挫折
挫折よ、わが挫折、孤独、孤高よ、
あなたはあまたの勝利よりも大切なもの、
この世のあらゆる栄 (さかえ) より大切なもの。
‥‥
挫折よ、わが挫折、光る刃と盾よ、
あなたの眼 (まなこ) のうちにこそ私は読み取った、
玉座につけられるとは隷従されるにすぎず、
理解されるとは平にならされるにすぎず、
把握されるとは自分が熟れた果実のように、
摘まれ、食べつくされるにすぎないことを。
‥‥
挫折よ、わが挫折、不死なるわが勇気よ、
あなたと私と、嵐とともに笑おうではないか、
われらの内に死にゆくものをみな葬るために
ともに墓を掘ろうではないか、
そしてわれらは陽の中に毅然と立ち、
危険をはらむ存在となろうではないか。
(『狂人』より 神谷美恵子 訳)
今回の夜稿百話はレバノン生まれ、アメリカで活躍した詩人、画家、小説家として知られるハリール・シブラーンを取り上げました。数々の言語に翻訳された散文詩『The Prophet』(邦題「予言者」) はベストセラーとして名高く、ヒッピーたちのバイブルと言われた。20世紀前半のアラビア文学やカウンター・カルチャーにも大きな影響を与えた作家であり、ウィリアム・ブレイクの神秘主義とも比較され、数多くの絵画やグラフィックを残した作家としても知られる。その詩は多くの歌手たちに歌われ、ジョン・レノンやデヴィッド・ボウイの歌の歌詞にも使われています。
シブラーンの生い立ち
ハリール・シブラーンは当時、オスマン帝国領内であったレバノンの山岳地帯ブシャリ の名門の家庭に生まれている。英語名ではカリール・ジブランと綴られるようだ。両親はレバノンを中心に勢力を持つマロン派 (東方典礼カトリック教会の一派) のカトリック教徒で母は司祭の娘だった。しかし、夫運には恵まれなかった。異母兄と二人の妹がいて、父は薬局で働いていたが、ギャンブルで借財を作りオスマン帝国の徴税人?として転職するも横領の罪で投獄される。当然、家庭は火の車だっただろう。1895年、家族は釈放された父親を残して、アメリカに渡る。この母の決断は大きかった。その親戚を頼ったのである。
一家はボストンに住み、母はレースやリネンの行商を始め、やがて裁縫師として一家を支えた。シブラーンはボストンの移民のための特別クラスで英語を学び、やがてセルツメントハウス (社会福祉施設) の一角を担うデニソンハウスの美術学校に通い、前衛的な写真家、出版者、アーティストであるフレッド・ホランド・デイにアート活動を励まされるようになる。彼がシブラーンを撮った写真が冒頭のポートレートである。それに、1898年には8歳年上の詩人ジョセフイン・プレストン・ピーボディと知り合い、憧れをいだいたようだ。子供向けの物語や短編小説でも知られる人だ。この年、彼の絵は本の表紙として使われたようである。
同年、15歳の時にシブラーンは自国の文化を学ぶために母と兄によってベイルートに送られ、マロン派のカレッジ・オヴ・ウィズダムで三年間学ぶことになる。在学中に学生雑誌を作り詩への興味を搔き立てていた。18歳で卒業後、パリの美術界を覗き、ギリシア、イタリア、スペインを訪れている。しかし、1902年に妹の一人スルタナが亡くなりボストンに帰還、翌年兄プロスト、母カムレが立て続けに旅立った。
火の文字
それならば夜々はわれわれの傍 (かたわら) を素通りし、
運命はわれらを踏みにじるにすぎないのか。
われらは年月にのみこまれ、すべて忘れ去られ、
インクでなく水で記された名のみ頁 (ぺージ) に残るのか。
この生命はかき消され、この愛は消え失せ、
これらの希望 (のぞみ) はうすれ行くというのか。
われらが建てたるものを死がうちこわし、
われらのことばも風で吹き散らし、
われらの営為 (いとなみ) も闇がかくしてしまうのか。
では人生とはこうしたものなのか。
跡をとどめぬ過去、過去を追う現在 ?
あるいは現在と過去を除いては意味なき未来 ?
