
四方田犬彦『テロルと映画』
ほぼ映画に無知な僕が映画に関する本を書くのは、ちょっと恐れおおいのだけれど今回の夜稿百話は四方田犬彦さんの『テロルと映画』を取り上げました。本書はテロリスムが常に映像メディアを媒介にしてスペクタクル、つまり匿名の観客を前にして演じられる〈見世物〉という形態をとるという前提で語られている。『ダイ・ハード』のような興行収益のためのアクション主体のテロリスム映画、『天国への長い道』のような過激派テロへの理解と克服をテーマとする映画、『カルロス』のようにテロリストの自己顕示という内面の欲望に焦点を当てた映画、『パラダイス・ナウ』のようなテロが実際に起こっている地域で制作された映画、こういった映画の世界が次々に俎上に上がっていく。
筆者 四方田犬彦
四方田 (よもた) さんと言えば何故、犬彦 (いぬひこ) なんだとたいていの人は思うだろう。どうも二説あって雑誌に丈彦の名で投稿したら犬彦と誤植された。もう一つはロカビリーミュージシャンのカール・パーキンスの曲『マッチボックス』にある “I’ll be a little dog till your big dog come.” に由来するという説であるが、どちらにしても未だに犬彦という名を使っておられる。
1953年大阪府のお生まれ。東京大学文学部で宗教学を、同大学院博士課程で比較文学を学ばれた。研究分野は映画史、漫画論、言語表現と映像、音声、料理と多岐にわたっている。『映画史への招待』でサントリー学芸賞、『ソウルの風景―記憶と変貌』で日本エッセイスト・クラブ賞、『白土三平論』で日本児童文学学会特別賞、『ルイス・ブニュエル』で芸術選奨文部科学大臣賞、『詩の約束』で鮎川信夫賞を受賞されているから守備範囲は随分広い。
明治学院大学で長らく教鞭を執られたが、コロンビア大学、ボローニャ大学、テルアヴィヴ大学、精華大学などで客員教授・研究員を務められた。僕にとって重要なのはゴダールの映画に登場したパレスチナの詩人マフムード・ダルウィーシュ詩集の翻訳をされたことだった。パレスチナ問題は四方田さんがテルアヴィヴ大学で教えておられた体験やコソボ体験をもとに書かれた著書『見ることの塩』で知る所が大きかったけれど、それは、僕が初めて読んだ四方田さんの著作でもあった。
テロリスム映画の展開
テロリスムは常にメディアにインパクトを与えようとし、それが出来た時、はじめて成功を収めると考えられている。メディアを通して全世界的規模で人々に脅威とネガティブな感情を押し付け体制に一矢報いるのである。1960年代のPLOによる一連のハイジャック事件、それに続くミュンヘン・オリンピックでの「黒い9月事件」は世界的な大きな注目を集めた。オリンピックは特大なショーケースとなったのである。
この「黒い9月」めぐる最後のそして最も不吉なフィルムはスティーブン・スピルバーグの『ミュンヘン』であるという。それは、この事件を契機にモサド (イスラエルの情報機関) の隊員たちが首相の指令を受けてパレスチナ解放機構に関わる要人を次々と暗殺していくもので、自分たちのメンバーが一人、また一人と失われていく中で国家のためという理想が歪められ、懐疑と精神錯乱に陥っていくというストーリーである。この映画の問題は、9.11の要因を29年前のミュンヘン事件であるように描いている点にあるという。それ以前の非合法的なイスラエル建国とパレスチナ人の受難が意図的に隠蔽されていると四方田さんはいうのである。
イタリアでは右派と左派双方の熾烈なテロリスムが展開されていて、レジスタンス時代から戦後に至る解放闘争と暴力が映画人にとって重要な問題だったし、とりわけ新左翼が嫌っていた詩人パゾリーニが惨殺され、「赤い旅団」が台頭した70年代以降その傾向は強まったという。マルコ・トゥリオ・ジョルダーノの『輝ける青春』では爆弾闘争で長らく獄中にいた女性と政府の要職にある男性との35年の長編メロドラマがヒットした。
ドイツではナチス・ドイツの記憶を引きずる状況でバーダー=マインホフ集団がドイツ赤軍へと変化していった。そんな中での告発映画が登場する。ライナー・ファスビンダ―がオムニバス映画『秋のドイツ』に参加する。ドイツ赤軍のメンバーが獄中で同時に自殺した事件に衝撃を受けたのである。
