第85話 識られざるもののイメージ part1 中国青銅器から山水へ

 白川静(しらかわ しずか)さんの著作『甲骨文の世界 古代殷王朝の構造』のこの文章を読んだとき、何と格調高い文章だろうと思った。

 「人間と交渉をもつ以前の自然は、単なる自然であった。物質と変化の世界に過ぎなかった。所与の世界である。その所与的な世界を人間の世界に引き込んだとき、人はその生命にふれた。自然は生きていたのである。そして、そこに、霊的な世界の存在することを、確認したのである。古代の人々にとって、自然は生命以上のものであり、神であった。神は識(し)られざるものである。そのゆえに神は普遍であった。神はすべてのものに宿り、あらゆるところにいた。時間と空間の一切を含んで、それをみたすものが神であった。卜旬や卜夕のような貞卜が行われるのは、神は時間を支配するものと考えられたからである。(白川 静『漢字の世界』)


白川 静『漢字の世界』

 今回の夜稿百話は山水の表現の過程を神仙思想や風水学を交えながら青銅時代から漢、三国時代、晋、唐、宋、明、清と辿っていくことにいたします。ご紹介する書籍は張光直『中国青銅時代』、マイケル・サリヴァン『中国絵画史』、ロルフ・スタン『盆栽の宇宙誌』、三浦國雄『風水/中国人のトポス』、今道友信『東洋の美学』、中野美代子『龍の住むランドスケープ』といったラインナップです。これらの著書から生きた霊的自然としての世界を駆け巡るものたちの図像学を導き出します。

戒めの魔神饕餮 


張光直 『中国青銅時代』 

 「昔、夏王に徳があった時に、遠い国々から(その国の)怪物を描いて献上し、金属を九州の長官を通じて貢納したので、夏王は、鼎 (かなえ) を鋳造して、地方の怪物の形をきざみ、様々な姿を示して、民に、神と魔物の見分けがつくようにさせた。‥‥(夏王朝の末王の)桀(けつ)王は悪徳の王であったので、鼎は商に移り、六百年がたった。商 (殷) の紂(ちゅう)王が暴虐であったので周に移った。(『左伝』)」とある。徳の有無によって鼎は授かったり、失われたりするものと考えられていた。蒋介石が台湾に逃げ込む際に鼎を持ち込んだこともここに関係している。


饕餮紋 劉鼎 殷 (殷) 末期


 「周の鼎には饕餮 (とうてつ) が鋳(い)あらわされており、〔その理由は饕餮には〕顔があって体がなく、人を食うと飲みこまぬうちに害がその身に及ぶのであり、饕餮をあらわすことによって、〔悪事の〕報いを〔戒め〕語っているのである(『呂氏春秋』)」。北宋時代には、古代中国における金属器や石の上に刻まれた銘文や画像を研究する学問である金石学が登場するが、その書物の中では商 (殷) ・周代にみられる怪奇な形の獣面、つまり目鼻があり口が裂けて眉の大きなもの、身体に一本の足があり尾は上方に巻き上がり〔向かい合う二匹を〕合わせてみれば饕餮紋であるがそれぞれを見分ければ夔 (き) 紋であるもの、眉鼻口がみな方格形で中が雷紋で詰まっているもの、などを一括して饕餮紋と呼ぶようになった。

商周時代の動物文様 張光直『中国青銅時代』より

 いっぱいに開かれた獣の口が、二つの異なる世界、例えばその外とその中のように、ある世界と別の世界を隔てる一つの象徴であるとみなされるという。それは、神獣紋様が天と地を通じさせるのを助けるという考えと符合すると張氏は考えている。あるいは、動物が口を一杯にあけて、息を吐いて風を起こしシャーマンが天に昇るのを助けたとも考えられる。

 これ等の青銅器は祭祀器であって神との共食を目的として使われるもので大きさも高さが数センチのものから1.3メートルを超えるものまである。青銅のフリーズに施される形象も饕餮のような魔神から、龍、虎、牛、象、兎、魚、蝉、鸚鵡など多様である。基本的な形態そのものは新石器時代からあるものだという。

