
矢部良明『茶の湯の祖 珠光』
茶の湯の創始者は村田珠光だと言うと、え?、利休じゃないんですかと聞き返される。「茶の湯の開山は、珠光である」と利休は述べたというから間違いない。何故、一般に利休の方が有名で珠光はマイナーかというと、利休と秀吉の確執はあまりに有名であり、利休の切腹という悲劇に彩られるからで、珠光が知られていないのは、その記録が、ほとんど残っておらず、その生涯は謎に包まれているからです。
「惣別 (そうべつ/おおよそ) 珠光いろゐたる事をさわる事、努努不可有 (ゆめゆめ あるべからず)。」珠光が携わったものに手をつけるなと利休は細川三斎に語った。
古田織部は、まだ初心の頃、かつて珠光が所有し、松屋久好が、その手許に持っていた徐熙 (じょき) が描いた鷺の絵を見てくるように利休に諭される。徐熙筆の鷺の絵を感得するなら天下の数寄を合点できるだろうと。もし、合点がいかないなら、己の数寄心が至らないからだと言われるのである。
利休以前は、紹鷗 (じょうおう) の事績が突出していて、珠光は既に過去の人になっていた。だが、慶長六年 (1601年) の茶会で織部は、紹鷗の表具は悪く、利休がそれを改めてしまったとのべている。紹鷗は、その美学において侘び茶の伝統を継承してはいたけれど、侘び茶の四畳半茶席の床に唐物を一品飾って〈書院の茶の湯〉風な味を加え、和歌の軸を掛けるなど新機軸を打ち出して絶大な人気を得ていた。

松花堂の露地 市中の隠としての茶室
しかし、若い利休には紹鷗の〈一座建立〉が鼻に付きはじめる。もともと世阿弥が、演者と客席が一体となることを指した言葉だが、堺の茶の湯においては、所柄、話題が政治や商談と言った俗事に流れやすかった。それに反発した結果「本来、茶の湯は超俗でなければならない」と唱え、その精神においても草創期の茶の湯に帰ろうとした。その本尊として珠光に白羽の矢を立てたのではないかと見られている。
それで、今回は、利休が慕った珠光とその茶の湯がどのようなものであったのか、矢部良明 (やべ よしあき) の『茶の湯の祖、珠光』を縦軸に、山上宗二 (やまのうえ そうじ)『山上宗二記』、『茶道学体系二 茶道の歴史』、渡辺誠一『侘びの世界』、内藤湖南『支那絵画史』などの著作を交えて概観できればと思っている。珠光に関する著作は真に少ない。それは、利休やその弟子の山上宗二らの発言や著作を通してしか窺い知ることしかできないからである。
著者 矢部良明
矢部さんは、1943年神奈川県の大磯のお生まれ。東北大学文学部美術史科をご卒業。東京国立博物館陶磁課長を経て郡山市立美術館館長を務められた。陶器・磁器の専門家でいらっしゃる。工芸的な観点から、道具を通して見た茶の湯論は大変優れているように思う。著書に『染付と色絵磁器』『中国陶磁の八千年』『日本陶磁の一万二千年』『千利休の創意』『古田織部』『武野紹鷗 茶の湯と生涯』『日本陶磁大辞典』などがある。
珠光の生い立ち

西山浄土宗 日輪山称名寺 千体石仏と茶室獨蘆庵で知られる。

称名寺本堂 奈良市
村田珠光は1423(応永三十)年、奈良に生まれた。しゅこうと読むのが本来で、じゅこうは後の時代の読み方のようだ。父は、杢市 (もくいち) という検校であったと言われる。何か複雑な生い立ちを思わせるが、記録は何も残っていない。童名を茂吉といった。奈良で、11歳の年に浄土宗の称名寺で出家することになる。幕末まで興福寺の末寺であったという寺である。了海上人に師事し珠光という法名が授けられ可愛がられたという。称名寺の宝林庵に住んだが、結局、茶に道を求めて恐らく30歳前後に僧体のまま京都に出た。
京の三条近くの小庵に住まいしたと言われる。千利休の高弟であった山上宗二 (やまのうえ そうじ/1544-1590) が残した『山上宗二記』は、珠光の秘伝書「一紙目録」の紹介から始まる。それによると、ありきたりの遊びに飽きた足利義政の「何か珍しいものはないか」の問いに能阿弥が「楽道の上には御茶湯というものがあります」と答えた。30年の間、茶の湯へ身を投じ、名声を博してから奈良に住まいする珠光なる者がいて、一休禅師から宋代の圜悟克勤 (えんごこくごん) 禅師の一軸を与えられ、これを数寄の一つとして楽しむような者ですと述べた。それで珠光は召し上げられ、師匠に定められて、御一世の御楽しみは、この一興となったと伝える。
これは利休や宗二らの間で作られた逸話だろうと言われているが、珠光を茶の湯の祖としていること、将軍家に仕えた茶堂の祖であるとしていることは、注目されると熊倉功夫氏は述べている。この珠光の秘伝書「一紙目録」は、能阿弥に目聞きの大事など稽古の時の質問を日記にしたもので養嗣子の宗珠に伝えられたとされている。珠光が実際に能阿弥と交際があったことは間違いないと思われる(尊鎮法親王『親王日記』)。
侘び茶の前奏

