
『百鬼夜行絵巻』 室町時代 大徳寺真珠庵
夜稿百話は、いよいよ百話を迎えたので、やはり取り上げる本は『百物語』しか無かろうという単純な発想ですが、この話は面白い。元々夜稿百話のタイトルは「百鬼夜行」から採っています。という分けで今回は色々な『百鬼夜行絵巻』の著作や百物語を取り上げて、百回記念といたしたいと思います。
柳田国男 妖怪談義

柳田國雄全集20
幽霊と妖怪とは違うんだよという話から始まる。これは民俗学的見地からの資料収集に基づくもので小説や戯曲の話ではないのをご考慮願いたい。
● 第一に、妖怪・オバケは出る場所が決まっていて、そこを避ければ一生会わずに済ますこともできた。幽霊の方は足が無いのに向こうからやって来る。それに狙われれば百里先に逃げても追いかけられると言う。バケモノには、それはない。
● 第二に、バケモノは不特定多数のたいていは平凡な人たちに関わろうとするが、幽霊は、たいてい、これぞ恨み骨髄という人間をターゲットにする。平生殊勝な心掛けの人間は安心して良いらしい。
● 第三に幽霊は、基本的に草木も眠る丑三つ時の陰に籠った鐘の鳴る時刻に物影や障子の後ろなどに現れる。人の寝静まった頃が活動時間だから夜行性で、芝居などによってはヒュードロドロなどと登場曲つきで表現されたりする。バケモノの方は殆ど随時と言う感じで、器量のあるのになると真昼間にあたりを暗く変じて登場する。好都合なのは宵や暁の薄明の時期だという。夕方に出る幽霊など聞いたことがないのである。
この夕方を世に「大禍時 (おおまがどき) 」と呼ぶ。昼と夜の境には良くないことが起きると信じられていた。古くは「誰そ彼 (たそかれ) 時」とか「彼は誰 (かはたれ) 」と言っていた。街路灯のない時代には「あれは誰」だか見分けがつかなかったからだろう。面白いのは地方によって色々な呼び名があり、マジマジゴロ (甲州) 、メソメソジブン (三河 )、タチアイ (加賀) 、その他にウソウソ、ケソケソとかも言うらしい。また、マグレというのもあり「夕まぐれ」となるのだが「紛れ」に通じるのだろう。奇妙なこと、よくわからないこと、思いがけないことは境で起こる。
雀色時などという洒落た表現もあるのだが、かつて黄昏時に道で会えば互いに声をかけるのは並みの礼儀だけではなく自分がバケモノでないことの証であったと言う。それに母親たちが夕間暮れに子供達を家に帰すこと、他界に紛れてしまわないことへの心配は非常なものであった。ぼくの祖母たちの時代には確かにそうだったように思う。隠し神や隠れ婆、子取りなどへの恐怖は大きかった。だから夕方に子供たちのかくれんぼは厳禁だった。
今昔物語の怪
平安末期の12世紀には今昔物語が白河、鳥羽法皇の御代に成立する。ここでは本朝の怪異が多く紹介されている第27巻からいくつかご紹介する。
●巻27-3 かつて西宮の大臣が住んでいた桃園にある寝殿の母屋の柱に木の節穴があった。夜になるとその穴から小さな子どもの手が出てきて人を招く。大臣はその穴の上にお経を置いたり仏絵を掛けたりしたけれど効き目がなかった。そこで試しに戦時に用いる鋭い矢じりを持つ征箭 (そや) を差し入れておくと手招きが止んだ。それで、その鋭い矢じりを打ち込んだら、それっきり手は出てこなくなった。
●巻27-18 若い二人の侍が宿直する夜も更けたころ、東の台 (うてな) に板が現れた。人が放火のために差し出しているのか疑ったが七、八尺 (約210-240メートル) も伸びて来る。すると、ひらりと二人のもとに飛んで来た。二人が太刀を構えて待ち受けると格子のすきまから客間の方へ消えていった。客間に行ってみると刀も帯びないで安心しきって眠っていた五位が殺されていた。
●巻27-19 世に賢人の右大臣と呼ばれた小野宮右大臣が参内後に大宮大路を通りかかると小さな油瓶が踊っている。ある人家の門の鍵穴に何度も躍り上がっている内に鍵穴を通り抜けた。その後、家の者に何か不審なことは無かったかと聞かせに行かせると、その家には病がちの若い娘がいたがこの昼頃亡くなったと言う。大臣は、さても「あの油瓶は物の怪であったか。それが鍵穴から入って殺したのだろう」と述べたと言う。
●巻27-30 ある人が方違えのために下京の家に泊まったのだが、そこは霊のついている家だった。幼子たちは眠っていたが乳母は目覚めると幼子に乳を与えていた。すると身の丈五、六寸 (およそ15センチ) ほどの装束を着けた五位たちが出てきて枕元を通っていく。乳母は怖がりながらも打ちまき米を投げつけると消えていった。翌朝、枕元には血のついた打ちまき米が散らばっていたという。
●巻27-33 西ノ京の侍が危篤の母のために夜の大路を三条京極まで弟を呼びに出かけるのだが、会昌門の上に狐火のような青い光が現れ、ネズミの鳴くような声と甲高い笑い声が聞こえてきた。
中国の手の怪異
このように今昔物語においてかなりの化け物たちが登場し、狐火、座敷童、付喪神などが登場している。先にご紹介した巻27‐3話は柱の節穴から招く手の怪異だったが、5つの怪異を集めた『化物草紙』には、女が九条の荒屋敷で栗を食べていると囲炉裏から白い手が出て栗をくれという身ぶりをするから一つやると、また手を出す。何度か繰り返すと終わった。翌朝、囲炉裏を調べると古い杓子が落ちて挟まっていたという。ちなみに中国にも手の出る話があるので紹介しておきましょう。