 『山海経』は、「古代における巫覡の書物」であったにちがいないと張氏は考えている。それは、『楚辞』の九歌や祭祀における巫の舞との関係も密接であったようだ。シャーマンが術を行う場合、しばしば有形 (幻覚を催す植物) や無形 (例えば舞踏による陶酔) の助けを借りて夢幻に近い状態に達し、神界と交通する。神霊との交信の仕方は、時に動物を犠牲とし、その動物の聖霊を体内から昇華させる。その動物の聖霊の援助のもとで天界に昇り、地下にくだって、神や祖先と出会うのである

仰韶(ぎょうしょう)文化の遺跡
張光直『中国青銅時代』より

 1989年に河南省北部、濮陽県城の西水波一帯で仰韶 (ぎょうしょう) 文化の遺跡が発掘された。仰韶文化とは、紀元前5000年から紀元前3000年頃の黄河中流域に展開した新石器文化である。遺物の中で特に注目されたのは三組の貝殻を敷いて作られた動物紋様である。身長1メートル84、頭が南で足を北に向けた仰身直肢葬の「壮年男性」の横には貝殻で並べられた印象深い形がある。左 (西) 側に貝殻の虎の形、右 (東) 側に龍の形が作られていた。すでに東が龍で西が虎である。第二組はこの墓葬の北側にあり、龍と虎が合体したもので虎の背中に鹿がいる。第三組は第二組の南側にあり、人間が跨った龍と、疾駆する虎が作られている。死者を葬る際の祭祀の跡であろうと言われている。

 遺体の近くには龍、虎、鹿の芸術的造形物が付随しており、人が龍に跨った様子も表されている。 濮陽のこれらの龍と虎と鹿は古代の原始道教における龍と虎と鹿の三蹻 (きょう) を思い起こさせると言う。晋代の葛洪 (かっこう) は、『抱朴子 (ほうぼくし) 』内編の中でこう述べている。「もし、蹻に乗ることができた者は、天下を自由に経巡ることができる。山や河に煩わされることはない。蹻に乗るには三つの方法があり、第一を龍蹻、第二を虎蹻、第三を鹿盧蹻という。‥‥蹻に乗ろうとすれば長く斎戒し‥‥一年後にはじめてこの三蹻に乗ることができる。‥‥龍蹻が最も遠くまで行け、それ以外は千里を超えない。」

 龍や虎などが異界への旅へと導き、魔神たちを遠ざける存在として考えられていたのである。

青銅器を彩る山の文様


マイケル・サリヴァン
『中国美術史』

 商 (殷) の時代に彫刻が無かったわけではない。安陽の侯家荘墳墓では大理石の虎の像が発掘されているし、下図のような人物像も彫られていた。青銅の盛酒器である尊に表現されたなかなかリアルな犀もあり、ある程度の写実性をすでに獲得していたことが分かる。


高官の彫刻 
商 (殷) 前12世紀-前11世紀

小臣艅尊(殷) 晚期

 青銅器時代には、このような具体性を持つ像が存在している一方で、イメージは装飾と象徴の奇妙で魅惑的な融合を見せるようになる。渦巻き紋や雷紋が空想上の動物に変化したり、動物の尻尾が渦巻き紋に変化したりするのはケルトの文様などにも見られる特色である。このような抽象的な文様であったものが、動物たちや人間の描写も加わって山の具体的な表現へと変化していく。

 西周 (前1046-前771) の大克鼎 (だいこくてい/下図) に見られるのは、うねる〈山と谷〉による褶曲であるが、単なる装飾に終わらずに凸部には山岳の重なりのような表現と凹部には魔神のような文様が交互に配置されている。循環する宇宙の波動の動きを感じさせる。これらの装飾的な文様、あるいは抽象的な形態は圧倒的な観念の山だったと言うこともできる。


大克鼎 西周中期 

同上

 春秋時代に (前771-前481頃) に作られた下図の狩猟文の豆 (とう/盛食器) には狩りの場面の動物たちがソフィスティケートされた文様で表現されている。戦国時代には西方の辺境地帯での戦闘を含めた遊牧民との接触から、いわゆる〈動物意匠〉が流入し始める。

