


左 吹野 安『楚辞集注全注釈』右 屈原像 陳洪寿(1598~1652)
今回の流風一詩は屈原の『九歌』を取り上げます。九歌・九弁は禹の作った楽で政 (まつりごと) が整っていることを祝う歌とされる (『春秋左氏伝』) 。屈原は、楚の巫覡 (ふげき/シャーマン) の儀礼の歌をかりて神々を呼び寄せ、正しい政の秩序が取り戻されることを願い、自己の心情をそれに仮託していった。
『離騒』において主人公霊均が主君に絶望し、天界へ上って天門に向かうも門内にはいることを拒まれ、理想の神女を求めて流離うのだが、そのストーリーの中に舜に嫁した堯の二人の娘であった湘君、湘夫人が登場する。登場するのは楚の当時の神々である。『離騒』では占いに一役買う巫覡は、『九歌』では、この神々をめぐって巫儀 (巫覡の儀礼) が執り行なわれる場面が描かれる。
降神、娯神、送神という段階を踏むが、それは婚神、つまり神と巫覡 (女性が巫、男性が覡) との恋愛の形を取る。例えば湘君、湘夫人は湖の女神であり巫覡は、神の到来を希い、香草や歌舞でもてなし、雲に乗って帰る神への未練と寂しさを語る。九歌のラインナップは以下の通りです。
| 第一歌『 東皇太一』 | 楚における最高神太一は北極星の神であり、東に配されたことから東帝と呼ばれる。その神の降神によって女巫に憑依する様子が詠われる |
| 第二歌 『雲中君』 | 雲神が女巫に神がかり四海の果てに遊ぶも神は離れ溜息をつく。 |
| 第三歌『湘君』 | 瞬の妃の一人である娥皇 (がこう) は舜の没後、湘水に身を投げ水神の湘君となったが、女巫に神がかり、それを男巫が慕う様子が描かれる。 |
| 第四歌『湘夫人』 | 同じく瞬の妃の一人である女英は湘夫人となり、その降神と送神の様子が描写される。 |
| 第五歌『大司命』 | 生死を司る神、天門を開き黒雲に乗って旋風を露払いに天降る。 |
| 第六歌『少司命』 | 運命を司る神、彗星を掃い長剣を抜いて老若男女の命を擁護するという。 |
| 第七歌『東君』 | 日の神、青雲の衣に白虹の裳裾、長矢を執り天狼を射る。 |
| 第八歌『河伯』 | 河の神、白い大亀に乗り模様の美しい鯉をお供に黄河の渚に遊ぼうとすると流氷が入り乱れてやって来る。 |
| 第九歌『山鬼』 | 山鬼は山の精、赤毛斑の豹に乗り、ブチの山猫を連れてコブシの車に肉桂の旗を結ぶ。暗い竹藪の奥で恋人を待つ。 |
| 第十歌『国殤』 | 国殤とは国事に死する者をいう。長剣を帯び秦弓を手挟み首は身を離れても悔いることはない戦士を詠う。 |
| 第十一歌『礼魂』 | 巫覡たちの祝歌。春の祭りは蘭の花、秋の祭りは菊の花。永久にこの祭りは絶えることがないと昌う。 |
『湘君』

