アーメン
腐ったものが朽ちはてた部屋のなかをすべってゆく。
黄色い壁掛にうつる影。ほの暗い鏡のなかでは、ぼくたちの
手の象牙色の悲しみがアーチを描いている。
茶色の真珠が死んでしまった指のあいだをすべり落ちる。
静けさのなかで
ひとりの天使の青い罌粟 (けし) の眼がひらく。
夕暮れもやはり青い。
ぼくたちの死にたえてゆく時、*アズラエルの影、
それが茶色の小庭をほの暗くする
(吉村博次 訳)
*アズラエルはユダヤ教の死の天使
Amen
Verwestes gleitend durch die morsche Stube;
Schatten an gelben Tapeten; in dunklen Spiegeln wölbt
Sich unserer Hände elfenbeinerne Traurigkeit.
Braune Perlen rinnen durch die erstorbenen Finger.
In der Stille
Tun sich eines Engels blaue Mohnaugen auf.
Blau ist auch der Abend;
Die Stunde unseres Absterbens, Azraels Schatten,
Der ein braunes Gärtchen verdunkelt.
オーストリア=ハンガリー帝国時代のプラハに生まれたライナー・マリア・リルケ(1875-1926)は、少し前まで同じ帝国内であったザルツブルクに生まれた詩人、ゲオルク・トラークルの作品を読み、親交のあった『ブレンナー』誌の編集者であったルートヴィヒ・フォン・フィッカー(1880-1967)に宛て、その感想をこう手紙に託した。
「‥‥そうこうするうちに、『夢のなかのセバスチアン』を入手し、たくさん読みました。感動し、驚き、予感し、そして、途方にくれながら。と言いますのは、これはすぐわかってくることですが、ひびきの始まり方と消え方を成立させているものは、二度とない唯一無比のもので、ちょうど、一つの夢を生み出す状態のようだからです。彼の近くにいる者でさえ、いつまで経っても自分は局外者となって、ガラスに顔を押しつけるようにして、それらの詩の眺めや洞察を経験することになると思われます。と、言いますのは、トラークルの体験はちょうど鏡像の中で行われ、その体験が彼の空間の全体をみたしていて、その空間へは、鏡のなかの空間のように入り込めないからです。彼は何者だったのでしょう(『ハイデガーとトラークル』加藤泰義 訳)。」
ここには大きな感動とともに当惑する偉大な詩人の姿があった。この27歳で早世したトラークルとはいったい何者だったのだろうか。そして、トラークルの「夢を生み出すようなひびき」とは何だったのだろうか。
今回の夜稿百話は、細川俊夫さんの曲『星のない夜――四季へのレクイエム』や『嘆き』でも、その詩が使われ、寂寥の境から聞こえる隔絶した人々の声、魂を襲う暗き佳き響き、静まれる本質が安らかに憩う原初へと帰還してゆく詩人とハイデッガーが讃えたゲオルク・トラークルを取り上げます。
ゲオルク・トラークルの生い立ち
ゲオルク・トラークルは1887年、オーストリア=ハンガリー帝国の古都ザルツブルクで生まれた。モーツアルトの生地として有名な街だ。オーストリアは、彼の生まれた20年前にハンガリーと二重君主体制に移行しており、表面的には尚、黄金時代を謳歌しているように見えたが、崩壊と没落の足音は日増しに高まっていた。ここは古くから塩の産地として、あるいは交通の要所として栄え、カトリック文化の中心地として多くの教会や修道院が立ち並ぶ、古都である。
父は手広く鉄鋼商を営む商人で、父の店には金属の夥しい棚があった。広い庭のある大きな邸宅に住み、何人もの使用人を使っていた。その四番目の子(腹違いの兄も含めると五番目)として生まれた。母は、高価な古美術の収集に熱狂する打ち解けない温かみに欠けた女性であったという。ただ、彼女は、音楽が好きで子供たちは皆ピアノを習ったが、とりわけトラークルと妹のマルガレーテは音楽的に優れた才能を持ち、妹は後にピアニストになった。この妹マルガレーテとの絆は強く、近親相姦を疑う人もいる。シーレとその妹のゲルトルーデの場合もそうだけど、確たる証拠があるわけではない。
