僕がお茶に関わったのは数えるほどしかなく、一度、煎茶の茶会を僕の個展の会場で三癸亭賣茶流 (さんきていばいさりゅう) の若宗匠だった島村幸忠に開いてもらったことがあったくらいで、茶の湯にいたっても一度だけなのが恐縮です。それは広島の長束にあるイエズス会の修道院に伺った時に、そこの神父さんに誘われて近くの裏千家の茶室にお供したのですが、クリスチャンだった高山右近の話とかで盛り上がった、なかなか和やかな茶会だったのをおぼえています。しかし、それくらいのものでした。
というわけで利休について書くのはいささか身に余ると言えますが、この生形さんの著作は、多くの逸話が残る利休の小説や映画とはちょっとテイストの異なる誠実で丁寧な論証の上で書かれた文章だという気がしたので夜稿百話にご紹介することにいたしました。前回は利休が信長の茶頭から秀吉の茶頭へと移り、好むと好まざるとにかかわらず政局へ影響力を及ぼすまでをご紹介しましたが、今回は大徳寺問題から自刃までをご紹介します。
大徳寺山門問題と東国支配
天正十七 (1589) 年、利休は古渓和尚の帰洛に奔走し、成功することになる。大徳寺の聚光院で亡父母の追善供養を行い、七石の寄進米を永代供養料として納めた。父親の五十回忌法要であるが、利休には祖父の千阿弥の七回忌法要での悲しい体験があった。十分な財力がなく斎の会もできず墓の前で涙を流しながら夕日に向かい墓の苔を掃除するしかなかったのである。


大徳寺山(三)門
これに続き、問題の大徳寺山門の修築に思い立ったのである。それまで一層だった山門を二層に改築するもので利休にとっては一世一代の大事業だった。これには信長時代からの武将たち、浅野長政、松井佐渡守を介しての細川三斎、有馬則頼 (のりより) らの助けがあった。この修築への感謝の印として大徳寺衆が山門に利休像を上げたが、これが不敬罪と捉えられ利休死罪の一因となる。利休像の下を勅使も秀吉もくぐることになるからである。
秀吉のかけ引きと利休の書簡
合戦にしろ、刀狩りにせよ、検地にせよ、統制の秩序、制約は、聚楽第においてもその外においても固く守られなければならなかった。この辺りの石田三成の性格と利休への反発を野上彌生子 (のがみ やえこ) さんが、その小説『秀吉と利休』の中で巧みに表現しているのでご紹介しておきたい。