『茶道学体系二 茶道の歴史』
歌人であり、禅僧であった正徹が『正徹物語』の中で茶飲みを三種類に分けている。茶道具、心の及ぶほど嗜 (たしな) み持ちたる「数寄者」。茶道具のことは言わないが、どこでも十服茶のような飲み比べをし、その所々の茶をよく飲み知っているような「茶飲み」。大茶碗に茶の良し悪しを言わず飲む「茶くらい」という分類である。
15世紀の山科家礼記などには公卿であった山科家への茶の贈答の記録が残っていて、公家の茶といえば正徹の言う「茶数寄」かと思うけれど、実は「茶飲み」も「茶くらい」もあったようなのである。この頃、山科家では茶の贈答は、かなり盛んであって、例えば無塩の鯛一懸けの返礼が茶十袋、生成りの荒巻鮭のお礼に古茶五袋を送ったなどの記載が見える。茶には無上、別儀 (べちぎ)、揃 (そそり) という等級があった。無上が最上の茶で、揃が一番低級ということになるが、茶所としては宇治が重視されていた。ちなみに、当時のお茶の形状は抹茶にする前の碾茶 (ひきちゃ) で数ミリ程度の大きさの乾燥させた茶葉だった。飲む前に碾茶を茶臼で挽いて抹茶にするのだが、挽いた状態で出荷するのは近代以降のことのようだ。(『茶道学体系二 茶道の歴史』より稲垣弘明「中世公家の茶」)
村田珠光が、侘び茶を創始した時代は室町後期にあたる。それ以前は、一体どんな茶が行われていたのだろうか。 この頃、いくつかの飲茶の形態があった。「会所」における室礼 (しつらい) の茶、禅宗寺院での茶礼、闘茶、そして、路傍での一服一銭の茶である。

『慕帰絵』第五巻 14世紀
本願寺第三世覚如の伝記絵巻で「帰寂を慕う」がタイトルとなっている。
右上に柿本人麻呂と梅、竹の三幅対の絵、香炉、花瓶、台など正式な押板飾りが描かれ、下中央では、廊下でお茶を準備している様子が描かれている。釜は接客の座敷に置かれていなかった。
茶の湯は足利将軍家の唐物蒐集から始まると言われる。足利義満が、別荘の北山第に寝殿、舎利殿(金閣)、会所などを建てたが、その名残が鹿苑寺である。その会所は、一周できるように広縁がぐるりと巡らされていた接客の場であり、和歌、連歌、猿楽などの文芸・芸能の催される場所として独立して建てられた。室町後期の文化が「集う文化」であることは、芳賀幸四郎の『東山文化』などに散見される。そこには、押板飾 (三幅対ないし四幅対の唐絵、香炉、燭台、花瓶など)、書院飾 (硯、筆架、筆、水入、刀など)、飾棚 (建盞/けんさん、台、香炉、食籠、花瓶、茶碗、茶壷など) の室礼 (しつらい/飾り) の基本が同朋衆の手によって出来上がっていた。

書院飾り 『君台観左右帳気』より

桂離宮 書院群
書院造を基調に数寄屋造をとりいれていると言われる。
会所の正式な飾り方を打ち立てたのは六代将軍・義教といわれるが、能阿弥や孫の相阿弥が記した『君台観左右帳記 (くんだいかんそうちょうき)』には、八代将軍・義政の座敷飾りが図解されている。珠光にも伝えられたとされる伝書だが、唐絵などの美術品の等級や鑑識のこころえ、茶や華道、香道などの史料が記されている。
この義政の東山殿においては、現在は存在しない会所の嵯峨の間が客と対面する御対面所となっていて、九間ある中心の部屋となっており、この部屋の北側には押板が設けられていて卓が置かれ、その上に香炉、燭台、花立の三具足が置かれ、その背後の壁面に絵画が掛かる。客のために見せる飾り物と言って良い。嵯峨の間に向かって右に狩りの間があり一段高くなった書院が付属している。主人のプライベートな書斎となっていて、ここの棚板には文房具が飾られ、いわば自分のための飾りがあった。
会所に、茶湯所は付属していたが、茶を点 (た) てるための準備場所、茶たて所として使われる所だった。そこで、同朋集によって点てられた茶が、それぞれの間に運ばれて飲まれた。点てる者と飲む者とは身分が違い、居る部屋も異なっていたのである。この会所での茶の湯は、室町将軍たちが楽しんだ「会所の茶」とか「書院の茶」と呼ばれるもので、後には、能阿弥、芸阿弥、相阿弥らが禅寺にあった台子を使って台子飾りの茶の湯を洗練させていった。この義政の東山文化は1470年代から1490年代にかけての時期であったから、珠光が50歳から60歳にかけての初老期に当たっていたことは、茶の湯の発展にとって、おそらく大きな意味があったと考えられるのである。この書院の茶に対して新興商人や新興武士たちに、高額な茶器はなくとも禅の精神性をバックボーンにした「草庵の茶」を提案したのが珠光だった。