話梅子『中国百物語』
浙江省・蕭山 (しょうざん) 出身の陳景初が天津から故郷に帰る途中、飢饉に見舞われ餓死者が数えきれないほどにもなった山東を通りかかった。泊まった寺では東西に脇部屋があり東側の部屋には30もの棺が積み上げられていたが西の部屋には一つしか置かれていない。夜更けに東の棺の中から黄色くしなびた手たちが伸びてきたが、西の棺のそれは白くむっちりした手だった。豪胆で知られた景初は、貧乏幽鬼の物乞いだなと言うと、しなびた手に一銭ずつ載せてやると手たちはすぐに引っ込んだ。しかし、白い手の方は百銭を載せてやっても満足せず一向に手を引っ込めない。厚かましいと思いながら錢を束ねた錢さしを二つ持たせると、やっと手を引っ込め始める。東の棺には餓死した某民と記されていて西の棺には某県の典史 (裁判官) と書かれてあった。役人の死体は欲深で一銭では満足しない、銭さしが蓋にぶつかって収まらず紐が切れて錢が床に散らばった。手は床をまさぐったが錢を拾うことは出来ず、景初はその手を払ってこう述べた。お前は生きている間は二さしの錢のために正義を曲げて無実の者を罪に陥れ錢を貯め込み、死んでもこんな醜態をさらすのかと。すると東の棺からため息がきこえてきたという。(話梅子『中国百話物語』76話「棺の中の手」出典:『諧鐸』清)
百鬼夜行絵巻とは何か

小松和彦『百鬼夜行絵巻の謎』
12世紀の院政期に成立した今昔物語から鎌倉時代には『北野天神絵巻』のマッスルな鬼たちが登場し、鎌倉末から南北朝あたりの14世紀には『土蜘蛛草紙絵巻』に五徳、角盥 (つのたらい) 、葛籠 (つづら)の姿の妖怪たちが現れ室町に入ると『百鬼夜行絵巻』が登場する。
百鬼夜行 (ひゃっきやごう) とは夜の大路を異形の者たちが群れて行列することをいう。擬人化され、デフォルメされた動物、貝類、虫たち、鬼、天狗、器物などの変化 (へんげ) たちが登場する。とりわけ器物の変化を描いた土佐光信筆と伝承される『百鬼夜行絵巻』は、その格調の高さと室町時代というこの絵巻が流布し始めたころの古い時代のもので、祖本の一つとして考えられてきた。しかし、一説にはもとの祖本から抜粋して整理した作品ではないかと言われている。
『百鬼夜行絵巻』というネーミングは江戸時代のもので『百鬼夜行図』でも、大雑把なら『妖怪絵巻』と呼んでもよいものだった。変化たちが夜の大路を群行すれば『百鬼夜行絵巻』なのか、妖怪たちが並んでいれば、そう呼ばれるのかあいまいな部分があるらしい。