『湘君』 張渥九歌図 14世紀
『湘君』の前半は女巫が湘君を神降ろす様子が詠われ、男巫は、あたかも恋人を待つが如くに描かれる。
湘君
君はためらいて未だおいでにならず
ああ中州に留まりたもうは誰
見目よきお姿に衣装映えも美しい
私は肉桂の舟で勢いゆこう
沅水と湘水に波無からしめたまえ
江水も静かに流れさせたまえ
待てど君はお出でにならず
簫 (しょう) の笛を吹いて誰をお思いか
私は飛龍に舟を曳かせて北にゆき
巡って洞庭湖に道をとる
マサキノカズラを舟壁に君子蘭を結ぶ
アヤメの橈 (かい) 蘭の旗
遠い涔陽 (しんよう) の浦を望んで
かの君は大江いっぱいに霊光を発揚される
霊光がまだ尽きない頃
君の待女は哀れな私に心曳かれて溜息をつく
私の涙はしとど流れ
君を思って心痛み悲しみ悶える
‥‥
(吹野 安 訳 一部変更している)
君行 (き) たらずして夷猶 (いゆう) す
蹇 (ああ) 誰か中洲にて留 (ま) てる
美要眇 (びようびょう) として修 ( おさ) むるに宜 (よろ) し
沛 (はい) として吾れ桂舟に乘り
沅湘をして波無からしめ
江水をして安 (しず) かに流れしめん
夫 (か) の君を望むに未 (いま) だ来たらず
參差 (しんし) を吹いて誰をか思える
飛龍に駕して北に征 (ゆ) き
邅 (めぐ) って吾れ洞庭に道 (みち) し
薜荔 (へいれい) は柏 (はく) として蕙 (けい) もて綢 (つか) ね
蓀 (そん) の橈 (かい) 蘭の旌 (はた)
涔陽 (しんよう) を極浦 (きょくほ) に望み
大江に橫たわりて霊を揚ぐ
霊を揚げて未だ極まらず
女嬋 (じょせん) 媛 (えん) として余が為に太息す
涕 (なみだ) を橫流 (おうりゅう) して潺湲 (せんかん) たり
君を隱 (いた ) み思いて陫側 (ひそく) たり
‥‥

マサキノカズラ (薛茘/へきれい)
テイカカズラまたはツルマサキに比定されている。
舜に嫁した堯の娘である娥皇と女英が舜の没後に湘水に身を投げ水神となって湘君と湘夫人と呼ばれた故事にちなむ詩である。堯は自らの後継者に舜を選んだが、その資質を試すために二人の娘を嫁がせ家庭内を平安に保てるかを試したとされる。
楚の繁栄と没落

竹治貞夫『憂国詩人 屈原』
楚の概歴と屈原の生涯については竹治貞夫氏の『憂国詩人 屈原』からご紹介する。黄帝顓頊 (せんぎょく) の末とされる熊繹 (ゆうえき) が殷末の周の文王に仕え楚に封じられるが、この熊氏が楚の世家 (代々その国を治める中心家系) である。零落の一途をたどっていた周をしり目に熊繹から17代目の熊通 (ゆうとう) が武王を僭称して前722年に即位すると、自らを蛮夷と称した。時は既に春秋時代へと移っている。武王の子 (公子) の一人が屈瑕 (くつか) であり屈氏の祖となった。
武王の子の文王が前689年頃に紀南城の地に楚の都の郢 (えい) を築く。郢は、この文王から戦国時代の前278年に秦の将軍・白起 (はくき) によって陥落させられるまで、約400年以上にわたって楚の政治・経済・文化の中心地として繁栄した。

戦国時代の版図 (前350)
紀南城近くの墳墓から出土した天星観楚簡 (てんせいかんそかん/前四世紀) には貴族の被葬者が生前に行った一年の平安息災と病気などに対する占いとそれに伴う祈祷の内容が竹簡に記録されていた。これを彷彿させるのが『国語』の「楚語」の中の昭王と大夫である観射父 (かんえきほ) との間で交わされた神と人との交通についての話である。
黄帝の子の少皞 (しょうこう) の御代に徳が乱れ、民と神とが同位に立ち、家ごとに巫術を行い、節度のない祭祀を行って貧しく、神の福を受けるどころではなかった。これは太古のこととされていたが、実は楚の現状を述べたものだという。(竹治貞夫 『憂国詩人 屈原』)
これを裏付けるように宋の百科事典『太平御覧』には次の記述がある。霊王 (在位前540-前529) は傲慢、放埓にして下を軽んじ、賢をあなどり、鬼を務め、巫祝の道を信じ、斎戒して上帝を祀り、群神に礼し、自ら羽紱 (はふつ/羽扇) を執り、己の神舞に悦に入って壇前に舞った。東方の徐を撃った後、翌年まで乾谿に游楽したまま都に戻らず、その間に弟の弃疾 (きしつ) に王位を簒奪され山野を放浪して死んだ。
荘王 (在位前613-前591) の時代に楚は隆盛を極め、昭王 (在位前515-前489) も孔子を招聘しようとし、これを果たせなかった名君だったし、威王 (在位前339-前329) も荘子を迎えようとしたほどだった。蛮夷という形容とは裏腹に高度の文化を築いていたが、霊王以降、徐々に衰退していく。やがて秦は強大となり、楚は呑み込まれた。
屈原の左遷と自死