台子
珠光の弟子たち
珠光が生まれた奈良には独特の茶の文化があった。淋汗 (りんかん) の茶と茶盛 (ちゃもり) である。茶盛は奈良の西大寺の大茶盛が有名で毎年4月に両手で抱える大茶椀に薄茶をたてて、回し飲みするなかなか壮観な行事で、禅宗の風を取り入れたのではないかと考えられている。後に利休が始めた吸茶 (すいちゃ) を思わせるが、こちらは濃茶だ。禅宗の茶には、法会の後に一般の人に出される普茶、開山忌などの特別の行事に招待客に出される特為茶 (とくいちゃ) があった。

西大寺本堂 奈良
淋汗 (りんかん) の茶は、風呂と茶の湯を合わせた遊山の茶といわれる。淋汗とは、禅寺で夏に汗をながす風呂のことで、湯風呂、蒸し風呂などがあり、庶民に提供する功徳風呂、入湯料をとる勧進風呂があったが、風呂にお茶が付くとなれば贅沢なものであったろう。15世紀には京都の栂尾、宇治についで、奈良でも大和の寺々が茶を作るようになっていた。
珠光が応仁の乱 (1467-1478) を避けて奈良に疎開していた頃、古市氏が茶盛を盛大に行っていた。茶と風呂と酒肴がつくという贅沢なものだった。世に淋汗 (りんかん) の茶会とよばれる。この古市氏に古市澄胤 (ふるいち ちょういん/1452-1508) がいた。山城国一揆で農民、そして跡目争いをしていた管領の畠山氏との間で上手く利を稼ぐような者で、大和守護格にまで、のし上がった。金春善鳳に謡を習い、連歌を嗜み、茶の湯も名人とされている。ちなみに、善鳳は「月も雲間のなきはいやにて候」という兼好まがいの珠光の言葉を『善鳳雑談』に残していた。この澄胤が、珠光の弟子であったことは間違いないが、どのように出会い、どのような稽古があったかは、全く記録がない。珠光にとっては大きな後ろ盾だったが、50歳半ばで戦死している。
『山上宗二記』は、澄胤を「数寄者、名人」と述べ、連歌の猪苗代兼載 (いなわしろ けんさい) から心敬の著作『心敬法印庭訓』が送られていて、その奥書には里村紹巴によって「古市播州とて、茶湯者・謳 (うたいの) 上手、名人にて候」と書かれているという。珠光の茶は宗珠、宗悟、大富善好、藤田宗理、宗宅、紹宅、紹鷗と引き継がれたが、紹鷗の時にその風は改められたという。澄胤のような弟子たちの中でも、特に粟田口に住む善法を飯や汁を炊く鍋一つで茶の湯もするような身上を楽しむ「胸のきれいな者」として珠光が褒めていたことを宗二は記している(『山上宗二記』)。
侘びとは何か
古今の唐物を集め、名物の御厳 (おかざ) り全く、数寄人は大名湯茶というなり。また目聞きの茶湯も上手にて、世上数寄の師匠を仕りて身を過ぐる、茶湯者(ちゃのゆしゃ) という。また、侘び数寄というは物持たざる者、胸の覚悟ひとつ、手柄一つ、この三か条調 (ととの) うる者をいうなり。(『山上宗二記』)