トラークル兄弟姉妹を実質的に育てたのはアルザス出身の保母兼家庭教師となったフランス人女性で、トラークルはギムナジウム(中高一貫校)に入る前に既にボードレールの『悪の華』などを原典で読んでいたと言われる。ギムナジウムでは文学を愛好する友人たちと文学サークルをつくり、ランボー、ヴェルレーヌ、ボードレールらフランス象徴派の詩人たちや、同じくオーストリアの象徴派の詩人ホーフマンスタールなどの影響下にあった。それに心中を打ち明けたのはノヴァーリス、ヴァーグナー、ニーチェやドストエフスキーといった作家たちだった。早熟の文学青年がそうであったように象徴主義デカダンスに感染したのだろうが、この感染はかなり重度だったようだ。煙草や酒、それに15歳でクロロホルムの陶酔に手を染め始めたと言われる。麻薬と酒とは、ついに手が切れなかった。第四学年、第七学年と落第し、ついに退学となるのである。
幼年時代Ⅱ
‥‥
そっと 開いた窓が軋む、涙をさそうように
丘のふもとの朽ちた墓地の光景が 心を動かす、
物語られる伝説の思い出、時おり 魂は明るくなる、
朗らかな人々のことを、暗い金色の春の日々のことを想うときには。
(『夢の中のセバスチャン』より 中村朝子 訳)
薬剤師としての資格を得たトラークルは、ザルツブルクの薬局「白い天使」で1905年から三年間の実習を務める。この薬局は「天使薬局(Engel Apotheke)」という名で現在でもザルツブルクにあるらしい。その間に二つの戯曲を書いていて、最初のものは好評で一幕ものとして上演されたが、二作目はひどく不評で彼を失望させたようだ。この頃、手紙にこう書いている。
「‥‥残念ながら、ぼくは又クロロホルムに逃げてしまった。その効果はすさまじかった。その後八日間――ぼくの神経はこわれてしまった。けれどもこうした薬で自分を鎮める誘惑にぼくは抵抗する。ぼくには破滅がもう間近にみえているのだから‥‥(中村朝子 訳)」
このように罪悪感に苛まれながらも、モルヒネやヴェロナール(睡眠薬バルビタール)といった薬物にも手をだすようになる。それらの中毒症状は異なるものの多量に摂取すれば死に至る。1908年に最初の詩『朝の歌』が書かれ「ザルツブルク国民新聞」に掲載された。この年、ウィーン大学で薬学を専攻するようになる。
トラークルは、ウィーンで活躍した画家のシーレより3歳年上になる。二人は27歳と28歳でこの世を去ることになるのだが、同じ時代を生きたこの二人に接触はなかったようだ。しかし、同時代の画家であるオスカー・ココシュカ(1886-1980)とは交友があった。アルマ・マーラーとココシュカが恋愛中で『嵐の花嫁』を描いていた頃、そのアトリエにしばしば遊びに行っている。ちなみに、アルマを失ったココシュカは等身大のアルマ人形で傷心を慰めることになるが、その頃はアツアツだった。邪魔にされなかったんだろうか。
色彩 秘密のコード
トラークルはウィーンでランボーの詩を知った。悪臭のまわりを唸り飛ぶ黒い蠅の A (アー) 、誇らかな氷河の槍と白い王たちのおののく繖形花 (さんけいか) の E (ウー)、緋の色と吐かれた血、悔悛の思いに酔った美しい唇の笑い I (イー) ‥‥。『母音』は、彼を酩酊させ、『酔いどれ船』はめくるめく色彩の反乱を引き起こしただろう。トラークルの詩に登場する色にも、赤や黄色などの強い原色は多い。
例えば『小協奏曲』という5連の詩のそれぞれの冒頭には「夢のようにおまえをゆすぶる、ひとつの赤」「真昼どき、黄色い畑が流れてゆく」「緑の沼で腐敗が燃えている」「ダイダロスの霊が青い影となって漂い」「気味悪い壁掛けのそばの壺のなかではひときわ冷たい菫色が花咲いている」といった詩句が連打される。色彩が詩を先導していくのだ。
トラークルの詩における言葉は、優れた詩が常にそうであるように多義的である。だからといって、風に舞うように不定の多様な意味になってバラバラに散ってしまうわけではないとハイデッガーは言う (『詩における言葉』)。全体を結びつけているのは、音楽的な調子であり、それが詩の集中や凝縮に由来するのである。言葉のいくつかの音が同音となって鳴るような調和に基づいていて、ユニゾンのような厳格な響きとなるのである。
錯乱
屋根からしたたる黒い雪
赤い指が お前の額の中に沈み込み
冷たい部屋に 青い根雪が沈む、
それは 恋する者たちの息絶えた鏡だ。
重い破片となって頭は砕け そして想う、
青い根雪の鏡に映る影たちを、
死んだ娼婦の冷たい微笑みを。
撫子の香の中で 夕べの風が啜り泣く。
(『錯乱』中村朝子 訳)
Delirium
Der schwarze Schnee, der von den Dächern rinnt;
Ein roter Finger taucht in deine Stirne
Ins kahle Zimmer sinken blaue Firne,
Die Liebender erstorbene Spiegel sind.