野上彌生子『秀吉と利休』
「百姓が耕地を捨てて百姓でなくなるのが固く禁制であるごとく、また魚のウロコがいかに夥しくならんでいようと、配列は決して乱さないように、奉行は奉行、近習は近習、小姓は小姓、祐筆は祐筆、お伽衆はお伽衆、茶頭は茶頭でなければならない。が、そこだけはそうでないものが、たった一枚、あるべき場所から外れて特殊な燐光を放つうろこが、利休であった。(野上彌生子『秀吉と利休』)」
秀吉は三成の性格をこのように語って話は続く。
「『彼奴は子供の時からあの通りで、なにをやらせても熱心なら、ごまかしもできない正直者だが、ただ二本の手も一本にして使いたいほうだから、あれだけは始末がわるいよ。』これは秀長自身も、三成のなによりの欠点とみた非妥協性をいったにほかならない。それ故にこそ秀長は、利休を兄の側近になくてはならなぬものとしたのであり、いっぽう秀吉は、二本の手は三本にも四本にも、場合では蛸のあしの数ほどにも利用するのを憚らなかったし、政治にも戦場の駆け引きにも、それこそ知恵だと信じた。彼の今日までのかずかずの合戦について見ても、火蓋を切るまえに、出来るだけ行おうとした内緒の工作はこの流儀を守ったのであり、九州征伐の際、島津の重臣大久保忠棟が利休には茶の弟子になる関係からの、ひそかな交渉が証拠立てるように、こんな時、利休は誰にもましてよい相談相手になった。(同上)」
この島津の一件は史実であって、小説上では大久保忠棟だが、実際は伊集院忠棟に対して秀吉政権は利休と細川幽斎の連名で和睦を勧める書簡を送っている。忠棟が利休の弟子であるかどうかは分からない。その書状は政権からの高圧的な命令書とは別に秀吉側の本音を忠棟を介して島津義久に伝えて交渉を進めることを狙っている。生形さんはこのようにその手紙を現代語にしている。
概要は近年の争乱も鎮まり、天皇もその功績を認めて内大臣に任命され日本全体を秀吉に任された。秀吉の命令は天皇の意向であるとして、国境の争いは秀吉に任せて速やかに戦争を停止するように述べ、この惣無事令 (そうぶじれい) の承諾なくば秀吉が軍事行動に出るだろう「御分別この節に候(そうろう)か」と理性的に秀吉の申し出を受け入れるよう丁寧に伝えている。これが秀吉の本心だという分けである。このように利休は好むと好まざるにかかわらず重要な外交の陰の窓口となっていた。
伊達政宗の帰順と一揆勃発
石田三成と博多の豪商・神屋宗湛 (そうたん) の活躍によって西国の支配を終えた秀吉が目指すのは、北條や伊達がいる東国である。関白の権威を盾に天子の平和への希求という名目のもと、あわよくば戦いなくして帰順して欲しいところだった。ここには調停役としての家康への期待もあった。秀吉は「惣無事令」という地域紛争の停止命令を出して、これに違反すれば天皇の命を代行する関白が、討伐に向かうという内容だった。しかし、北条氏の家臣が真田正幸との係争地にあった名胡桃城 (なくるみじょう) を武力で奪いとるという事件が起こる。これによって秀吉の小田原攻めが始まり徳川方の武将とも昵懇の利休も帯同させられている。
大規模な戦闘もなく小田原が開城した時点で、伊達氏の秀吉への帰順は根回しされていたと生形さんは言う。それは家康、前田利家、利休らの融和派による工作が身を結び帰順がきわめて迅速に行われたことにある。ここには、かつて信長の家臣であった富田一白が秀吉の外交官としての手腕を振るったことが効をそうした。戦争停止命令を無視して会津と戦をしていた正宗が小田原攻めに参陣し謝罪したのである。政宗と戦った東北の大名たちは三成と結んで秀吉に臣従していたという。政宗は利休に茶を学びたいと入門時の謝礼を届けた。つまり利休を通じて秀吉とのコンタクトを取りたかったのである。この時点で東北を征服したいという石田三成ら強硬派にとっては利休は邪魔な存在になってくる。

伊達政宗木像 瑞鳳殿 仙台市
若くして家督を継ぎ周囲の勢力と果敢に戦い勝利してゆく伊達政宗は織田信長の姿を彷彿とさせるものがあったのかもしれない。彼に対して下剋上の世を生きてきた古くからの武将たちは好意的であったという。このような事情は利休の手紙や伊達家文書などから窺い知ることが出来るようだ。一旦は安堵した政宗だったが、秀吉が宇都宮に入って奥州仕置きを発表する。これによって正宗の領土は半減され、政宗の勢力下にはいった大名たちは改易となり、小田原に参陣したか、あるいは三成と通じて秀吉に臣従した大名たちの所領は安堵された。取り上げられた会津には蒲生氏郷が転封される。利休七哲の一人である。
伊達政宗の仕置き
しかし、宮城県北部から岩手県にかかる改易された葛西 (かさい)・大崎の旧領には検地が行われた後に木村吉清・清久の親子が転封となった。だが、小大名に過ぎず高々数千単位の軍団規模しかなく、その広い領地を治めるだけの力は無かった。そのため急ごしらえの荒くれたちを召し抱えたために、彼らは葛西や大崎の旧家臣や百姓たちの財産を強奪、婦女に暴行するなどを行い、たまりかねた旧家臣たちが一揆に及んだのである。初めから無理な転封だったと言われていて政宗と親しかった木村父子を改易し政宗に反乱勃発の責任を負わせようとする三成ら官僚たちの陰謀説さえもあった。
これに対して氏郷と政宗が連合して鎮圧に向かうのだが、季節は真冬で行軍には不向きでおまけに氏郷には土地勘がなかった。それで政宗との合流を待って討伐の準備が整った矢先、正宗の家臣・須田伯耆 (ほうき) から政宗逆心の讒言がある。須田は父の代での出来事から伊達家に恨みを持っていた。あわてた氏郷は京都に政宗謀反の誤報を伝えてしまう。この時、氏郷はかなり重い病だったらしい。