 『書経/尚書』は、早くても秦の穆公 (ぼくこう) の前7世紀中ごろ以降の成立とされるが堯・舜時代から穆公までを扱う古代政治の歴史書である。その中で、日・月・星辰・山・龍・華中 (雉あるいは鳳凰) などの古人が使っていた象 (エンブレム) が先祖の霊廟の祭器の表面に描かれ組み合わされているが、それらを見たいものだと禹が述べたことが書かれている。


鋳型装飾のある青銅奩 (れん/小容器) 前2-1世紀 前漢
 フリア美術館

 前漢の時代には上図のような文様化された山の量塊が〈西アジアのこぶ〉と呼ばれる表現と中国古代から意匠が融合してうまれた (マイケル・サリヴァン『中国山水画の誕生』) 。その中に遊ぶ動物たちが表現され、より絵画的な写実性と装飾的な意匠とが見事な融合を見せている。動物たちだけでなく山塊でさえ蠢いている。

 貞卜が盛んに行われた青銅時代の商 (殷) において饕餮という魔神は、龍や雷紋のアンサンブルとして現れる。それは山水の精でありトーテミズムの残響でもあっただろう。かつて、龍や虎や鹿は巫術者の乗り物であり、彼らを守護する存在でもあった。それらは異界を駆け巡り、乗る者にその世界を案内した。周の時代は八卦という視覚的シンボルを通じて世界を直観的に理解する術が生まれ、道教は見えない物の中に萌す何かの気配を感じた。気である。

壷中天と洞天 山水の中の仙界

 信憑性に問題はあるものの戦国時代には、専門の画工が存在したことが荘子や韓非子の記述から分かるという。やがて漢の時代になると鬼神の他、上古の帝王、武勇の士などが壁画に描かれたという記述がみられる。この時代の彩色された図像として有名なものは永平十二 (69) 年に作られた漆器に女神、青龍、白虎を描いたものやウミガメの一種である瑇瑁 (タイマイ) で作られた容器に描かれた人物像があり、当代の絵画のかなりな水準を窺わせるという。


ロルフ・スタン『盆栽の宇宙誌』

 漢の時代は中国の古典文化が花開く時代であり儒教が国是であったが、後漢に至って道教が庶民の宗教として信奉されるようになる。それは、概ね神仙思想よりのものだった。下図の青銅の博山香炉のような螺旋に巻き上がるような山岳表現が出現している。多くは猿、虎、鹿、蛇、霊鬼、精霊の模様が施されていた。もっともこれは、海上の彼方に出現する蓬莱山を象ったもので、この種の道教的な色合いを持つ香炉が象牙などでも造られていった。盆栽の原型とされている (ロルフ・スタン『盆栽の宇宙誌』)。秦の始皇帝が徐福に命じて東方の渤海の彼方にある仙界である蓬莱 (ほうらい)、方丈、瀛州 (えいしゅう) に不老不死の仙薬を探しに行かせたことが司馬遷の『史記』に記されているが、その伝説のヴァリエーションが唐の蘇鶚 (そがく) による伝奇小説『杜陽雑編』に書かれている。

瓢箪の島 蓬莱山

博山香炉 中山靖王墓 前漢 青銅製

 「宮廷に招かれた道士の玄解は、その出自の東海にある仙界に戻りたいのだが、皇帝はそれを許さなかった。宮中にはその東海にあるとされる海上の三つの神山である、蓬莱、方丈、瀛州をかたどった木の細工が置かれ、華麗に彩色され、宝玉で飾られていた。皇帝は、或る日その細工を指さしながら玄解にこう言った。『優れた仙人でなければ、この境域に至ることは適うまい。すると玄解はこう答えた。この三つの島は、わずか一尺を超えるに過ぎません。そこに行くことなど難しいことではありません。陛下のために試しにその周りを一巡してまいりましょう‥‥。 そういうやいなや彼は空中に身を躍らせて小さくなり、金銀の門の中へと入っていった。だが、玄解は二度と宮中に戻ることはなかった。それから10日たって青州から皇帝に上奏があった。彼は黄色い雌馬に乗って海を越えていったというのである。宮廷のこの山の前では毎朝、明け方に鳳脳香が焚かれるようになり、その島は蔵真島(真人の消えた島)と名づけられたという。(蘇鶚『杜陽雑編』福井文雄、明神洋 訳)


