第八話 松山俊太郎 part2『蓮と法華経』 白蓮華・紅蓮華とサッダルマ・ブンダリーカ


松山俊太郎『蓮と法華経

 松山俊太郎さんの著作を初めて読んだのは『インドのエロス』だった。インドの愛の詩について書かれているのです。それで、前回 Part1『松山俊太郎 蓮の宇宙』 ヴィシュヌ・ホルス・ロータスはヴィシュヌとラクシュミーの外見はサラッとしているものの内容は、かなり込み入っている睦事の詩をご紹介しました。

考えてみると、仏さまたちは蓮華の上に座しておられる。泥の中から生まれながら、汚辱に染まることのない聖なる花という事になっているけれど、どういう謂れで、どのような経緯を経て仏の象徴にまでなったのかは、よく分からなかった。妙法蓮華経と漢訳された法華経が文字通り法の華と呼ばれたのは、それだけの理由ではありえない。

インドには『シュリンガーラ・ティンカラ』という古詩集があり、八つの基本的な情調のうちの〈性愛情緒〉を主題にしている。

青睡蓮で 君の眼を、蓮華で 顔を、
素馨 (そけい/ジャスミン) で 歯を、
チャンパカの花びらで 肢体 (からだ) を
創造主 (かみさま) は つくって下さった。
恋人よ、その神様が なぜ きみの
心にかぎって 石で作りなさったのだ。


(『シュリンガーラ・ティンカラ 3』 松山俊太郎 訳)


チャンパカの花

 冒頭は、美女の体の各部を自然の景物になぞらえながら定石通り神を讃えている。青睡蓮と蓮華が登場しますが、蓮、睡蓮、オニバス、オオオニバスはそれぞれ属を異にする植物らしい。文化史的には睡蓮と蓮はしばしば一緒くたに扱われてきた経緯があったのは前回、エジプトのロータスでご紹介しました。原初の湖の中から生まれたロータスは太陽神ラーともホルスとも考えられた。それが、バビロニアやペルシアを経由してインド入り、白蓮華太陽存在としての釈迦と結びついて法華経に結実するというのが松山仮説でしたね。今回は、この白蓮華としての釈尊、そして、それに対応する紅蓮華としての多宝如来がいかなる関係から説明されるのかを見ていきます。その前に阿耨達池 (あのくだっち/無熱悩池) に関わる賢治の小説からまず始めます。


原初の湖・阿耨達池 賢治と蓮華



花巻農学校時代の宮澤賢治 (1896-1933)

 宮澤賢治の作品『インドラの網』要約
于闐 (コータン) 大寺を砂から掘り出したという主人公は、風と草穂の底に倒れながら、ツェラ高原のコケモモのカーペットの上を歩く幻想に陥った。そこは気圏の上方、キンキン痛む空気の中、はるか向こうには、ソーダの結晶のような (無熱悩池の) 白い湖が見える。その水は彼の手の中で青白く燐光を発している。眼を覚ますと夜になっていた。その桔梗色に底光りする空間に素敵に灼きつけられ、研かれた鋼鉄製の天の野原に銀河の水は音もなく流れ、鋼玉の小砂利も光り、岸の砂も一粒ずつ数えられたのです。ツェラ高原の過冷却湖畔も天の銀河の一部と思われるほどでした。瞳を高原に転じると三人の天の子供らが見える。于闐大寺の壁画の中の三人の子供たちだった。


 三人が向こうを向くと、瓔珞 (ようらく) は黄や橙や緑の針のような短い光を射し、羅 (うすもの) は虹のようにひるがえる。そして、その燃え立った白金の空、湖の向うの鶯色の原の果てから溶けたような、なまめかしく古びた黄金、反射炉の中の朱のような一きれの光るものが現われました。天の子供らはまっすぐに立ってそっちへ合掌した。それは太陽でした。厳かにそのあやしい円い熔けたような体で正しく空に昇った太陽の光は、針や束になって注ぎ、そこらいちめんかちかち鳴りました。天の子供らは夢中になってはねあがり、まっ青な寂静印の湖の岸の硅砂 (けいしゃ) の上をかけまわりました。そして、いきなり彼にぶつかり、びっくりして飛びのきながら一人が空を指さして叫びました。

 「ごらん、そら、インドラの網を。」彼は空を見た。いまはすっかり青空に変ったその天頂から四方の青白い天末まで一面張られたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛の糸より細く、その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金で、青く幾億互いに交錯し、光って顫 (ふる) へて燃えました。