われらの心にあるすべてのよろこびと
われらの精神をかなしませるものすべての結実 (み) は
われらの知る前に姿を消してしまうのか。
‥‥
この世の生とその中のあらゆるものは
われらが死とよび、恐怖と名づける覚醒 (めざめ) の
かたわらでの夢にすぎないのだ。
夢、そう。でもそこでわれらが見るもの
為すものは、すべて神とともにつづいて行く。
われらの心から生まれる微笑 (ほほえみ) と嘆息 (ためいき)とを
大気はことごとくたずさえ行き、
愛の泉から湧き出るくちづけのすべてを
たくわえつづけるのだ。
‥‥
(『涙と微笑』より 神谷美恵子 訳)
ハリール・シブラーン 画
『メアリー・ハスケルの肖像』
時にシブラーンに微笑みが訪れる。リルケもそうだけれど詩人というものは女性に援助されるようにできているんだろうか。1904年に先ほどご紹介した写真家のデイのスタジオでシブラーンの作品が展示された時、女子学校の校長だったメアリー・エリザベス・ハスケルと知り合い、恋愛感情を超えて彼女は生涯、彼の保護者・支援者となった。この年、アル・モハジャー誌の編集長と出合い、翌年からアラビア語のエッセイを出版できるようになる。特に1906年の小説『谷のニンフ』、1908年の『反抗する精神』(いずれも英語のタイトル) は成功を収めた。後者は世俗と教会とを痛烈に批判したために危険な作家と言うレッテルを貼られ、マロン派から破門の噂が広められ、レバノンには帰れなくなる。
アートの世界へ
1908年メアリー・ハスケルの援助でシブラーンはパリ留学を果たし、アカデミー・ジュリアンに通いピエール・マルセル=ベロノーにも学び、1910年に帰国している。恐らく修業時代の作品と思われるけれど『母の肖像』が残されている。これを見ると古典的な絵ではなく印象派風の明るい画面になっている。
ハリール・シブラーン『母の肖像』1908-1914頃
友人からは「20世紀のウィリアム・ブレイク」と言われた彼だけれど、そんな雰囲気はないでもないがブレイクの方がマニエリスム的な明確な輪郭線と遥かに破天荒なイメージを持っていると言えるだろう。むしろ、シブラーンの作品にはラファエル前派のようなテイストがあるように思う。ただ、彼には前世の光景を垣間見たり、眠りに就く前に自身が分裂するのを感じたりすることもあったと言うからブレイクのようなヴィジョンがあったのかもしれない。ニューヨーク移住後は何度かギャラリーで展覧会を開催している。
左 ハリール・シブラーン『母なる海に向かって下降する三位一体の存在』1923
右 ウィリアム・ブレイク原画 ロバート・ブレア 詩『墓』1808
ハリール・シブラーン
左 『盲目』1915 右 『預言者』のための挿絵「痛み」1923
文壇への道
1911年にはニューヨークへ移る。翌年、アラビア語による『折れた翼』が出版され、この頃、初のアラブ人女性文学者といわれるレバノン系のメイ・ジアーデがシブラーンの詩に関する記事を書いたことが契機となり、やがて文通が始まりシブラーンが亡くなるまで続いた。一度も会ったことはなかったが、プラトニックな愛の感じられる手紙のやり取りだったと言われている。アラビア語で新聞に記事を掲載し始めるのもこの頃である。1914年にはアラビア語での作品『涙と微笑』を発表する一方、1918年には英語による作品『狂人』を発表。
メイ・ジアーデ(1886-1941)
一方で、1920年には北米初のアラビア語による文学団体であるフェザーリーグ (羽連盟) を再結成し、その会長に就任している。ボストンは当時、移民文学者の一大拠点であり、英語とアラビア語の二重言語による彼らの文学は移民文学と呼ばれた。レバノンなどの国内に留まっていた文学者たちは彼等を敵視したという(関根謙司『アラブ文学史』)。
シブラーンは15歳からベイルートのカレッジ・オヴ・ウィズダムで学んでいた頃、19世紀のシリア人作家フランシス・ムラッハ (1836-1874) の作品に多大な影響を受けたと言われる。ムラッハはフランスのロマン主義文学を中東に馴染ませ、オスマン帝国の支配を暗に批判し、「アラブ・ルネサンス」と呼ばれたナフダ運動の一翼を担った人だった。ナフダ運動とは自由な経済と西洋との融和を図ろうとする政治的立場を指している。ムラッハの権力への反抗は、シブラーンの若き血潮をたぎらせたに違いないし、ニーチェへの傾倒はマロン派の教会への批判を先鋭化させることになる。
移民文学者たちは、彼等と祖国の間を現実によって引き裂かれた人々だったが、それゆえに未来への希望をその作品に託した。アラブの伝統から抜けて洗練された欧米文学に倣った作品は、アラブの近代詩や小説にあらたな傾向をもたらしていくことになる。しかし、中東の情勢はパレスチナ問題を核に益々悪化していく。パレスチナ生まれのマフムード・ダルビーシュやシリア生まれのラフィク・シャミが祖国を離れて母語とは異なる作品を書いていったことは記憶に新しい。