蓬莱山 『三才図会』

 ちなみにこの三神山は瓢箪のように海に浮かんでいた蜃気楼のような浮島だったので三壷とも呼ばれた。ひょっこりひょうたん島の祖先である。神山の模型に入るために玄解は小さくならなければならなかった。そして、その小さな模型の世界は広大なアナザーワールドが秘められていた。それが洞天であり、壷中天であった。身体にも洞窟がある。人間の体の「臍下の下丹田」あるいは「人の両眉間に在り、却行すること一寸を明堂となし、二寸を洞房となし、三寸を上丹田となす」と葛洪(かっこう)は『抱朴子 (ほうぼくし) の中でのべている。それは、人間の中にある洞天あるいは壷中天としての瞑想空間である。

壷中天

 『漢書』方術伝や『神仙伝』にはこうある。費長房は汝南(じょなん)の人で役人をしていた。市が引けたとき、楼上から薬売りの老人を見ていると店頭に掛けた壺 (瓢箪) にするすると入り込んでいった。だれにも気づかれてはいないようだった。老人は懇願を聞き入れて彼を一緒に壺の中に入れてやった。その中は思いもかけない壮麗な玉堂であり、美酒とご馳走で溢れていた。「わしは神仙じゃが、落ち度があって罰せられたのじゃ。今ではすべて片がつき、いよいよ出発することとなった。そなたもついて来るか、どうじゃ? 楼下に少しばかり酒があるから、決別を祝って一緒に飲もう」と老人はいった。長房は人をやってそれを取りに行かせたが、意のままにならない‥‥(それはあまりに重かったのだ。)‥‥老人はそれを聞いて、笑いながら楼を降りて行き、指一本で酒を提げてきた。酒の器は一升ばかりしか入らないように見えるのに、二人が飲んでも空にならない。費長房はついに弟子となって道を求めることを願い、やがて妖怪を支配し、病を治すことで知られる方士となったという。(『後漢書』方術伝)


『有象列仙全伝』費長房と壷公

 この蓬莱山と次に述べる洞天を繋ぐのが大湖の寺院に住まう柳杏の話で、壺の天地のテーマは酒のテーマに結びつけられている。一件の酒楼に入った男たちが、そこで酌をしている柳杏に言い寄って一篇の詩を読む。「なんとすばらしいのだろう、この方寸の場所は。俗気は無く西湖 (湖岸) の僅かな寸歩の広さに (天地) の乾坤の画図をそっくり包み込んでいる」というものだった。また、別の男は「いったいここはどこなのか。われわれは計らずも、蓬莱の島に入り込んだのだ。‥‥」すると柳杏は、「西湖 (湖岸) には、壺形の別天地が面しております。この天地をながめていますと、全てが静寂となります。」後に、この男たちが酒楼のあった場所に戻ってみると、それは跡形もなかった。(『雲葛神女伝』)


三浦國雄『風水/中国人のトポス』

洞天福地

 後漢の張衡(78‐139/科学者)の説では、天は鶏の卵殻のように球形であり、地は卵黄のようにその内部に位置し、天は大きく地は小さいとする。道教の渾天説ではこの天地=宇宙が一個の巨大洞窟としてもイメージされていた。戦国時代から洞庭という言葉が文献にあらわれ始める。晋代になって郭璞(かくはく/276‐324)は 蘇州の西にある太湖とそれよりはるか内陸の岳陽の西にある洞庭湖の地下にある洞窟とは地脈という通路を通して繋がっていると述べるのである。郭璞のこの記述以降、これら二つの湖の下に巨大な洞庭が存在するという認識が定着しはじめる。