中国では第五世代を待つまでテロリスムを正視する作品は現れていないし韓国では植民地時代の日本に対して抵抗するテロリスト安重根の物語が何度も映画化されていた。日本映画では若松孝二の作品が第五章に詳しく書かれている。脚本を担当していた足立正生が日本赤軍のメンバーとなるなど過激派と接触を持ったことが彼に組織の内側に横たわる宿命としての背信と挫折を描かせることになる。特に『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』は当時のニュースの映像などを取り込んだもので安保闘争での樺美智子の死から、66年の重信房子と遠山美恵子との会話、赤軍派の誕生といった時系列で現実にあったことを再構成していく描写だった。
記憶の歪みとテロルの定義
テロリスムと映像の問題として、現実に起こったテロリスムの記録映画とテロリスムをテーマとしたフィクションとしての映像が、人間の記憶の中で簡単に混ざり合い、融けあってアマルガムを構成してしま事があるという。映画産業が生み出すテロルのイメージは決定的な影響力を持っている。テロルの映像がどのように描かれているかということと現実のテロルとの関係をしっかりと検証してみなければならない。
そして、テロリスムをどのように定義するかという問題も浮上する。テロリスムという言葉はイデオロギーや政治的立場、ジェンダーやエスニック的な立場によって振れ幅 (コノテーション) をもってしまう。シオニズム国家のイスラエルにとって自爆攻撃を仕掛けるパレスチナ人は典型的なテロリストであり、無差別攻撃を継続するイスラエルはパレスチナ人にとってテロ国家である。全斗煥大統領暗殺未遂事件であるラングーン事件を引き起こした北朝鮮は韓国にとってテロ国家であり、北朝鮮とキューバはアメリカこそ世界的なテロ国家だとしている。アメリカのテロについては第79話 ノーム・チョムスキーに書いておいた。
したがって、問題なのは「ある事態なり人物、組織がテロリスムであると呼ばれるとき、それを命名しているのは誰なのか」「テロリスムを解釈しているのが誰なのか」を問わなければならないと四方田さんは強調する。イスラエル生まれのエリア・スレイマンは『殺人というオマージュ』という作品の中で、パレスチナのために全く無力な自分 (監督本人が演じている) を嘆き、こうコンピューターに言葉を打ち込む。「‥‥ものを、すべてものをテロリスムと呼んでやろう。人々を、多くの人々を、誰も彼もテロリストだと呼んでやろう。ぼくたちがもう一度、人々になれる時が来るまで。ぼくたちがもう一度、テロリストになれる時がくるまで。」この言葉は、字ずら以上に複雑な意味を持っている。
ベンヤミンの悲嘆と哀悼的想起
最終章はベンヤミンの『パッサージュ論』の一節がキーワードになっている。それは歴史的に起こってしまった事や取り返しのつかなくなってしまった過去は修復できるのかという問いに関わる。
科学が「確認」したことを、哀悼的に想起することはができる。哀悼的想起は未完結なもの (幸福) を完結したものに、完結したもの (苦悩) を未完結なものに変えることができるのである。 ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』
ベンヤミンの哀悼的想起は、常に二つの相反する力が牽引しているという。記念碑を建て、犠牲者の名を冠して町や通りの名にするといったことやアカデミズムにおいても制度的に名を与えられ分類されることによって過去を制度的に完結する方法がある。それとは鋭く対立する形で哀悼的想起はあるという。四方田さんは哀悼的想起を組織することが映画の役割だと述べているが、それは「技術」が集団的身体を可能にするという事だった (ベンヤミン『シュルレアリスム』) 。とりわけ、観衆はスクリーンに向かって一つの共同体、一つの集団的身体となりうるからである。
映画はテロリスムを食い止められるか
映像がテロリスムの防止や抑制に寄与できる可能性としての三つのケースが挙げられている。
●一 映画を事後性そのものの現れとして差し出すこと。
●二 フィルムの内側で和解と寛容の物語を提示して観客のメロドラマ的な想像力に訴えること。
●三 映画がスペクタクルを回避、あるいは、その方向に向かうこと。
事後性とは、既に起こったテロ事件を完結したとは見なさず、その残響の中で、テロの当事者、犠牲者、それぞれの家族や友人を描くことによって事件の余波の中に我々もいるという事実を映像として差し出すことだという。ドイツ赤軍だった獄中の妹に拒絶されながら心を通わせていく姉、そして妹の自殺を知った姉が妹の娘に語り始めるクライマックス へと向かう映画が マルガレーテ・フォン・トロッタの『鉛の時代』だった。