渡辺誠一『侘びの世界』
侘び茶の「侘ぶ」とは何か? わぶとは自分の思い通りにならないことらしい。そういわれると、僕など侘びだらけだ。ともあれ、渡辺誠一さんの『侘びの世界』からご紹介する。
「侘び」という言葉は、万葉集において「和備」「和天」「惑」という言葉で既に使われていたが、恋や愛が満足されないことからくるわびしさと人間関係のなせる疎外や孤独の感覚に分けられるという(筒井紘一)。「侘び」の語源「わぶ」には、「つらく苦しい」「がっかりする」「つまらない、ものたりない」「みすぼらしい、貧しい」などの意味がある。在原行平は須磨の地に流謫の身となった時、歌にうらぶれた身の失意、落魄させた者への怨恨を詠った。
わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に 藻塩たれつつわぶと答へよ
この時の「わぶ」は否定的、消極的な意味合いで使われていた。しかし、後の観阿弥が作り、世阿弥が手を入れた謡曲『松風』では「‥‥ことさらこの須磨の浦に心あらん人はわざとも(意識して)侘びてこそ住むべけれ、わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ侘ぶと答えよ、行平も詠じ給ひしとなり‥‥」
ここでは、須磨へのわび住まいは、風雅を志す積極的な意味合いを持ち始めるのである。これが、すなわち村田珠光の生きていた時代の「侘び」だったのである。
日本の美意識に幽玄があり、それが仏教から伝来したことは、能勢朝次『幽玄論』part1僧肇から二条良基までで述べた。王朝のみやびに、「心の艶」としての幽玄を注ぎ込んだのは源氏物語だった。歌の世界の余情という言葉に窮(きわま)りない深さと縹渺 (ひょうびょう) 性とを求めたのが俊成であり、それを拡張したのは息子の定家であった。この美意識は鴨長明を経て、14世紀の吉田兼好において仏教色、とりわけ禅の影響の濃い美学へと変貌する。それについて、渡辺誠一さんは、道元の兼好への影響は大きかったとしている。
我が庵は越のしらやま冬こもり 凍 (こおり) も雪も雲かかりけり 道元
冬かれはかぜになびく草もなく こほるしも夜の月ぞさびしく 兼好
絶頂ではなく、端緒や衰退に兆す美学、思いやり偲ぶ美学、欠けたるものへの思いが兼好の美意識にはあった。それを、和歌・連歌の正徹が心にとめ、その弟子の心敬 (1406-1475) は、定家と兼好を取り合わせて「艶深くや」と述べるが、その論は「氷ばかり艶なるはなし」に至る。そして、彼の「冷え痩せる」には死の冷たさが沁みる。「さび」ゆく命。
淡雪の消えゆく野べに身をもしれ
〈応仁元年夏心敬独吟山何(やまなに)百韻より〉
和漢のさかいをまぎらす
唐の物は、薬の外は無くとも事欠くまじ。書どもはこの国に多く広まりぬれば、書きも写してむ。もろこしの舟のたやすからぬ道に、無用の物どものみ取ってみて、所狭く渡しもてくる、いと愚かなり。遠きものを宝とせずとも、得がたき貨 (たから) 尊まずとも、文にも侍るとかや。(吉田兼好『徒然草』)

村田珠光『心の文』 矢部良明『茶の湯の祖 珠光』収載
珠光が弟子の古市播磨 (ふるいち ばんしゅう) つまり、澄胤 (ちょういん) に残した手紙があった。『心の文』と呼ばれている。
この道において大事なことは心の慢心と我執を絶つことである。上手の人を妬み、初心者を見下すようなことがあってはならない。巧者には、自分の方から寄り添い一言なりとも深き言葉をもらい、初心の者には心を配って育てるように心がけよ。この道の和漢の境を取り払う事こそ肝要である。だが、冷えかかるといって初心の者が備前、信楽などを所持して、許されないほどに思い上がるなどは言語道断である。枯れるということは、良い道具を持ち、その味わいを知り尽くして心の下地も出来て、上手の位にたどり着いたのちのことであって、そこでこそ冷え痩せる事がおもしろいのである。とはいえ、道具を揃えることも叶わぬ人は、それにこだわる必要はない。手取釜 (てどりがま/鉄瓶) しかないと嘆くことも、この道においては大切なことである。ただ、慢心、執着の心が何よりも悪いのである。しかし、独自性がなくてはならぬ道でもある。道の至言として 心の師となれ、心を師としてはならない と古人も言われた。
「心の師とは なれ、心を師と せざれ」とは、「心を使え、心に使われるな」という意味で、確か禅語にも似た言葉があったような気がする。『北本涅槃経』『往生要集』『発心集』などにある言葉のようだ。日蓮は『六波羅密教』の言葉だとして武蔵国池上の門下への手紙に書いている。
珠光は、まず、茶の湯を「道」と呼んだ。どのような道具で、どのように飲むかが意識され、求道としての茶の湯がはじまる。そして、道具については、和漢の境界を取り払うと言っても唐物によって磨かれた鑑賞眼なしに和の物をむやみに持ち上げる事を戒めている。和歌・連歌の心敬は「初心の時は正しく美しく心にかけ、‥‥中程になりては奇特玄妙神変のかたへ心をやる」べきで「余情、面影、ひえやせたることは、上手の位にいたり、おのずから知らるべき物也」としている。心敬が、若い頃の伸び伸びとした歌があってこそ、老境の冷えさびた境地も知られるのだと指摘していることに通じるのである。珠光は世阿弥より60歳くらい年下であるが、『花伝書』を彷彿とさせるような内容を弟子に残している。この見上げた老婆心。
徐熙の鷺の絵
徐熙 (じょき) の鷺の絵は、昔珠光が所持していた数寄道具である。絹本、着色で武野紹鷗や北向道陳をはじめ古人が称美した。‥‥この絵には口伝があると宗二は書いている。(『山上宗二記』)