 この洞窟内の日・月や自然をも含む巨大な空間は、戦乱から逃れた人々や異界にひそむ人々の楽園である。そのような 洞天福地、つまり洞窟内の至福の宇宙は名山勝地の奥深くに実在すると信じられ、神仙、つまり永生者たちの棲む別天地のことであると考えられるようになった。この洞庭は壷の中の巨大空間とシンクロし始める。


阿廬古洞 中国雲南省

 そして、いわば地気の環境学ともいうべき思想をまとめた人物もこの郭璞であった。これが後の風水学へと発展していった『葬経』である。『葬経』にはこうある。「気というものは風に乗じれば散じ、水に界(くぎ)られると止まる。そこで、古人はこの気をあつめて散じないようにし、この気を自由に行かせて止めないようにした。そこで、これを風水という。風水の法は、水を得るのを最上となし、風を蔵するのを第二となす。」「得水蔵風」といい、ここから風水という名称が起こるらしい。

 この経でもう一つ面白いのは、四神が登場することである。「葬るにあたっては、左 (東) を青龍となし、右 (西) を白虎となし、前 (南) を朱雀となし、後ろ (北) 玄武としなければならない。」日本の高松塚古墳にも見られるお馴染みの四つの聖獣である。この四神は本来、天上にある特定の星であったが、天下って方位の守護神となった。

風水図
中野美代子『龍の住むランドスケープ』より

山水画の誕生


今道友信『東洋の美学』

 三国時代で絵が巧みだったと伝えられているのは、真偽のほどは不明だが蜀の諸葛亮、『三国志』の本伝に伝えられているというので確かと言われるその子の諸葛瞻 (しょかつせん) がいる。呉では、八絶の一人曹不興 (そうふこう) がいて、ある時、孫権が屏風に絵を描かせたが、誤って画面に墨を落としてしまうも、それを忽ち蠅に描きかえてしまうという伝説が残っている。ともあれ南斉の謝赫の古画品録にも曹不興 の記事があり、この頃には画家の用筆の法が兆しかけていると内藤湖南はいう。

 晋代になると画工が多く輩出されるようになり、唐の張彦遠 (ちょうげんえん) の『歴代名画記』には王義之、王献之らの名がみえる。王義之には『画論』という著作もあるらしい。書画同源なんだろうか。この頃には描写が緻密になり衛協らによる仏画など画題も広がり始めている。そして、陸探微や顧愷之 (こがいし/ 344-408?) が登場する。

 顧愷之は諧謔好きで呑気な性格だったらしく痴絶と称される一方で画絶、才 (文) 絶の三絶だったという (『晋書本伝』) 。その作品からは、ちょっと想像しにくいキャラクターだったようだ。人物には着物の衣文の翻りが描かれていて唐の呉道子に先んじて動くものへの関心の高さがあったことを示している。ちなみに多くの研究者が顧愷之の『女史箴 (しん) 図』を唐の時代の作品と考えていたが、正しく晋の時代の作としたのは内藤湖南だった。


顧愷之 『女史箴図』部分 5~8世紀摸本 大英博物館

 特筆すべきは、この図巻には既に山塊が巧みに表現されていることで山水画としての表現がかなりのレベルにあることが分かる。中国では風景画と言わず山水画という。顧愷之は『画雲台山記』においてこう書いている。「(その尾根は)東のふもとに発し、次第に上昇するが、山腹半ばに達せぬうちに、紫色の岩が五、六塊、まるで堅い雲のように見え、その岩が尾根をはさみ、(尾根と尾根の)あいだの谷ぞいに上につらなっているので、(その尾根の) 勢いは、あたかも龍のごとくであるが、主峰の頂に達せんとするところで一旦うねりを停め、しかるがのちに一気に頂にいたる。」


同上

 この『画雲台山記』は、山を描くべく意識的に観察したことを記録に残した最古のものである。この顧愷之の活躍した時代は、風水学の祖とも言える郭璞(かくはく)が『葬経』を書いた時代のすぐ後なのである。風水と山水の誕生する時期は非常に近い。風水説では山の起伏を龍に例え、山脈、地脈を「龍脈」と呼ぶ。龍脈の中を走る生気にも粗密があるらしく最も生気が集まるそれぞれの地点を龍穴と称した。龍穴を探し当てるのが風水師の腕だが、いったいどのようにしてなのか。 その手掛かりは目に見えるもの、すなわち風景である。見えないものを山や川の配置から割り出すから、一種の景観学、あるいは環境論とも言える (三浦國雄『風水 中国人のトポス』) 。