マルガレーテ・フォン・トロッタ
(1942-)
『ハンナ・アーレント』の監督として知られる。
和解と寛容の物語の例としてアッバス・キアロスタミと共にイラン映画のニューウェイブを代表する映画監督モフセン・マフマルバフの作品が紹介される。マフマルバフは警察署を襲撃し武器を奪って銀行襲撃に加わったが17歳で逮捕された経験を持つテロリストだったが、釈放後映画監督となった異色の人だった。

モフセン・マフマルバフ (1957-)
イランから亡命後に制作した『プレジデント』は、反政府ゲリラを弾圧した中東のある独裁国の大統領がクーデター後に幼い孫を連れて逃亡の旅を続けるのだが途中、かつての政治犯の一行と道中を共にするというストーリーで、その政治犯の一人が、かつて自分の息子を殺したテロリストであることを知って怒りにかられる。だが、この殺人者が不自由な足を引きずって愛する妻のもとに向かう姿が憎悪の炎を消すのである。人を許すという気持にさせた。一方で、かつての大統領であることが発覚し、民衆によって私刑に会う寸前、今度はその政治犯が、おまえたちが政治独裁者になる番なのかとその制裁を止めるのである。
スペクタクルの廃絶は先の二種類の映画とは大きく異なるもので、現時点 (2015年) で実践された例はないという。その傾向が、かろうじて見られるのはジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユレイの『モーゼとアロン』、そしてタル・ベーラの『ニーチェの馬』の夫々の終末部だという。

タル・ベーラ(1955–)
『ニーチェの馬』の終結部は、農夫とその娘が煮えてないジャガイモをそれぞれの木皿の上に置いてジッと俯くシーンが長く続いた後、闇の中に消えていく。荷馬車の馬は飼い葉も食べず水も飲もうとしないし井戸の水も枯れた。二人で家を出ようとしたが途中で戻らざるを得なくなった。人間の極限状態が映画の極限状態と重なっているが、四方田さんは映像の廃棄が完璧には為されていないという。その試みは、ナーガルージュナの帰謬論証のように「ああでもない」「こうでもない」と否定の果てに永遠に到達し得ない無限遠に向かって実験的思考錯誤を開始することだという。これは映画の未来の課題だというのである。
映画監督たちの誠意
本書の執筆の契機となったのは2004年に文化庁の派遣で、イスラエル/パレスチナとコソボでの滞在での体験だった。パレスチナでの自爆攻撃へ巻き込まれることへの警戒、狂信的なユダヤ人によって乱射されたモスクの壁、コソボの破壊された墓と燃え崩れた家々はテロリスムにたいする恐怖とその対策としての国家による監視による強い閉塞感を生み出していた。地上のどこに住もうと、我々は潜在的に犠牲者であり服喪者であるという。本書はテロリスムを見つめ、その克服と解決を真剣に試行錯誤した映画監督たちの航跡を辿ることだったというのである。
映画が、あるいは芸術がと言ってもいいが、テロや暴力を止められるのかと思う人も少なからずいるだろう。しかし、シリアの諺には「壁に泥を投げれは、跡くらいはつく」といのがあるらしい。泥をいろんな人間が投げ続けて、その跡が一つの形を現わすかもしれない。その投げ続ける試みを卓抜な映画監督たちはやり続けていた。何もしないことはテロや暴力を黙認することなのである。


四方田犬彦『ルイス・ブニュエル』
本書は映画監督として名高いルイス・ブニュエルの本格的な評伝である。ブニュエルと言えば多くの人は『アンダルシアの犬』を見て冒頭付近からのけぞったに違いないのではないだろうか。男が剃刀を研ぐシーンから月へ、扁平な雲が月を過ぎると、剃刀の刃が女の目を横切り、目の液奬が漏れ出る‥‥これぞシュルレアリスム映画の白眉と思ったのはサルバドール・ダリとの共同監督であったと知った後の事で、見た時にはショックと共に鳥肌が立った。