『百鬼夜行絵図』摸本 江戸時代 東京国立博物館
器物の変化を描いた絵巻には『付喪神 (つくもがみ) 絵巻』と呼ばれるものがある。その詞書には、このように記されている。
立春に先立つ煤払いの時期には人家で古い器物が付喪神となって禍を成すと信じられていて、それらを捨てる習慣があった。所在不明の『陰陽雑記』に道具が百年を経ると化けて魂を得て人心をたぶらかすとあったらしい。康保 (こうほう/964-968) の頃、京都中の捨てられた器物が寄り集まって、多年の奉公にも拘わらず感謝もなく捨て去られたことを恨み、妖物となって人間に復讐を企てる。数珠の変化である一連上人だけが戒めたが聞き入られなかった。節分の夜、彼らは妖物に化けることに成功した。船岡山の長坂に陣取り、夜な夜な京の白河あたりで人畜を襲い酒池肉林にふけり、人の祭りを真似て変化大明神を祀り、四月五日には一条通りを東に向けて祭礼行列に繰り出す。

『付喪神絵巻』部分 江戸時代 摸本 国立国会図書館
ここに関白の行列と鉢合わせが起こるが、このことは後程述べたい。詞書のある別の『百鬼夜行絵巻』には、器物の擬人化について次の記述が残っている。ある人が、うたたねから目覚めると辺りは漆黒となっていて、そら恐ろしさを覚えていると調度や器物の類が話しているのが聞こえる。炭櫃の呼びかけで歌会が開かれることになり灯台、屏風、茶臼、水甕、脇息、机など合わせて二十の調度・器物が歌合せに興じるが夜明けとともに声が消えたとある。(小松和彦『百鬼夜行絵巻の謎』)
付喪神の深層
ここからは『百鬼夜行絵巻を読む』から田中貴子さんの『付喪神絵巻』についての考察から、ご紹介する。

田中貴子 他 『百鬼夜行絵巻を読む』
立春に先立って古い道具類を捨てる習慣は、百年経った道具の変化 (へんげ) たちからの禍を避けるためだったことは既に述べた。新年に新しく火を起し、水を汲み、衣装から家具に至るまで皆新しくすることは、富貴な家でなければなし得ないことではあったが、付喪神を避けるためであったと考えられるという。これには、ミルチャ・エリアーデのいう西アジアからの天地開闢の再生神話とも関係しているだろうが、ここでは省略する。
古文書の変化である古文先生曰く天地創造の頃人間も草木も形が無かったが、陰陽の気によって仮に万物が生まれた。我らが、もし陰陽の気に会えば必ずや物ではなく魂を得る存在と成れるという。節分は陰陽の反転し物が形を改める時期にあたる。我らも、その時造化の手に身を委ねれば、きっと化け物になれるとブチあげた。
吉野裕子さんによれば、冬を象徴するものは陰であり、節分は陰を押さえ、また殺して一気に春を迎えようとする。その節分の呪術のなかに登場するのが鬼であると言う。鬼物は隠れて形を顕すを欲せず、故に隠と呼ばれる。豆まきは陰を押さえる迎春呪術である。(『陰陽五行思想からみた日本の祭り』)
ともあれ百年を経た功を成し遂げた器物たちは節分の夜、身を虚にして造化の神に祈るとみごと変化し人間の男女、老翁、孤狼などの獣、魑魅魍魎の体を成したが人間には見えない隠の存在となった。これに気をよくした器物たちの中から、そもそも我が国は神道の国であって造化の神を崇めないのはおかしい、氏神として祀り祭礼を催せば安心立命、子孫繁栄は間違いないというわけである。
付喪神退散と成仏
さらに田中貴子さんの『百鬼夜行絵巻を読む』からご紹介する。付喪神たちと関白の行列との邂逅とその後について少し詳しくお伝えしておきたい。化け物たちと行き会った行列の先駆けたちは妖気にあてられ落馬して死ぬか倒れ伏してしまう。関白だけが慌てず御車から睨みつけると不思議にも尊勝陀羅尼のお守りから吹き出した無量の炎が化け物たちを襲ってなぎ倒した。
天皇の詔勅によって高徳の僧上が如法尊勝の法を行じて、六日目には清涼殿の上にギラギラと輝く光明が現れる。その中には七、八名の護法童子たちがいて、ある者は宝剣を持ちある者は宝棒を担いで、一斉に北に向かって飛び去って行った。虚空に転じる法輪は火焔となって化け物たちを責め立てる。護法童子は人を害さず三宝に帰依するなら命を助けると述べると化け物たちは平伏した。