In schwere Stücke bricht das Haupt und sinnt
Den Schatten nach im Spiegel blauer Firne,
Dem kalten Lächeln einer toten Dirne.
In Nelkendüften weint der Abendwind.
第一次大戦前夜
1910年(23歳)、ウィーンで薬学の修士号を取った直後、父親が亡くなる。家業は母親と義兄によって引き継がれるが、次第に衰退し没落していった。ウィーンでピアノの学んでいた妹もベルリンに移っていく。その後、一年間の兵役を終え、ザルツブルク、ウィーン、インスブルックを転々としながら職を求めた。1912年、軍薬剤士官補となったが、すぐに予備役となり、自滅的な就職活動が続く。この年、最も重要な出会いが訪れた。それは、風刺的な時代批判で一世を風靡した文学者カール・クラウスと表現主義雑誌である『ブレンナー』誌の編集者ルートヴィヒ・フォン・フィッカー(1880-1967)との出会いであった。クラウスは、後に第一次大戦を徹底的に批判した風刺劇『人類最後の日々』を書いた。700人にものぼる登場人物の大半が実在し、ほぼオーストリアを中心に、彼らに関するエピソードを再現したものであるという。
1913年(26歳)、2月にはザルツブルクにいて友人のカール・ボロメウス・ハインリッヒ宛てに、「変化する奇妙な戦慄、それは肉体的に耐えがたいほどに感じられ、暗黒のいくつもの幻覚に、もはや死んでしまっているかのような気すらします。そして、恍惚状態が高まれば、石のような硬直状態に陥るのです。そして、さらに悲しい夢を見つづけています。(中村朝子 訳)」と書いている。
この年の3月、ウィーンの楽友協会ではシェーンベルクがヴェルクやヴェーベルンの作品を上演し、この「スキャンダルコンサート」が物議をかもして「文学と音楽のためのウィーン学生連盟」の会長であったオスカー・シュトラウスが公の場でシェーンベルクに平手打ちをくらわせ、反対にトラークルの友人だったエアハルト・ブッシュベックによってビンタを見舞われたという事件が起こっている。(リュディガー・ゲルナー『トラークル』)
同3月には睡眠薬ヴェロナールの中毒で入院していて、精神状態はかなり下降していた。この頃、ミュンヘンのランゲン社からの出版の話が結局実現せず、彼をひどく落胆させたのである。だが、4月初旬頃には、第一詩集であるその名も『詩集』が、ライプチッヒのクルト・ヴォルフ社から出版されることが決まった。カール・クラウスの口添えがあったといわれている。この年、ウィーンで建築家のアドルフ・ロース、カフェ・ツェントラルムに入り浸ってカフェ文士と呼ばれたペーター・アルテンベルク、そして、シーレと並ぶ表現主義の画家であるオスカー・ココシュカらとの親交をいっそう深めている。
6月には、敬愛するフィッカー宛てにこのように書いている。
「あなた方の善良さにぼくは全く値しません。あまりにもわずかしかない愛情、あまりにわずかしかない公正さ、同情心、そして、そう、常にあまりにわずかな愛情、それに反して、あまりに多くの非情さ、高慢、そして様々な犯罪性――それが僕なのです。確かにぼくは、ただ弱さと臆病からだけ悪いことを犯さずにいるのです。それによってぼくの悪意は、さらに恥ずかしいものとなっているのです。ぼくは魂が憂鬱によって毒された、この呪われた身体にこれ以上宿ろうとしない、いや宿れない、そういう日々がやって来ることを、魂が、この神のいない呪われた世紀のあまりに忠実な写しでしかない、汚物と腐敗から形づくられた嘲りの姿を離れる、そういう日がやって来ることを切望しています。神よ、純粋な喜びのただひとかけらのきらめきを――そうすれば救われるのに、愛を――そうすれば解き放たれるのに。(中村朝子 訳)」
赤いカーネーションは戦地へと
そして1914年、第一次大戦がはじまった。まるでトラークルのすべてがこの1914年に突進していくようだった。破滅へと。それはオーストリア=ハンガリー帝国の没落の端緒でもあった。