 「ごらん、そら、風の太鼓。」もう一人も言いました。ほんとうに空のところどころマイナスの太陽ともいうように暗く藍や黄金や緑や灰色に光り、空から陥こんだようになり、誰も敲 (たたか) ないのに、ちからいっぱい鳴っている、百千のその天の太鼓は鳴っていながら、それで少しも鳴っていなかったのです‥‥。

 ぼくは、この頃の小説とかあまり読まないので、よく分からないけれど、これほどゴージャスな表現は最近の作品にあるんだろうか ? 湖と太陽が見事に関係づけられているでしょう。そして、この話にはインドラの網が登場する。華厳経の中にある宇宙的構造物ですね。この小説『インドラの網』については、松山さんの賢治にたいする評論があるので、少しご紹介しましょう。


象に乗るインドラ像 14世紀 ドラサムドラ インド


 前回 part1 でご紹介した賢治の詩『阿那婆達多池幻想曲』では仏教色を盛り込もうとしていささか伝承との齟齬が生まれているけれど、この『インドラの網』では阿耨達池 (あのくだっち) をとりまく風土を清新な宇宙的ヴィジョンにまとめ上げている。ヒンドゥー神話では、銀河は「天のガンジス河」であり、中空を落下すると「シヴァ神の結髪」に受けとられる。賢治の作品では天の原に流れ、ツェラ高原の過冷却湖畔も銀河の一部となって天地が抱擁する壮大な光景になっている。人間世界のツェラ高原から天の空間にふっと紛れ込んだかのような感覚となる。そして、インドラの網は、須弥山上のインドラ神の庭園を蔽うもので、「結び目の宝珠」の映発し合う目くるめく光景は、賢治の作品におけるスペクトル製の網という卓抜した表現に活かされているとしています。


華厳経 須弥山と仏教世界 タンカ 19世紀 ブータン


 しかし、松山さんは、一つだけ遺憾なことがあるとして、苦言を呈している。それは、阿耨達池 (あのくだっち) の本質が『法華経』の中核である「見宝搭品~提婆達多品」の秘匿された根底をなしているという重大事を賢治が知らなかったことだとしている。しかし、これは言いがかりに近い。というのもこの仮説は松山さん独自のものと言って良いからです。それでは、彼の言う『法華経』におけるこの中核とは何か? それを探っていきましょう。


サッダルマ・ブンダリーカと正法


―― 舎利弗よ、極楽浄土には七宝の池あり、池中の蓮華、大きさ車輪の如し。(『浄土三部経』)

 無熱悩池があるウダヤ山 (日が昇る山) の頂上に湖があって、正午に蓮華が、その湖 (池) の中から伸びて日輪を支える話が13世紀に成立したインドの物語に登場することは前回ご紹介しました蓮華と世界創造神話とのつながりは、かなり古く、世界は蓮の花の上に展開される

 釈迦と蓮華についての逸話は幾つかあって、例えば、ラリタヴィスタラ (普曜経/方広大荘厳経 )では、釈迦が摩耶夫人の胎内に入る際に、六百八十万由旬 (5千万から1億キロ) もの深い地下の水から、大蓮華が大地を破って出現し、梵天界にまで伸びて、その花にオージョービンドゥというソーマのような蓮華の蜜が生じて、梵天が菩薩であった釈迦に献じるという話になっている。また、こちらの方が有名だけれども、摩耶夫人は蓮華を携えた6本の牙を持つ象が体内に入るのを夢に見て懐妊し、釈迦は夫人の右脇から生まれた。生まれると7つの蓮華の上を歩いて「天上天下唯我独尊」と語ったというのは有名な話。


仏陀の誕生 ガンダーラ 2-3世紀 ベルリン民族博物館 


 法華経に関する疑問が幾つか松山さんにはあった。まず、原題『サッダルマ・ブンダリーカ』は直訳すると「正法白蓮華」になる。しかし、法華経に経題以外のブンダリーカは、たったの一回しか、それもどうでもいいような登場の仕方しかしてない。それに、阿那婆達多 (あなばだった/アナヴァタプタ) 龍王の名には言及があるが無熱悩池には触れられていない。多宝如来に対応するはずの蓮華上仏についても触れられていない。