伊達政宗像 仙台市
この一報に秀吉は動じることなく改易された葛西・大崎一派の策略と思っていた。妻子を京に預けていた正宗を信頼していたのである。結局、政宗は氏郷と合流しないまま単独で一揆を鎮圧することになり、氏郷とも誤解を解いて一件落着するのだが、秀吉の祐筆であり、古田織部とも仲の良かった和久宗是 (わく そうぜ) は誤報の一方に際して、秀吉はあなたを信頼しているが一刻も早く信頼できる人物を遣わすようにと催促の手紙を出している (『伊達家文書』)。ついで 前田利家、富田一白、徳川家康、秀吉の政所・ねねの女官考蔵主 (こうそうず) らが次々と政宗に書簡を送って政宗の上洛を催した。
これらは利休を取り巻く茶人のネットワークと政宗擁護派の陣営と言ってよかった。だが、正宗問題は、より大きな背景を抱えていた。秀吉政権は淀君・石田三成グループと北政所・家康グループとの権力闘争が鮮鋭化していたのである。家康にしてみれば、秀吉政権の筆頭大名になったものの石田派に東国支配を搔き回されたくないのは山々だった。
混乱する政局
しかし、伊達家排除を狙う三成派の讒言は続いていた。政宗が人質に出した妻子は偽物で、正宗が上洛できないのは小田原に借金しているからだという。また、一揆がたてこもった城には正宗の指物がはためき、正宗の鉄砲があったというような説まで取りざたされた。このような事態に和久宗是 (わく そうぜ) は再び政宗に書状を送り早く上洛して秀吉に弁明するよう極秘に伝えている。上洛が遅れると秀吉も心変わりしかねない状況だったし、この一報が知れると自分の命も危ないと書いていた (『伊達家文書』)。北の政所と政宗の妻との関係は良好だったし、秀吉が腹を立てていたのは氏郷の誤報の方だった。

伊達の旗指物
氏郷の誤報のために秀吉は家康と秀次に一旦出陣させるも第二報によって引き返させていた。政局は大混乱と言ってよかった。これに病気だった氏郷が政宗を警戒したために会津に戻っていないのではないかという疑惑が沸き起こっていたし、それに政宗も氏郷が会津に帰還する道を塞いだ形で陣を動かしていなかった。こんな中、天正十九 (1591) 年、氏郷と共に正宗の上洛が実現したが、浅野長政と共に東北を視察していた三成が急遽上洛するのであった。この年の元旦、七十歳の利休は妻の宗恩に意味深長なこの歌を送っている。
哀れなる老木の桜えだくちて ことしばかりの花のひとふさ
秀吉も清州まで出向き政宗と会って嫌疑も晴れた。しかし、聚楽第の政権内で利休は孤立していた。四国・九州を制圧し兄の秀吉を支えてきた秀長が小田原攻めのころから病い篤く亡くなっていた。利休と共に秀吉政権の秘書室を支え、大友宗麟が「内々の儀は利休、公儀のことは秀長」と指摘した主要な人物の一人を失ったのである。利休が、この頃茶会で招いた客は家康一人だった。この時、長次郎七種の一つ「木守」の大棗が使われた。その名の由来は次の年の実りを祈って枝にひとつ柿の実をのこすことから来ているという。ここには大徳寺問題が絡んでいたとみられる。
利休追放と自刃
利休は、この家康との茶会の二日前に大徳寺を訪れており、細川三斎に相談を申し込んでいる。この大徳寺問題は、ちょうど三成帰洛のタイミングで発生した。二月初旬には正宗が上洛し、利休が迎えている。政宗の赦免と歓待が行われたが、この翌日に利休の堺追放の沙汰がおりるのである。政宗擁護派のトップであった利休への糾弾が行われていく。
三成による戦国武将時代の遺風の払拭と天下平定後の官僚政治への基盤構築は、信長時代の堺の政所であった松井有閑の追放、博多の豪商・神屋宗湛の重用、信長を祀る天正寺建立の停止と古渓禅師の追放と連打されていた。東国の支配のためには伊達を除いて秀吉配下の武将に替えれば家康を抑えてくことが容易になるはずだったが、正宗擁護派によって阻止された。この時の讒言の責任も回避しなければならなかった。三成は一つの手しか使えなかったのである。
一方、秀吉にとっては宿願の朝鮮出兵のためには三成の兵站補給能力は欠かせなかったし、正宗のような若い有能な武将と有能な軍は是非にも必要だった。秀吉にとって利休追放の決断は苦悩にみちたものであったことは想像に余る。淀から堺に向かう利休を見送ったのは愛弟子の細川三斎と古田織部であっことは良く知られているけれど護送を秀吉に命じられたのは富田一白と柘植左京亮 (つげ さきょうのすけ) であり、彼らもまた利休の弟子であったことは、あまり知られていないと生形さんは述べている。これは秀吉の心遣いと言ってよかった。
さらに生形さんは、伊達問題の最終局面で、秀吉は政権の分裂や対立を避けるために擁護派のトップとして利休を政権から追放したのだという。トップの一人に責任を取らせることによって問題を解決するのが秀吉のこれまでパターンだったというのである。
後に利休のひ孫の江岑宗左 (こうしん そうさ) が、その時の様子を伝えたところによると、利休はこのような歌を書いて娘のお亀に渡すように頼んだという(『千利休由緒書』)。
利休めはとかく果報乃ものそかし 菅丞相になるとおもへハ
これが事実だとすれば利休は自分が讒言によって流されたことを知っていたことになる。さらに前田利家が内密に秀吉の母である大政所と妻の北政所に取りなしを頼み利休が謝罪すれば赦免する所までこぎつけていたが、利休は御女中方に頼って助命になることを拒んだという (『千利休由緒書』) 。かつて、利休はこのように述べたと伝えられている。「太刀の下にても理 (ことわり) 申し候て。曲事には成す間敷 (まじき) と云うなり 。(茶道四祖伝書・利休居士伝書)」とは、太刀を突きつけられようと、理を通すことは間違いではないとの矜持であり、これは参禅した古渓宗陳禅師譲りの気概なのかもしれない。