トラークルは8月に薬剤士官補として家畜用貨車で東部戦線のガリツィアに向かう。ポーランドとウクライナが接する地域だ。見送りに来たルートヴィヒ・フォン・フィッカー(1880-1967)に出発の直前、彼は黙って紙片を差し出した。その紙片にはこう書かれてあった。「死者に似たような存在となっているそのときどきに感ずること――すべての人間は愛に値する。目覚めているとおまえは世界の苦さを感じる。その苦さのうちに、おまえの解かれることのない罪のすべてがある。おまえの詩は不完全な贖い」(加藤泰義『ハイデガーとトラークル』/出典はオットー・バジル『トラークル』)。軍帽に挿した赤いカーネーションが幽霊のように揺れていたという。何故、詩は完全な贖いにはならないのだろうか。彼がドストエフスキーの崇拝者であったからか ? 彼は、いぶかしげに見上げるフィッカーに「もちろん、いかなる詩も罪の贖いにはなり得ませんが」とも付け加えたという。
表現主義文学とトラークル
表現主義文学については、瀧田夏樹さんが『ドイツ表現主義の詩人たち』のなかで述べていることを少しご紹介しておこう。20世紀初頭のドイツは、皇帝ヴィルヘルム2世の体制下にあり(同盟国のオーストリアではフランツヨーゼフ1世の体制下だった)、第一次大戦での敗北の後は帝政の廃止と共和制への移行という激動期を迎えた。この第一次大戦を挟む1910年頃からの15年間がドイツ表現主義の時代だという。近代化への不安と緊張とともに、若い知識人たちの厳しい現実批判と社会体制の変革という未来に対する熱い期待がそこには入り混じっていた。
これが表現主義の時代背景であり、赤裸な「自我」が直接的に「社会」や「世界」に対決するという特有で、ある種悲愴な構造が成り立っていたという。両者は密接に溶け合っていて、精神を直接行動に駆り立てる、此の自己燃焼による完結性こそドイツ表現主義特有の姿であると瀧田さんはいう。芸術が常識的な意味での審美性を自ら否定し、固定的なフォルムを解体してゆく過程は過激で、劇的な様相を見せるのである。こう見ていくと、トラークルのメモの謎めいた言葉「おまえの詩は不完全な贖い」という意味が分かる気がしてくる。彼は、表現主義の時代に生きた詩人だったが、ゴットフリート・ベンのような表現主義者ではなかった。
ハイデッガー、トラークルを語る
マルティン・ハイデッガーが最も愛した詩人は、フリードリヒ・ヘルダーリン(1770-1843)、ライナー・マリア・リルケ(1875-1926)とこのトラークルだったといわれている。既にトラークルの詩集が刊行される以前、学生時代にフィッカーの主催する『ブレンナー』誌で彼の詩に触れ、自らの学位取得の記念に彼の『詩集』を買い求めたという。ちなみにハイデッガーが生まれたのは、トラークルが生まれた2年後だった。
1950年『言葉』、1952年『詩における言葉』と、ハイデッガーはトラークル論を書いた。前者では静寂の響としての言葉が語られ、後者では言(こと/Sagen)の働きを詩の作品にまで凝縮させていく場所が俎上にのぼる。後者の『詩における言葉』をご紹介したい。ハイデッガーは、詩人(トラークル)が、彼の詩『魂の春』のなかで魂のことを「地上における余所者」と名づけていると指摘する。そして、『夢の中のセバスチアン』では、こう没落について歌う。
おお、青い流れをくだり、忘れられたものを
思いながらゆく歩みの、なんと静かだったことだろう、緑の枝々で
鶫(つぐみ)が異郷の人の没落へと誘う叫び声をあげていたときに。
(『夢の中のセバスチアンⅡ』吉村博次 訳)
没落は破壊でも消滅でもないという。それは安らぎと静寂(しじま)に達することだった。そして、度々登場する「蒼き野獣」は、死すべきものを指しており、あの余所者を思い起こし、一緒に人間の本質が根づくべき故郷を訪れてみたいと願うという。ここらあたりは、ノヴァーリスの獣と穏やかな若者という設定に似て『夜の賛歌』を思いださせる。「死」とはトラークルにとって「余所者」が呼び込まれていく「下降」を指し、人間の腐りきった姿を見捨てることを意味するという。『死の七つの歌』ではこう歌われる。
おお、人間の腐敗した姿――冷たい金属で組みあわされた、
沈鬱な森の夜と恐怖、