護法童子 『信貴山縁起』
化け物たちは、かつて彼らを諫めた一連上人を尋ね、上人は彼らの発心を喜んだ。剃髪染衣の姿となり十戒を授けられ具足戒を受けるまでになる。化け物たちは上人から弘法大師の大日如来となった即身成仏の話や龍智大師が八百歳まで歳をとらず念誦三昧によって成仏したという話に感銘し、それぞれ深山幽谷での修行を行い、その仏果を得るまでになる。
こうして『付喪神絵巻』は大団円を迎えた。この絵巻の真の魂胆が最後に見えて来る。テーマは、人間でなくても成仏が可能だと言う真言宗の「非情成仏」なのである。顕教の顕学たちが言うには、昔日の伝承において道路や屋敷には皆鬼神がいて寸暇を惜しんで立ち回っている。古道具にはこの鬼神が憑いたのだろう。そして彼らは問う。古道具に自発的に化ける力があるのか、ないのかと。

『百鬼夜行絵図』
狩野養信 (おさのぶ) 摸 江戸時代 東京国立博物館
次回は百物語
さて、今回 part1 は柳田國男さんの『妖怪談義』、今昔物語の本朝における怪異譚、そして『百鬼夜行絵巻』や『付喪神絵巻』などを中心にご紹介してきました。次回 part2 では、いよいよ百物語をご紹介する予定です。お楽しみに。


柳田國雄全集20
月曜通信、少年と国語、新たなる太陽、炭焼日記、妖怪談義 収載
大正期も過ぎて昭和11年、柳田國男は化け物の話を存分に書いてみたいという欲求に駆られて、この『妖怪談義』を書いた。近年最も等閑視されている部分に光を当て民族の自己反省に資するものにしたいと考えたのである。その頃、既に化け物など迷信の類だと一笑に付す人も多かった中で謙虚な態度で、この方面の知識を集めてきたと言う。都市の居住者の中には却って化け物を説く人も多いが、それは幽霊をお化けと混同しているのだという。変化というからには正体は一応不明で、しまいに勇士によって正体を見破られることになるのである。
お化けの地方名は大別して三つの系統があり、1.ガ行の濁音によるもの、2.モーの音を含むもの、3.はモーとガの混淆によるものとなっている。
1.ガは鹿児島ではガゴ、ガモンジ、肥後人吉ではガゴ―、佐賀ではガンゴウ、周防山口ではゴンゴ、伊予大洲ではガモンというふうになっている。
2.モー音のものとして秋田ではモコ、外南部でアモコ、岩手ではモンコ、福島南部ではマモウ、越後吉田ではモッカ、出雲崎ではモモッコ、松本ではモモなどと呼ぶ。
3.モーとガンゴとの混淆として、薩摩のガモ、長﨑のガモジョ、熊野のガモチ、飛騨では一般にカガモと言っている。多分 3.が一番古い形で残りの二つは、ここから分かれたのだろうと柳田さんは考えている。最初に化け物自身が「かまう」と名乗って現れてくるのが普通としたためだと言う。人が畏れぬようになると「取って食おう」と言わないと相手が怖がらないようになる。そして、カモ―などの一種の記号のように変形されたものではないかという。このような一語からも化け物に対する呼び名の推移は推し量ることができると言うのである。

話梅子(ふぁめいず)『中国百物語』
唐『龍城録』『広異記』『原化記』、六朝『捜神記』、宋『夷堅志』『稽神録』、清『虫鳴漫録』『閲微草堂筆記』『柳崖外編』『聊斎志異』などから百話が収載されている。ひとつだけご紹介しておく。
江蘇省に顧 (こ) 氏の旧宅があった。明末に一家全員が明の国に殉じて自決して以来百年に亘り閉鎖されていて住む者も泊まる者もなかった。武官を目指す熊 (ゆう) が肝試しの賭けをしてその屋敷に泊まることにした。すっかり荒れ果てた部屋で眠っていると夜中に目覚めた。奇怪なことに部屋は煌々とした灯りが灯り16,7の美女が袖の短い上着を羽織り腕を露わにしている。女は下女に顔を洗う盥 (たらい) を運ばせ老婆が髪飾りを持ってきた。女は両手で自分の頭を机の上に下ろすと綺麗に結い上げた髪にかんざしを挿して元通り首の上に載せた。肝をつぶした熊は隣の部屋に駆けこむと10人余りの男たちが花札をしていた。奥で寝ていたら女が現れて自分の頭を下ろして髪をすき始めたんですと一気にまくしたてた。もし、逃げなかったらどんな目に会っていたことかと言うと、男たちは顔を見合わせて笑った。すると男たちは「そんなに驚くことですかね」と言うと一斉に自分の頭を外した。熊 (ゆう) は恐怖のあまり失神し、翌朝、友人たちが彼を見つけると熊は息を吹き返し、昨夜の怪奇を物語った。
(「花札をする男達」清『柳崖外編』)