千利休像 長谷川等伯画 春屋宗園賛
最後の茶会の準備をし、脇差の柄に紙縒 (こより) を巻いて検死役を待つ利休に切腹の沙汰を申し渡したのは先代の上杉の家臣で利休の弟子でもあった岩井備中守であり、介錯は、やはり利休の愛弟子であった蒔田淡路守が行った。首は聚楽第に届けられたが秀吉はそれを見ることが出来なかったという。
利休は遺偈の一部に「堤 (ひっさぐ) る我得 (え) 具足の一太刀 今此時ぞ天に抛 (なげうつ) 」と書き残した。一太刀はとは茶の湯の事だという、死の刹那にはそれさえ投げ捨てるというのである。
ちなみに問題の利休木像は京の一条戻り橋のたもとに磔にされ罪状を記した立札が立てられていた。政宗の命でそれを見に行った家臣の鈴木新兵衛は国元への手紙の中で、とうていまともな文言ではなく伝えるに及ばないと書いて送っている。


野上彌生子 『秀吉と利休』
小説の舞台は小田原攻め直前の頃の堺と京の都。利休のもとに大徳寺の山門を修築した感謝のしるしとして利休像が作られることが知らされることになる。このことが利休の堺への追放と自刃へと繋がっていく。その堺への追放の前に利休は一縷の望みとして家康を招いた茶会を開く。その時の描写も秀逸だった。
「家康の方で口をきったら、利休は今日までの一切を三門の修復から、楼上の仏殿の片隅に寿像をおいたにしろ、つまり塔所とおもってのことであったのを包まずうち明けるつもりでいた。また容易ならぬなりゆきにでもなって、誰かにとりなして貰おうとするなら。大納言秀長の死後は以前より関係をふかめている前田利家、毛利輝元のいずれに比べても、家康の斡旋が秀吉にはもっとも効果があるのを知っていた。それはそうとしても、彼が一と肌ぬいでくれる気になるであろうか安土の頃からの近づきこそは長くとも、とくべつ親しい接触はなかったのだから、かりにも頼みをかけるのは虫がよすぎるといえばそれまでであろう。 しかし、想像の通りなら、家康は全てを承知のうえで来たのである。たとえ決まったことにしろ、なにか口実をこさえれば取りやめにだって出来たのに、敢てそうしようとはしなかった。そのことはつねづね約束にはもの固いのが家康の流儀とするにはとどまりえない情感を、利休のうち挫かれたこころに注ぎいれた。利休は家康の同情を信じた。信じたかった。‥‥ (『野上彌生子 『秀吉と利休』』) 」