ハリール・シブラーン “THE PROPHET”
『預言者』1926年版
1923年には『予言者』が出版される。本作はシブラーンが10代の頃から原稿を書き始めていた作品で、予言者アル・ムスタファが12年の歳月の間、迎えの舟を待ち望んだオリファリーズの町を離れ、船出する折の複雑な心境を吐露する所から始まる。その優れた英文は、マロン派独特の音楽的祈祷の旋律を美声だった母から聞かされた賜物ではなかったかという。(関根謙司『アラブ文学史』)こんな冒頭になっている。
アル・ムスタファ ―― この選ばれ、愛でられる者 ―― 自らの時代への曙光 (よあけ) ―― は、オリファリーズの町で、十二年ものあいだ、おのれが生まれた島に連れ戻してくれる船を待っていた。(『予言者』小林薫訳)
内容はアル・ムスタファ が人々の「愛」「結婚」「子供」「友情」などに関する26の問いに答える形で展開される。例えば赤ん坊を抱いた女が子供たちの話をしてくれるように頼む。
‥‥
あなたがたの子どもたちは
あなたがたのものではない。
彼等は生命そのもの
あこがれの息子や娘である。
彼らはあなたがたを通して生まれてくるけれども
あなたがたから生じたものではない、
彼らはあなたがたと共にあるけれども
あなたがたの所有物ではない。
‥‥
あなたがたは彼らの体を宿すことはできるが
彼らの魂を宿すことはできない、
なぜなら彼らの魂は明日の家に住んでおり、
あなたがたはその家に夢にさえ訪れられないから
あなたがたは彼らのようになろうと努めうるが、
彼らに自分のようにならせようとしてはならない。
なぜなら生命はうしろに退くことはなく
いつまでも昨日のところに
うろうろ ぐずぐず してはいないのだ。
‥‥
(「子どもについて」神谷美恵子 訳)
1928年には『人の子イエス』、ジョン・レノンの歌の歌詞にも使われた『砂と泡』なども出版されている。レノンが亡き母親のために作曲した『ジュリア』の冒頭で「僕が喋る言葉の半分は意味がない / それでも口にするのは、あなたに届けたいから」というシブラーンの詩句を使っている。1931年には『大地の神々』が出版されているが、この年、結核と肝硬変のために亡くなっている。48歳だった。
シブラーンの宗教と神秘性
彼にはインドのグルやスフィーたちのように深い智慧から流れ出る飾らない言葉がある。宗派にこだわらないエキュメニカルな宗教性を持っていた。嫌ったのは宗教の政治化だ。下のデッサンではエジプトのファラオ、仏陀、シュメールのラマス (人頭有翼雄牛像)、そしてイエスが一緒に描かれている。一説には、シブラーンは、メアリー・ハスケルらに前世の自分を数回経験したと語ったという。 ある時期はイタリアに、ある時期はギリシア、高齢になるまでエジプトで、カルデアでは数回、そして、インドとペルシャにいた記憶を想起していたらしい。ブレイクのように時空を超えることが度々あったようだ。
ハリール・シブラーン
『狂人 彼の寓話と詩』のイラスト 1918
ラマス (シェドゥ) 新アッシリア時代
このように宗教の本質へと接近しようとする姿勢、フランシス・ムラッハから受け継いだ強い倫理観、ニーチェからの未来への意志、ロマン主義的な世界観、アメリカにおける周縁者としての立場と言ったものがアメリカを問わずヒッピー世代の共感を得たことは間違いないだろう。彼にとってガイヤは傷つき荒れ狂う星ではなく真珠のように美しかった。
おお地球よ
なんと美しく尊いものであることか、地球よ。
光に全き忠誠をささげ、
けだかくも太陽に服従しつくすあなたよ。
なんと愛らしきものであることか、地球よ。
もやのヴェールをまとう姿も、
闇につつまれたかんばせも。
曙の歌のなんというやさしさ、
夕べの讃歌のなんという烈しさ。
地球よ、十全にして堂々たるものよ。
‥‥
あなたは私の見るものと私の識 (し) るもの。
あなたは私の知と私の夢。
あなたは私の飢えと私の渇き。
あなたは私の悲しみと私のよろこび。
あなたは私の放心と私の覚醒。
あなたは私の眼 (まなこ) に生きる美であり、
心にあふれるあこがれであり、
わたしの魂の内なる永遠の生命である。
あなたは「私」なのだ、地球よ。
私が存在しなかったならば、
あなたは存在しなかったろう。
(『思索と瞑想』より抜粋 神谷美恵子 訳)
* シブラーンの経歴についてはアラビア語版とフランス語版のWikipediaを参照させていただいた。
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