屈原像(前343~339頃ー前278頃)
明 (1489) 刻歴代名人像賛
屈原の生年には諸説あり、前343年説が有力だが、『憂国詩人 屈原』の竹治貞夫説では前339年となっているので、それに従う。前324年に秦の恵文君が王を称した年に屈原は16歳だった。その四年前、外交と謀略をもっぱらとする張儀が諸国を遊説し、楚国を訪れ、楚の高官のお供をして酒を飲んだ時、璧 (たま) を盗んだと疑われ、したたかに鞭打たれた。彼は秦の宰相となった時、楚にむけて「汝善く国を守れ、我はなんじの城を盗まん」檄を送ったという。屈原が20代の頃、斉 (せい) には三十歳ほど年上の孟子が活躍していたし荘子も屈原より年長だったが同時代の人である。
懐王は、屈原の度重なる諫言に耳を貸さず、恨み骨髄の張儀に翻弄される。斉と楚の連合を裂かれ、約束の六百里の土地の割譲を反故にされ、怒った懐王は秦を攻めたが斉の援助を失った結果、丹陽・藍田の戦いに大敗した。和睦と偽って武関に招かれ、そこで拘束され、ついに秦の地で客死する。屈原は楚の王族三氏を束ねる三閭大夫 (さんりょたいふ) であり、王の待従・秘書役である左徒だった。懐王が拘束された後、頃襄王 (けいじょうおう) が即位したが親秦派の子蘭が宰相となったことで江南に左遷され、五年後に郢の都が秦の将軍白起によって陥落したことを知って端午の五月五日に泪羅 (べきら) で入水自殺したのである。人々はその死を悼んで端午の節句にちまきを作り川に投げ込むようになる。そういえば、最近ちまきを食べてない。
楚辞集注を書いた朱熹は、こう述べている。郢都の南方の沅水や湘水の流域の民俗は巫鬼を信じて祭祀を好んだ。その祭りに当たって巫覡の徒に音楽を演奏させ、歌舞し、鬼神を楽しませた。楚の地は野卑な風俗で、祭祀の言葉も賤しく鄙びており正道から離れた淫らなものもあった。屈原は追放され、それらの祭礼に感ずるものがあり、少しくその言葉を正し、その神に仕える心に因って主君への真心と国への愛をその言葉に託した。
こうして、この『九歌』を始め『離騒』、『天問』、『九章』といった騒体賦とも称せられた抒情的な詩が生まれたのである。
香草美人
巫覡が神を招くための依り代と言うべきものが数々の香草であり、歌舞と共に神々を慰撫し楽しませるために捧げられた。とりわけ『九歌』は香草図鑑とでもいうべきものになっている。それは、明の後期に袁宏道 (えんこうどう) の著した生け花の書『瓶史/へいし』にも紹介された。
室を水中に設けよう。蓮の葉の屋根、アヤメの壁にムラサキの壇、山椒の堂、桂の棟、蘭のタルキ、コブシのまぐさ、よろい草の房‥‥これなど前衛生け花を彷彿とさせるものがある。そこで『湘夫人』から、その場面をご紹介する。