 観光、つまり風景のオーラを観る。東晋の孫綽(そんたく)は『遊天台山賦』の冒頭でこのように述べている。「太虚は遼廓にしてかぎりなく、自然の妙有をめぐらし、融けては川瀆(かわ)となり、結んでは山阜(やま)となる。」気によってすべては創り上げられる。

 ちなみに、正倉院に八世紀の楓蘇芳染螺鈿槽琵琶(かえですおうぞめ らでんのそうのびわ)があり、その胴にある『騎象奏楽図』などは顧愷之 の山岳図に近いのかもしれない。この頃、山水にたいする趣味が文学者たちの間で高まり、『桃花源記』を書いた陶淵明 (365-427) や一本歯の下駄で山川を跋扈したとされる謝霊運 (385-433) などが登場する。


楓蘇芳染螺鈿槽琵琶
『騎象奏楽図』8世紀

 南北朝時代には宗炳 (そうへい/375-443) が『画山水序』を書いた。「聖人は道を含んで物を暎 (て) らし、賢者は心を澄ませて像を味わう。山水に至りては、質は有にして趣は霊なり」と述べる。山水は仁者の楽しみであり、それは論語の「仁者は山を好み智者は水を好む」を踏まえている。そして、自然を写し取るためには哲学や文献に記された内容は自然の如何ほどかは表し得るだろうし、言葉を超えた神秘的な真理をも精神の力によって文献の奥に予感することもできよう、いはんや身をもって歩き回り自分の目で確実に捉えた山水を絵画として形に写しとり彩色すれば猶更深く自然を捉えることが出来る。絵画は論理的思考に優先した。自然は〈道〉を内包するものであるから、自然を最もよく写し取る芸術ならば自然の内包する〈道〉をすら最もよく把握しうるとした。山水画は世界の本質把握の技法となるのである。(今道友信『東洋の美学』)

 さらに王微は『叙画』のなかで、八卦が宇宙の運行を象徴する記号であるように、絵描きが山水画という象徴的手段によって表現しているのは特定の時間と場所ではなく、時空を超越した普遍的な心髄だとしている。

 謝赫が画の六法を挙げて、その第一を気韻生動としたことはよく知られている。神采つまり優れた精神が外面にあらわれた姿のことで、それが生き生きしているという意味だった。肖像画についても言えることだったが、山水画のために出来た言葉のように考えられるようになったという。


 第85話 識られざるもののイメージ 次回、part2 は中国山水画の頂点である北宋画を中心に随・唐・宋・明・清の山水画の変遷を追い風水的なイメージの残存をご紹介していきます。





夜稿百話

関連図書

張光直『中国青銅時代』

紀元前5000年頃の小さな金属片は見付かっているらしいが、一般には紀元前2000年頃から、鉄器の時代が始まる紀元前500年頃までを中国の青銅時代とするようである。この時期の中国は、歴史書にいう夏、商(殷)、周の三代にあたり、たがいに競合する列国群が並行して発展しつつあった。夏代にあっては、夏王国が統治階層の最上部にあり、商代では商王国が、周代では周王国が最高の統治者であった。それらは次々に勃興しては滅んだのではなく、覇権を奪い、奪われながらも同時に存続していたと考えられている。尚、商は殷とも呼ばれるため殷商と併記する場合がある。

「 国の大事は、祀(まつり)と戎(いくさ)にあり(『左伝』)」と言われたように儀式と戦争が国家にとって最重要項目だった。青銅は武器と祭祀に用いられたのである。武器には鏃、矛(幅広の槍)、戈(ほこ/ピッケル状の槍)、鉞(えつ/まさかり)、大刀、剣、匕首(あいくち)などがあった。農耕などの農具や工具に使用された形跡がない。つまり生産技術に寄与するものではなかったのである。祭器としての青銅は貴族の権威と規範の象徴となった。それは統治を行うための合法的な象徴となったのである。一つの王朝が国家を統治するための権限を保証する青銅器さえあった。それが「禹の九鼎」である。日本で言えば「三種の神器」にあたる。