ルイス・ブニュエル + サルバトール・ダリ『アンダルシアの犬』より
ブニュエルの父親は独立以前のキューバで兵役に就き除隊後、輸入雑貨から兵器まで扱う商店を経営し、ひと財産を得て、故郷のスペインはアラゴン地方のカラダンという小村に戻った。43歳だった。そこで18歳の娘を娶り新婚旅行はパリの地を選んだ。泊まったのはパリのパサージュの一つジュフロワ通りにあるホテル・ロンスレだったという。パサージュとシュルレアリスムとの関係ですか ? 「シュルレアリスムの父はダダであり母はパサージュだ」とベンヤンは述べている (『パッサージュ論』) 。彼らの会合の場はパサージュ・ド・ロペラにあったカフェだった。

カランダ村で生まれたブニュエルは、マドリッドでの学生時代にガルシア・ロルカとサルバドール・ダリと友人となり、シネクラブを創設した。当時心酔していたのはバスター・キートンの映画で、その非心理主義と身ぶりのナンセンスが新たな映画への道を開くように思えた。1925年にパリに出るブニュエルは25歳、母はパリで知る唯一のホテルの名を教えた。母国の哲学者ウナムーノがよく訪れるカフェに足繫く通い、その哲学者や留学生との知己を得、カルチェ・ラタンの小部屋へと移った。『アンダルシアの犬』の発端はダリの故郷カタロニアのフィゲラスで、二人が毎朝、互いの夢を告白しあうというプロセスから生まれたという。それから4年後の1929年、『アンダルシアの犬』は、短期間の内にパリで撮影され、マン・レイの厚意で小ホールで上映され、シュルレアリストたちを沸かせ、何よりも気難しいブルトンの称賛を得る。ダリはフィルムが公開されていた時期に初めての個展を開催し、シュルレアリスムのスター的存在になっていった。ブニュエルには前衛芸術が標的としていたブルジョワ趣味とカトリック教権への嫌悪を懐刀に悪意とも言える辛辣で不可解なイメージを連打していく。浜辺で日光浴する女の腋毛とウニ、道に落ちた手首を愛おしそうに胸の箱に入れる美少女、ドアから出た手にたかるアリたち、女の胸をまさぐって発情する男は逃げ惑う女に迫っていくが、なんと腐敗したロバを載せたグランドピアノを引っ張らなければならず、それには神学生二人が縛られて引きずられていく。非連続なシーンは意味をない交ぜにし、詩的魔術ともいうべきイメージが形成されていくのであった。

ルイス・ブニュエル(1900-1983) 1929 マン・レイ 撮影
ブリュエルは1970年代のヨーロッパをテロルの匂いのする社会として描いてきた。『ブルジョアジーの秘かな愉しみ』、『自由の幻想』、『欲望のあいまいな対象』といった作品である。彼は『ペシミズム』というエッセイの中で、こう書いているという。「もしもわたしが最後の一本を制作しなければならないとすれば、科学とテロリスムの共犯関係に関するものになるだろう。テロリスムのさまざまな動機は理解できるが、わたしは全面的に反対である。まったく何も解決しない。右翼と弾圧を助長するだけだ(四方田犬彦訳)。」

四方田犬彦『詩の約束』
朗誦する、記憶する、呪う、外国語で書く、剽窃するなど18章にわたって詩のとてもレアな事柄について書かれたエッセイで、詩に興味を持たない人でもなかなか面白いと思わせる内容となっている。〈呪う〉では西条八十の処女詩集『砂金』にある作品「トミノの地獄」が紹介されている。贅を尽くしたオブジェや珍奇な花や鳥のわきに毒々しいグロテスクな形象が取り合わされている作品という。「姉は血を吐く、妹は火を吐く、可愛いトミノは宝玉 (たま) を吐く。」で始まる確かに奇妙な詩であるが、寺山修司が『絵本千夜一夜物語』で言及したのが最初らしい。この2年後の萩原朔太郎の『月に吠える』に掲載された「冬」もまた呪詛の歌であるという。
〈剽窃する〉では四元康祐の小説『偽詩人の世にも奇妙な栄光』を枕に剽窃問題が俎上に上がる。日本の作家が、ルーマニアの詩人の作品を改造して評価を得た。しかし、そのルーマニアの作家がノーベル文学賞を得て剽窃が明るみに出て制裁を受けるが、そのルーマニアの作家自身が万葉集を剽窃していたという作品である。ここから寺山修司が他人の俳句を短歌に作り変えていたという非難から戯曲の世界へ躍進していく様子が述べられる。ここに本歌取りという問題が浮かび上がってくるのだが、紹介しているときりがないのでここまでにしておく。