伝徐熙(?-975)『雪竹図』 上海博物館
唐の末から、従来の着色画が衰え水墨画が盛んとなる。内藤湖南は禅宗の庶民への浸透が理由ではないかとみている。唐滅後における五代の内の一つ南唐は、最後の君主となったが李煜 (りいく) の時代に芸術が栄え、蜀の地と同じく唐の遺法が残っていたと言われる。この時代の花鳥を描いて傑出した画家が徐熙 (じょき/?-975) であった。

伝黄筌 (こうせん/903-965) 『珍禽図』
同じ花鳥画で知られる黄筌 (こうせん/903-965) が蜀で孟昶 (もうちょう) の朝廷に仕えていたのに対して徐熙は江南において在野の画家であった。書院における画家は黄筌を学び、士大夫の画家は徐熙を学んだといわれ、士大夫の家には徐熙の絵は無くてはならないものとされた。しかし、湖南は徐熙の真筆は既に失われたと考えている。北宋宮廷コレクションの記録である『宣和画譜』の批評に黄筌の絵は神にして妙ならず、趙昌の絵は妙にして神ならず、神妙共に兼ねて一洗して之を空しくするは徐熙なりと伝えられている。凝った言い方だが、分かったようでよく分からない。その画法は、墨で大体の形を定めたあとに彩色するもので、後に、彼の孫である徐崇嗣が没骨画を創始したと言われている。(内藤湖南『支那絵画史』)
珠光が愛した徐熙の鷺の絵があったと言われる。千利休が「茶の湯数寄の根本をなす」とまで述べた問題の作品だが、現存していない。上海博物館にある『雪竹図』が伝わっているし、台北故宮博物院にはやはり徐熙の作品と伝えられる『玉堂富貴図』があるが、この二つの作風は、かけ離れている。「茶の湯数寄の根本をなす」とまで言われ、「一洗して之を空しくする」といった画風を考えるなら、やはり画風は『雪竹図』に近いものだったのではないかと僕は思うのだが‥‥。
茶禅一味
茶湯は禅宗より出でたるによりて、僧の行いを専らにす。珠光、紹鷗、悉 (ことごと) く禅宗なり。密伝あり。(『山上宗二記』)

圜悟克勤禅師の印可状 東京国立博物館
床の掛物は最初、牧谿、玉澗などの唐絵が尊ばれたが、珠光が一休宗純(1394-1481)に参禅して、その印可を証して圜悟の墨跡を頂戴し、それを茶掛けとしたのが「墨蹟の掛け始め」と宗二は書いた。宋代の圜悟克勤 (えんごこくごん/1063-1135) 禅師の印可状一軸のことだ。その後、紹鷗が三条西実隆から定家の『詠哥大概』を授与され、定家の色紙を床に掛けるようになった。次いで、利休が手紙を掛ける。「宗祇黒木文 (そうぎくろきのふみ)」が有名だ。
一休関係の話がもうひとつある。芝山監物が住吉の一休寺から一休筆の「初祖菩提達磨大師」の墨跡を購入したが、細川三斎は、この掛け軸が一休の弟子だった珠光が表具をほどこしたものであり、一目置かれる墨跡であること、長すぎて床には掛からないだろうと手紙に書いた。それで、監物は蒲生氏郷と三斎に表具について利休にお伺いを立てるように頼む。床に掛けられるように短くしてもらえないかと聞いたのだ。利休は、珠光のものに手をいれてはならんと、にべもなかったのである。