青銅時代に社会の上層を占めていたのは王と王族であり、閉鎖的な内婚制化に在り、王位はいくつかの王位継承グループの間で輪番に継承されたと張氏は見ている。王族は父系氏族集団の頂点にあり、氏族はさらにいくつかの宗族に分かれていた。宗族が本宗から枝分かれする時には土地と領民が与えられた。封建制だったのである。青銅の礼器と武器は、国王から自分の土地に行き自分の都市と領地を築くよう命じられた際に下賜される贈り物であり、与えられる側にとってはお墨付きだった。それは先祖崇拝とその儀礼に密接に結び付くものである。祭祀の儀式に用いる容器の種類とその数は、その人の地位によってランク分けがあったことが知られている。






葛洪『抱朴子 内偏』

原始道教の道士は龍、虎、鹿の脚力を借りて「天下を自由に経巡り、山や河に煩わされることがない」のである。蹻 (きょう) は「足を少し高く上げる」の意味で、力強く、早く行くことと関連するようである。『道蔵』には、「およそ、仙を学ぶ道として、龍蹻を用いるのは、龍はよく天に昇り地に潜り、山をうがち水に入ることができるからであり、この術でなければ、鬼神のことは計りがたく‥‥龍蹻というのは、道を奉じる道士が〔それに乗って〕仙人の集う洞天、福地に遊ぼうとすれば、あらゆる邪悪な魔物や精霊の怪物や悪しき物どもは近づいてこず、山川、大河、洞穴にある仙人たちの役所に行くたびに、いたるところで、天の神々や地の神々の方から会いにやってくる(太上登真三蹻霊応経)」とある。この文献は紀元三~四世紀のものであり、仰韶時代とは5000年の開きがある。






マイケル・サリヴァン『中国山水画の誕生』

マイケル・サリヴァンは、オクスフォード大学で初代教授をジョン・ラスキンが、あるいはケネス・クラークも教授も務めたというスレード美術講座の担当教授になった人である。本書は訳者の中野美代子さんが述べているように、中国の風景画=山水画が誕生するための幾何学文様から風景画的要素への、いわば「自然主義への道のり」について一般の人間にも分かりやすく書かれている。網羅されている範囲は古代の青銅器時代から漢代、六朝時代までの様式の展開である。中国美術史の貴重な著作と言ってよい。






三浦國雄『風水|中国人のトポス』

司馬遷の『史記』の著述から始まるこの著作は、民衆の間では未だに思考の通奏低音として存在する風水に関する極めて興味深い著作である。

何一つ思い通りにならないことは無かった始皇帝にとって死だけが唯一の例外だった。こんな逸話が紹介されている。
始皇帝は、自分の墓に現実の天地や神仙の天地を再現しようとした。東海の蓬莱山などの仙界に異様な興味を示し、そこに徐福を派遣したことでも知られている。その陵墓は西安の東30キロのほどの所、華清池にほど近い。それが、どのように造営されたかは『史記』の秦始皇本紀に書かれている。「始皇帝が初めて即位した時、驪山の麓に穴を掘ったが、天下を併合するに及んで、全国各地から七十余万の罪人をここに送り込み、三泉(地下第三層の水脈)に至るまで深々と堀り下げさせ、銅板を敷いて棺を入れる外函を納めた。さらに宮殿や楼閣や百官の埴輪を造り、珍貴な品物を宮中から運び込んでそこを一杯に満たした。職人にバネ仕掛けの弩(いしゆみ)を作らせ穴を掘って侵入して来るものがあれば、ひとりでに発射された。また、水銀で小川と大河と海を造り、機械じかけでその水銀の水が還流するようにした。天井には天文、床上には地理を象り、人魚の膏で燭を作って永く消えないように計らった」とある 。始皇陵は、さながら絢爛たる地下宮殿であり、それを取り囲む宇宙さえ象られていた。北魏の地理書である『水経注(すいけいちゅう)』には、始皇陵は後に項羽によってあばかれたが、30万人を動員して30日かけてもなお全部を運び出せなかったとある。