『湘夫人』 張渥九歌図 14世紀
湘夫人
帝堯の御子、湘夫人が洞庭の岸辺に降りたちたもう
見る目も遥かに (同じく命を水中に没しようとする屈原自身を指す/『章句』注) 私の心を悲しませる
遠く渡りくる秋のそよ風に
洞庭は波立ち木々の葉は散る
ハマスゲを踏みつつ遠く眺め
美しい湘夫人と約束して夕方に会うための帷帳 (とばり) を張る
‥‥
奥部屋 (祭祀のための聖域) を水中に築き
これに蓮の葉で屋根を葺 (ふ) く
ハナアヤメの壁 紫貝の壇
山椒の実を敷いて堂と成し
肉桂の棟 木蘭の垂木
コブシの木による門戸の上の横梁
ヨロイグサを結んで脇部屋 (帷) と為し
シランを裂き連ねて座席を作り
白玉を風押え (鎮) と為し
山蘭を敷いて香りをつける
ヨロイグサを蓮の葉の屋根に重ねて葺 (ふ) き
その上にカンアオイを繚 (まと) わせる
百草を合わせて庭に満たし
芳しい花を門や廂に積み重ねた
*1九嶷 (きゅうぎ) の神々が迎え出でて
神霊の降る様は雲のようだった
‥‥
*1九嶷は聖王舜の葬られた場所。
(吹野 安 訳 一部変更している)

洞庭湖 湖南省
帝子北渚 (ほくしょ) に降る
目眇眇 (めびょうびょう) として予 (われ) を愁えしむ
嫋嫋 (じょうじょう) たる秋風
洞庭波たち木葉下 (お) つ
白薠 (はくひん) に登りて望みを馳せ
佳 (か) と期して夕べに張らんとす
‥‥
室 (むろ) を水中に築き
之に荷蓋 (かがい) を葺 (ふ) く
蓀 (そん) の壁 紫の壇
芳椒を播 (し) きて堂と成し
桂の棟 (とう) 蘭の橑 (ろう)
辛夷 (しんい) の楣 (び) 葯の房
薜荔 (へきれい) を罔 (むす) んで帷と為し
蕙 (けい) を擗 (つんざ) いて櫋 (つら) ねて既に張り
白玉を鎮と為し
石蘭を疏 (し) きて芳と為し
芷 (し) をもって荷屋を葺(ふ)き
之に杜衡 (とこう) を繚 (まと )う
百草を合わせて庭に実 (み) て
芳馨 (ほうけい) を廡門 (ぶもん) に建 (つ) む
九嶷繽 (きゅうぎひん) として並び迎え
霊の來たること雲の如し
‥‥




この『湘夫人』の場面は降神が成功した様子が詠われていて、巫覡がいかに慎重・厳格に準備を怠らないかが表現されている。香草は神の依り代から、やがて高邁な心を持つ香美人の形容へとなっていった。
司馬遷の『史記』と楚辞

黒須重彦『楚辞』と『日本書紀』
黒須重彦氏の「『楚辞』と『日本書紀』」という著作には、それまで何ら記述の無かった屈原の作品が何故、突然、司馬遷の『史記』に登場するのか。『楚辞』と楚詞とはいったいどう違うのかが述べられている。楚辞の言葉は、その地方の言葉、つまり方言であったはずであり、それが、その地方の人々には母国語であったことが指摘される。それを国際語である古典漢語に翻訳する必要があった。
『楚辞』という作品群を表す言葉が登場するのは『漢書』の「地理誌」においてである。『淮南子』を著した淮南王劉安 (わいなんおうりゅうあん/前179-前122) が寿春 (現在の安徽省、泪羅にも近い) に都した際、諸国の賓客を招いたうちに呉の国の厳助と朱買臣があって、「追放されて屈原が寿春の地に来て『離騒』の諸賦を作って自ら悲しみの情を詠った」とした記述である。そこには「楚辞は技巧に巧みだが信が少ない」と述べられていた。ここでは単に楚の言語で書かれた文章=楚詞としての楚辞ではなく賦としての『楚辞』が語られている。
『史記』には「離騒・天問・招魂・哀郢 (あいえい)」の四篇があり、『懐沙』の全文が掲載され『漁父』はその序詞扱いにされていること。『哀郢』と『懐沙』は『九章』の中の作品だが『九章』という言葉そのものはなく、『九歌』の全文もないことが述べられているという。優れた詩を訳すには豊かな詩魂 (志)、優れた語学 (言辞) 、確かな漢字知識 (文) が必要なのは当然だが、黒須重彦氏はこの時期に『楚辞』が古典漢語に移し替えられていたのだろうと見ている。そこに編集作業の過程があったことが想像されるのである。
巫覡の哀切