矢部良明『古田織部~桃山文化を演出する~』
利休の愛弟子と言えば山上宗二 (1544-1590/やまのうえ そうじ) と古田織部 (1544-1615) の二人がいるが、奇しくも二人は同じ年に生まれたらしい。ちなみに利休の子供の道安とも近い年齢だった。利休の曽孫、千江岑 (せんのこうしん) は『江岑夏書 (げがき) 』の中で利休七哲のうち古田織部の位付けを最下位に置いているし、七哲の一人細川三斎の『細川三斎茶湯書』では織部は目も利かず、概ね茶も下手で、何故天下一の茶匠になれたかというと上手の者たちが死に絶えたからだと述べている。著者の矢部さんは酷評ここに極まれりと書いている。
織部の性格は早合点でなんにでも鵜呑みにしてしまう考える前に体が動くタイプらしかったが、頗る愛すべき人であったらしい。17世紀の茶書『草人木』にはこのような織部が描写されている。・風炉の炭を拝見するため頭を台子の隙間に入れすぎてしまい、火に煽られて驚き天板に頭を打ち付けた拍子に台子飾りをまきちらしてしまった。・台子の時、名物ならば特別の拝見の方法があるが、織部がそれをしなかったので次の間で見ていた織田有楽が失笑してしまった。・難しい作法は織部には無理だと有楽は諦めて点前を止めて、二人して横になり寝ながら茶を飲んだという。しかし、愛すべき機知というものがあり、茶の湯の心得のうすい人が茶会の招待のお礼に桜の花を前日に持ってきたが桜は富貴すぎて茶会に用いない約束事があるにもかかわらず、それを破って主役の花の奥に桜を活ける織部を見て松屋久好は「心優しいご挨拶」と日記にしたためたという。また茶席の躙口の狭さが骨身にしみていた織部は、それとは別の客用の出入り口用の融通席を構えたり、小さな潜 (くぐ) り口からの路地入りとは別の安楽な萓門 (かやもん) コースを設けたりしたという。このような大らかな性格は織部焼きと言われる焼き物にも見てとれるものである。そのような創作は織部が三十代の末頃から茶の湯の道に入った事と関係している。宗二は若いころから茶の道にはいっていて唐物絶対主義の茶の湯の信奉者になったのに対して、織部が茶の湯を学んだ頃は利休の茶の湯革新期の真っ最中だったのである。

神津朝夫 『山上宗二記と茶人宗二』
山上宗二は天文十三 (1544) 年、堺に薩摩屋という屋号を持つ商家に生まれた。先師として紹鷗の一番弟子である辻玄哉 (つじげんさい) の名があがっており、その後利休に学んだ。利休のことは尊師として崇めていたようだ。20代前半で茶会を開くほどの腕だった。信長が堺との関係を深めた頃には堺を自治する会合衆の一人となっていて、今井宗久、千宗易 (利休) 、津田宗及らと肩を並べている。堺の南宗寺で後に大徳寺の住持となる古渓宗陳やその師である笑嶺宗訢 (そうきん) らに禅を学んでいる。信長が足利義明を京から追放した頃、一説には秀吉の茶堂になっていたのではないかという。天正十年の宗及の茶会に宗二は招かれているが、牢人つまり禄を失って「北国へ越され候刻」とあるので秀吉の元を離れての前田利家のもとにいた頃と解釈できるようだ。天正十二年には再び堺に戻り秀吉の茶会にも出席、翌年の秀吉が開催した大徳寺での大茶会でも準備を手伝っている。その後、大和郡山の領主となった秀吉の弟の秀長の茶堂となった。この頃には奈良の茶人との付き合いが記録されていて珠光が所持していた徐熙 (じょき) の鷺の絵を松屋久政に見せてもらっている。天正十五年の春、宗二は高野山に入った。高野山の子院である安養院宛の『山上宗二記』奥書には、秀吉の勘気を蒙って高野山に住んでいるとある。宗二記を書いたのは、この高野山においてである。高野山を後にして宗二は小田原に向かった。秀吉と敵対していた北条氏の居城がある。そこで茶を教えたが、三年後には小田原は落城する。秀吉の陣には師の利休も同道していた。宗二は北條氏直の助命を嘆願して殺されたとされているが、春日社の神人であり宗二の息子の道七とも交友のあった久保権太夫利世 (としよ) が「いかにしても面くせ悪く、口悪き者にて、人の憎みし者なり。小田原御陣の時、秀吉公さえ、御耳にあたる事申して、その罪に耳鼻そがせ給いし」と書き残している (『長闇堂記』) 。惨殺されて47年の生涯を閉じるのである。

茶室の変遷 紹鷗四畳半から利休三畳台目迄(『山上宗二記と茶人宗二』)より
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