また、獣の焼けつくような野生。
魂の夕凪。
(『死の七つの歌』吉村博次 訳)
余所者とは、先を行く者としてさすらい続けることをわが身に引き受ける人のことであり、このよそよそしい者は下降へと向かい、蒼さの薄明のなかに消えゆく。そこには魂の静けさ=凪が存在する。そして、自己を喪失する者は、むしろ己を解き放ち、ゆっくりと今までの道行から逸れてゆく。それが向かう場所をハイデッガーは「人里離れた寂寥の境」と呼ぶ。どこでもない場所。ここが、言(こと)の働きを詩の作品にまで凝縮させていく場ということになるのだ。そこでは、人ではなく「言葉が語る」というのである。
茨の茂みが鳴りひびき、
そこには月のようなおまえの両眼がのぞいている。
おお、ずっと昔に、エーリスよ、おまえは死んでしまったのだ。
(『少年エーリスに』吉村博次 訳)
エーリスは罪を知らず早逝した純粋な存在としての架空の人物で「神人」の意味もあるといわれるが、この『少年エーリスに』では、朽ち果ててゆく死人ではなく、本質的な転換によって生の原初を越える場所に陥入するエーリスという存在が歌われる。それは、原初よりも尚早い夜明けの原初、時の根源的な本質のうちに在るものである。そして、人間なる種族がいつか目覚めるのを待っているという。エーリスについては欄外の中村朝子訳『トラークル詩集』の頁に補足しておく。
原初を越える場所が寂寥 (せきりょう) の境であり、蒼き夜や魂の夜陰の羽ばたきなどを全て含む場所だ。そこには凝集する力がまずあり、寂寥の境が自ら展開してゆく基底となる。自らを映し出して展開する鏡というわけだろうか。この隔絶した寂寥の境は、さきほど見たように凝集させる力であり、雑じり気のない純粋な心であるとハイデッガーはいう。この力は人間という種族がその本来の原初の揺籃期から復活するようにと、未生のものを貯えておく。やがて、友はあの余所者の動きに耳を澄ませ、隔絶していた人々の声の響を聞く。「暗き佳き響が魂を襲う」のである。先達の跫音(あしおと)を「語られた言葉の音声」として聞きとり、自らも世間から隔絶した狂者となる。こういう人々が歌ったものが詩なのである。詩の言葉は、未生の人間世代が、そのより鎮まれる本質が安らかに憩う原初へと帰還してゆくことに答えて、語り出すものなのだとハイデッガーいう。
戦争の狂気グローデック
グローデック
夕暮には、秋めいた森が死をまねく武器の響に
鳴りどよめく、黄金の平野も
また青い湖も、そしてそのうえを、いつになく
暗い太陽がころがってゆく。夜が瀕死の
戦士たちをつつみ、そのうち砕かれた口を洩れる
荒々しい嘆きの声をつつむ。
だが、静かに、牧場の窪地には集まってくるのだ、
怒りの神の住む赤い叢雲(むらくも)が、
流された血潮が、月明かりの冷たさが。
すべての街路は黒い腐敗のなかへそそぎこむ。
夜と星たちが組みあわされた金色の枝の下を
妹の影が、おし黙った森をぬけてよろめいてゆく、
英雄たちの霊に、血を流している頭(こうべ)たちに挨拶しようと。
するとかすかに、葦のなかで、秋の笛の暗い音いろがひびく。
おお、つねにもまして誇らかな悲しみ ! おんみら青銅の祭壇よ、
精神の熱い焔を、きょうはひとつの巨大な苦痛が養っているのだ、
あのまだ生まれてこない孫たちを。
(吉村博次 訳)
Grodek
Am Abend tönen die herbstlichen Wälder
Von tödlichen Waffen, die goldnen Ebenen
Und blauen Seen, darüber die Sonne
Düstrer hinrollt; umfängt die Nacht
Sterbende Krieger, die wilde Klage
Ihrer zerbrochenen Münder.
Doch stille sammelt im Weidengrund
Rotes Gewölk, darin ein zürnender Gott wohnt
Das vergoßne Blut sich, mondne Kühle;
Alle Straßen münden in schwarze Verwesung.