 こうなると、「正法白蓮華経」と経題をわざわざつけたのは何故だろうかということになる。「妙法蓮華経」と羅什が訳したのは白蓮華が軽く見られているからではないか。白蓮華にもっと別な意味があったのではないかと考えられるのです。一方で、法華経には詩の部分と散文の部分があって、この詩偈の方が古いと後に松山さんは考えるようになる。古い詩には手が付けられずにそのまま掲載された。松山さんの考えでは、詩偈での経題は「アグラ・ダルマ/最高の法」だと言う。アグラ・ダルマは「アグラ・ボディ/最高の悟り」を保証するものとなっている。この二つの言葉が重要になります。しかしながら、散文の方では『サッダルマ・ブンダリーカ』が全て経題として使われていると言います。


釈尊と白蓮華 多宝如来と紅蓮華



蓮の花 太陽存在としての白蓮華 (ブンダリーカ)

 コトは稲荷日宣氏から妙法蓮華は釈尊ではないかという話を聞いたことから始まるが、仏経学者の赤沼智善、西尾京雄両氏、そして本田義英氏らにも稲荷氏と同じような主張があることが後に分かるのだけれど、この時、松山さんはピンときた〈釈尊=白蓮華~太陽神ヴィシュヌ〉、〈多宝如来=紅蓮華~蓮女神の男性化〉の構図が浮かんだのです。

 part1 で見ていただいたヴィシュヌ神・ラクシュミー神と蓮華の関係、エジプト神話からアショーカ王の獅子柱頭の流れを考えると〈釈尊=白蓮華~太陽神≒ヴィシュヌ〉の関係は肯首しやすい。インドでは白蓮華=太陽とされている。問題は多宝如来と紅蓮華の繋がりでした。法華経の第11章「見宝塔品(けんほうとうほん)」以降になると法華経にも、かなり思い切って新たな要素が取り入れられます。

 多宝如来は、その「見宝塔品(けんほうとうほん)」に登場する如来です。高さ五百由旬、 底辺の縦横二百五十由旬の大きさの宝玉で飾られた七宝の搭が地面から湧き上がって、空中に浮かぶというスペクタクルな登場をするのですが、その塔の中にいる。阿僧祇劫 (あそうぎこう/計りえない) の遠隔である宝浄の地にいた。かつて、その如来は、法華経が説かれた時には宝塔を出現させ「善哉/よきかな、善哉/よきかな」と讃えようと誓願をたてたとされている。


身延山 久遠寺 一塔両尊 釈迦仏と多宝如来 この下段に日蓮像がある。


 この地面から湧出する力に、松山さんは女性性、大地のコントロールされない力を見ている。あのヴィシュヌの対偶神にされる以前の大地母女神としてのラクシュミーですね。多宝如来の原名は「プラブータ・ラトナ」で「夥しい宝 (蓮の実) を持ったもの」でした。つまり、出現した宝なのです。赤い蓮が「大地の力」なら、白い蓮は「天的な力」だという分けです。太陽はメソポタミア以来の法輪でインドでは白蓮華となり、エジプトでは睡蓮だったものが、ちょっと系統は違うけれどメソポタミアの生命の木となり、インドの赤い蓮華となったと松山さんは言うんですね (『FUKUJIN No.15』)。


授記文学としての法華経


 法華経の後半 (本門) の最初である第14章「従地涌出品(じゅうじゆじゅつほん)」では、娑婆世界には法華経を弘めてくれる無数の菩薩たちがいるという釈迦の言葉と同時に、大地に無数の割れ目が生じ、上行菩薩ら多数の菩薩たちが現れる。無量の寿命を持つ久遠本仏としての釈迦に教化された本化の菩薩達でした。水に付着されることのない蓮華に例えられている。梵文では、この蓮は白蓮ではなく紅蓮華/パドマなのです。パドマは釈尊に教化されるべき人々でもある。

『法華経』「提婆達多品第十二」 メトロポリタン美術館

『法華経』「提婆達多品第十二」 メトロポリタン美術館 12世紀
右側の洞窟に阿私仙人、下中央に宝珠を捧げ持つ龍女   
山本ひろ子さんの『変成譜/へんじょうふ』によれば、龍女と弁財天、すなわちサラスヴァティーは、真言密教で一体であると考えられていたという(『真言秘奥抄』)。