『山鬼』張渥九歌図 14世紀
この『九歌』の中でも『山鬼』は出色と言われる。山鬼、即ち山の精を描いた。「蔓草と蘭を纏 (まと) い、山猫を連れ赤い豹に乗る。こぶしの車に桂の旗を掲げて愛しい人を迎える。暗く奥深い竹藪の中、道は険しく、あの人は来ない。東風が吹き、霊雨が降りしきり、帰るのも忘れ待ちわびる。歳を重ねる私を咲かせてくださる方への思いは募る。岩塊の中で霊芝を摘み、泉の水を飲む。雷鳴と猿たちの悲しい鳴声、あなたとの別れに打ち沈むばかり」。これは巫覡が恋人のような神々の来臨を切望し、それが叶わぬことの喪失感と哀切の情である。終盤の詩句をご紹介する。
山鬼
‥‥
私は山深い竹藪に住み夜明けの天を見ることなく
路は険しく自分一人が諸神に遅れてしまった
ただ一人山の上に立てば
雲は下からもくもくと湧き上がり
あたりは真っ暗となり何も見えない
‥‥
*1 公子を怨んで気も虚ろとなり帰ることも忘れる
あなたは私を思ってくださるが もしや
お出でになる暇 (いとま) も無いのでしょうか
山奥に住む私は芳しいヤブミョウガを香らせ
岩間の清水を飲み松や柏の木陰に蔭 (いこ) う
あなたは私を思ってくださるが、もしや私をお疑いでも
折しも雷が轟き雨は陰鬱に降りしきる
猿の幽かな鳴声に尾長猿の叫び声
風は寒く木々は激しくざわめく
あの公子を思えばやるせなく憂いに沈む
*1 公子 楚の大夫の子椒 (しょう) / 王逸の『章句』の注による)
(吹野 安 訳 一部変更している)
‥‥
余 (わ) れ幽篁 (ゆうこう) に処 (お) りて終 (つい) に天を見ず
路 (みち) 剣 (けんなん) にして独り後 (おく) れ来たる
表 (ひょう) として独り山之上に立てば
雲容容 (ようよう) として下に在り
杳 (よう) 冥冥 (めいめい) として羌 (ああ) 昼も晦 (くら) し
‥‥
公子を怨 (うら) んで悵 (ちょう) として帰るのを忘れしめん
君我を思うも間 (いとま) を得ざらん
山中の人杜若 (とじゃく) を芳 (ほう) とし
石泉を飲み松柏に蔭 (いん) す
君我を思えども然疑 (ぜんぎ) 作 (おこ) らん
雷 (いかづち) 填填 (てんてん) として雨冥冥 (めいめい)
猿啾啾 (しゅうしゅう) として又 (ゆう/ましら) 夜鳴く
風颯颯 (さつさつ) として木蕭蕭 (しょうしょう) たり
公子を思うて徒 (た) だ憂 (うれ) いに離 (かか) る
屈原の絶望
待てど暮らせど来ぬ恋人を待ち望む切なさを詠っている。それは、心を尽くして香草、名花、銘木を取り寄せ来神を待ちわびる巫覡の思いに他ならない。ただ、忘れてはならないのは屈原にとって、あなた=君とは懐王のことだということである。屈原の左遷された場所は山深い竹やぶであり、何の希望もなく辺りは真っ暗であり、表向きは清廉風の公子の椒 (しょう/『章句』の注) は自分の志を知りながら見殺し、帰郷することは叶わなかった。あの頃、懐王は自分を思いやってくれても話す暇もなかったのだろうか。辺りは雷の轟きに激しい風、聞こえるのは愚かな猿たちの叫び声ばかり。あの公子を思って憂いに沈むばかりとなる。
何故、屈原の詠った楚辞の詩が古来人々の心を打つのか。彼の境遇と照らし合わせたとき、屈原の主君を思う真心と国を愛する心とは裏腹に、その至誠の天に通ぜざる悲劇を人々は哀惜したからに他ならないからであろう。この恋愛・巫儀・忠誠/愛国の三重構造は衝撃だった。
夜稿百話関連リンク
第51話 袁宏道『瓶史』
+α4『李賀詩集』