一休宗純(1394-1481)
大徳寺の塔頭である真珠庵 (永享年間 〈1429年 – 1441年〉 に創建) は、開祖を一休とするが、大徳寺の住持 (寺の長) になったのは、一休が81歳、珠光が52歳の時のことである。この毒気の抜けない逸格の禅僧に師事して、印可を受けたとあれば、珠光も並の人ではなかったのではないか。真珠庵の過去帳には「珠光庵主」の名が見えると言うし、七・五・三の枯山水は珠光作として伝わっている。それに、応仁の乱で焼けて一休没後に再建された真珠庵の落慶法要や十三回忌などにも御布施の記録が残っている。しかし、これも子弟にどのような交わりがあったのか何も分からない。
珠光名物
されども昔、珠光申され候は、わら屋に名馬つなぎたるが好しと、旧語に有る時は、名物の道具をそそうなる座敷に置きたるは当世の風体。なお以て面白きか。(『山上宗二記』)
「わら屋に名馬つなぎたるがよい」とは珠光の美意識であった。この対照を際立たせる美学は、世阿弥らの能のように象徴的で簡素な舞台と鬼神や霊たちの豪華な衣装の対比を思い起こさせる。利休はそれに「よろず事たらぬがよし」という「不足の美学」を注ぎ入れたのである。

黄天目 珠光天目 13-14世紀(宋~元)
矢部良明『千利休の創意』掲載
珠光は名物を沢山持つのではなく、幾たびか買い替えていると言われる。茶碗に限らず陶磁器の最高峰は青磁や白磁で、8世紀の陸羽はこれらの磁器を茶碗として考えていた。青磁の中では、南宋の砧 (きぬた) 青磁と呼ばれる青みがかった青磁が最高とされ、一般向けには廉価な緑がかった青磁があった。それも黄ばんでいたり茶褐色になったものまである。珠光の青磁茶碗は、そちらの粗相な青磁である。通称 猫掻き手と呼ばれるヘラ目が入った 珠光青磁茶碗 は、高価なものではなかったろうが、利休が持っていたものを三好実休に売った時には千貫文にもなっていた。侘び茶は、身の丈の茶である。高価なものではなく、見立て、掘り出しの工夫が必要とされる。
11世紀の宋の時代の蔡襄 (そうじょう) は、『茶録』という著書に「茶の色は白いので黒い茶碗が相応しい」と書くようになる。実際、研膏 (けんこう) 茶などは白色をしていた。この頃から茶道具に黒釉が好まれるようになる。有名なものに福建省の建窯で作られた建盞 (けんさん) と呼ばれる茶碗があった。すり鉢型で口縁にすっぽん口と呼ばれるくびれがあり保温に優れていた。その序列は、曜変、油滴、禾目 (のぎめ)、次に天目となる。珠光の所持していたとされる天目茶碗の一つが上に掲載してある。天目について、相阿弥は一般的な茶碗で将軍家には用がないと述べた茶碗だった。道具への美意識が大きく転換していくのである。

油滴天目 大阪市東洋陶磁美術館
黒釉の小壺を抹茶壺とか茶入れとし、黒釉の大壺は葉茶壺とか茶壷とするようになる。珠光の茶入れで有名なものは、珠光が発見して義政の所有となった 九十九髪茄子 (つくもかみなす)、三好実休が二千貫で買って茶道具沸騰の口火を切る珠光小茄子、形見とした投頭巾 (なげずきん) 、新田肩衝 (にったかたつき) は後に秀吉が三千五百貫という法外な値段で手に入れている。このような珠光の名物は、全部で19に及ぶ。これらの道具は、荘厳・華麗ではなかったが、兆す美学、偲ぶ美学、侘びる美学から選り分けられた名馬だったのである。