その始皇帝にはこんな逸話も残っている。天下統一後、金陵(今の南京)に天子の気が立ちのぼっていると聞くと、その地の「地脈をうがち連なる岡を断った」という。地脈に穴をあけたのは、地中にわだかまる王者の気を霧散させんがためである。地脈は山に沿って走ると考えられていたからである。地脈には地気が走り、その気によって、その土地の風土、人の気質、体質などが影響を受けると考えられるようになる。霊なる地気が集まる所には英傑が誕生するという訳である。始皇帝はその禍の根を断とうとしたのだ。このような思想は六朝時代に向けて徐々に発展しはじめる。そして、話は西遊記の空間、蓬莱山と盆栽、箱庭と洞庭と地脈、朱熹の墓へと及んでいく。 






今道友信『東洋の美学』

世界的な美学者であった今道友信さんが美学の体系についての研究者であるから中国と日本の美学は専門の研究課題ではないと断りながらも、東洋の美術史や音楽史の概説がほとんど無いことを憂えて著述されたものが本書である。日本には珠玉の名品多いが人類の財産となる偉大な価値を持つ大芸術と言われるものは少ない、しかし、美学や芸術に関する思索は深く豊かではないのかというのが友道さんの意見である。この種の研究は、特に漢字文化圏に住む者にとって美学や芸術にとってのみならず将来の問題や思想の深化に役立ってくれればと願っているという。章立てをご紹介しておく。

■緒論 シナ及び日本の美学思想概観
●第一章 シナ美学史の展望
・諸子百家の時代 孔子をはじめとする諸子百家の音楽論を中心とする芸術論。
・六朝時代 宗炳や謝赫の絵画論など
・唐代 王維の『画学秘訣』、荊告の『筆法記』など
・宋代 郭煕の『林泉高致』、郭若虚の『図画見聞誌』他
・元・明・清代 湯垕 の『画論』、石濤 の『画語録』他
●第二章 日本美学史の展望
純粋と摂取
概観
太古
弥生時代
古代日本人と芸術
中世
近世
近代

■第一部 シナ古典に於ける美学―孔子と荘子
●第三章 孔子の芸術哲学
●第四章 荘子の形而上哲学

■第二部 日本の美学
●第五章 日本人の基本的性格と芸術
●第六章 日本人の美意識―伝統と論理
●第七章 歌論の美学的省察
●第八章 松尾芭蕉―無の媒介としての旅と夢
●第九章 本居宣長―天啓と事実の媒介としての歌
●結語 東洋美学研究の現代的意義




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青銅祭器一式 前11世紀 MET

陜(せん)西省宝鶏県闘鶏台で出土したといわれる14点の青銅器は、清の官僚であった端方が1902年にその地で購入した周代の遺物であり、柉(へん)禁と名づけられる。一か所から出土した可能性はあるものの、製造年代にはかなりの幅がある。遅いものは西周初年になる可能性があるが、ほとんどは殷商時代のものであるという。つまり殷商の時代にすでに周では独自に青銅器が鋳造されているのである。安陽から出土している殷の時代の斝(か)とされる容器には鼎足、つまり容器とは別個に作りつけられた足が付いているのに対して柉禁の中の斝は鬲(れき)足、容器内部と一体になった足を持っているなどの違いがみられる。(張光直『中国青銅時代』)






夔 (き) 足方鼎  一本足で尾が巻き上がっている龍を表している。



諸葛瞻 (しょかつせん)
成都武侯祠の諸葛瞻塑像 諸葛亮の息子で父の爵位をついで武郷侯となり蜀の軍師将軍の一人となる。書画の巧みさで知られ愛されたという。



敦煌莫高窟―洞窟46左内壁 762-827年

莫高窟は唐代の仏教壁画の外貌を窺わせる貴重な作品となっている。長安や洛陽の都に寺観の壁画は極めて壮麗なものであったようだが、戦乱で失われた。




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