四方田犬彦『見ることの塩』
本書については第52話 エドワード・W・サイード『オスロからイラクへ』ナクバは続いている で、わりと紹介しているのでそちらをお読みいただきたい。

マフムード・ダルウィーシュ『ダルウィーシュ詩集』四方田犬彦 訳
ダルウィーシュは1941年に当時イギリス統治下であったパレスチナ北部アッコの近郊ビルウェに生まれた。7歳の時にイスラエルという国が生まれ、イスラエルの軍事組織が彼の村を襲い占拠した。一家はレバノンに1年ほど逃れたが、戻ってみると、その村は徹底的に破壊され、アラブ系住民は皆無で村の痕跡は跡形もなかった。イスラエルの小学校の来賓の前で詩を読んだ。こんな詩だった。「きみは太陽のしたで好きなだけ遊べるし、おもちゃだって持っているのに、ぼくには何もない。君には家があるけど、ぼくにはそれもない。きみにはお祝いがあるけれど、ぼくにはない。何故一緒に遊んじゃいけないのだろう ? 」イスラエル軍の人間に呼ばれ、そんな詩をつくるとお父さんの仕事は無くなるよと脅かされた。その後の彼は、詩を朗読するたびに投獄されることになる。高校卒業後1960年にハイファで共産党の新聞の編集と翻訳に関わることになる。『オリーブの樹』など三篇の詩集を発表している。投獄や家宅捜査、官憲からの嫌がらせからモスクワに留学、1971年にはカイロに亡命している。ベイルートに拠点のある季刊文芸誌『アル・カルメル』を創刊し、詩作は爆発的に進行した。イスラエル軍によるベイルート空爆によって、さらにパリに亡命することになる。散文の作品『忘却のための記憶』は1982年のイスラエル軍のベイルート占領の様子を8月6日のヒロシマから書き起こした壮大な記録といわれている。1983年にはレーニン平和賞を受けた。PLOの執行委員ともなっていたが1993年のオスロ合意に疑念をいだいた彼はPLOから距離を取るようになった。1995年にヨルダン川西岸のラマッラーに転居、翌年に長編詩『壁に描く』が刊行される。2004年には、サミエル・アブダラーとホセ・レイネスのドキュメンタリー映画『前衛の作家たち』とゴダールの『われらの音楽/邦題 アワーミュージック』に出演している。2008年8月、心臓疾患とその合併症のために亡くなっている。

哀悼的想起についての記述はベンヤミン著『パサージュ論3』「夢の街と夢の家、未来の夢、‥‥」にある。
「歴史学の新たな弁証法的方法とは、我々が『かつてあったもの』と呼ぶ夢が実際には関係づけられている目覚めの世界として現在を経験するための技法なのである。『かつてあったもの』を夢の想起において経験すること ! ――してみれば、想起と目覚めは極めて密接な関係にある。つまり目覚めこそは、哀悼的想起の弁証法的転換であり、そのコペルニクス的転回なのである。(今村仁司 他訳)」

ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『時間の前で』
美術史家のディディ=ユベルマンはベンヤミンの歴史的イメージについてこう述べている。人間の中の残存するイメージが、現在において構造化され、過去が歪んだ形で突発に再生され、時間は、時計がそれぞれの部品に分解されるように解体される。その再生は渦のようにギクシャクとして歪んだ映像の不連続性を際立たせる。連続性の幻影は打ち破られ、映画におけるモンタージュのようなものになり、おまけにその映像は不可解なものなのである。それは解体を前提にしたモンタージュ、1秒24コマのモナドから成る映画のようなものなのだ。そこでは、過去へと逆戻りし、埋もれた過去を想起し、同時にそれらを再構成するが、首尾一貫したストーリーを持たない。「歴史は解体されてイメージになるが、物語になるわけではない (『19世紀の首都、パリ』)」とベンヤミンは言うのである。


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