Unter goldnem Gezweig der Nacht und Sternen
Es schwankt der Schwester Schatten durch den schweigenden Hain,
Zu grüßen die Geister der Helden, die blutenden Häupter;
Und leise tönen im Rohr die dunklen Flöten des Herbstes.
O stolzere Trauer! ihr ehernen Altäre
Die heiße Flamme des Geistes nährt heute ein gewaltiger Schmerz,
Die ungebornen Enkel.
彼の所属する部隊がその地、ガリツィアの小さな町グローデックに投入され、病室代りの納屋で二昼夜、たった一人で90名を超える重傷者の看護をしなければならなかった。医者はいなかった。瀕死の病人たちの叫びと呻き声は止まない。やがて、患者の一人が、頭部に銃弾を撃ちこんで自殺した。彼は、もうその場にいられなかった。でも外に出るとスパイとして捕らえられていたルテニア人たちが首をつるされ風に揺れていたという。ある晩、彼は「もうこれ以上生きていけない」と叫んだ。外へ飛び出した彼を戦友たちが追いかけて彼から拳銃を取りあげた。
クラクフの第五軍事病院と入口 1907
やがて、彼は精神鑑定を受けるためにクラクフの野戦病院に移される。そこに、フィッカーが見舞った時、ベッドに横たわったまま『嘆き』とこの『グローデック』を読んで聞かせたという。この作品はトラークルの遺作と言っていい。それから1週間後、1914年11月3日、コカインの過剰摂取によって心臓麻痺で亡くなっている。医療の現場では局部麻酔剤として使われるが、専門家が致死量を知らないはずはない。やはり、自殺であろうか。27歳だった。
ちなみに、トラークルの墓を探し当てたのは、同じクラクフに配属されていて、フィッカーの要請に応じてトラークルを見舞おうとしていた若き哲学者のルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)であった。フィッカーは、彼から「オーストリアの才能が有り貧しい詩人・芸術家」のために父からの遺産である10万クローネという大金を寄付されていた。そのうち2万クローネずつをリルケとトラークルに配分したのであった。ウィトゲンシュタインはトラークルに会いたがっていた。だが、ついに叶わなかったのである。
ルートヴッヒ・ウィトゲンシュタイン
(1889-1951)
ハイデッガーは、この遺作の『グローデック』における「精神の熱き焔」についても語っている。精神の本質が燃え上がるなら、それは道を拓き、明るくし、この道に就かせる。焔というならば、精神は嵐であり、「天を襲い」「神を獲物とする」。精神は魂を追い詰め、旅路につかせ、生気を与える。下降への道行は決してネガティブなものではないのだ。苦痛を伴う精神によって魂は生気に満ち、互いに調和のとれた響きを発することができるという。このとき苦痛のメタファーは、トラークルにあっては石である。彼の詩の中で30箇所を越えて使われる言葉だ (『詩における言葉』) 。
そして、ハイデッガーは、トラークルの詩には歴史性がないという批判にたいして、『詩における言葉』Ⅲの終盤近くにこう述べている。トラークルの詩作活動には歴史を記述する際の「対象」など不要である。彼の詩は高度な意味において歴史的であるからだという。その詩は、人間という種族をその未だ実現されていない本質へと鋳込んでゆく鋳型、すなわち、未来の人類を救済してくれるそういう鋳型の運命を歌っているという。しかし、少なくとも『グローデック』は、戦場で作られ、歴史性を持つ作品ではあると僕は思うのだが‥‥
トラークルは、後年『夢と狂気』という文章の中でこのように述べている。「‥‥青い鏡の中から妹のほっそりした姿が歩み出、彼は死んだように闇に落ちていった。夜毎 彼の口は赤い果実のように割れ そのもの言わぬ悲しみの上で星たちが輝いていた。彼の夢想はこの古い父祖たちの家を満たした。‥‥誰も彼を愛さなかった。彼の頭は暮れてくる部屋べやで嘘と淫らとを燃やした。女ものの衣装の青い衣ずれが彼を柱のようにこわばらせ するとドアの所に母の夜の姿が立っていた。彼の枕元には悪の影が浮かんでいた。おお 君たち夜よ 星よ。‥‥(瀧田夏樹 編訳 『トラークル詩集』より)」
そこにあるのは、鏡と夢と罪悪感と星であった。
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