紹鷗茶室 『山上宗二記』より
14~15世紀に描かれた『掃墨 (はいずみ)物語絵巻』には、このような様子が描かれている。座敷の中央に炉が切ってあり、手取釜が掛かり、側に杓立てと朱塗りの水指があり、右の壁側に押板があって水墨画が掛かり、黒塗りの卓の上に青磁の香炉が置かれている。左奥に床の間があって水墨の山水画が描かれた貼り付け壁が仕込まれていた。
この絵巻に描かれているのは裕福な人の屋敷の様子ではあるが、この時代、喫茶の風は既に貴賤を問うことなく流行していて、囲炉裏に釜を掛けて茶をたてることは庶民の間でも広まっていたと言われる。民間にも茶室に近い設えが既に出来上がっていた。それで、どのような室礼でどのように茶を飲むかという問題になる。
ここから、16世紀の紹鷗 (じょうおう) の茶室までは近い。1502年、珠光が80歳近くで亡くなった年に紹鷗は生まれていて、その弟子の一人が利休だった。紹鷗の茶室は、4畳半で炉が切ってあり、床の間に唐物名物一つ飾り、和紙の貼り付け壁、すでに押板は無く、天井高が低い。光が変わると名物の外見が変わるので北向きの部屋だった。その他に、書隠と二間が併設されている。珠光の茶室は畳敷きの四畳半だったといわれるが、紹鷗の茶室に似たものだったと考えてよいだろう。
珠光が京都に出て地下 (じげ) の人々を主な対象として生み出した茶の湯は、自由都市堺で、応仁の乱から逃げ出した文化人と豪商、町衆の結びつきによってその下地が形成され、座敷と露地に工夫をこらした「市中の隠」での茶の湯として展開されていった。それが、後に紹鷗を経て千利休によって草庵座敷での究極の侘び茶として完成するのである。
今の世は
僕は、思うのだけれど、珠光は、能阿弥から教えを受けていたのだから、武将や僧侶の会所における茶の湯が権威を持ったものであることは当然分かっていた。豪奢な建築、絢爛な飾り物の中で政治・軍事・経済・文化のリーダーたちが集い、一服の茶を飲む。室町幕府が如何に形骸化していたとしても、大名たちが行うこの文化が政治・経済・軍事と密着していたのは十分理解していたはずである。その彼が貴賤を問わない「心のしつらい」「心の所作」とも呼べるような茶の湯を求めたことは象徴的なことだった。
やがて、室町幕府を揺るがす波乱が訪れる。応仁の乱である。その乱を避けて江戸の品川に滞在していた心敬は、文明三年 (1471)、師の正徹の十三回忌の追善供養ための百首和歌を詠作した。それが『心敬僧都百首』である。その中に戦乱の世を嘆いてこう詠んだ。
今の世は花もつるぎのうゑ木にて 人の心をころす春かな 心敬
この大乱を端緒として猖獗を極める戦国の世となりはてる。干戈倥偬 (かんかこうそう) の時代である。その覇者たろうとした信長は、会所の茶や大名茶で行われたような政治的な茶を利休を使って空前の規模で復活させた。「茶の湯ご政道」である。茶の湯は政商と武家との政治セレモニーとなったのである。茶は武家の儀礼となり、それを利休が差配し、同時に文化の下剋上と呼ばれるほどに茶の湯の改革を断行した(生形貴重)。しかし、この二つの方向は明らかに相反している。利休の祖父は、かつて千阿弥と呼ばれる義政の同朋衆の一人だったが、利休は、珠光の侘び茶を祖とし、それを徹底しようとした。この茶の湯を大成したのは間違いなく利休だ。だが、彼の悲劇も、遠因は、この相反する二つの流れにあったのではなかろうか。花もつるぎの植木となったのである。


矢部良明『戦国武将 茶の湯物語』
三好氏の茶の湯
三好氏は阿波の豪族で、阿波の守護細川氏の元で勢力を拡大し、三好長慶の代に細川晴元を近江に追い払って畿内に勢力を伸ばし全国制覇を夢みるも配下の松永久秀の讒言で実弟を殺め、間もなく病死する。この長慶の弟の実休は37歳の若さで討ち死にするけれども新興の茶の湯にとって重要な人物であったし、長慶の祖父の従兄弟である三好長政は宗三と称して紹鷗や津田宗達という大御所を迎えて茶会を開いている。堺の町衆が信長と提携する以前はこの三好一族との交わりが濃厚だった。茶の湯と武家との繋がりは、三好氏 → 信長 → 秀吉と続くが家康は慶長五年に関ケ原で勝利するまでは茶の湯にはあまり興味が無かったらしい。
宗三の茶会記を宗達が書き残していて、囲炉裏での口切の茶会で、床に金仙花と柳と梅が活けられた釣舟の花入れ、曜変天目での濃茶、松嶋の茶壷といった名物が用いられ、別儀や無上といった最高級の茶が使われ、書院では坐り布袋が彫られた香炉などが飾られていたという。ここで使われた松嶋の茶壷は四か月後に宗三が三好長慶に討たれて武野紹鷗の手に落ちている。紹鷗の死後、娘婿の今井宗久が持ち出して武野家と訴訟沙汰になったが、やがて信長に献上されるという変遷を経た。

矢部良明『エピソードで綴る名物物語』
表紙は曜変天目『稲葉天目』
足利義満の時代に活躍した同朋衆では善阿弥が突出していて義満の所蔵印「天山」「道有」のある唐絵はことのほか珍重されたが、それを鑑定したのはこの善阿弥だという。それらの作品には徽宗、牧谿、梁楷、無住子などの作品があり、とりわけ牧谿の点数は多い。彼ら同朋衆が中国から将来した絵画や工芸品などの格付けを行い、それらを会所と呼ばれる御所に飾り付けるいわゆる室礼 (しつらい) の責任者、つまりアートディレクターだった。足利義教、義政に仕えた同朋衆の能阿弥 (1397-1471) は当時最も優れた鑑定家、批評家、当代一流の画家、連歌師、茶人、表具師であったと言われる。彼が40歳の年、義教が花の御所と呼ばれた室町殿に後花園天皇を迎えるという一世一代の晴れ舞台が用意された。これは義教の父である義満が後小松天皇を別荘の北山殿に迎えたのと匹敵するほど盛大だったと言われる。その記録は『室町殿御幸御餝記/むろまちどのぎょうこうおかざりき』と題されて残されている。この時、義教が用意した会所は新造会所、泉殿と旧来の会所の三カ所だった。義満の時代からだが、これらの会所で展示された作品に共通するのは当時の明の時代の作品ではなく中国ルネサンスと呼ばれる宋の文物が圧倒的に選ばれていることである。これは明に学んだ雪舟が、当時の中国には学ぶべきものがない漏らしたことと符合する。これは同朋衆の優れたセンスと見識であると同時に当時の文化におけるコンセンサスであったかもしれない。