 先述の雑誌『FUKUJIN No.15』の特集「松山俊太郎 世界文学としての法華経」は松山さんの晩年に組まれた対談で、その頃の松山さんの法華経にたいする考えがよく分かる。その中で、法華経二十八品のうち 第2章 方便品(ほうべんぼん)から第7章 化城喩品(けじょうゆほん)までは、ほぼ一貫していると松山さんは言う。法華経の構造上では始めの方がしっかりしている。そこでは経題をアグラ・ダルマとされていると考えた方がいい。こう考えるとアグラ・ダルマという題名であった頃の法華経は、お弟子に「お前は将来如来になるんだぞ」と言って如来のデータを沢山授けると言う「授記文学」となっていると言います。


紅蓮華 (パドマ)

 だから、声聞で如来になれない舎利弗は華光如来になれる。その後、沢山の如来が現れる。それには、ちゃんとその根拠が示されなくちゃならない。それが大地から湧出する紅蓮華/パドマとしての力を示す多宝如来、ひいては「見宝塔品」だったという分けです。その白蓮華=太陽と多宝如来=紅蓮華との関係には裏のシンボリズムがあった。それが、ラクシュミー=蓮華とヴィシュヌ=太陽なのですね。そのことが秘められていることによって、この説は、インド文化圏の大衆に受け入れやすいものになったという分けです。これは編集の裏技というやつでしょうか。それに、インドは古い考えを保存しなから新しいものを付けくわえるという特性がある。新しいものの下には重層的に古いものがあるという分けです。


法華経変相図 「観世音菩薩普門品」 菅原光重 画 13世紀 


 誰でも如来になれるというテーゼは、法華経の第12章「提婆達多品(だいばだったほん)」に語られる「龍女成仏」において強打される。人間でもなくても女性でも覚れるという法華経の速やかな功徳が闡明にされるのです。八大龍王の中でも阿那婆達多 (アナバダッタ) 龍王ではなく、龍宮の娑伽羅 (サーガラ) 龍王の娘である善女竜王が主人公となっている。これは、「見宝塔品(けんほうとうほん)」で、宝搭が霊鷲山の上方に浮かび上がったのだけれど、釈迦が説法しているヒマラヤの南東にあたる霊鷲山よりも無熱悩池が北にあり、それより高い所にある設定になってしまう。無熱悩池を登場させるのは迫力が削がれるのでしょうね。それで、娑伽羅龍王の八歳の娘を設定したと松山さんは考えた。釈迦が説法している霊鷲山は、世界の中心でなければならないからです。


沙掲羅龍王の三女、善女龍王 長谷川等伯 安土桃山時代


仏教における法華経の位置


 法華経で強調される「善巧方便」という言葉は北伝では初期の般若心経まで遡る。しかし、般若心経には「善巧方便」の説明がほとんどなく、あっても菩薩の「善巧方便」となっている。これに対して、法華経では如来の「善巧方便」となっていて、如来と菩薩の差はじつは巨大だという。そして松山さんは言う。般若心経では如来などいらないと言う立場に近い。法身仏のように原理化すると実際上の歴史的な如来は不要になる。一方で浄土経では、ひたすら如来に頼ればいいと言うことになっている。前者は全部自力で後者は全部他力となっている。

 法華経は、その中間で如来・仏陀は皆を最高の覚りまで、如来になれるまで導くという目的でこの世界に現れた。だから誰でも如来になれる可能性があるという分けです。しかし、衆生の側にもある心構えが必要だと言う。それが「信解」、つまり、「こころざし」です。それは、ただ法華経を信じるのではなく理性を持って理解するということなのです。


法華曼荼羅 唐招提寺


 そして、驚くべきことですが、法華経は大乗では
ないと松山さんは言う。大乗 (マハーヤーナ) は般若経が作り出した概念であって、法華経は般若経を認めてはいるが、一方で、その後に小乗 (ヒーナヤーナ) という言葉を作り出したのは法華経である。しかし、マハーヤーナに対応する言葉はクシュドラヤーナ (小さな乗り物) であってヒーナヤーナ (劣った乗り物) ではない。ヒーナヤーナに対応するのはウダーラヤーナ (卓越した乗り物) であるけれど、法華経のなかではブッダヤーナ (仏乗) などの言葉の方が重要だったと言います。それゆえ、法華経とは仏乗の最高の法ということになる分けですが、それを羅什は他の経との関係に配慮して、かなりマイルドに訳した。


「世界文学としての法華経」


 事実を叙述するという能力では中国が一等勝っているけれど、架空のことを想像すると言う意味ではかなり劣っている。法華経はあり得ないことと当時のインドでは必要とされたことを厳密につなぎ合わせている。時代の古さと中身の濃さ、その天才性 (それも二人以上の) とでもっと文学として注目されていいと松山さんは力説する。それに羅什の漢訳は、梵語のものよりもより格調が高くなっている。そのようなものは、世界文学になっていいというのです。