吹野 安『楚辞集注全注釈 一 離騒』
『詩経』は周初 (前1100年頃) から春秋期 (前600年頃) にかけて作られた古代歌謡で我が国の『万葉集』に比せられる。『詩経』の後二~三百年ほど見るべき韻文はなかったが戦国末期(前300年頃)になって揚子江中流域の楚の国に新体の韻文『楚辞』が登場する。雄大な構想とロマン的な詩想を持ち、何よりも作者が明示されていた。
この『楚辞』に関する注書は後漢の王逸の『章句』、宋の洪興祖の『補注』など歴史上色々と書かれてきた。それらを基に朱熹が注釈書を新たに書き起こしている。朱熹が『楚辞』の注釈を思い立ったにはある事件が関与していたという。南宋の周密が著した『斉東野語』に述べられた精神疾患を持つ南宋の光宗 (こうそう) 帝の強制退位というクーデター (紹煕内禅/しょうきないぜんと呼ばれる) である。そのクーデターに功績があり、朱熹を重用しようとした趙汝愚 (ちょうじょぐ) が讒言され衡州に流され、その地で亡くなる。それに伴って政界は朱子学的儒教から独裁政治へと転換していった。つまり趙汝愚に屈原を重ねた朱熹が、この註解を書くに至ったという (四庫提要)。

吹野 安『楚辞集注全注釈 三 天問』
朱熹は『天問』の集註の冒頭にこう述べている。追放されて山沢をさ迷った屈原は、先王の霊廟や公卿たちの祠堂にて天地山川、神霊の不思議な姿、古代の賢人聖者の妖しい行事を描いたものを見物した。その図画を怒り詰って問い、祠堂の壁に詩句を書きつけて、その憤った心を晴らした。人々は屈原を悲しみ惜しみ、一緒にその詩句を論述した。そういった次第でその文の意味には順序が無い。
また、註解には、「天問」という言葉に託された意味をこう述べている。「天には、人間には計り知れないほど深く、かつ寸分の狂いもなく完璧に運行している『天の絶対的なルール』があり、それを無視し、自分勝手な振る舞いをして平気でいる愚かな王や、ただ席に座っているだけの無能な家臣たちの罪を厳しく問い質しているのである」と。今でも、そんな愚かな王はいるが‥‥

黒須重彦『楚辞』と『日本書紀』
文字を持たなかった民族が、本来他国語を表記するために作られた文字で自国語を表記し、しかも相手の文字国との間に密接な国際関係を維持しなければならない。その道を辿る場合の面倒な手続きの必要性を『日本書記』について述べ、『楚辞』においては楚の母国語とも言える地方語を国際語である古典漢語に翻訳される経緯が語られる。

中田勇次郎 『文房清玩』 第三巻
二玄社 1962年刊 全三巻
袁宏道『瓶史』収載
袁宏道の著書『瓶史』は名文である。中田勇次郎氏の『文房清玩』シリーズの第三巻に掲載されている。訳された中田勇次郎氏の手腕もあるだろうが、もとの文がすばらしいことは間違いないと思われる。訳者によれば、「その内容の豊かさと字面の趣味のよさにおいて、まず、ならぶものがないといってよい。おそらく、明人の文房小品のなかにおいて、もっとも芸術的な香りの高いものであるといってよいであろう」という。べたほめだ。色々な人々の文章に感動するのだけれど、この人のは美文でいい。

新修中国詩人選集5『李賀 李商隠』
鬼才と呼ばれた李賀と屈原の作品との類似性はしばしば指摘されてきたが、屈原が『離騒』で述べた「好んで人の美徳をかくし妬む」社会、「ひたすら迎合をきそう」世人に対する思いは「二十 (はたち) にして心朽ちたり」と書いた李賀とても同じであったろう。楞伽経と楚辞が李賀の愛読書と言われる。ここもまた楚辞が登場する。

原田憲雄『李賀歌詩編』
1 蘇小小の歌 2 独吟聯句 3 北中寒
李賀詩がほぼ網羅されている。画期的な著作群である。










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