小松和彦『百鬼夜行絵巻の謎』
小松さんは妖怪たちが夜に出現し朝日と共に退散していくのに対して明るい太陽の日差しを黒雲で覆い隠す、あるいは月星夜も暗黒にして、そこから出現する怪異の例があることを指摘している。柳田國男さんの説を思い起させる。

尊勝陀羅尼の火焔 (真珠庵本)
『太平記』巻23「大森彦七が事」では、こんな場面がある。
大森彦七が湊川の合戦での戦勝祝いの宴に出るために山際の夜道を歩いていた。すると道に迷っている若く美しい女に出会った。彦七は難儀を見かねて背負って歩いてやった。すると女は身の丈八尺ほどの鬼に変じ岩ほどの重さになる。鬼は彦七の髪を掴んで虚空に吊り上げようとした。彦七と鬼とは組合になったが、郎党たちが駆け付けると鬼は消え去った。後日、改めて宴会となったが、その折の猿楽も半ばを過ぎた頃、海上に光り輝くものが現れ、鬼の姿や騎馬武者の乗る輿の姿になった。雲の中から声がして楠木正成と名乗り「足利の天下を覆すには貴殿の腰の刀が必要だ」というと雷鳴が轟く。彦七が拒絶すると光物は、はるか海上に去った。彦七の身辺には怪異が連続し、ついに彼は物狂いとなった。宿直の武士が魔除けの鳴弦 (めいげん) で鏑矢 (かぶらや) を射たが虚空でどっと笑い声がする。この辺りは『平家物語 物怪之沙汰』や『曽呂利物語』の板垣三郎の話に似た情景がある。陰陽師に符を書かせて貼っても何者かにはがされた。ついに大般若経を読むと一天にわかにかき曇り、雲上を車馬の駆ける音、剣戟の響きが聞こえ、やがて晴れ渡った。その後、怨霊の出現は無く彦七の病も回復するのである。

澁澤龍彦氏の『付喪神』の章から少しご紹介する。
百鬼夜行図は江戸時代に入ってから色々な画派によって繰り返し描かれ、中期の鳥山石燕によって集大成され、明治の河鍋暁斎にまで持ちこされる。器物の化け物は絵画的伝統のみに属していないという。『付喪神記』の時代にはおよそ100年後にヨーロッパでも同じような表現が現れた。美術史家ユルギス・バルトルシャイテスの『幻想の中世』を引用している。器物の化け物の最も古い表現は中国ではなく日本にあると言うのである。

ユルギス・バルトルシャイテス『幻想の中世Ⅱ』第6章 東アジアの驚異 「第三節 生命ある器物」
「生体と無機的な物との結合は器物自体に避けがたい一つの強迫観念となった。器物は動物から爪、歯、騒々しさ、荒々しさを譲り受けた。四つ足獣と人間との一体化したものも見られた。(西野嘉章 訳)」道具類と獣の合成体に強烈な生命感と情念を付与する術をもたらしたのは東アジアの人々であり、その最も古い例は日本にあるとしている。『土蜘蛛草紙』では座敷で妖怪たちを静かに待ち受ける源頼光と獣の姿と器物の妖怪たちが攻めよって来るところが描かれる。この器物と生体の組み合わせを描いたボスやブリューゲルは16世紀の作家であり『土蜘蛛草紙』の作者とされる土佐光顕 (とさ みつあき) は南北朝時代14世紀の作家である。バルトルシャイテスはこう述べる。「鬼形と獣が夜の闇から浮かび上がり、そしてそれらと一緒に器物の行列も姿を現した。椀は逆立ちし、腕を使って走りまわる。籠は眼と口を持ち、人間のような姿をした生き物の背にまといつく。小刀は鞘に入ったまま二本足で歩きまわる。‥‥伝土佐光信 (1525没) 筆の百鬼夜行図は、それら生ける器物の群を解き放つ。悪魔の肩口や頭を、饒鈸 (にょうはち/シンバル) 、水壺、甕、皿が駆けまわる。日本の画家の同時代人であるボスの作品でも似たような生き物が暴れ回っている。(西野嘉章 訳)」

土佐光顕 『土蜘蛛草子絵巻』 14世紀

『百鬼夜行図』摸本 東京国立博物館








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