能阿弥『四季花鳥図屏風』1469 左双

山上宗二 『山上宗二記』「茶話指月集」収載
紹鷗が茶会での客人のもてなしについて「一座建立 (いちざこんりゅう) 」をモットーにしていたが、それを利休が嫌ったことは本文に述べておいた。それについて宗二が、珍しく語り聞かせた利休の話を書き残している。道具の披露や口切といった重要な茶会は勿論のことだが、日常の朝夕の茶会にあっても、路地に入って出るまで、客は亭主に対して一期に一度の参会のように深く心を致し畏れるべきである。公の事も世間の噂話など無用である。夢庵 (牡丹花肖柏) の狂歌にあるように「我仏隣の宝聟舅天下の戦人の良し悪し」つまり、自分宗教、隣の宝、聟 (むこ) や舅 (しゅうと) の話、戦の事、人の良し悪しなどの話は無用だというのである。亭主も亦、心の底から客をもてなし、貴人や名人は言うまでもなく普段に寄りあう人たちをも心の底では名人に対するようにすべきである。しかし、表向きは粗相 に (地味に) 為すべきであると述べている。この「一期一度」は、後に幕末の大老で茶人でもあった井伊直弼の『茶湯一会集』に述べられた「一期一会」という言葉に結実している。

内藤湖南『支那絵画史』1975年
支那学と日本文化研究の巨匠が綴る中国絵画論。
本文に述べた黄筌 (こうせん) と徐熙 (じょき) について補足し、宋代の絵画についても紹介しておく。五代末からの山水画は李成、関同、范寛によって発展し、関同の絵をもとに郭熙 (かくき) が山水画のメルクマールを形づくる。その宋の時代に先だって文化が発展した地域が中原の周囲に存在していた。唐代に玄宗が安禄山の乱で一時、蜀に避難し、僖宗も黄巣の乱で蜀に逃げた。このため当時の優秀な画家たちが蜀に帯同し、その地で活躍し続けた者たちがいたし、都の優れた文物もこの地に流れ込んだ。その土着の作家で名高い画家の一人が黄筌 (こうせん) だった。花鳥画時代を築いたとされ精密な鈎勒画で知られていて中原の宋の画風を一変させたと言われる。
五代の時代、唐の文化が保存された地域として南唐も挙げられている。この地域の画家で後世に大きな影響を与えた一人が花鳥画の徐熙 (じょき) とその孫の徐嵩嗣と徐嵩勲だった。黄筌は孟蜀の朝廷に仕えた人だが、徐熙は江南の名族だったが仕官せず、ありふれた花鳥をそのまま自然に写したと言われる。また江南には唐希雅という花鳥画家もあって徐熙の作品と共に士大夫の家には必ずあるべきものとされた。徐熙の作風は墨で隈を取ってから彩色するもので、孫の徐嵩嗣によって、その画法は発展をみ、本格的な没骨画が開始されるという。

徐嵩嗣 『双兎図鑑』部分 本書より
北宋の山水画は、董源において画中に行き望むべきものであったが、巨然以降は居るべく遊ぶべきものに変化し、何となくそこに居りたいような穏やかな山水が流行していた。ともあれ北宋の末年に徽宗によって北画は大成する。南宋に至って画院は復活し、李唐や李迪といった大家を輩出するが、山賊上がりの蕭照やといった変わり種もいた。南宋の寧宗以降は一種の南宋風といったものが現れ、自然の一角を描く傾向が強まる。梁楷、夏圭・夏森父子、馬遠・馬麟父子などが代表的な作家だが、梁楷は飄逸で知られ、衣文も李龍眠の上品な鉄線描ではなく折蘆描あるいは釘頭鼠尾描を用いたという。他に山水画では米芾・米友仁父子が文人画風の流れを作り、僧侶では玉潤、蜀の人であった牧谿 (法常) がつとに有名である。
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