派の知識人たちが彼を善良だが無知と評したことへの反発だったが、深層には後期スコラ学派とユマニスムとの違いを闡明にするものだった。例えばスコラ学の博物誌には多くの嘘があり、人間本性やその幸福とは何の関わりもないのであれば無益だとしている。
このアリストテレス派とは別にアリストテレス自身については、キケロなどと同様に長短ある一人の人間として歴史化していると訳者の近藤恒一さんは述べている。こんな具合である。「アリストテレスは確かに、徳を見事に定義し、分類し、鋭く論じ、さらに悪徳や美徳のあらゆる特質について論じています。‥‥しかし魂は以前のまま、意志ももとのままで、私自身は変わりません。知ることと愛することは別であり、理解することと意志することは別なのです。(『無知について』Ⅳ 古代作家をめぐって)」
さらに近藤さんはペトラルカのアリストテレス主義に対抗するプラトン主義を挙げている。プラトン主義の伝統はキケロやウェルギリウスらのラテン・モラリストを経て、あるいはプロティノスらの新プラトン派を経てアウグスティヌスへと連続する。彼は中世のプラトン主義を踏み破ってギリシア語原典を研究しながら同時にアリストテレスの原典研究を促すことになる。こうして、やがて隆盛をみるルネサンス・プラトン主義の礎を築いたのである。
アルクア・ペトラルカ
モンテ・カステッロからのペトラルカ山脈の眺め。アルクア・ペトラルカは、イタリアのパドヴァ近郊にあるペトラルカの名を冠した自治体のことで、彼が最晩年の4年を過ごした場所として知られる。
『老年書簡集』を書きつづけながら1370年には『遺言状』を執筆している。ミラノの後も彼のイタリアでの放浪はパドヴァ、ヴェネチア、パドヴァと続き、そのアルクアの山荘へと移り、四年後に亡くなった。机に向かい書物にうつ伏したままだったと伝えられている。ペトラルカは、自分が生まれた時のことをこのように述べている。放浪の内に孕まれ、放浪の内に生まれた。母は非常な苦痛と危険にさらされ産婆や医師たちにも死ぬものと思われていた。「こうして私はまだ生れ落ちぬ先から危険を冒しはじめたのであり、死の予兆と共に人生の入り口に近づいたのです。(『親近書簡集』巻一 近藤恒一 訳)」このような彼の詩は基本的にエレジーにならざるを得なかったと言われる。マンデリシュタームがシベリアの収容所でかがり火の下でペトラルカを読みながら亡くなったという噂もまことしやかに聞こえるのは故なしとも言えない。ペトラルカは最後の詩の一つを、神に祈りつつこう詠ったという。
戦いと嵐のうちに生きた私を
平安と港のうちに死なせたまえ。
(『断片詩集』365 近藤恒一 訳)
ペトラルカの葬儀が行われた
聖マリア・アスンタ教会 アルクア
付 ポストヒューマンの時代
レオナルド・ダヴィンチ ウィトルウィウス的人体図
かつて、「古典的理想像」として定式化された人間の普遍的モデルは、イタリア・ルネサンスの時代に復興される。「人間は万物の尺度」である。その人間像を提示したのはプラタゴラスだったが、自分の業務や役割を適切にマネージメントでき、家庭を上手にまとめ、正しい使い方による言葉と行動によって社会に最も効果的に貢献することが肝要であるとした (プラトン『プラタゴラス』) 。これらを実現することによって人間は、その完全性を求める力に対する揺るぎない確信を持つ。その理想的姿が、ダ・ヴィンチの『ウィトルウィウス的人体図』だった。
これによって人文主義は文明のモデルへと発展し、ヨーロッパの批判的理性と自己反省によって支えられる普遍的属性を勝ち得ることとなる。しかし、パレスチナ問題を引き起こすなどの負の遺産をもたらした植民地主義、ホロコースト、ヒロシマ・ナガサキ、シベリアの強制労働収容所等により引き起こされた惨劇、それらを契機に理性的、普遍的人文主義のヨーロッパ的・古典的モデルはフランスのポスト構造主義の哲学者たちによって否定される。世界の道徳的守護者たる「〈人間〉の死」が宣告されるとブライドッティは言う。それは反ヒューマニズムと言ってもよいものであり、ポストヒューマニズムを導き出すものだと言うのである。万物の尺度であった〈人間〉の概念は、現代科学とグローバル経済の利害という二重の圧力の下で浸食され、現れてきたのはポストモダン、ポスト植民地、ポスト工業化、ポストフェミニズムという言葉だった。
(ロージ・ブライドッティ『ポストヒューマン 新しい人文学に向けて』)
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