 松山さんは、法華経を信者さんでもなく、学者さんでもない、普通の人でも読める、法華経の存在さえ知らない人でも読める『法華経』というものが出来てほしいと考えていた。それが日本人親しめるようになるまで100年、それが世界に広がるまで、また100年かかるでしょうとおっしゃる。法華経=世界文学。おおっ! それは耳で聞けば分かる法華経でなければなりません。松山さん亡き後、そのように分かりにくい所を誰にでもわかる法華経に書ける人は誰なんでしょうね ?


法華経変相図 「観音経」 菅原光重 画 13世紀 

法華経変相図 「観世音菩薩普門品」 菅原光重 画 13世紀 


大きな蓮華の蕾


 このような経緯で『法華経』の真のタイトル「正法白蓮華」から白蓮華とは釈迦だ、そして多宝如来は紅蓮華だという仮説を松山さんは説いてきた。しかし、これは、多宝如来と紅蓮華、そして、『Agra-dharma/最高の法』と法華経の直接の関係を示す新しい証拠でも発見されない限り証明することは難しい仮説だったのかもしれない。逆に否定できるような反証の可能性もなかった。それは、松山さん自身が良く分かっていた。だから、終生、この仮説を含めた体系を打ち立てようとはされなかったのかもしれない。少なくとも、その理由の一つにはなっていたのかもしれませんね。しかし、彼の人生観からすると、ただ、面倒だったという可能性もなくはない。

 松山さんには『綺想礼賛』の中で、宮澤賢治について書いた文章である「宮澤賢治と阿那婆達多池 覚書」の中で奇しくもこのように述べている。それは私たちの松山さんへの思いでもある。「〈新・法華法門〉の創造への、賢治の精進の跡をたどるにつけ、『ひらかぬままにさえぎり芳り/つひにひらかず水にこぼれる/巨きな花の蕾がある』ことを、惜しまずにはいられない。」


本稿は、2021年8月末から9月初旬に公開した二編を再編集しています。


付 『妙法蓮華経二十八品』一覧


前半14品(迹門)
第1:序品(じょほん)
第2:方便品(ほうべんぼん)
第3:譬喩品(ひゆほん)
第4:信解品(しんげほん)
第5:薬草喩品(やくそうゆほん)
第6:授記品(じゅきほん)
第7:化城喩品(けじょうゆほん)
第8:五百弟子受記品(ごひゃくでしじゅきほん)
第9:授学無学人記品(じゅがくむがくにんきほん)
第10:法師品(ほっしほん)
第11:見宝塔品(けんほうとうほん)
第12:提婆達多品(だいばだったほん)
第13:勧持品(かんじほん)
第14:安楽行品(あんらくぎょうほん)
後半14品(本門)
第15:従地湧出品(じゅうじゆじゅつほん)
第16:如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)
第17:分別功徳品(ふんべつくどくほん)
第18:随喜功徳品(ずいきくどくほん)
第19:法師功徳品(ほっしくどくほん)
第20:常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)
第21:如来神力品(にょらいじんりきほん)
第22:嘱累品(ぞくるいほん)
第23:薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)
第24:妙音菩薩品(みょうおんぼさつほん)
第25:観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)(観音経)
第26:陀羅尼品(だらにほん)
第27:妙荘厳王本事品(みょうしょうごんのうほんじほん)
第28:普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼつほん)
その他の追加部分
第29:廣量天地品(こうりょうてんちぼん)
第30:馬明菩薩品(めみょうぼさつぼん)

夜稿百話

松山俊太郎 著作

『松山俊太郎 蓮の宇宙』

『松山俊太郎 蓮の宇宙』安藤礼二 編 細江英公 写真

松山俊太郎『インドのエロス』

松山俊太郎『インドのエロス』

松山俊太郎『綺想礼賛』

松山俊太郎『綺想礼賛』
谷崎潤一郎、宮澤賢治、小栗虫太郎、稲垣足穂らの作家論が集められている。


松山俊太郎『インドを語る』

参考図書

『FUKUJIN 特集 松山俊太郎 世界文学としての法華経』 

『FUKUJIN 特集 松山俊太郎 世界文学としての法華経』 表紙は松山さんを装う南伸坊 2011年刊


山本ひろ子『変成譜 中世神仏習合の世界』

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